クレタ文明はどこで育った?特徴・宮殿・文字をたどる

海辺の集落で石の容器を磨く成人の職人を描いた歴史学習用イメージ 完新世

第4回:エーゲ海・地中海世界とクレタ文明の興隆(こうりゅう)(紀元前2400〜前2000年)

今回は宮殿成立前の時代を中心に、その後の発展まで見渡す3問です。

問1 クレタ島を中心に発達し、後に中庭を囲む宮殿や活発な海上交流で知られるようになった青銅器文明を何と呼びますか。

問2 クレタ島北部にあり、紀元前1900年ごろから宮殿が築かれ、後世のミノタウロスと迷宮の伝説にも結びつけられた代表的な宮殿遺跡は何ですか。

問3 クレタ島などで紀元前1800〜前1450年ごろに使われ、粘土板や祭祀(さいし)用の器などに記されている、現在も広く合意された解読に至っていない文字は何ですか。

クレタ文明は、現在のギリシャ領クレタ島で、工芸と海上交流を育て、後に宮殿を中心とする社会へ発達した文明です。
ミノア文明とも呼ばれ、エーゲ海周辺の青銅器文化をまとめた「エーゲ文明」の一角を占めます。

紀元前2400〜前2000年は、最初の大宮殿が現れる前の時代です。
物語の入口を、赤や黒のまだら模様を持つ一個の土器に置いてみましょう。
焼き上がった器の表面には、この島で育った技術が、海を越えた材料には、遠くの人々との関係が残っています。

クレタ文明はどこの国?地図でつかむ島と海

クレタ島は、ギリシャ本土の南、エーゲ海の南の入口に横たわる東西に長い島です。
現在はギリシャの一部ですが、青銅器時代の社会を、そのまま現代の国家と重ねることはできません。
北にはキュクラデス諸島、西北にはギリシャ本土、東北にはアナトリア半島があり、南へ海を渡ると北アフリカへ通じます。

クノッソスは、島の北側の海岸から少し内陸に入った丘にあります。
水と耕地を得られ、海にも近い場所です。
海上交易で有名な文明ですが、その活動の足元には、島の土地で食料を作り、暮らす人々がいました。

東部のモクロスは、工芸と沿岸の交流を知る重要な遺跡です。
現在は岸の沖に小島が見えますが、青銅器時代には細い地峡(ちきょう)でクレタ本島とつながっていました。
地図上の現在の姿と、当時人々が歩いた土地の形には違いがあるのです。

地図は位置関係を示す概略図です。
キュクラデス諸島はクレタ島と本土の間にあり、ミロス島の黒曜石(こくようせき)など、島ごとに異なる材料がありました。
島々の配置と資源を重ねると、海を渡ることが、生活道具や工芸品を作る仕事につながっていたと分かります。

クレタ文明・ミノア文明・エーゲ文明の関係

問1の答えはクレタ文明、またはミノア文明です。
この二つは、基本的に同じ文明を指す呼び方です。
「ミノア」という名は、伝説のミノス王にちなんで、考古学者アーサー・エヴァンズが用いました。

一方、エーゲ文明は、海の周辺に広がる文化をまとめる、より広い呼び名です。
初期のクレタにはミノア文化、キュクラデスの島々にはキュクラデス文化、ギリシャ本土にはヘラディック文化が育っていました。
同じ海でつながりながら、家、土器、墓の形にはそれぞれの特徴があります。

その後、ギリシャ本土ではミケーネ文明が栄えます。
クレタ文明とミケーネ文明は、エーゲ世界を構成する主要な文明で、時期が重なり、互いに影響を及ぼしました。
順番に名前が交代するだけの関係ではありません。

紀元前2400〜前2000年、宮殿以前の工芸が育つ

ヴァシリキ式土器の、火が作るまだら模様

東クレタのヴァシリキに由来するヴァシリキ式土器には、暗褐色から赤みのある橙色(だいだいいろ)まで変化する、まだらの表面があります。
エラクリオン考古学博物館の脚付きの杯は、紀元前2400〜前2200年に位置づけられています。

この色合いは、酸化鉄を多く含む顔料(がんりょう)と、窯(かま)の中での焼成(しょうせい)の調整によって生まれました。
注ぎ口のある水差しや杯など、食卓で使う形にも広がっています。
土を器の形にするだけでなく、火に当てた後の色まで見込む、専門的な作り手の技術がありました。

焼く前の粘土、表面に塗るもの、窯の状態。
器の見え方は、それらを扱う仕事の組み合わせで変わります。
同じような仕上がりの器がまとまって作られることから、経験を積んだ工房の存在を具体的に考えられます。

初期ミノア期の工房で土器の表面を仕上げる成人の職人の復元イメージ

華やかな宮殿の壁画より前に、手の中の器にも、素材の性質を生かす表現がありました。
土器の破片は、形や焼き方を比べて時期を整理する資料にもなります。
一個の器が、暮らしの道具であると同時に、社会の変化をたどる目印になるわけです。

モクロスの工房と、豊かな墓が示す社会

モクロスでは、初期ミノアII〜III期に、家々、道、工房を持つ大きな村が発達しました。
工房では、金の装身具、石の容器、黒曜石の刃などが作られていました。
材料ごとに、たたく、削る、割って刃を取るといった異なる技術が必要になります。

村の西側には、石を積んで家のような形に築いた墓がありました。
大きな墓からは、金の冠状の飾りや銀の器など、地位を示すと考えられる品が出土しています。
それらの墓は、集落の有力な家族に関係した可能性があります。

住居や工房の集まりと、墓に納められた品を合わせると、工芸の発達だけでなく、人々の間の立場の違いも見えてきます。
宮殿が建つより前の島には、すでに豊かな品を作り、手に入れ、特別な場で用いる社会が育っていました。

家の増築から、大きな集落の姿を読む

南岸のミルトス近くにあるフルヌ・コリフィ遺跡も、この時代の暮らしを伝えます。
初期ミノアII期の小さな集落には、多数の部屋、通路、開けた空間が密接に組み合わされていました。
住む、しまう、作業するといった仕事が、限られた土地の上で営まれていたのです。

発掘された部屋のまとまりを、一つの巨大な家と見るか、複数の世帯の生活空間と見るかには、研究上の検討があります。
床、入口、器の分布、作業の跡を組み合わせることで、人々が空間をどう使い分けたかを探ります。
後の宮殿に似た大きさや複雑さだけを求めるより、当時の生活単位を追うと、集落の姿が具体的になります。

海上交易は、どのようなつながりを作ったのか

海を渡った品を考える手掛かりが、黒曜石です。
火山活動でできたガラス質の石で、割ると鋭い刃を取り出せます。
キュクラデス諸島で使われた黒曜石の成分分析からは、ミロス島の二つの産地が主要な供給源だったことが分かっています。

原料の産地と、刃や加工片が見つかる場所を結びつけると、物が海を越えたことを確かめられます。
さらに、工房に残された加工のくずは、材料が届いた後に、その場で刃を作ったことを伝えます。
舟で運ぶ人と、陸に上がった材料を加工する人の仕事がつながっていました。

キュクラデスの島々には、黒曜石のほか、大理石、銅などの資源がありました。
各地の材料や製品が移動する海域で、クレタも周囲の島々と関わっていました。
エーゲ海の文化は、海の向こうから完成品を受け取るだけでなく、土地ごとの技術や好みを持ち寄りながら変化したのです。

後の宮殿時代には、交流の範囲がさらに明瞭になります。
クレタは、エジプトや東地中海の地域とも品物や技術をやり取りし、銅、錫(すず)、貴金属、象牙(ぞうげ)などを受け入れました。
こうした後代の活発な広域交易へと続く、工芸と交流の蓄積を、今回の時代に見ることができます。

「海を支配した」という説明は、どこまで分かる?

タラソクラシーは、海上の支配や優勢を表す言葉です。
古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスは、ミノスが艦隊を持ち、島々を支配して海賊を抑えたという伝承を記しました。
ただし、これは青銅器時代から長い年月を隔てた、紀元前5世紀の著述です。

広い交易圏や美術の影響範囲と、艦隊で直接支配した領域は、資料の上で区別する必要があります。
紀元前2400〜前2000年のクレタが、エーゲ海全域を統一支配したという範囲や体制までは確かめられていません。

後の主要宮殿に防御用の大城壁が一般的でないことは、建築の特徴です。
一方、島の道路沿いには監視塔と考えられる施設もあり、武器や戦士のあり方も研究されています。
海との深いつながりと、争いに備える社会の側面を、両方の資料から捉えることができます。

宮殿はいつ登場する?年表で前後をつなぐ

クノッソスなどで最初の宮殿が建つのは、紀元前1900年ごろです。
今回の終点である紀元前2000年の、さらに後に当たります。
文明全体の始まりと、宮殿を中心に社会がまとまる段階には、時間の幅があります。

年代の目安クレタ島の動き周辺・後の展開
紀元前2400〜前2000年宮殿以前の集落、工芸、交流が発達本土や島々にも独自の青銅器文化
紀元前2000年ごろ宮殿成立へ向かう時期本土では中期ヘラディック期へ
紀元前1900年ごろクノッソスなどの最初の宮殿今回より後の宮殿社会
紀元前1800〜前1450年ごろ線文字Aが用いられる後に線文字Bへつながる
紀元前1600年ごろ以降本土との関係が深まるミケーネ文明が発達

年代は編年(へんねん)、つまり遺物や遺構(いこう)の前後関係を整理する方法によって、細部が異なります。
ここでは、工芸と集落の発達が先にあり、その後に宮殿と文字による管理が広がる、大きな順序を押さえておきます。

問2の答え:クノッソス宮殿と、迷宮をめぐる物語

中庭、通路、倉庫が結びつく建築

問2の答えはクノッソス宮殿です。
最初の宮殿は、丘を整え、中央の大きな中庭を囲むように造られました。
紀元前1700年ごろの破壊後には新たな宮殿が建ち、現在見られる遺構の多くは、この後の段階に属します。

中庭の周囲には、倉庫、儀礼(ぎれい)に関わる施設、さまざまな部屋が配置されました。
宮殿は、行政、経済、宗教活動が集まる拠点でもありました。
物を収める場所と、人が集まる場所を持つことで、周囲の生産や生活とも深く結びつきました。

廊下の先の倉庫を思い浮かべてみましょう。
大きな容器を並べるには、床の広さだけでなく、運び入れる入口や通路も必要です。
何を、どの部屋に、どれだけ収めたかを管理する仕事が、建物の中に組み込まれていきます。

後の宮殿時代のクレタで大型の容器を並べた倉庫を使う成人の作業者の復元イメージ

後のクレタ美術では、海の生き物が器の表面を彩ります。
たとえば、パライカストロ出土の紀元前1500〜前1450年の海洋様式の容器には、タコの腕が広がり、その間にウニや海藻の付いた岩が描かれています。
今回の時代のまだら模様の器から、数百年を隔てた表現です。
年代を添えて並べると、器に手を加える技術と、描かれる主題の変化が見えてきます。

迷宮伝説は、どう語り継がれた?

後世の神話では、ミノス王の命を受けたダイダロスが迷宮を造り、牛の頭と人の体を持つミノタウロスを閉じ込めます。
テセウスはアリアドネから糸玉を受け取り、怪物を倒して迷宮から脱出したと語られます。
この物語には、時代によって異なる語り方があります。

クノッソスは、そうした迷宮伝説と結びついてきた場所です。
複雑な宮殿の通路は、その連想を強く誘いますが、遺構と物語の関係は、後世の解釈を含んでいます。
発掘で伝説の出来事そのものを確認できた、ということではありません。

現代の大きな職場でも、倉庫への道が複雑なら、アリアドネの糸より先に案内表示の予算が必要になりそうです。
神話の面白さを味わいながら、建築には物を運び、人が働くための動線があったことも思い出してみてください。

発掘したのは誰?エヴァンズと先行する調査

クノッソスの大規模な発掘で知られるのは、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズです。
1900年から系統的な発掘を進めました。
それ以前の1878年には、地元の実業家で古物研究者のミノス・カロケリノスが掘り、宮殿西側の一部を見つけています。

現在の遺跡には、古代から残る部分に加え、エヴァンズらによる近代の復元があります。
上階、柱、壁画などに加えられた復元は、建物を理解しやすくする一方、根拠の解釈について議論もあります。
写真の色鮮やかな柱や壁を、そのまま全て古代の姿と考えずに眺めると、発掘と復元の歴史も見えてきます。

問3の答え:線文字Aは未解読、線文字Bはギリシャ語

問3の答えは線文字Aです。
主に紀元前1800〜前1450年ごろのクレタ島などで使われ、粘土板をはじめ、祭祀に用いる器物などにも記されました。
現在も、言語の内容を広く合意された形で読める段階には至っていません。

クレタ島には、物の姿を思わせる記号を持つクレタ聖刻文字(せいこくもじ)もありました。
紀元前1900〜前1600年ごろに使われ、線文字Aと使用時期が重なります。
二つの文字の形成や記号の受け継がれ方は、今も研究されています。

文字の形が似ていても、その言葉の意味がすぐ分かるとは限りません。
線文字Aについては、記号の整理や数を表す仕組みの研究が進んでいる一方、表された言語の理解が課題として残ります。
粘土板は、文字のある社会を示す証拠であると同時に、まだ十分に聞き取れない当事者の声でもあります。

線文字Aをもとに、ギリシャ語を記すために発達したのが、後の線文字Bです。
1952年にマイケル・ヴェントリスが解読を達成し、ジョン・チャドウィックと協力して研究を公表しました。
同じ島から出る文字資料でも、書かれた時期や言語、管理の仕組みが変わっているのです。

ミケーネ文明との違いと、クレタの後の変化

ミケーネ文明は、おおむね紀元前1600〜前1100年のギリシャ本土を中心とする文明です。
ミケーネやティリンスの防御を備えた拠点、豊かな墓、線文字Bの記録などで知られます。
クレタの宮殿社会から美術や技術の影響を受けつつ、独自の社会を形づくりました。

両文明の違いは、中心地域、宮殿の建築、文字とその言語を軸にすると整理できます。
クレタの宮殿は中庭を囲む構成と海域の交流、ミケーネの主要拠点は本土の防御性の強い建築に特徴があります。
美術や交易は相互に関わるため、性格を一言ずつに分け切れる関係ではありません。

本土では、今回の時代に何が起きたのか

紀元前2400〜前2000年の本土は、まだ後のミケーネ文明とは別の段階です。
アルゴス湾沿いのレルナでは、初期ヘラディックII期に城壁を持つ集落が発達し、二階建ての「瓦の館」が造られました。
石の基礎と日干しレンガの壁、瓦をふいた屋根を持つ建物です。

この建物は紀元前2200年ごろに焼失しました。
その後も居住は続き、紀元前2000年ごろからの中期ヘラディック期には、建築や土器などの姿が変化します。
こうした変化と人々の移住を関連づける説はありますが、破壊層や器の形だけから、話していた言語や移住集団を特定することはできません。

クレタ文明は、いつ、なぜ衰退した?

今回の時代から数百年後、紀元前1450年ごろ、クレタ各地の宮殿などで広い破壊が起きます。
そのころには、本土のミケーネ文化の影響が強まっていました。
破壊の全てを誰が引き起こしたかは確定していませんが、その後の行政記録には線文字Bが現れ、ミケーネ系の支配の広がりが読み取れます。

クノッソスは、他の宮殿が破壊された後も使われました。
その後も島では居住や文化の変化が続き、ミノア文化は紀元前11世紀の初めまでに衰退していきます。
「いつ滅びたか」には、宮殿の破壊、支配する勢力の変化、文化の継続という、異なる時間が含まれています。

まとめ:宮殿の華やかさを、工房と海から読み解く

3問の答えは、クレタ文明(ミノア文明)、クノッソス宮殿、線文字Aです。
紀元前2400〜前2000年には、宮殿に先立つ集落で、土器、装身具、石の道具を作る技術と、人々のつながりが育っていました。

その蓄積の先に、紀元前1900年ごろからの宮殿社会、文字による管理、より広い海域の交流を置くと、文明の発展がつながります。
クノッソスの迷宮伝説も、工房の小さな器も、歴史を知る入口になります。
それぞれの年代と、資料が伝える範囲を添えることで、クレタ文明を一枚の明るい風景より、奥行きのある社会として捉えられます。

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参考資料