山を越える言葉、海を渡る壺――アーリア人とクレタ文明

エーゲ海の港で、壺を運ぶ成人たちと木造船を描いた場面。 完新世

問1 アーリア人の移動とヴェーダの世界

紀元前2千年紀の南アジアとヴェーダ文化に関する説明として、正しいものを一つ選んでください。

  • (ア)インド・アーリア語を用いる人々の南アジア北西部への移動は、中央アジア方面との関係から研究されている。
  • (イ)ヴェーダの古い言葉にはアーリヤという自称が見られ、後には祭司・戦士などを区別する四つのヴァルナの観念が表れる。
  • (ウ)『リグ=ヴェーダ』は、神々への賛歌を集め、長く口頭で伝えられたヴェーダ文献である。
  • (エ)(ア)〜(ウ)のすべてが正しい。

問2 クレタの宮殿と文字

クレタ文明(ミノア文明)について、正しいものを一つ選んでください。

  • (ア)クノッソスなどの宮殿を持ち、自然や海の生物を生き生きと表した壁画・土器が知られる。
  • (イ)エヴァンズは1900年からクノッソスの大規模な発掘を進め、ミノア文明の研究を発展させた。
  • (ウ)線文字Aには広く受け入れられた解読がなく、宮殿の物資管理などに使われた記録が残る。
  • (エ)(ア)〜(ウ)のすべてが正しい。

問3 インド=ヨーロッパ語族の見分け方

すべてインド=ヨーロッパ語族に属する言語の組み合わせを、一つ選んでください。

  • (ア)ヒッタイト語・ギリシャ語・ヴェーダ語・古代ペルシア語
  • (イ)シュメール語・アッカド語・フェニキア語・ヘブライ語
  • (ウ)アラム語・ヘブライ語・アラビア語・古代エジプト語
  • (エ)タミル語・エラム語・線文字Aで記された言語・インダス文字で記された言語

アーリア人の歴史をたどる入口は、人の移動と、言葉のつながりです。
一方、クレタ文明を支えたのは、宮殿の仕事と海を越える交流でした。
どちらも紀元前2千年紀の世界を理解する大切な手掛かりですが、一つの民族が同じ旅をして両文明を築いた、という話ではありません。

人の移動、言葉の広がり、物の交流を分けて見ると、古代世界のつながりが見えてきます。

まず、中央アジアから南アジア北西部へ視線を向けます。
そこから西へ戻り、北メソポタミアの馬の技術に触れ、最後にエーゲ海のクレタ島を訪ねます。
山の向こうへ伝わった言葉と、海の向こうへ運ばれた壺を、別々の証拠からたどる旅です。

1.地図に広がる世界と、言葉の家族

「アーリア人は、どこの国の人ですか」。
この疑問には、現在の国籍を一つ答えるより、当時の地域と言葉を組み合わせる方が正確です。
古代インド・イランの資料には、アーリヤや、それに対応する自称が見られます。
インド方面の人々を指す場合は、インド・アーリア語を用いた人々という範囲を意識します。

その言語は、イラン諸語とともにインド・イラン語派に属し、さらに大きなインド=ヨーロッパ語族の一部を成します。
印欧語族(いんおうごぞく)という略称もあります。
語族とは、共通の祖先に当たる言語から分かれたと考えられる、言語のまとまりです。

地図の東にはパンジャーブ地方とインダス川、西にはアナトリアとエーゲ海が広がります。
その間に、イラン高原やメソポタミアがあります。
クレタ島はギリシャ本土の南に位置する、現在のギリシャの島です。
パンジャーブからクレタへ一本の移動路を引くのではなく、離れた地域を同じ大きな時代の中に置いて眺めます。

クレタ島からパンジャーブまで、アナトリア、メソポタミア、イラン高原、中央アジアの位置関係を示す概略地図。

言語の親類関係は、単語が一つ似ているだけでは決まりません。
借用された言葉もあるため、基本語彙(ごい)や文法、音の対応を広く比べます。
たとえば「三」に当たるサンスクリットのトラヤス、ギリシャ語のトレイス、ラテン語のトレースには、比較の手掛かりになる対応があります。

人の家系図なら祖父母の名前を調べますが、言葉の家系図では、いわば祖先の活用語尾まで調べます。
親戚付き合いにも、ずいぶん文法が必要なのです。
こうした比較から、文字記録を残していない共通の祖語(そご)の特徴を復元します。

ここで大切なのは、言語の系統と、一人一人の容姿や血筋を同じものにしないことです。
別の言語を学んで暮らすことも、異なる集団が混ざることもあります。
言葉のつながりは、人がすべて同じ外見で、同じ国家や文化に属した証明ではありません。

2.パンジャーブへ――移動は一日の出来事ではない

南アジアの北西部へ入ると、現在のパキスタンとインドにまたがるパンジャーブ地方があります。
ヴェーダの古い賛歌が形作られた世界を考えるうえで、重要な地域です。
中央アジア方面からの移動は、ヒンドゥークシュ山脈周辺の通路を含めて研究されています。

学習では紀元前1500年頃を、インド・アーリア語を用いた人々と初期ヴェーダ文化を考える目安にすることがあります。
ただし、ある年に全員が同じ峠を越え、翌日から同じ制度で暮らしたという意味ではありません。
具体的な経路や規模、移動の回数を、一つに固定できる資料はありません。
カイバル峠も、この地域の通路を考える際に知られる地名ですが、全移動の通過地点を証明したものとして扱わないことが必要です。

この問題では、言葉、遺物、古代の人骨の遺伝情報という、異なる種類の証拠を照らし合わせます。
2019年の大規模研究は、紀元前2千年紀の前半に、草原地帯と関係する人々の祖先成分が南アジアへ広がったことを示しました。
人の移動を裏付ける重要な材料ですが、遺伝情報だけで個人の話した言語や自称まで読めるわけではありません。

前回たどったインダス文明の大都市は、前1900年頃から地域ごとに姿を変えていきました。
都市の変化と、後にヴェーダ文献から知られる社会の形成は、年代を確かめて組み合わせる必要があります。
「来た人々が、栄えていた全都市を一度に壊した」という一場面だけでは、その長い推移を説明できません。

移動先にも、人の暮らしがある

ヴェーダの世界では、家畜、とりわけ牛が重要な富でした。
賛歌には、家畜、戦車、争い、贈り物などが登場します。
移動する人をただ地図の矢印として見るより、家畜を世話し、物を受け渡し、暮らしを保つ集団として考えると、その動きが具体的になります。

一方、その地域には、先に住んでいた人々の生活や言葉もありました。
移動には衝突だけでなく接触や混合も伴い、後の社会を「来た人」と「いた人」の二色に塗り分けたまま理解することはできません。
ヴェーダ資料の社会像も、祭司たちが伝えた宗教文献を通して見ていることを覚えておきます。

南アジア北西部の休息地で、成人二人が牛の水と飼料を用意する二コマ漫画。

3.声に残るリグ=ヴェーダと、社会の変化

人々の姿を探すため、今度は文字のある石碑ではなく、伝えられた声に耳を向けます。
『リグ=ヴェーダ』は、神々への賛歌を集めた、ヴェーダ文献の中でも最古層の資料です。
ヴェーダは、聖なる知識に関わる言葉です。
古い賛歌はヴェーダ語、古いサンスクリットの形で伝えられました。

火の神アグニ、力や勝利と結び付くインドラなどが、賛歌の中でたたえられます。
人が神々へ呼び掛け、恵みや守りを求める言葉です。
自然への賛美だけでなく、儀礼(ぎれい)や人々の願いも重なっており、単純な自然観察の詩集ではありません。

ここで意外に感じるのは、聖典が初めから本として配られたわけではないことです。
ヴェーダの伝承では、言葉の音やアクセントを口頭で受け継ぐことが大切にされました。
言葉を聞き、繰り返し、音を確かめる方法が、長い伝承を支えてきました。
写本があることと、賛歌の成立時から文字で伝えていたこととは、別の話です。

成人の伝承者と学習者が、書物を使わず声を聞いて繰り返す二コマ漫画。

後に、祭式に関わる言葉やその解釈が発達し、バラモンと呼ばれる祭司の役割が大きくなります。
この宗教世界を、学習ではバラモン教として整理します。
ただし、ヴェーダの古い賛歌から後の複雑な祭式まで、すべてが一度に完成したわけではありません。
宗教も社会の変化とともに展開しました。

ヴァルナは、いつから四つだったのか

社会の区分として知られるのがヴァルナです。
バラモンは祭司、クシャトリヤは王族・戦士、ヴァイシャは生産や生活を支える人々、シュードラは奉仕する人々という、四つの区分として説明されます。
これは平等な職業紹介ではなく、役割と上下の秩序を結び付けた社会観でした。

四区分を神話的に示す有名な箇所は、『リグ=ヴェーダ』第10巻の「原人の歌」です。
大きな原初の存在の身体に、社会の区分を対応させます。
この歌は文献の後の層に属するため、初期の移動の時点で四区分が完成していた証拠として、そのままさかのぼらせることはできません。

ヴァルナには「色」という訳が紹介されます。
しかし、その語義だけから、肌の色を測って四つの集団を作ったと説明することはできません。
祭司の権威、支配、儀礼への参加などを含む区分であり、文献の示す理想と、現実の暮らしの複雑さも分ける必要があります。

また、後世の多数の世襲(せしゅう)的な集団を指すジャーティと、四つのヴァルナは同じ分類ではありません。
どちらも日本語で「カースト」と紹介されるため、古代から一つの制度が変わらず存在したように見えやすいのです。
時代と用語を分けると、社会の差別や序列が、歴史の中で形成・維持されたことを考えやすくなります。

4.馬の技術に残る、西アジアとのつながり

パンジャーブから西へ視線を戻すと、北メソポタミアとシリア方面にミタンニ王国がありました。
ここでは、フルリ語を中心とする世界の中に、インド・アーリア語と関係する神名や人名、馬の技術用語が残っています。
遠い土地に共通する言葉が見つかる、興味深い例です。

ミタンニに関わるキックリ(キッキゥリ)の馬の調教文書は、ヒッタイト語で伝えられています。
その中に、周回などを表すインド・アーリア語系の技術用語があります。
文書の言語、そこで使われる借用語、書き手の知識は、重なりながらも同一ではありません。

馬を走らせるには、車輪を作るだけでは足りません。
馬を育て、動きをそろえ、負担を調節する技術も必要です。
こうした専門知識は人の移動とともに伝わり得ますが、少数の語や神名から、王国の全住民がインド・アーリア語を話したと結論することはできません。

北メソポタミアで、成人の調教役が馬をゆっくり歩かせている場面。

この例は、インド方面へ向かう移動と、西アジアの技術交流を、一つの大行軍へまとめないためにも役立ちます。
言葉が見つかる場所は人のつながりを考える材料になりますが、どの集団がどの道を通ったかまで、自動的に決めてくれるわけではありません。

5.海の道へ――クレタの宮殿で何が行われたか

さらに西へ進み、エーゲ海の南に浮かぶクレタ島へ向かいます。
クレタ文明とミノア文明は、基本的に同じ文明を指す呼び方です。
ミノアという名称は、伝説のミノス王に由来します。
伝説の王の実在や一代の治世を、そのまま文明全体の年代にするわけではありません。

エーゲ文明は、エーゲ海周辺の青銅器文化をまとめる広い呼び名です。
クレタ文明はその一角を占め、後にギリシャ本土で栄えるミケーネ文明も、このエーゲ世界に位置付けられます。
エーゲ文明とクレタ文明は、別々の対等な二文明の名前ではありません。

宮殿を中心とする社会が発展した目安は、紀元前1900年頃です。
その後、建物の破壊と再建を重ねながら、前2千年紀に大きく栄えました。
宮殿が発達した時期の前にも、島には人々の暮らしと工芸の蓄積があり、その後にも居住と文化の変化が続きました。

代表的な遺跡はクノッソス宮殿ですが、島にはファイストス、マリア、ザクロスなどの宮殿もありました。
クノッソスを文明全体の唯一の「首都」として思い描くより、複数の中心地がある島として見ると、地域の広がりが伝わります。

宮殿の中庭へ運ばれてくる物を思い浮かべてください。
周りには部屋や通路、工房、貯蔵の空間があり、人や物が出入りします。
宮殿は華やかな王の住まいという印象だけでなく、管理・経済・宗教活動の中心として考える必要があります。
集まる物を保管し、何があるかを記録する仕事も、その働きの一部でした。

クレタの宮殿倉庫で、成人二人が壺を保管場所へ運ぶ二コマ漫画。

クレタ島は、ギリシャ本土、エジプト、東地中海の地域と交流しました。
金属の原料、石材、象牙などの移入と、工芸品などの移動が知られています。
島は海で隔てられる一方、海によって遠方ともつながる場所でした。

海の生物が、壺の表面を泳ぐ

クレタの美術には、自然や儀礼を描く壁画、動きを感じさせる土器の絵があります。
イルカの壁画がよく知られますが、海の印象を伝えるのはイルカだけではありません。
前1500〜前1450年頃のパライカストロ出土の壺には、タコと海底の生物や海藻が描かれています。

タコの腕は、平面の図鑑のように並ぶのではなく、器のふくらみに沿って広がります。
「明るい」「海洋的」と覚えるだけでなく、曲面と図柄がどう組み合わされているかを見ると、職人の工夫が具体的になります。
写実的な観察と、器を飾るための構成は両立していたのです。

クレタの成人の職人が、壺の曲面に海を思わせる模様を描く場面。

ただし、美しい海の絵があることと、社会に争いがなかったこととは別の問いです。
宮殿一般に大規模な防御城壁が見られないという特徴だけで、平和な社会だったと証明することはできません。
島のマリアからは、権威の象徴や儀礼に関わったと考えられる、装飾した剣や短剣も出土しています。
武器の存在だけですべてを戦争の道具とも決めず、用途と出土状況を合わせて考えます。

6.線文字AとB――同じ島に、異なる言葉の記録

宮殿の物資管理を考えるとき、重要なのが線文字Aです。
粘土板や封泥(ふうでい)などに残り、経済的な記録のほか、宗教に関わると考えられる資料もあります。
現在も広く受け入れられた解読はなく、どの言語を書いたかを確定して読める状態ではありません。

未解読だからといって、何も調べられないわけではありません。
数字や記号の並び、出土した場所などから、物の出入りを記録した資料と考えられる例があります。
ただし、数の仕組みや文書の用途が分かることと、文章全体の意味を読めることは異なります。

クレタの宮殿で、成人の記録係が粘土板に記す場面。

一方、線文字Bは、古いギリシャ語を記した文字です。
クレタ島とギリシャ本土に資料があり、ミケーネ文明の宮殿の管理と結び付きます。
1952年にヴェントリスが解読の突破口を開き、チャドウィックとの協力で研究が進みました。

線文字Bは線文字Aから受け継いだ記号を多く持ちます。
しかし、似た文字を使うから同じ言語だとは言えません。
アルファベットを英語にもフランス語にも使うことを考えると、文字の仕組みと言語を分ける必要が分かります。
線文字Bの解読を、線文字Aの解読と取り違えないことが大切です。

クレタとミケーネは、どう違うのか

エーゲ海の二つの文明を比べる
比較する点クレタ文明ミケーネ文明
主な地域クレタ島ギリシャ本土、のちクレタにも影響
中心地の例クノッソス、ファイストス、マリアなどミケーネ、ティリンス、ピュロスなど
文字と言語線文字Aなど。言語は確定した解読に至らない線文字Bで古いギリシャ語を記録
建築と交流中庭を持つ宮殿、工芸と海上交流城壁を持つ拠点、宮殿管理と広域交易

ミケーネ文明は、前1600年頃から発展したギリシャ本土の青銅器文明です。
ミケーネやティリンスの強固な城壁が有名ですが、工芸や海上交易も盛んでした。
「クレタは商業、ミケーネは戦争」と役割を二つに切り分けると、互いの交流や共通する仕事が見えなくなります。

二つの文明は、前半と後半を完全に交代するだけの関係でもありません。
時期が重なり、ミケーネの工芸にはクレタからの影響が見られます。
ギリシャ語の古い記録があるという点では、ミケーネ文明が重要です。
後世の叙事詩(じょじし)に登場するアカイア人の呼称と、発掘で分かる社会像も、無条件に同じ情報として重ねないようにします。

7.発掘と「滅亡」をめぐる疑問に答える

クノッソスを発掘したのは誰か

クノッソスで最初に発掘を行ったのは、1878年のミノス・カロケリノスです。
その後、エヴァンズが1900年から大規模な発掘を進めました。
発掘と研究で広く知られる人物を答える場合のエヴァンズと、最初の発掘者は、区別して覚えると正確です。

エヴァンズは、遺跡の研究とともに大規模な復元も行いました。
現在目にする建物の色や形には、古代の遺構(いこう)と近代の復元が重なる部分があります。
発掘した人、当時の建物、現在見える姿を分けると、写真や旅行案内を読む際にも役立ちます。
ミケーネの発掘で知られるシュリーマンとは、担当した遺跡も研究の歩みも異なります。

クレタ文明は、いつ、なぜ終わったのか

前1450年頃、クレタ島の多くの中心地に破壊が見られます。
その後のクノッソスでは、線文字Bによるギリシャ語の行政記録が残り、ミケーネ側の支配や影響を考える重要な証拠になります。
ただし、すべての地域が同じ年に同じ原因で破壊され、住民も文化も消えたという話ではありません。

地震や周辺の火山活動、政治的な争いや外部との関係など、変化の背景は個別の年代と証拠から検討します。
サントリーニ島の噴火を挙げる場合も、噴火と各地の破壊の時期が本当に一致するかを確かめる必要があります。
一つの自然災害や一回の征服だけで、長い変化を説明したことにはなりません。

さらに後の前1200年頃には、ギリシャ本土のミケーネの宮殿社会も大きく変化します。
線文字Bの行政記録が途絶えることは、その宮殿の仕組みが維持されなくなったことを考える手掛かりです。
その後を「暗黒時代」と呼ぶことがありますが、人々の暮らしや交流まで完全に途絶えたという意味ではありません。
文字の乏しさと、社会全体の活動の不存在を同じにしないことが大切です。

8.アーリア人の呼び名と、現代との関係

「アーリア人とアーリヤ人は違うのか」という疑問は、基本的には日本語の表記の違いとして整理できます。
ただし、どちらの表記でも、古代インドの自称、インド・イランの言語集団、近代の誤った人種概念を同じ意味にしてはいけません。
語の形だけでなく、どの時代の何を指すかを確認します。

ペルシア人とインド方面のアーリア人は、同じ一つの民族名ではありません。
古代ペルシア語などのイラン諸語と、ヴェーダ語などのインド・アーリア諸語は、近い系統に属します。
一方、ゲルマン諸語やスラヴ諸語は、さらに大きな印欧語族の別の枝です。
「言語が親類であること」と「同一の民族であること」を分ければ、この違いを説明できます。

近現代のヒトラーやナチスとの関係を調べる人もいます。
ナチスは「アーリア」を優越した人種の名称として利用しましたが、そのようなアーリア人種が存在するという考えは誤りです。
古代の言葉の系統や自称を、人間の価値の上下へ変えることはできません。

「アーリア人」を特定の顔立ちや肌の色、美醜で見分けることはできません。

現在のインド人・イラン人や、特定の有名人、日本人を、そのまま古代の一集団へ分類する問いにも注意が必要です。
現代の国籍、本人の系譜、用いる言語は、それぞれ別の情報です。
古代の人物についても、後世の民族名や見た目だけで所属を決めず、その時代の資料から考えます。

9.三つの問題を、根拠から解きほぐす

問1の解答:(エ)――移動、社会、聖典を時間の中に置く

正解は(エ)です。
(ア)は移動を考える大きな地域関係、(イ)は自称と後の社会区分、(ウ)は賛歌と口頭伝承という文献の性格を述べています。
三つの説明を合わせると、ヴェーダの世界が、人の移動だけでなく言葉や宗教、社会の変化から形作られたことが分かります。

押さえたいのは、すべてを前1500年の一日に並べないことです。
移動や接触には時間がかかり、文献にも古い層と後の層があります。
四つのヴァルナを記す歌は、文献の中での位置まで添えて理解します。

問2の解答:(エ)――宮殿、美術、文字をつなげる

正解は(エ)です。
(ア)は宮殿と自然の表現、(イ)はエヴァンズによる大規模な発掘、(ウ)は線文字Aの資料の性格を述べています。
宮殿に物資や人が集まり、管理の記録や工芸品が残るという関係にすると、ばらばらの暗記語が結び付きます。

発掘者を問う場合は、「最初の発掘」と「大規模な発掘」を区別します。
線文字Aについては、未解読という状態と、管理文書と考えられる手掛かりがあることを両方押さえます。
城壁の有無や海の絵だけで、社会の性格を全面的に決めることもできません。

問3の解答:(ア)――人の名前から、使われた言語へ

正解は(ア)です。
ヒッタイト語はアナトリア語派、ギリシャ語はギリシャ語派、ヴェーダ語と古代ペルシア語はインド・イラン語派に位置付けられます。
近い枝と遠い枝の違いはあっても、いずれも印欧語族です。

(イ)のアッカド語・フェニキア語・ヘブライ語、(ウ)のアラム語・ヘブライ語・アラビア語は、セム語派に属します。
古代エジプト語は、セム語派と同じくアフロ・アジア語族に属しますが、セム語派そのものではありません。
シュメール語の系統を、これらと同じだと決めることもできません。

(エ)のタミル語はドラヴィダ語族の言語です。
また、未解読の文字で記された言語を、住民の外見や遺物の印象から印欧語族に入れることはできません。
文字、言語、考古学上の文明という三つの分類を分けることが、この問題を解く鍵になります。

まとめ

山を越える人々は、生活の道具だけでなく言葉や知識も運びました。
海を渡る品物は、クレタの宮殿や工房を遠い土地と結びました。
そのつながりを読むには、語族、移動、文明を一つの名前にまとめず、資料ごとの手掛かりをつないでいきます。

アーリア人とヴェーダの世界、クレタの宮殿と線文字、ミケーネとの交流。
それぞれの場所と時間を確かめると、古代世界は民族名が交代する年表から、人と物と言葉が動く歴史へ変わります。

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