問1 夏王朝の伝承と二里頭遺跡
中国の初期王朝と考古学の関係について、適切な説明を一つ選んでください。
- (ア)夏は、『史記』などで、治水の功績を持つ禹(う)が開いたと伝えられる王朝である。
- (イ)河南省の二里頭遺跡は、宮殿の基壇や青銅器などを持ち、夏王朝との関係が研究されている。
- (ウ)夏に続く王朝と伝えられる殷(商)は、遺跡や同時代の甲骨文字などから、その実在を確認できる。
- (エ)(ア)〜(ウ)のすべてが適切である。
問2 ストーンヘンジの建設と太陽
イギリス南部のストーンヘンジについて、適切な説明を一つ選んでください。
- (ア)紀元前3000年頃の土の囲いに始まり、前2500年頃には大型のサルセン石や小型のブルーストーンが据えられた。
- (イ)主軸は夏至の日の出と冬至の日没の方向に対応し、埋葬や儀礼との関係も研究されている。
- (ウ)ギリシャのアテネにあるパルテノン神殿の別名である。
- (エ)(ア)と(イ)の両方が適切である。
問3 オルメカの巨石人頭像と土偶
メソアメリカのオルメカ文化とその美術について、適切な説明を一つ選んでください。
- (ア)メキシコ湾岸に主要な中心地を持ち、玄武岩製の巨石人頭像などで知られる。
- (イ)土偶や石製の小像には多様な姿があり、その意味は図像(ずぞう)や出土状況から検討されている。
- (ウ)鉄製武器と馬車によって、南北アメリカ大陸を一つの帝国へ統一した。
- (エ)(ア)と(イ)の両方が適切である。
古代の人々は、何のために大きな建物や、手の込んだ器を造ったのか。
その答えは、暮らしを支える共同作業と、人々を結び付ける権威や祈りの中にあります。
ただし、同じ石や青銅を使っていても、地域ごとに社会の仕組みも、残された証拠も異なります。
王朝の伝承は文献から、都市や工芸の働きは遺跡から――異なる証拠を合わせることが、古代を読む入口です。
今回は、中国の二里頭(にりとう)から、イギリスのストーンヘンジ、メキシコ湾岸のオルメカへと視線を移します。
一つの文明が順番に世界を巡った物語ではなく、離れた土地の人々が、物と場所に何を託したかをたどる旅です。
1.まず地図と年代を広げてみる
二里頭遺跡は、中国の河南(かなん)省、洛陽(らくよう)に近い地域にあります。
黄河(こうが)流域の歴史を学ぶときに登場する、青銅器時代の大きな拠点です。
ストーンヘンジはヨーロッパの西、ブリテン島南部のソールズベリー平原にあります。
オルメカの主要な中心地は、北アメリカ南部、現在のメキシコの湾岸低地に広がりました。
メソアメリカは、メキシコ中・南部から中央アメリカの一部にかけて、共通する文化的特徴が見られる歴史上の地域です。
「中米」と略されることもありますが、現在の中央アメリカ諸国だけを指す地理区分とは一致しません。
南アメリカのアンデス地域とも、まず場所を分けておきます。

| 地域・遺跡 | 年代の目安 | 読む手掛かり |
|---|---|---|
| ストーンヘンジ | 前3000年頃に土の囲い、前2500年頃に中心の巨石 | 建設の段階、太陽との方向関係、埋葬 |
| 二里頭遺跡 | 前18〜前16世紀頃を中心に考える | 都市の配置、宮殿の基壇、青銅器 |
| オルメカ文化 | 広くは前1500〜前400年頃 | 中心地の移り変わり、石彫、土偶 |
この表は、三者が一つずつ交代した年表ではありません。
ストーンヘンジでは、二里頭の都市が発展するより前に、すでに大きな石が立っていました。
一方、オルメカは前1500年頃だけで終わらず、その後も中心地を変えながら展開します。
建設の開始、ある遺跡の繁栄、文化全体の存続期間を、同じ意味の年代にしないことが大切です。
二里頭文化の年代にも、測定や研究の進展に応じた幅があります。
近年の研究で用いられる前1750〜前1520年頃という年代を踏まえ、ここでは前18〜前16世紀頃を中心に見ます。
これを、そのまま伝承上の夏王朝の全期間と重ねるわけではありません。
2.禹の伝承から、二里頭の道へ
夏王朝とは、どのように伝えられたのか
中国の古い王朝として語られるのが、夏(か)です。
司馬遷(しばせん)の『史記』には、洪水を治めた禹が、舜(しゅん)の後を継いで王になったと記されています。
川の水を制御することが、人々を導く資格と結び付いた物語です。
能力のある人物へ地位を譲るという継承の説明を、禅譲(ぜんじょう)と呼びます。
『史記』の伝承では、その後、禹の子の啓(けい)が王位を継ぎ、同じ家の継承へつながっていきます。
後世に王朝交代を正当化する易姓革命(えきせいかくめい)の考えと、禅譲という継承の形式は、区別して理解します。
ただし、『史記』は禹が生きたとされる時代の実況記録ではありません。
ずっと後にまとめられた文献から、過去がどう語り継がれたかを読んでいます。
治水の英雄を記すことと、その人物の活動を同時代の資料で確かめることには、証拠の種類の違いがあります。
二里頭はどこにあり、何が見つかったのか
その伝承と関係する遺跡を探す中で、1959年に発見されたのが二里頭です。
現在の洛陽市偃師(えんし)区に位置し、地名を取って二里頭文化という考古学上の名称が使われています。
文化の名前は、当時の住民が自分たちの国をそう呼んだことを意味しません。
二里頭では、大きな建物を載せる基壇(きだん)、道、工房、墓、青銅器や玉器などが見つかっています。
土を突き固めた版築(はんちく)の基壇は、その上にあった建物を支えました。
屋根や柱が失われても、基礎の広がりや建物の配置は、そこで行われた仕事の規模を考える材料になります。
低い土の層を何度も固め、道を設け、工房を働かせるには、人手や材料を集める必要があります。
完成した建物だけでなく、その下に積み重なった作業を想像すると、都市は人々を組織する仕組みでもあったことが見えてきます。
大きな基壇は、立派な屋根の土台であると同時に、共同作業の痕跡(こんせき)でもあるのです。

遺跡全体を歩けば、宮殿に関わる区画と、特別な品を造る工房との関係が見えてきます。
青銅器やトルコ石の加工を、権力の中枢(ちゅうすう)が管理していたとする研究があります。
珍しい材料を手に入れ、専門の職人を働かせることは、日々の食事の道具を各家庭で作ることとは異なる力を必要としました。
3.小さな青銅器に、なぜ王権が見えるのか
二里頭の出土品には、酒に関わる青銅器の爵(しゃく)があります。
三本の脚、注ぎ口、把手(とって)などを備えた器です。
博物館が紹介する一例は、高さ26.5センチメートル。
背丈ほどの記念物ではありませんが、細い脚や張り出す部分を持つ形には、材料と技術を使いこなす工夫があります。
青銅器は、土の器とは造り方が異なります。
形を決める型を用意し、溶かした金属を流し、冷えた器を取り出して仕上げます。
二里頭の鋳造(ちゅうぞう)では、土器を手本とする形と、金属ならではの設計の発展が研究されています。
完成品の表面だけでなく、型を作る段階まで考えると、専門的な仕事の積み重ねが分かります。

こうした器は、飲み物を入れる実用だけでなく、儀礼(ぎれい)に用いる礼器(れいき)として重視されました。
人々が集まり、特別な器を使う行為には、立場の違いや権威を目に見える形にする働きがあります。
どの儀式で誰が何を唱えたかまで、器だけから復元することはできませんが、素材、製作の管理、出土した場所を合わせると、王権との関係を検討できます。
二里頭は、夏の都だと確認されたのか
二里頭の場所や年代、大きな都市の構造は、夏との対応を考える重要な材料です。
そのため、夏王朝の都の候補として広く研究されてきました。
一方で、都市の存在を確かめることと、その国の名を「夏」と確定することは、同じではありません。
二里頭が大きな政治的中心地だったという考古学の知見と、それを夏王朝に当てる説は、確かさの段階を分けて読む必要があります。
二里頭からは、土器などに刻まれた記号も知られています。
しかし、それを手掛かりに、王名や王朝名を殷の甲骨文字のように確かめられるわけではありません。
「記号がある」こと、「文字として読める」こと、「夏の国名を示す」ことを、一度に同じ結論へまとめないようにします。
殷の実在を、何が支えているのか
夏の後に語られるのが、殷(いん)、または商(しょう)です。
河南省安陽(あんよう)の殷墟(いんきょ)は、殷後期の都の遺跡です。
宮殿や王墓、青銅器に加えて、同時代の甲骨文字が残ることに、大きな意味があります。
甲骨文字は、亀の甲羅や牛の肩甲骨(けんこうこつ)などに刻まれた文字です。
熱で生じたひび割れを読む占いに関わり、雨、収穫、王の行動、戦い、祭祀(さいし)などの事柄が記されています。
王の系譜(けいふ)も調べられるため、後世の文献と、当時の記録を照らし合わせることができます。
「殷は実在が確認できる古い王朝」と学ぶのは、それ以前の土地に人の組織や文化がなかったという意味ではありません。
二里頭にも、さらに前の竜山(りゅうざん)文化などにも、それぞれの遺跡があります。
文献の王朝名と、遺物の特徴で分けた考古学の文化名を、同じ種類の札として並べないことが、中国古代史を理解する鍵です。
4.ストーンヘンジ――巨石の前に、人の仕事がある
今度はブリテン島南部へ視線を移します。
ストーンヘンジは、イギリスのイングランドにある巨石記念物です。
二本の立石に横石が渡る姿が印象的ですが、初めから今のような石の配置が完成していたわけではありません。
前3000年頃、まず円形の溝と土塁(どるい)が造られました。
そこでは、火葬した人骨の埋葬も行われています。
前2500年頃になると、中央に大きな石が据えられ、その後も小型の石の配置変更などが続きました。
前1800〜前1500年頃の穴の列も残り、長い時間の改変を伝えています。
大型のサルセン石は、硬い岩石です。
小型のブルーストーンは、一種類だけの石の名前ではなく、複数の岩種を含む呼び方です。
大きな石を用いた環状や馬蹄(ばてい)形の配置と、小さな石の配置を組み合わせ、建設の段階ごとに姿が変わりました。
石は、どうやって乗せたのか
足元の大きな石を見てから、その上の横石へ視線を上げてみます。
驚くべき点は、ただ大きいことだけではありません。
立石の突起と横石の穴を合わせ、隣り合う横石にも接合の工夫を施しています。
木工に似た発想を、硬い石の加工に使ったのです。
石の表面を整えるためには、別の石を槌(つち)のように使います。
大まかに形を削る段階と、仕上げる段階を分け、接合する箇所を合わせます。
巨大な石を「置いただけ」と片付けるのは、辞書を「紙を重ねただけ」と評するくらい、肝心な仕事を見落としています。

立石を起こす方法としては、片側に傾斜を付けた穴に石を導き、植物繊維の綱や木組みを用いて引き起こしたと考えられています。
穴を石などで固め、横石は木の足場を使って上げたという復元案があります。
ただし、運搬から設置までの全工程を記した建設記録が残っているわけではありません。
加工痕、石の穴、道具、実験などから、可能な方法を検討しています。
石を引く人だけでは、大仕事は続きません。
綱や木材を用意する人、道具を整える人、食べ物を支える人も必要です。
建築の迫力は、完成した輪の大きさだけでなく、仕事を分担して続けられる社会の力にもあります。
5.夏至の朝、そして冬至の夕日を見つめる
「ストーンヘンジは何のために造られたのか」。
この疑問には、まず分かっている方向関係から答えられます。
主軸は、夏至(げし)の日の出と、反対側の冬至(とうじ)の日没に対応しています。
夏至の朝だけが特別な入口ではなく、冬の夕日へ向けた建築として見ることも大切です。
夏至は、北半球で昼の時間が最も長くなる頃、冬至は最も短くなる頃です。
農耕や家畜の飼育をしていた人々にとって、季節の巡りは食料や生活と深く関わりました。
石の間に太陽を見る仕組みは、暮らしの時間を、特別な場所と結び付けます。

冬至の夕日は、もとは大きな三石組の間に沈んで見えたと考えられています。
また、近くのダーリントン・ウォールズでは、人々が集まって冬に宴(うたげ)を開いたことを示す動物の骨が見つかっています。
食事の集まりや死者への儀礼を含む、広い景観の中にストーンヘンジを置くと、石の輪だけを見る場合より、社会の姿が豊かになります。
一方、方向が太陽に対応することから、日食まで正確に予測する計算機だった、特定の神を同じ作法で崇拝した、とまでは確定できません。
太陽を見る建築、埋葬の痕跡、儀礼についての解釈は、それぞれの証拠を確かめて結び付けます。
名称の「ヘンジ」にも、横石が掛かる姿を思わせる、後の時代の呼び名の歴史があります。
造った人々自身の名称が、そのまま残ったわけではありません。
ストーンヘンジは、エーヴベリーなどとともに世界遺産に登録されています。
価値の中心は、単独の大きな石だけでなく、周辺の道や墓、集まりの場所が伝える長い人間の活動です。
現在は倒れた石や近代の保存工事も含む姿であり、すべてが建設直後の状態で残るわけではありません。
6.海を隔てたオルメカ――大きな顔と小さな像
大西洋の向こう、メキシコ湾岸へ渡ってみます。
現在のベラクルス州やタバスコ州に、オルメカ文化の主要な遺跡が広がっています。
川の流れる低地に、人々が集まる広場や大きな土の構造物が造られました。
年代は広く前1500〜前400年頃を目安にしますが、中心地や文化の特徴によって区切り方に違いがあります。
サン・ロレンソは早い時期の重要な中心地で、後にはラ・ベンタが栄えました。
オルメカ全体を、一つの首都が千年以上変わらず支配した国として想像しない方が、その展開を理解できます。
巨石人頭像は、誰の顔なのか
よく知られるのが、玄武岩(げんぶがん)製の巨石人頭像です。
一つの大きな岩を、人の頭部の形に彫っています。
頭を覆う装具や顔の表現には違いがあり、支配者の肖像と考える解釈があります。
単に同じ神の顔を大量に作ったと決めるより、一体ごとの違いを見ることが手掛かりになります。

頭の装具が現代のヘルメットに似て見えても、同じ用途だとは限りません。
また、像の顔立ちを現代の人種分類へ当てはめても、海を越えた移住の証明にはなりません。
材質、製作、設置場所、同じ地域の他の図像を合わせて考えます。
玄武岩や玉材を遠くから運び、大きな石を彫り、特別な場所に置くには、多くの人の仕事が必要です。
オルメカの石彫は、人の姿を残す美術であると同時に、資源や人手を集める力を示すものでした。
ストーンヘンジと比べられるのは、共同作業の規模という点です。
石を使うことが似ているだけで、同じ人々が造ったと結び付けることはできません。
土偶は、すべて豊穣(ほうじょう)の祈りだったのか
大きな顔から視線を下げると、手に持てるほどの土偶や、小さな石の像があります。
オルメカの美術は巨石だけではありません。
土を成形し、表面を整え、焼いて仕上げる仕事も、各地の工芸を支えました。

丸みのある幼児のような体つきから、ベビーフェイスと呼ばれる一群もあります。
これは現代の研究上の呼び方であり、当時の固有の神名ではありません。
白い土や化粧土、赤い顔料を用いた作例があり、オルメカ様式の中空像には、前1200〜前800年頃とされるものがあります。
オルメカ成立前の土偶だけを指す名称でもありません。
ふっくらした身体には豊かな資源や再生との関係を読む解釈がある一方、人間と動物の特徴を組み合わせた超自然的な表現も見られます。
ジャガーを思わせる特徴も重要ですが、すべての顔やすべての神を一頭の動物に還元することはできません。
姿勢、口や目の形、装具、置かれた場所まで比べて、意味を検討します。
女性の姿を表した像でも、女性であることだけから多産を願う母神と断定することはできません。
墓に納められたもの、儀礼の場に置かれたもの、出土した事情が十分には分からないものでは、説明できる範囲が異なります。
小さな像は、何でも願いをかなえる一種類のお守りではなく、さまざまな人や観念を表す資料です。
7.オルメカとマヤは、どうつながるのか
オルメカは、メソアメリカの早い時期の複雑な社会と、広い地域に共有された美術様式を考えるうえで重要です。
「母なる文明」という呼び方もありますが、後の文化のすべてを一か所で発明し、一方向に教えたと理解するのは単純すぎます。
物や意匠(いしょう)の交流があったことと、すべての地域が同じ国家に属したことは別です。
マヤの人々が暮らしてきた中心的な地域は、メキシコ南東部やグアテマラ、ベリーズなどです。
オルメカの湾岸の主要中心地と位置を分け、さらに年代を比べます。
マヤには早い農耕集落からの長い歩みがあり、都市国家が栄える古典期の目安は、紀元後250〜900年頃です。
オルメカの後にマヤが突然現れた、あるいはマヤの人々が別の文明に交代して消えた、という一列の王朝交代にはなりません。
地域社会の歩みには重なる部分があり、美術や儀礼の要素は、後の時代に受け継がれ、意味を変えていきます。
古代の都市の変化と、現在も暮らすマヤの人々の存在も、区別して考えます。
鉄器や馬車がなくても、大きな社会は造れる
オルメカは、鉄製武器と馬車による大陸統一の帝国ではありません。
石や土、玉材を使う技術と、広域の交流や共同作業から、その社会を見ていきます。
ある金属を使うことだけを、文明の合格条件にはできません。
また、古代アメリカについて「車輪がまったく存在しなかった」と一括りにするのも正確ではありません。
ずっと後のメソアメリカには、車輪を持つ小型の動物像が残ります。
たとえば、紀元後750〜900年頃のベラクルスの作例が知られています。
これはオルメカの馬車の証拠ではなく、車輪のある小像と、荷物を運ぶ車両の普及を分けて考える例です。
8.三つの問題を、資料の違いから解く
問1の解答:(エ)――伝承、都市、同時代の文字
正解は(エ)です。
(ア)は『史記』などが伝える夏と禹の物語、(イ)は二里頭の考古学上の特徴と夏との研究上の関係、(ウ)は殷の実在を支える資料を述べています。
それぞれの文が、どの証拠に基づく説明かをつかむと、三つを結び付けて理解できます。
(イ)で押さえたいのは、二里頭が宮殿や専門的な工芸を持つ拠点だったことです。
そこから王権や初期国家を考えることはできますが、国名を確定するには別の検討が要ります。
(ウ)の甲骨文字は、王の行動や占いを記す同時代の資料であり、後の伝承だけに頼らない歴史の復元を可能にします。
問2の解答:(エ)――建設の段階と、太陽に向く軸
正解は(エ)です。
(ア)は土の囲いから巨石の建設へ進む段階、(イ)は夏至・冬至との方向関係と、埋葬・儀礼を考える手掛かりを述べています。
石を並べた年代と、長く使い続けた期間を分けると、一度の工事で完成したものとして覚えずに済みます。
(ウ)のパルテノン神殿は、場所も時代も建築の仕組みも異なります。
ストーンヘンジでは、石の接合、加工と設置、太陽を見る方向、周辺の墓や集まりを組み合わせて考えます。
太陽に向くことが確認できても、すべての信仰内容や精密な予測機能まで確定するわけではありません。
問3の解答:(エ)――造形と出土状況を合わせる
正解は(エ)です。
(ア)は主要な地域と代表的な石彫、(イ)は多様な小像を調べる方法を述べています。
巨石人頭像は、玄武岩を運び、彫り、設置する組織的な仕事を示します。
小像は、素材や姿勢、図像、出土状況から、それぞれの意味を検討します。
(ウ)のような鉄器と馬車の大陸統一は、オルメカの歴史に当てはまりません。
技術の違いを優劣の一列に並べるより、その土地の資源と社会の仕事に目を向けます。
人物像があることから、すべての像に同じ神名や同じ願いを割り当てないことも、この問題の大切な学びです。
まとめ
二里頭の基壇と青銅器は、人や材料を集める初期国家の働きを考える手掛かりになります。
ストーンヘンジの石と太陽の方向は、共同作業、季節、死者との関係を伝えます。
オルメカの大きな顔と小さな像は、権威や儀礼を形にする仕事を見せてくれます。
王朝名を知ること、都市の存在を確かめること、人々の祈りを解釈すること。
それぞれを支える証拠を区別すると、古代史は「何年に何があったか」から、物に残った人間の営みを読む歴史へと広がります。
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参考資料
- 中國哲學書電子化計劃『史記』夏本紀――禹の治水、舜からの継承、啓の即位という伝承。
- 張雪蓮ほか「二里頭遺跡の炭素14年代測定」公開要旨――1959年の発見、年代測定と夏・商への帰属をめぐる研究。
- ロバート・ソープ「二里頭と夏の探究」公開要旨――都市・建築・墓・礼器と王朝同定の論点。
- 二里頭の木炭分析研究(国連食糧農業機関の公開要約)――前1750〜前1520年という二里頭文化の年代。
- イェール大学エイチラフ「二里頭文化」資料紹介――初期国家、青銅礼器と王権、工房管理。
- ケンブリッジ大学出版局『中国の青銅器』公開抜粋――二里頭の器の形と、型を使う鋳造技術。
- 二里頭夏都遺址博物館「乳釘文銅爵」――三脚の形、高さ26.5センチメートルと礼器の用途。
- ユネスコ世界遺産センター「殷墟」――殷後期の都、王墓、青銅器と甲骨文字。
- ユネスコ「中国の甲骨文」――占いの記録内容と王の系譜の復元。
- イングリッシュ・ヘリテージ「ストーンヘンジの歴史」――前3000年・前2500年の段階、埋葬、配置変更と保存。
- 同「ストーンヘンジの建設」――石の加工・接合、立石や横石の設置方法に関する復元案。
- 同「ストーンヘンジを理解する」――夏至・冬至の方向、周辺の集まりと解釈の限界。
- ヒストリック・イングランド「ストーンヘンジの天文学研究」――2024年の太陽の視線と景観の研究。
- ユネスコ世界遺産センター「ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連遺跡群」――巨石と周辺の遺跡を含む世界遺産の価値。
- イングリッシュ・ヘリテージ「ストーンヘンジの時代別教師用ガイド」――後の時代に付けられた名称の説明。
- メキシコ国立人類学歴史研究所「ラ・ベンタ遺跡博物館」――文化の年代、中心地、工芸と多様な図像。
- メトロポリタン美術館「オルメカ美術」――湾岸の地域、巨石人頭像、工芸と広域の交流。
- 同「頭飾りを付けた中空の座像」――前1200〜前800年の作例、素材・彩色・図像と出土地。
- プリンストン大学美術館「オルメカの世界――儀礼と支配」――再生や超自然的な力に関する解釈と、小像の意味の不確実さ。
- ペンシルベニア大学博物館「マヤの人々とは」――マヤの地域、初期集落、古典期の都市国家と現在の暮らし。
- プリンストン大学美術館「車輪のあるネコ科動物像」――後世の車輪付き小像と、車輪利用の範囲。
