竜山文化の特徴は?黒陶・城壁から夏王朝の伝承へ

黄河流域の竜山期の集落で、土を層ごとに突き固める成人の作業者を描いた復元イメージ 完新世

第5回:東アジア・竜山文化の成熟と中国初期王朝の伝承(紀元前2400〜前2000年)

問1 中国の黄河中・下流域に展開した新石器時代後期の文化で、特に山東では、ろくろで作る薄手の黒陶で知られる文化は何ですか。

問2 竜山文化期にも行われた、動物の骨に熱を加え、できたひび割れから吉凶を読み取る占いを、骨を使うことを示す名称で何と呼びますか。

問3 司馬遷(しばせん)の『史記』などで、治水の功績を持つ禹(う)が開いたと伝えられ、殷(いん/商)に先立つ王朝として語られるのは何ですか。

竜山文化(りゅうざんぶんか)は、黄河中・下流域で、優れた土器作りや城壁を備えた集落が発達した、新石器時代後期の文化です。
代表的な黒陶(こくとう)だけでなく、家々の配置、墓の違い、占いに使った骨を合わせると、人々の暮らしと社会の変化が見えてきます。

今回は紀元前2400〜前2000年を中心に、村が大きくなり、工芸と共同作業が複雑になる時代をたどります。
その先に夏(か)王朝の伝承と、後の二里頭(にりとう)文化を置き、土の中から分かる歴史と、語り継がれた歴史をつないでみます。

竜山文化とは?読み方・場所・いつの時代か

「竜山」と「龍山」は同じ文化

問1の答えは、竜山文化、または龍山文化です。
読み方は「りゅうざんぶんか」。
「竜」と「龍」は表記の違いで、ここでは同じ文化を指します。

名前の由来は、山東(さんとう)省の竜山という場所で見つかった遺跡です。
現在の中国の東部に当たり、黄河の下流域に近い地域です。
研究では、山東の特徴的な文化を指す使い方と、黄河中・下流域の各地に広がる関連文化をまとめた使い方があります。

広い意味での竜山文化の年代には、紀元前3000〜前1900年ごろという目安が使われます。
一方、山東の展示資料では紀元前2600〜前2000年などの区分も見られます。
範囲や地域によって始まりと終わりが少し異なり、紀元前2400〜前2000年は、その発達を詳しく眺められる時期です。

地図では黄河流域と長江下流域を分けて見る

竜山文化を学ぶときは、山東だけでなく、その西の河南(かなん)や山西(さんせい)にも目を向けます。
黄河は広い流域を持ち、平野、丘、支流の谷によって暮らしの条件が変わります。
一つの文化名から、同じ形の集落が一面に並んだ風景を思い描く必要はありません。

代表例として、山東の城子崖(じょうしがい)、山西の陶寺(とうじ)、河南の平糧台(へいりょうだい)を取り上げます。
後に登場する二里頭も河南にあり、良渚(りょうしょ)は、さらに南東の長江下流域に位置します。
同じ地図に載っていても、全てが同じ時期、同じ政治勢力に属したわけではありません。

地図は遺跡どうしの位置関係を示す概略図です。
二里頭は今回より後の時代として加えています。
黄河流域の文化と長江下流域の文化を並べると、中国の初期社会には、複数の地域がそれぞれ発達した広がりがあると分かります。

黒陶はどう作った?薄い器から工芸を読む

ろくろ、磨き、焼き方が生む黒い光沢

竜山文化の顔ともいえるのが、山東で発達した卵殻黒陶(らんかくこくとう)です。
卵の殻のように薄いことから付いた呼び名で、細い脚を持つ杯などがあります。
全ての器がこの薄さという意味ではなく、高い技術を示す特別な器の一群です。

作り手は、ろくろの回転を利用して粘土の厚さを整え、表面も丁寧に仕上げました。
台湾の国立故宮博物院が紹介する黒陶高足杯は、高さ24センチ。
細長い脚の一部に透かしがあり、薄い器の造形には、成形と仕上げの巧みさが表れています。

黒さは、黒い絵の具を全面に塗っただけのものではありません。
窯(かま)で焼く終わりの段階に、炭素を加えたり空気の入口を閉じたりして、器の表面に炭素を取り込ませる方法が用いられました。
形を作る技術と、焼き上がりを調整する技術が重なっています。

竜山期の工房で、手回しのろくろを用いて薄い杯を成形する成人の職人の復元イメージ

ろくろの上で器を薄くするには、手の力加減だけでなく、粘土の状態を見極める経験も必要です。
焼く前、焼いている最中、冷えた後には、それぞれ違う難しさがあります。
完成した一個の杯から、材料の準備、成形、仕上げ、焼成(しょうせい)という仕事のつながりを考えられます。

これほど繊細(せんさい)な杯を職場の給湯室に置いたら、使用前の注意書きが器より厚くなりそうです。
その薄さと手間は、単に飲める容器を作る以上の価値が、器に求められたことを考える入口になります。

三足土器もある。土器は黒一色ではない

竜山文化には、黒陶の杯のほか、鼎(てい)や鬲(れき)などの三足土器も見られます。
三本の足を持つ器は、後の青銅器にもつながる重要な形です。
食べ物や飲み物を扱う器を、素材と用途、形の違いから見ると、暮らしが具体的になります。

城子崖出土の注ぎ口付きの器には、赤色や褐色(かっしょく)のものもあります。
黒陶が有名だからといって、出土品を全部黒く想像すると、かえって多様な器を見失います。
色だけでなく、脚、口、持ち手の組み合わせにも、作り手の工夫が残っています。

仰韶文化との違いは?土器と地域の系統で整理

仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)は、竜山文化より前の黄河流域を代表する文化です。
赤や黒の顔料で文様を描いた彩陶(さいとう)が、よく知られています。
粘土のひもを積み上げて器を形づくり、表面を整える製作法も用いられました。

比較する点仰韶文化竜山文化
時期の大きな順序先行する段階それに続く新石器時代後期
代表的な土器文様を描いた彩陶山東の薄手で光沢のある黒陶
社会を見る資料住居、墓、農耕の跡など城壁、工芸、墓の違いなども重要
地域差黄河流域の各地に違いがある山東と中流域などで系統が異なる

「彩陶の仰韶、黒陶の竜山」は、入口として便利な整理です。
ただし、色だけで時代や社会の全てを分けられるわけではありません。
器がどの地層から、何と一緒に出たかが、前後関係を考える重要な材料になります。

河南西部や山西南部では、仰韶文化から中間の段階を経て、竜山期の文化へと変わりました。
一方、山東では、先行する大汶口文化(だいぶんこうぶんか)からの流れがあります。
全ての地域で「仰韶が終わり、同じ竜山が始まった」という一つの交代ではなく、土地ごとの積み重ねがあったのです。

代表遺跡から見る城壁・階層・共同作業

器を作り、壁を築く暮らしの基礎には、食料を得る仕事がありました。
竜山期にもアワやキビなどの栽培が続き、地域によっては稲作も組み合わされました。
水を得やすい場所と、水が多すぎる場所では、耕地や住まいを整える課題も違います。

工房の器だけでなく、周囲の耕地や川、集落への道を含めて眺めると、人々がそこに集まった条件が見えてきます。
同じ竜山期でも、土地の使い方と共同の仕事を、遺跡ごとに比べてみます。

城子崖:文化の名付けにつながった遺跡

山東の城子崖遺跡は、竜山文化の研究史で重要な場所です。
1928年に呉金鼎(ごきんてい)が発見し、1930年には李済(りせい)の指揮で正式な発掘調査が行われました。
黒陶などを手掛かりに、この地域の文化を知る基礎が築かれました。

竜山期の城壁には、版築(はんちく)と呼ぶ、土を層ごとに突き固める技術が使われています。
土を入れて締め固め、その上にまた土を重ねる。
壁を大きくするには、材料だけでなく、運ぶ人、突く人、作業の場所や順序を整える仕事が必要になります。

城壁は、集落の内と外を分け、出入口を限る構造です。
周囲との緊張や防御を考える材料になる一方、土地や水への対応と合わせて働きを検討する必要もあります。
壁の存在から分かる共同作業の規模と、その作業を誰がどのようにまとめたかは、別々に確かめる問いです。

陶寺:墓の違いが示す社会の差

山西省の陶寺遺跡は、紀元前2300〜前1900年ごろの大きな集落です。
汾河(ふんが)の東岸にあり、今回の時代を考える重要な例です。
「竜山期の陶寺文化」として、地域の特徴を持つ社会を見ていきます。

墓の中には、多くの飲食用の器、玉(ぎょく)や石の道具、儀礼(ぎれい)に関わる品を納めたものがあります。
一方で、副葬品(ふくそうひん)を持たない墓もあります。
墓の大きさと納めた品の種類・量の違いは、社会の中に地位や富の差があったことを示します。

ここで役立つのは、豪華な品だけを眺めず、同じ墓地の全体と比べる見方です。
特別な器や武器が一部の墓に集中しているなら、それを手にできる人は限られていました。
工芸品は美術品であると同時に、誰が何を持てたのかを伝える資料でもあります。

平糧台:土管をつなぎ、水を逃がす

河南省の平糧台遺跡では、約4000年前の土製の排水管と溝の仕組みが見つかっています。
家の周囲で水を集める溝と、集落の公共空間を横切る排水管がつながっていました。
雨の多い時期に、住む場所から余分な水を逃がす設備です。

一本の管があっても、その先が詰まれば、水はうまく流れません。
管を作り、勾配(こうばい)を考えて据(す)え、つなぎ目を整え、溝を手入れする。
家の中の都合だけで完結しない、水を通すための共同作業がありました。

竜山期の集落で、成人の作業者が溝に土製の排水管を据える復元イメージ

研究チームは、この設備を、強い中央権力による命令より、世帯と共同体の協力によって維持された仕組みとして説明しています。
陶寺のように地位の差が目立つ資料もあれば、公共の仕事の協力を考えさせる資料もあるのです。
竜山期の社会を、一人の王が全てを動かす一枚の絵にまとめずに見ると、その幅が分かります。

問2の答え:骨卜と、後の甲骨文字の関係

問2の答えは、骨卜(こつぼく)です。
動物の骨に熱を加え、ひび割れを読み取る占いを指します。
「卜占(ぼくせん)」は占いを示す、より広い呼び名で、「卜骨(ぼっこつ)」は占いに使った骨です。

竜山期の遺跡からは、牛、豚、羊、鹿などの肩甲骨(けんこうこつ)を焼いた例が知られています。
骨の表面に残る加熱の跡や割れ目から、その使い方を調べられます。
文字を読まなくても、物の表面から人の行為を探れる資料です。

骨を焼く占いには、竜山期より古い出土例もあります。
その後、地域や時代によって骨の加工、加熱の方法、儀式のあり方が変化しました。
長く受け継がれた行為でも、同じ制度が最初から完成していたわけではありません。

後の殷では、牛の肩甲骨や亀の腹側の甲羅を使い、占った内容や結果などを文字で記す資料が残ります。
これが甲骨文字(こうこつもじ)として知られる記録です。
骨を焼く占いと、文字による記録を分けると、古い風習が王権の儀礼へ深く組み込まれていく過程を追えます。

長江下流の良渚:水利施設と玉器の世界

黄河流域から南東へ移ると、長江下流域の浙江(せっこう)省に良渚の遺跡群があります。
ユネスコが示す都市遺跡の主な年代は、紀元前3300〜前2300年ごろです。
今回の前半と重なり、竜山期の社会とは異なる地域で、都市と権力のまとまりが育っていました。

良渚は、稲作を経済の基礎とし、土を使った大きな構築物、都市の空間配置、周辺の水利施設を持ちます。
谷の出口の高い堤防と平野の低い堤防などが、都市を取り巻く水の仕組みを構成していました。
稲を育て、住む場所を整え、水と付き合う仕事が、広い景観の中に残っています。

墓から出た玉器も特徴的です。
玉琮(ぎょくそう)は、外側がおおむね四角く、中央に丸い穴が通る筒形の器です。
玉璧(ぎょくへき)は、中央に穴のある円盤形で、形から二つを区別できます。

良渚文化の工房で成人の作り手が玉器を研磨し、筒形と円盤形の違いが見える復元イメージ

玉琮には細かな顔のような文様を刻んだ例があり、加工には多くの労力が必要でした。
墓の違いや玉器の集中は、信仰と地位、富が結びついた社会を考える材料です。
個々の器の厳密な意味や使い方は、全てが解明されているわけではありませんが、その形と手間から、人々が特別な価値を置いたことを読み取れます。

問3の答え:夏王朝の伝承と二里頭をどうつなぐ?

禹の治水と、王位が受け継がれる物語

問3の答えは、夏(夏王朝)です。
『史記』の「夏本紀(かほんぎ)」には、禹が治水に取り組み、やがて天子の位に就いたという物語があります。
水の道を開き、田畑と人々の暮らしを落ち着かせる功績が、統治する資格と結びつけて語られます。

さらに物語では、禹の後に、その子の啓(けい)が王位に就きます。
優れた人物へ位を譲る伝承から、同じ家の中で位を受け継ぐ王朝の物語へと移っていく、重要な場面です。
夏の末王の桀(けつ)が民を苦しめ、湯(とう)によって倒される結末も、後世の王朝交代を考える枠組みにつながります。

ここで読んでいるのは、後の時代にまとめられた歴史叙述(じょじゅつ)です。
禹の即位を紀元前2000年前後の出来事として位置づける説明はありますが、年を一つに確定できる同時代の記録がそろっているわけではありません。
伝承が語る人物の功績と、遺跡が示す社会の姿を、それぞれの資料に沿って確かめます。

二里頭では、宮殿と青銅の礼器が現れる

二里頭遺跡は、河南省の洛陽(らくよう)盆地にあります。
中国考古博物館の展示紹介では、主な遺構(いこう)を紀元前1800〜前1500年ごろの二里頭文化に位置づけています。
今回の終点である紀元前2000年より、後の展開です。

遺跡には、道路で区切られた空間や宮殿の基礎、工房などがあります。
一号宮殿の基礎は約1万平方メートルで、主殿、庭、廊下、大門からなる建物のまとまりでした。
二里頭文化には、爵(しゃく)などの青銅製の酒器・礼器もあり、建築と特別な器の両方から、大きな政治的中心地の姿を探れます。

二里頭を夏王朝と結びつける説は有力ですが、遺跡の発見だけで王朝名や禹の事績まで確定したわけではありません。
年代、地域、遺物、文献の記述をどう対応させるかが、研究の論点です。

重要なのは、「夏が実在したか」の一問だけに、発掘の価値を閉じ込めないことです。
道路、建築、工房、墓は、そこに大きな社会があったことを具体的に伝えます。
それを、どの王朝のどの段階と呼べるかという問いは、その上に重ねて考えられます。

まとめ:黒陶の薄さから、社会の厚みをたどる

3問の答えは、竜山文化、骨卜、夏王朝です。
竜山期には、黒陶の技術、城壁の建設、墓に表れる地位の差、骨を焼く占いなど、後の中国社会につながる多様な動きがありました。

山東の器、陶寺の墓、平糧台の排水設備を並べると、同じ時代でも社会の姿には幅があったと分かります。
良渚の水利と玉器、後の二里頭の宮殿や青銅器、そして禹の伝承も、それぞれの場所と年代を添えて眺めてみてください。
「文化名を覚える」から一歩進み、人が技術を磨き、共同の仕事を整え、権力を形にしていく歴史として捉えられます。

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参考資料