土地・教会・学問の仕組みが変わるとき|11世紀後半の日本・西欧・中国

11世紀後半の日本・西欧・中国の土地・教会・学問を比べる記事の表紙。古書、巻物、羽根ペンと麦穂のイメージ。 大学受験歴史

問題1:日本の土地制度改革と荘園公領制の成立

11世紀後半、日本では摂関政治から院政へ向かうなかで、土地支配の仕組みも変化しました。

(1)1069年、後三条天皇が発布し、証拠書類である券契が不明な荘園や、国務の妨げとなる荘園を整理しようとした法令を何といいますか。

(2)その整理を進めるため、中央に設置された荘園の審査機関を何といいますか。

(3)11世紀後半から形成が進んだ、貴族や寺社などが支配する「荘園」と、国司・国衙が支配する「公領」を軸とする土地支配の体制を何と呼びますか。

問題2:キリスト教世界の分裂と西欧社会の変容

11世紀のヨーロッパでは、教会の対立と農業・商業の変化が進んでいました。

(1)1054年の相互破門は、コンスタンティノープルなど東方の教会と、ローマ教皇を中心とする西方の教会の分裂を象徴する事件です。後にそれぞれ(①)と(②)として歩んだ教会の名称を答えなさい。

(2)中世の西欧では、開墾や(③)などの農法の普及が農業生産の拡大を支えました。余剰生産物の取引が盛んになると、決まった時期に開かれる(④)も発達し、都市の成長を支えました。

(3)中世都市で、商人や手工業者が営業上の特権や相互扶助などのために結成した組合を何といいますか。

問題3:中国の文治政治と新しい儒学

北宋では文官を重んじる政治のもとで、国家改革と儒学の新たな展開が見られました。

(1)古典の字句を解釈する(⑤)を受け継ぎつつ、宋代には宇宙や人間の本性、道徳の原理を考える儒学が発達しました。この新しい潮流の総称(⑥)と、その流れを南宋の朱熹が体系化した学問の名称(⑦)を答えなさい。

(2)北宋の第6代皇帝神宗に登用され、1069年から財政再建と富国強兵のための「新法」を進めた人物は誰ですか。

1069年、日本では後三条天皇が荘園の権利を審査し、中国では王安石が財政と経済の改革を始めました。西欧では教会の東西対立が深まる一方、農業の変化が市場や都市の成長を支えていました。三つの地域を比べると、制度を変えるとは、誰の権利を認め、誰が負担を引き受けるかを決め直すことだと分かります。

ここで扱うのは11世紀後半を中心に、その前後へ続く変化です。各地の出来事に共通の原因や直接の影響があったとはせず、同じ問いで比較します。朱子学やノーフォーク農法は、違いを説明するために取り上げる後世の制度・学問です。

三問の答え

設問と解答の対応
問題 答え
1 (1)延久の荘園整理令 (2)記録荘園券契所 (3)荘園公領制
2 (1)①東方正教会 ②ローマ=カトリック教会 (2)③三圃制 ④定期市 (3)ギルド
3 (1)⑤訓詁学 ⑥宋学 ⑦朱子学 (2)王安石

日本|荘園の権利を調べ、租税の範囲を定める

後三条天皇はなぜ荘園を整理したのか

平安時代の荘園には、貴族や寺社などが権利を持ち、国司による徴税を免除される土地がありました。免税を不輸の権、国司側の立ち入りを制限する権利を不入の権といいます。荘園の権利は、成立の経緯や認定によって異なりました。

開発した土地を中央の有力な貴族や寺社へ寄進し、その保護を求める動きも広がります。こうした寄進地系荘園では、現地の開発者が土地の管理を続け、中央の領主が政治的な後ろ盾になる場合がありました。一つの土地に、耕す人、現地で管理する人、年貢を受け取る領主の権利が重なっていたのです。

国司にとって問題なのは、本来は租税を取る土地まで荘園に取り込まれ、国の仕事に必要な収入が減ることでした。朝廷の側にも、諸国からの納入や行政を維持するため、免税の範囲を確かめる必要があります。後三条天皇が1069年に出した延久の荘園整理令は、荘園として認める根拠を調べ、国司が支配する土地との区分を整える政策でした。

後三条天皇の母は三条天皇の皇女、禎子内親王です。その母は藤原道長の娘の妍子なので、後三条天皇にも母方を通じて藤原氏の血縁がありました。摂関家の当主が天皇の母方の祖父として後見する関係から比較的自由だったことが、摂関家領も含めて審査する政治的な条件になりました。

以前の整理令との違いは、中央での文書審査

荘園を制限する命令は、延久以前にも出されていました。醍醐天皇の時代の902年、延喜の荘園整理令など、それ以前にも新しい荘園や有力者による土地の取り込みを抑える政策が出されました。1045年にも整理令があり、延久の整理はこの年を基準にしています。

延久の基本方針は、1045年以後に新しく立てられた荘園を停止することと、それ以前の荘園でも券契が明確でないもの、国務を妨げるものを停止することです。荘園が古いというだけでは、存続の十分な根拠になりませんでした。

実施のため中央に置かれたのが記録荘園券契所、略して記録所です。券契とは、土地の権利を裏付ける証拠文書のことです。記録所は、荘園領主から提出された文書と国司側の報告を照合し、認める範囲や停止する土地を審査しました。天皇の裁決につながる中央の手続きを設けたことが、延久の特徴です。

たとえば、領主が「この田は免税の荘園に含まれる」と主張しても、国司が「従来は国の租税を納めていた」と報告する場合があります。このような争いでは、誰が強いかだけでなく、文書が認めている範囲と実際の土地を確かめる必要がありました。これは審査の働きを示す説明例です。

それ以前の整理令にも土地支配を立て直す働きはありました。延久の違いは、単に規則を厳しくしたこと以上に、摂関家の荘園も対象にし、領主と国司の主張を中央で照合する仕組みを備えたことにあります。審査を通過した荘園は権利が確かめられるため、整理は荘園の存続を支える働きも持ちました。

荘園の権利を裏付ける文書を調べる場面のイメージ
荘園の文書審査を表した学習用イメージ。特定の人物や史料の再現ではありません。

荘園公領制は、土地に重なる権利の仕組み

荘園公領制は、荘園と公領を軸に年貢や支配の仕組みが組み立てられる、中世の土地支配の体制です。公領は国衙領とも呼び、国司や地方の役所である国衙が支配しました。その内部は郡・郷・保などの単位に編成され、現地の有力者が徴税や管理に関わりました。

荘園と公領の違いは、上位で権利を持つのが荘園領主か国司・国衙かという点にあります。どちらにも現地で耕作や徴収を担う人がいました。現代の「所有者一人が土地のすべての権利を持つ」という見方より、年貢を受け取る権利、管理する権利、耕す立場を重ねて見る方が、実態をつかめます。

この仕組みは、戸籍に基づいて人々へ口分田を与える班田収授法とは異なります。律令制の土地支配が変質するなかで、土地ごとの収入と支配を荘園・公領の体系に組み込んでいったのです。荘園公領制の整備は、1069年の整理令の後も院政期にかけて続きました。

実例として、1127年の越前国の「僧永真所領寄進状」があります。永真は開発所領を藤原宗輔へ寄進し、自分の子孫が下司として管理を続けることを条件にしました。

白河天皇が1086年に譲位して始めた院政では、上皇や、出家した上皇である法皇も荘園を経済基盤としました。後三条天皇の整理から院政へは、天皇・上皇の政治的な発言力が増す流れが見られます。荘園整理、皇位継承、貴族との関係の変化が並行して進み、土地支配も組み替えられました。

農村の収穫物を運ぶ人々と寺院を描いた土地支配の学習用イメージ
土地からの収入が貴族や寺社などを支えたことを表すイメージ。特定の荘園の復元図ではありません。

西欧|教会の権威と農村・都市の変化

東西教会はなぜ対立したのか

キリスト教世界では、西方のローマと、東方のコンスタンティノープルなどが、それぞれ大きな権威を持っていました。西方では主にラテン語、東方では主にギリシア語が用いられ、政治の中心や教会の慣習も異なっていました。

争点の一つは、ローマ教皇が東方の教会にも、どこまで権限を及ぼせるかです。東方では複数の有力な教会がそれぞれの地域を担い、ローマから一元的に統治されるという考えを受け入れませんでした。教皇の権威を強める西方の改革は、この違いを鋭くしました。

教義にも争いがありました。西方で信条に加えられた「フィリオクェ」は、「聖霊は父から」に「子からも」という意味を加える言葉です。東方側は、その内容とともに、教会全体の合意なしに信条を変えることを問題にしました。聖餐で使うパンや聖職者の慣習の違いも、対立の材料になっています。

1054年には、教皇側の使節とコンスタンティノープル総主教側が、相手側の人物などへ破門を宣告しました。これを東西教会分裂の象徴的な年とします。関係の断絶は徐々に深まり、1204年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領・略奪したことも、不信を決定的に強めました。

東方正教会では地域の教会の独立性が保たれ、コンスタンティノープル総主教もその仕組みの中で重要な地位を占めます。地域の教会の独立性を保つ仕組みと、教皇を最高の指導者とする仕組みの違いが、長い対立の背景にあります。

三圃制は休耕地をどう減らしたのか

同じ時期の西欧では、農業生産も拡大していました。開墾、重い土を耕す犂の利用、輪作、家畜利用などが、その条件になりました。馬具の改良は馬の牽引力を生かし、水車は製粉などの作業を支えます。変化の組み合わせや普及の時期は地域ごとに異なりました。

三圃制(さんぽせい)では、畑を秋まき、春まき、休耕の三つに分け、年ごとに用途を入れ替えます。秋まきには小麦やライ麦、春まきには大麦やエンバクなどが用いられました。休耕地は家畜の放牧などにも利用されました。

三圃制の基本的な輪作例
区画 1年目 2年目 3年目
A 秋まき 春まき 休耕
B 春まき 休耕 秋まき
C 休耕 秋まき 春まき

土地の使い方を、同じ面積の90区画があるという仮定で比べます。半分を休ませる二圃制では作付けできるのは45区画、三圃制では60区画です。畑全体に占める作付け面積は、2分の1から3分の2へ増え、面積だけなら約1.33倍になります。

この数字は、収穫量の実測値ではありません。作物、土壌、天候、一つの区画から取れる量が違えば、収穫量も変わります。三圃制の利点は、休耕を続けながら作付けできる割合を増やし、秋と春に作業や収穫の時期を分けられる点です。季節の異なる作物を組み合わせることは、不作の危険を分散する助けにもなりました。

耕作地と家畜の放牧地がある中世西欧の農村を表したイメージ
中世の農村を表した学習用イメージ。三圃制の区画や輪作の順序は上の表で示しています。

ノーフォーク農法との違いは、休耕を残すかどうか

三圃制は、後世のノーフォーク農法と混同しやすい農法です。ノーフォーク農法は、近世から近代のイギリス農業の変化、とくに18世紀の農業革命に結び付けて学ぶ四輪作です。小麦、カブ、大麦、クローバーなどを順に育て、作物を植えない休耕年を省くことを目指しました。

カブやクローバーなどは家畜の飼料になり、家畜の維持と堆肥の供給を支えます。三圃制が「休ませる畑を三分の一にする」のに対し、ノーフォーク農法は「穀物と飼料作物を組み合わせ、畑を毎年利用する」仕組みです。

定期市から都市へ、商人・職人のギルドへ

農村で生産が増えると、余剰の穀物や家畜を売り、塩・布・道具などを買う取引が広がります。決まった時期に人と商品が集まる定期市は、その取引の場でした。イングランドの市場史では、週ごとの市場と、聖人の祭日などに合わせた年市が区別されます。教会への定期的な集まりも、市場が開かれるきっかけになりました。

取引が続く場所には商人や職人が住み、商工業の拠点が成長します。領主にとっても市場は税や通行料を得る場で、開催の権利や商人の保護を認める利益がありました。都市の成長には、農業に加えて交通、遠隔地交易、領主や王の権利認定が関わります。市場を持っていても大都市にならない集落があり、古くからの都市が再び活発になる場合もありました。

都市の商人や手工業者はギルドを作りました。商人ギルドは取引上の特権や相互扶助を支え、同職ギルドは同じ職業の手工業者をまとめます。組合によっては製品の品質や営業を規制し、徒弟から職人、親方へと技術を受け継ぐ仕組みを設けました。一方、組合外の人が営業することを制限するなど、特権を守る面もあります。

都市住民が求めた自治とは、領主との交渉を通じて課税や裁判などに関する権利を確保することでした。「都市の空気は自由にする」という言葉は、都市の権利が農村の身分的な拘束から離れる機会にもなったことを表します。都市へ移住して一定期間、一般には「一年と一日」を経ることが条件とされました。ただし、地域や条件の異なる制度をまとめた表現で、すべての都市が誰にでも同じ自由を与えたわけではありません。

教会は信仰の権威を持ち、土地の所有や人々が集まる場の提供を通じて、経済活動にも関わりました。西欧では、複数の権利を持つ主体が宗教と経済の両面で関わり合っていました。

中国|文官が学問と政策を通じて国を支える

文治政治が士大夫の議論を広げた

960年に趙匡胤が建てた宋は、五代十国期に繰り返された武人の政変を踏まえ、文官を重く用いました。儒学などの知識を問う科挙は、官僚になるための主要な道になります。学問を修めた士大夫が政治を担う文治政治は、軍事指導者への権力集中を抑える狙いも持っていました。

以前から行われていた科挙は、宋代に重要性を増しました。答案の名前を番号に置き換え、筆跡で受験者が分からないよう書き写す仕組みも、公平な選抜を目指す工夫でした。士大夫の権威は学問と官職から生まれ、皇帝に仕えるとともに、政策を誤りと考えれば意見を述べる責任を持ちました。

訓詁学、宋学、朱子学は何が違うのか

訓詁学(くんこがく)は、古典の文字や語句を正確に解釈する学問です。漢・唐の経学で発達し、古い言葉や制度を理解する基礎になりました。宋代の儒学者も古典を読み、その解釈を続けています。そのうえで、人間はなぜ善い行動をできるのか、社会や宇宙にどのような原理があるのかを深く考えました。

この新しい儒学の潮流を、広く宋学と呼びます。北宋の周敦頤、張載、程顥・程頤の兄弟らが、宇宙、人間の本性、道徳を論じました。仏教や道教の豊かな思想も背景にあり、儒学の側から人間と世界の仕組みを説明しようとしたのです。

その流れを体系化した朱熹は1130〜1200年の人物で、南宋に生きました。北宋で展開した思想が、南宋の朱熹による体系化を経て、朱子学へつながりました。

朱子学では、物事の秩序や筋道を「理」、具体的な物や人を形づくる要素を「気」として考えます。人間の本性を善と捉えながら、気質や生活環境などによって行動に違いが生じることも説明しました。格物致知は物事の道理を究め、知を深めることです。古典を読むことと日常の行動を振り返ることを通じ、道徳的な判断と実践を育てようとしました。

北宋の儒学者は、政策をめぐって立場を異にしました。北宋の程顥は新法を批判し、王安石もまた儒学を背景に改革を主張しました。同じく国と民を支えようとしても、その方法をめぐって対立したことが、学問と政治の関係をよく示しています。

神宗と王安石が直面した財政の問題

北宋の北には遼、西北には西夏があり、国家は防衛のために大きな軍隊を維持していました。外交上の支払いもありましたが、特に重い支出は軍隊そのものの維持費でした。

1067年に即位した神宗のもとで、王安石は1069年から新法を進めました。農民や商人が生産と取引を続けられる条件を整え、国家の収入を増やし、軍事力も支える改革です。資金の貸付け、労役の負担、政府の物資調達、村落の組織など、対象は広範囲に及びました。

新法の代表的な政策と、見直した仕組み
政策 主な内容・狙い
青苗法 収穫前に農民へ資金などを貸し、収穫後に利息とともに返済させる。民間の高利貸しへの依存を減らす狙い。
市易法 商人への融資や商品の買い上げなどに政府が関わり、流通と取引を支える。
募役法(免役法) 人々を順番に役へ動員する方式から、免役銭などを集めて人を雇う方式へ改める。
均輸法 産地や価格、必要量に合わせ、政府が使う物資の調達と輸送を合理化する。
保甲法 民戸を組織して治安維持を担わせ、軍事訓練にも活用する。
保馬法 民間で軍馬を飼育させ、馬の確保と飼育経費の節減を図る。

これらは1069年から数年にわたって導入されました。共通するのは、政府が農村や市場の仕組みに関わり、負担の配分と財源を変えようとしたことです。

皇帝と文官が政策を議論する北宋の政治を表したイメージ
新法をめぐる政策議論の学習用イメージ。描かれた人物は神宗や王安石の実際の容貌を再現したものではありません。

青苗法はなぜ農民の支援にも負担にもなったのか

農民には、前の収穫の蓄えが減り、次の収穫まで食料や資金が不足する時期があります。王安石の提案文書は、政府の穀物・資金を活用して希望する農民へ貸し付け、納税の時期に返済させる方針を示しています。災害時には返済を延ばす提案もありました。

政府から必要な分を借りられれば、農民は不利な条件で民間から借りることを避けやすくなります。一方、青苗法には利息があり、政府にとって収入源でもありました。「低利」は当時の民間の高利貸付けとの比較を含む説明で、農民にとって無条件に軽い負担だったとはいえません。

地方官が貸付額や回収を優先して、借りたくない農民にも借金を負わせれば、救済の仕組みが新たな負担になります。程顥の反対文書は、実施を担う役人による混乱と、貸付けの利息を問題にしました。制度の目的だけでなく、現地で何が起きるかが争点だったのです。

募役法でも、役に出る時間が減る人がいる一方、今まで役を免除されていた人にも金銭負担が及びました。人を雇う財源を広く集めることは負担の偏りを改める狙いがありますが、現金を用意する側には別の困難が生じます。

新法を支持する新法党と、司馬光らの旧法党は激しく対立しました。司馬光は『資治通鑑』の編者としても知られます。反対には既存の利益を守る動きに加え、国家が民間の利益に関わることへの批判や、急な変更・徴収が生活へ及ぼす影響への懸念もありました。儒学者のあいだでも、良い政治を実現する方法は一致していません。

新法には財政収入に寄与した政策があり、神宗の死後には廃止・変更、その後の復活もありました。政策ごとに経過が違い、募役法の仕組みは後の南宋にも受け継がれます。新法全体を一言で成功・失敗と決めるより、財政、農民の生活、軍事、運用のどれを評価しているかによって見方が変わります。

同じ時代を、権利と負担の動きで比べる

各地の変化を同じ問いで比較
比較する対象 何を見直したか 誰が関わったか
日本の荘園整理 免税を認める根拠と、荘園・公領の範囲 天皇、記録所、荘園領主、国司、現地の管理者
東西教会の対立 教会全体への権限と、信条・典礼の扱い 教皇、総主教、各地の教会、政治権力
西欧の農業・都市 畑の利用、取引の場、営業や自治の権利 農民、領主、商人、職人、教会、王
宋の学問・新法 政治の道徳的な根拠と、経済・軍事を支える負担 皇帝、士大夫、地方官、農民、商人

日本と宋の改革は、国家の関わり方が違う

日本の記録所と宋の新法は、どちらも中央の政府が既存の権利や負担に関わる動きです。ただし、後三条天皇が主に審査したのは、荘園として認める土地と権利でした。王安石は、貸付けや物資調達、役の雇用まで政府の仕事を広げました。

荘園整理を通過した貴族や寺社の権利は存続し、現地の管理者との重なりも残ります。宋では皇帝のもとで文官が政策を実施する官僚制が、その広い関与を支えました。日本を「中央権力が弱くなる」、宋を「強くなる」とだけ分けると、後三条天皇が中央の審査を強めた意味を見落とします。中央が何を決め、実務を誰が担ったかを見ると、両者の違いがはっきりします。

文書は、土地でも信仰でも政治でも権威の根拠になった

日本の券契は土地の権利を証明し、西欧の信条は信仰の内容と教会の合意を示しました。宋の士大夫は古典を政治判断の根拠として読みます。同じ「文書を読む」という行為でも、土地の範囲を確認するのか、教会全体で共有する言葉を守るのか、国を運営する原理を探るのかという違いがあります。

文書の有効性や、解釈する権限の所在も争点となりました。記録所による照合、東西教会の信条をめぐる対立、儒学者同士の政策論争は、その異なる例です。

制度の利点は、負担を引き受ける人まで見ると分かる

三圃制は畑を使う割合を増やし、青苗法は収穫前の資金を供給することを目指しました。どちらも農業を支える仕組みですが、前者は土地の利用方法、後者は資金と返済の制度です。生産が増える条件を整えることと、その利益や負担を配分することは、区別して考えられます。

ギルドも、技術の継承や相互扶助を支える一方、組合の外の人には営業の壁になりました。荘園の免税は領主の収入を守りますが、国司側では徴税できる範囲が狭まります。制度が誰に何を可能にし、別の誰にどんな負担を求めるかまで見ると、改革が歓迎される理由と反対される理由を同時に説明できます。

まとめ

11世紀後半の日本・西欧・中国は、土地、教会、学問を通じて、権利と社会を支える仕組みが変わった時代です。延久の荘園整理令は文書審査を、東西教会の対立は権威と合意の問題を、三圃制は土地利用の工夫を、王安石の新法は国家による経済運営の狙いと難しさを示しています。

同じ時期でも、変化した理由と実施する主体は異なります。年号や名称に「何を変えたか」「誰の権利・負担が動いたか」を添えると、日本史と世界史を、違いを保ったまま結び付けて理解できます。

参考資料

確認日:2026年10月10日。制度の説明は、公開史料・研究論文・専門機関の資料と、歴史辞典の項目を照合しました。