問1 ハンムラビ王と法
紀元前18世紀、バビロン第1王朝の王としてメソポタミアの広い範囲を支配したハンムラビについて、正しいものを一つ選んでください。
- (ア)紀元前24世紀頃にアッカド王朝を創始し、メソポタミアに広域国家を築いた。
- (イ)先行するメソポタミアの法の伝統を背景に、同害報復(どうがいほうふく)や金銭による賠償(ばいしょう)、身分による扱いの差を含む法集を残した。
- (ウ)紀元前7世紀にニネヴェを拠点とし、王宮に多数の粘土板を集めたアッシリア王である。
- (エ)紀元前6世紀にユダ王国を攻め、住民の一部をバビロニアへ移すバビロン捕囚(ほしゅう)を行った。
問2 ウル第3王朝の王と都市
ウル第3王朝と、その前後の歴史について、誤っているものを一つ選んでください。
- (ア)ウル・ナンムに帰される法集は、現存する最古級の成文法資料として知られる。
- (イ)シュルギらの王は神格化され、ウルではウル・ナンムが始めた大ジグラトの造営がシュルギの時代に完成した。
- (ウ)王朝の崩壊過程からその後にかけて、イシンやラルサなどの都市を拠点とする勢力が並び立った。
- (エ)ウル第3王朝を直接滅ぼしたのは、小アジアから遠征したヒッタイト軍である。
問3 書記の計算とマリの文書
古代メソポタミアの学術・行政・教育について、正しいものを一つ選んでください。
- (ア)六十進位取り表記による計算や、今日の代数・幾何に相当する問題を記した粘土板が残っている。
- (イ)行政や商業の文書はすべてパピルスに書かれ、粘土板は使われなかった。
- (ウ)マリの宮殿跡から行政文書や書簡の粘土板が多数見つかり、「粘土板の家」からは書記の教育に関わる資料も見つかっている。
- (エ)(ア)と(ウ)の両方が正しい。
王はなぜ、法を文字にして残したのか。
古代メソポタミアの法集には、人を傷つけた場合の処罰だけでなく、畑への水の引き方、財産、家族、仕事をめぐる問題が記されています。
そこには、人々の争いを裁く考え方と、自らを正義の担い手として示す王の姿が重なっています。
法を刻む王と、日々の数量や約束を書き留める書記を一緒に見ると、都市を動かした仕組みが見えてきます。
舞台は、紀元前3千年紀末から前2千年紀前半のメソポタミアです。
ウル第3王朝の再統合から、都市ごとの王が競う時代を経て、ハンムラビのバビロンへ。
国を支えた粘土板を手掛かりに、王朝の名前の向こうにある暮らしをたどってみましょう。
1.ウルの倉庫から、王国の仕組みをのぞく
穀物を受け取る。
品物の数を確かめる。
誰から何を受け取ったかを記す。
こうした仕事は、古代の大きな組織にとっても欠かせませんでした。
目の前の品物は運ばれていきますが、記録は、その後も取引や管理の手掛かりになります。
南メソポタミアのウル第3王朝は、おおむね紀元前2112〜前2004年頃に続いた王朝です。
アッカドの広域支配が崩れた後、ウル・ナンムとその後継者たちが、再び広い地域をまとめました。
ウル・ナンムは、ウル=ナムやウル・ナンマとも表記されます。
この時代の行政を伝えるものが、大量の粘土板文書です。
シュルギの治世(ちせい)に属するプズリシュ・ダガンという行政拠点の文書だけでも、まとまった資料群が研究されています。
王の名前を刻んだ大きな記念碑だけでなく、組織が毎日使った小さな文書からも、国家の活動を知ることができるのです。
粘土を板状にし、葦(あし)などの筆記具で記号を押し付けると、くさびのような形の跡が付きます。
この形から名付けられたのが、楔形文字(くさびがたもじ)です。
粘土板は、特別な記念の言葉だけでなく、実際の受け渡しを記録する道具にもなりました。
粘土板には、印章(いんしょう)を転がして残した印影(いんえい)が付くものもあります。
ウル第3王朝の領収書には、書記の名を含む円筒印章の跡が残る実例があります。
文字と印は、記録が誰と関係するかを示す手段でもありました。

手のひらに載る粘土板にも、品物の移動と、それを扱った人の仕事が残ります。
「シュメール人の復活」という言い方でウル第3王朝を覚えることもあります。
それは、シュメール語の王碑文や王をたたえる文化が、この王朝で重要な役割を持ったことを捉える入口です。
ただ、歴史は住民がすべて入れ替わる場面の連続ではありません。
王朝の交代を追いながら、言葉や行政の技術が次の時代へ伝わる様子も見ていきます。
2.神のような王と、都市にそびえる塔
倉庫の帳簿から目を上げると、ウルの街には大きな宗教建築がありました。
ジグラトは、神殿と結び付いた階段状の巨大な建造物です。
ウルの大ジグラトは、ウル・ナンムが建設を始め、息子のシュルギの時代に完成したと説明されています。
都市の神々への奉仕を、王が大きな建築として示す仕事でもありました。
一方、シュルギ自身も、神として扱われる王になりました。
王名の前に神を示す符号を付けるなどの形で、神格化が表されます。
この符号は、シュメール語で「神」を意味するディンギルに関わるものです。
文字の前に添えて、その語がどの種類のものかを示す符号を、限定符(げんていふ)と呼びます。
王をたたえる讃歌(さんか)も伝わります。
シュルギは、知恵、勇気、公正さ、学識などを備えた理想の王として語られました。
神殿を建てる王、国を治める王、言葉の中で称賛される王。
巨大な国家を支えるためには、日々の物の管理に加え、王がどのような存在かを示す表現も大きな意味を持っていたのです。
ここで、王の神格化と、都市の神をまつることは重なりながらも異なります。
王が神として扱われても、都市の神々の役割が消えるわけではありません。
ウルの建築や王をたたえる文章には、人間の王権と神々の世界が近く結び付いた政治の姿が残っています。
3.ウルの後にも、法を語る王はいた
強大だったウル第3王朝も、前2004年頃に終わりを迎えます。
その末期には地方勢力の離反などが進み、最終的なウルの陥落(かんらく)には、東方のエラム系勢力による攻撃が関わりました。
一つの国としてまとまっていた地域に、複数の政治の中心が並び立つようになります。
南メソポタミアで力を競った都市が、イシンとラルサです。
この二つの都市名から、イシン・ラルサ時代という呼び名が生まれました。
ウルの後にイシンが全地域を治め、その後にラルサへ一斉に交代したという整然とした順番ではなく、いくつもの王国が同時に存在し、争いながら勢力を変えた時代です。

南のウル、イシン、ラルサと、さらに北のバビロン、ユーフラテス川中流のマリ。
位置を確かめると、王朝の交代が、複数の都市の関係から生まれたことをつかみやすくなります。
河道は時代によって変化するため、地図では都市の位置関係と川の大きな流れを示しています。
ウル・ナンム法典とリピト・イシュタル法典
法を文字にして残す営みは、ハンムラビより前からありました。
ウル・ナンム法典は、現存最古級の成文法資料として知られています。
「成文法」とは、文字で書き表された法という意味です。
文書が残っていることを指すのであって、それ以前の社会に決まりがなかったという意味ではありません。
この法集には、人を傷つけた場合に銀を支払う規定も伝わります。
後のハンムラビ法典で有名な身体への同害報復とは、異なる処理が見える例です。
ただし、ウル・ナンムに帰される法集を、すべて穏やかな金銭賠償だけの法と捉えることはできません。
また、伝わる写本の年代と、法集が最初にまとめられた年代は分けて考えられます。
イシンの王リピト・イシュタルにも、シュメール語で書かれた法集があり、前20世紀頃の法の伝統を伝えています。
ウル・ナンム法典、リピト・イシュタル法典、そしてハンムラビ法典。
王朝が変わっても、正しい裁きを語ることは、王の重要な仕事として続きました。
先行する法集と共通する主題や形式を持ちながら、それぞれの王が自らの秩序を示したのです。
4.バビロンの王は、都市の競争を勝ち抜いた
やがて、バビロンという都市の王国が力を増します。
バビロン第1王朝は、古バビロニアの王朝とも呼ばれ、アムル人系の王たちによる王朝として知られています。
その第6代の王が、ハンムラビです。
本記事では、広く使われる中年代説に従い、在位を前1792〜前1750年頃とします。
古い時代の絶対年代には複数の組み立て方があるため、年代はこの基準でそろえます。
ハンムラビが受け継いだのは、初めからメソポタミア全体を治める巨大国家ではありませんでした。
周囲にはラルサ、エシュヌンナ、マリなどの有力な勢力がありました。
その中で同盟や戦争を重ね、ハンムラビはバビロンの支配を広げていきます。
南のラルサを取り込み、北方や東方にも力を及ぼし、バビロンを広域国家の中心へ押し上げました。
この支配の拡大は、学習上「ハンムラビによるメソポタミア統一」と説明されます。
地理的には、メソポタミアの広い範囲をまとめたという意味です。
都市とその周辺に対する支配が広がった過程として見ると、後の変化にもつながります。
領土を広げる王には、新たな都市をどう治めるかという仕事が待っています。
軍事的な勝利を誇るだけでなく、神々に認められ、正義を実現する王だと示すこと。
その王の姿を、ひときわ印象的に伝えるものが、法を刻んだ石碑です。
5.「目には目を」の先に、畑と家族の問題がある
ハンムラビ法典の石碑には、王が正義を担うという理念と、多くの具体的な事例が刻まれています。
一般に「法典」と呼びますが、現代の法律のように、国家の法制度全体を体系的に網羅した文書とは性格が異なります。
「もし、こういうことが起きたら、こう扱う」という事例を積み重ねた法集として読むと、その内容が見えてきます。
同じ害を返す規定と、銀による賠償
有名なのは、他人の目を傷つけた場合に、加害者の目も傷つけるという規定です。
このように、受けた害と同じ種類の害を刑罰として返す考え方を、同害報復と呼びます。
「目には目を、歯には歯を」は、その特徴を端的に表した言葉です。
ただし、身体を傷つけたすべての場合に、同じ方法で刑罰が科されるわけではありません。
法集の第196〜199条には、相手の社会的な地位に応じ、身体への刑罰と金銭による賠償が分かれる規定があります。
誰が誰に害を与えたかによって、扱いが変わるのです。
当時の身分を表すアウィルムやムシュケーヌム、奴隷に関わる語は、現代語へ一対一で置き換えにくい面があります。
学習の入口では、法の扱いに身分による差があると押さえたうえで、すべてを現代の「貴族・平民・奴隷」の区分と完全に重ねない方が、実態を捉えやすくなります。
同害報復は、個人が好きなだけ仕返しをしてよいという許可ではありません。
損害と処罰を対応させる規定であり、同時に、当時の社会の不平等を示す資料でもあります。
隣の畑へ水を流してしまったら
法集には、農業の水管理も登場します。
第55条では、水路を開いて水を引いた際、不注意で隣人の畑に水をあふれさせた場合、失わせた穀物を補う規定があります。
畑に必要な水は、扱いを誤れば隣の畑を損なう力にもなりました。
水を引く仕事は、一人の畑の内側だけで完結しません。
水路を通して土地がつながっているため、ある人の行動が、別の人の収穫に影響します。
文字に残された事例からは、共同で資源を使う社会が抱えた、具体的な問題が浮かび上がります。

水路の操作と、その先の畑への影響は、法が扱った暮らしの問題の一つです。
家族、財産、取引、労働も、法集に含まれる主題です。
そこで王は、強い者がいる社会で、自らが正しい裁きを示す者だと語りました。
この石碑から読み取れるのは、刑罰の一覧に加え、王が人々へ示したかった統治の理想です。
一方、実際の裁判や契約のすべてが、この石碑の条文どおりに処理されたとまでは言えません。
日常の法の運用を知るには、裁判記録や契約書など、別の文書も合わせて読む必要があります。
6.マリの宮殿では、王のもとへ言葉が集まった
南の都市からユーフラテス川をさかのぼると、中流域にマリがあります。
マールとも表記されますが、ここではマリに統一します。
バビロニアと、さらに西や北の地域をつなぐ位置にあった都市です。
マリの王宮跡からは、行政の文書と王に宛てた書簡を含む、大量の粘土板が見つかりました。
完形品と断片を合わせて一万数千点規模と説明される、まとまった資料群です。
宮殿の物資管理を伝える文書と、王や役人の間を行き来した手紙が、同じ王国の活動を異なる面から伝えています。
倉庫の数量を把握することと、遠くの地域から届く知らせを読むこと。
王の仕事は、目の前で見えることだけを頼りに進められるものではありませんでした。
誰かが内容を文字にし、運び、受け取り、読んで伝える仕事が、その間をつないだのです。
しかし、マリは最後までハンムラビの支配と並び立ったわけではありません。
前18世紀、ハンムラビの軍によって王宮は破壊され、火をかけられました。
政治的な競争の結末と、かつて王宮で続いていた日々の仕事が、同じ場所に残っています。
都市を征服した王の歴史を、征服された側の手紙からも読むことができるのです。
宮殿の文書と、書記を育てる場所
多くの文書を作るには、書く技術を身に付けた人が必要です。
マリでは、宮殿の文書群に加え、「粘土板の家」と呼ばれる場所から、書記教育を主とする千数百点の文書が発掘されています。
宮殿の行政文書と教育用の資料を、それぞれの発見場所や内容から見ることで、文字を使う仕事と、その技術を育てる営みが結び付きます。
メソポタミアの書記学校には、エドゥバ、つまり「粘土板の家」という呼び名があります。
ただ、古代の教育の場を、すべて巨大な校舎に机が並ぶ現代の学校として想像すると、姿を見誤ります。
ニップルなどでは、家屋で行われた教育を、練習用粘土板から研究することができます。
文字の形、語彙(ごい)、文章、計算を身に付けるための、積み重ねがありました。
7.書記は、なぜ六十を使って計算したのか
書記に必要なのは、言葉を写す力だけではありません。
長さ、面積、重さ、品物の数量を扱い、計算する力も必要でした。
古バビロニア時代の粘土板には、掛け算の表や、現代の代数・幾何に相当する問題が残っています。
その計算で重要なのが、六十進位取り表記です。
現代の十進法では、右から一、十、百というように、桁が一つ左へ動くと値が十倍になります。
六十進の位取りでは、この関係が六十倍になります。
ただ数字を六十まで数えて終えるのではなく、位置によって値が変わる仕組みです。
一つの位の中で一から五十九までを表す際には、一を示す記号と十を示す記号を組み合わせました。
このため「十」と「六十」の両方が説明に登場しますが、現代と同じ十進位取り計算と六十進位取り計算を、同じ形で並べて使ったという意味ではありません。
数をどう書くかと、計算の位をどう組み立てるかを見分けると、仕組みがつながります。
六十という数は、二、三、四、五、六など、多くの数で割り切れます。
例えば、六十を三等分すれば二十、四等分すれば十五です。
これは六十という数の扱いやすさを理解する例ですが、この便利さだけで表記法の成立過程のすべてが説明できるわけではありません。

計算の手順を学び、結果を確かめることも、書記の修練の一部でした。
実用から先へ進む、粘土板の数学
測量や物の分配を思い浮かべると、計算と都市の暮らしの関係を理解しやすくなります。
ただし、学校の数学には、実務でそのまま使うには不自然な条件を置いた問題もあります。
仕事に役立つ技術を土台にしながら、計算そのものを学ぶ世界も育っていました。
よく知られた古バビロニア時代の粘土板には、正方形と対角線を描き、その長さに関わる精度の高い計算を書いたものがあります。
一辺を一とした正方形の対角線は、現代の表記では√2、約1.4142です。
粘土板に残る数値は、これに非常に近い値を示しています。
当時の学習者が、単なる物の個数を超えた計算に向き合っていたことを伝える一例です。
現代なら「計算が終わったら保存」を押しますが、古代の書記は、押すなら葦(あし)の筆でした。
記録の道具はずいぶん変わっても、計算した結果を他人が読める形で残すという仕事には、どこか親しみを感じます。
もちろん、当時の書記が現代の数式記号をそのまま使ったわけではありません。
私たちは、残された手順や図を、現代の数学の言葉へ読み替えているのです。
8.王朝の終わりと、受け継がれた都市の技術
ハンムラビの死後、バビロンの支配した広い地域は、そのまま一つに保たれ続けたわけではありません。
やがて前1595年頃、ヒッタイト軍によるバビロンへの遠征が、バビロン第1王朝の終わりにつながります。
この年代も、本記事で用いる中年代説によるものです。
ヒッタイトがこのとき滅ぼした王朝と、約四百年前に終わったウル第3王朝は、別の王朝です。
また、ハンムラビの古バビロニアと、前6世紀のバビロン捕囚で知られる新バビロニアも、時代が大きく異なります。
同じ都市名が何度も現れる歴史だからこそ、王の名前と年代を添えると、出来事の位置が定まります。
| 時期 | 政治の動き | 今回のつながり |
|---|---|---|
| 前22世紀末〜前2004年頃 | ウル第3王朝。ウル・ナンム、シュルギらの統治 | 王の権威、神殿建設、法集、行政の粘土板 |
| 前2千年紀初め | イシンやラルサなどの王国が競う | 都市の競争と、リピト・イシュタル法典 |
| 前1792〜前1750年頃 | ハンムラビの在位。バビロンの支配拡大 | 法集、マリの文書が伝える同時代の社会 |
| 前2千年紀前半 | 複数の都市で書記文化が発展 | 練習用文書、六十進位取りの計算、数学の問題 |
| 前1595年頃 | ヒッタイト軍がバビロンを攻撃 | バビロン第1王朝の終わり |
| 前7世紀 | アッシリア王アッシュールバニパルの時代 | ニネヴェの王宮に集められた粘土板 |
| 前6世紀 | 新バビロニアのネブカドネザル2世の時代 | バビロン捕囚。ハンムラビから千年以上後 |
王朝の名前が替わっても、書くこと、量ること、計算すること、争いを裁くことの必要性は続きます。
その技術や文章が後の世代へ伝わったため、今の私たちは、異なる王朝の粘土板を並べて読み、変化と連続の両方を確かめられます。
9.3問の解答から、王・法・書記の関係を確かめる
問1の解答:(イ)
ハンムラビは、先行する法の伝統を背景に、多様な事例を含む法集を残しました。
同害報復、金銭による賠償、身分による違いを一緒に押さえると、「目には目を」という一つの言葉から、当時の社会へ理解が広がります。
(ア)はハンムラビより数百年前のアッカド王朝のサルゴンに関わる説明です。
(ウ)は前7世紀のアッシュールバニパル、(エ)は前6世紀のネブカドネザル2世の時代に対応します。
「バビロン」という地名だけで、古バビロニアと新バビロニアを一つにまとめないことが、見分ける鍵です。
問2の解答:(エ)
ウル第3王朝の最終的な陥落に関わったのは、エラム系の勢力です。
ヒッタイト軍のバビロン遠征は、ずっと後のバビロン第1王朝の終わりに関わります。
(ア)のウル・ナンム法典は、現存最古級の成文法資料です。
(イ)は、シュルギの神格化と、父子の時代にまたがるウルの大ジグラトの造営を述べています。
(ウ)の都市勢力の並立は、ウルの広域支配がほどけた後の政治を理解する要点です。
問3の解答:(エ)
(ア)の計算と数学、(ウ)のマリの文書と教育資料の両方が正しい説明です。
言葉を記すことと数量を扱うことは、都市の行政や教育の中で結び付いていました。
(イ)は、実際に残る大量の粘土板文書と合いません。
「宮殿に文書がある」「書記を教育する資料がある」「計算に六十進の位取りを用いる」。
この三つをつなぐと、王の命令を読む人、品物を管理する人、学んだ技術を次へ伝える人の仕事が見えてきます。
まとめ
ウル第3王朝からバビロン第1王朝へ至る歴史には、都市をまとめる王の力と、その都市を毎日動かす人々の技術がありました。
法集は、争いをどう扱うかという考え方と、王が示す正義を伝えます。
粘土板には、物資、手紙、学習、計算という、もう一つの都市の姿が残っています。
ハンムラビが法を刻んだ理由を考えるとき、石碑の前に立つ王だけでなく、水路の先にある畑や、粘土板に向かう書記にも目を向けてみてください。
有名な一言の向こうに、都市でともに生きるための問題が見えてきます。
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- なぜ帝国は崩れた?アッカド崩壊とシュメールの復興――ウル第3王朝へ至る前史と、広域国家が揺らぐ背景をたどれます。
- アムル人は何をした?バビロンと青銅の交易をたどる――バビロンの王朝と、西アジアの人々の交流を広く学べます。
参考資料
- メトロポリタン美術館「イシン・ラルサ時代と古バビロニア時代」――都市の競争、ハンムラビ、アムル人系の王たち、前1595年の遠征。
- シカゴ大学古代文化研究所「ウル第3王朝の粘土板文書」第1巻――シュルギ期の行政拠点の文書群。
- ウォルターズ美術館「印影のある粘土板」――ウル第3王朝の領収書と円筒印章。
- ペンシルヴァニア大学博物館「ウル第3王朝とウル・ナンムの石碑」――ウルの大ジグラトの父子にわたる造営。
- シカゴ大学「宗教と権力」研究論集――シュルギらの神格化と神を示す限定符。
- ペンシルヴァニア大学博物館「ウル発掘とシュメール文学」――理想の王として語られるシュルギの讃歌。
- メトロポリタン美術館「イラン、前8000〜前2000年」――中年代説の位置付けと、ウルへのエラム勢力の攻撃。
- モーガン図書館・博物館「ウル・ナンマと正義」――現存最古級の法集を残した王。
- スコイエン・コレクション「ウル・ナンム法典」写本――シュメール語の法集と、銀による賠償の例。
- ペンシルヴァニア大学博物館「バリー・アイヒラーの研究」――前1930年頃のリピト・イシュタル法集。
- ルーヴル美術館「ハンムラビ法典」――法集の性格、同害報復と王の正義。
- イェール大学アヴァロン・プロジェクト「ハンムラビ法典」英訳――第55条の水管理、第196〜199条の身分と刑罰・賠償。
- フランス文化省「マリ王宮の発見と発掘」――宮殿の規模、文書群とハンムラビによる破壊。
- 同「マリ文書の研究」――行政文書、書簡、粘土板の家の教育資料。
- ペンシルヴァニア大学博物館「文書、粘土板と教育」――ニップルの家屋で行われた書記教育。
- プリンストン高等研究所「メソポタミアの数学」――六十進位取り、計算教育と抽象的な問題。
- プリンストン大学出版局『ピタゴラスの定理』第1章――一と十の記号、六十進表記、対角線の計算。
- ファウラー/ロブソン「古バビロニア数学の平方根近似」――正方形と対角線を描いた学習用粘土板の研究。
- イェール大学「都市と図書館」――ニネヴェのアッシュールバニパルの王宮図書館。
- メトロポリタン美術館「キュロスとユダ人の離散」――ネブカドネザル2世と前6世紀のバビロン捕囚。
