問題1(モンゴルの拡大):モンゴル帝国2代皇帝オゴタイ=ハンの時代、ヨーロッパ遠征を指揮したチンギス=ハンの孫は誰ですか。彼が率いる西方遠征軍の一部は、1241年のワールシュタット(リーグニッツ)の戦いでポーランド諸侯らの軍を破りました。彼が南ロシアを中心に築いたジョチ家の政権(①)の名も答えてください。
問題2(鎌倉幕府の法成文化):3代執権北条泰時が1232年に制定した、武家社会の慣習や「道理」を基準としたわが国初の武家法典を何といいますか。
問題3(聖地をめぐる外交):1228~1229年の遠征(一般に第6回十字軍。一部の教材では第5回と数える)において、アイユーブ朝との外交交渉によって、戦わずしてイェルサレムの一時的回復に成功した神聖ローマ皇帝は誰ですか。
三つの問題は、いずれも13世紀前半の出来事を扱っています。地域は東ヨーロッパ、日本、地中海東部と大きく離れていますが、共通しているのは、広がった支配をどのように維持するかという課題です。
モンゴル帝国は騎馬軍団によって支配圏を広げ、鎌倉幕府は武士の裁判基準を文章にまとめました。一方、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、イスラーム側の君主との交渉によって、イェルサレムへの支配を回復しようとしました。
答えは、問題1がバトゥとキプチャク・ハン国、問題2が御成敗式目、問題3がフリードリヒ2世です。
西方遠征では、バトゥが全体を率い、複数の皇族や将軍が各方面の部隊を指揮しました。戦いの場所と各部隊の役割も確認していきましょう。
三つの問題の答えを最初に確認
| 問題 | 答え | 押さえるべき出来事 |
|---|---|---|
| 問題1 | バトゥ/キプチャク・ハン国 | モンゴル軍がロシアから東ヨーロッパへ進出した |
| 問題2 | 御成敗式目(貞永式目) | 武家社会に適した裁判・統治の基準が文章化された |
| 問題3 | フリードリヒ2世 | アイユーブ朝との交渉でイェルサレムを一時的に回復した |
この三問を暗記するときは、「バトゥ=征服」「北条泰時=法」「フリードリヒ2世=外交」と分けるだけでも整理しやすくなります。
さらに、三人が直面した問題に注目すると、答えを忘れにくくなります。バトゥには広大な遠征軍を動かす課題があり、北条泰時には増加する武士の訴訟を公平に処理する必要がありました。フリードリヒ2世には、十分な軍事行動を行いにくい状況で十字軍の成果を示す必要があったのです。
問題1の答えはバトゥとキプチャク・ハン国
バトゥはチンギス=ハンの長男ジョチの子
ヨーロッパ方面への西方遠征を率いた人物として問われるのは、バトゥです。バトゥはチンギス=ハンの孫であり、チンギスの長男ジョチの子に当たります。
チンギス=ハンの死後、モンゴル帝国の大ハンには三男オゴタイが選ばれました。オゴタイの時代には、金への攻撃、西アジアへの進出、西方への大遠征が進められ、モンゴル帝国の領域はさらに拡大します。
西方遠征には、オゴタイの子やチャガタイ家の王族を含む複数の皇族が参加し、経験豊富な将軍スブタイも作戦を支えました。
西方遠征はロシア諸都市から東ヨーロッパへ進んだ
モンゴル軍は1230年代後半、ヴォルガ川流域やルーシ諸公国への攻撃を本格化させました。リャザンやウラジーミルなどが攻略され、1240年にはキエフが陥落します。
当時のルーシは、複数の公国に分かれていました。モンゴル軍は各地の抵抗を個別に破り、さらにポーランドとハンガリーの方向へ軍を進めました。
この遠征では、複数の部隊が別々の道を進みながら連動しました。ポーランド方面への攻撃には、ハンガリーへ向かう主力軍を北側から援護し、周辺勢力の合流を妨げる意味もあったと考えられています。
ワールシュタットの戦いでは誰が指揮したのか
1241年4月、モンゴル軍は現在のポーランド南西部にあるレグニツァ付近で、シロンスク公ヘンリク2世が率いる軍を破りました。日本では一般にワールシュタットの戦い、またはリーグニッツの戦いと呼ばれます。
「ワールシュタット」はドイツ語で「戦場」を意味する語に由来する呼び方です。現地名に近い表記では、レグニツァの戦いとなります。
西方遠征全体ではバトゥが指導者でした。レグニツァ方面へ進んだ部隊の指揮官には、チンギス=ハンの孫バイダル、オゴタイの子カダン、ジョチ家のオルダらの名が挙げられます。指揮系統の説明には史料による違いがあります。
バトゥとスブタイが率いる主力は、ハンガリー方面へ進みました。設問では「西方遠征を率いたバトゥ」と「レグニツァで勝利した遠征軍の一部」を結びつけて確認しましょう。
同時期に主力軍はハンガリーを攻撃した
レグニツァの戦いの直後、モンゴル軍の主力はハンガリー軍と衝突しました。1241年4月のモヒの戦いでは、ハンガリー王ベーラ4世の軍が大敗しています。
ポーランド方面とハンガリー方面の戦いを別々の侵略と見るよりも、連動した西方遠征として捉えることが重要です。北側の部隊がポーランドやシロンスクの軍を押さえ、その間に主力がハンガリーへ進むという広域的な作戦でした。
モンゴル軍は、騎射に加えて偵察、情報収集、部隊間の連絡、退却を装って敵陣を崩す戦術などを組み合わせていました。
オゴタイの死と遠征の停止
1241年12月、モンゴル帝国の大ハンであるオゴタイが死去しました。翌年、モンゴル軍はハンガリー方面から撤退します。
撤退の理由には、後継者をめぐる政治、遠征軍内部の事情、補給、占領地の環境、戦略など、複数の説が挙げられます。環境要因を重視する研究にも反論があり、各要因の重みは未確定です。
レグニツァとモヒでは勝利を収めたモンゴル軍が、1242年にハンガリー方面から撤退したという経過を押さえましょう。
バトゥが築いたキプチャク・ハン国
西方遠征後、バトゥはヴォルガ川下流域を中心に勢力を固めました。このジョチ家の政権は、日本の世界史では一般にキプチャク・ハン国と呼ばれます。
英語では「Golden Horde」、日本語では「金帳汗国」とも呼ばれます。これらは後世の歴史叙述で使われる名称です。ジョチ家に割り当てられた領域を基礎に、バトゥの征服と支配拠点の整備を通じて、段階的に政権が形成されました。
キプチャク・ハン国は、黒海北岸、南ロシア、ヴォルガ川流域を中心に支配しました。ルーシ諸公国では、現地の諸侯に統治を続けさせ、貢納や服属を求める形も取られました。公たちはハンの承認を受けながら領内を支配し、貢納の徴収などを担います。
ロシアとユーラシアに与えた影響
キプチャク・ハン国の成立によって、ルーシ諸公国は長期間にわたりジョチ家政権の影響下に置かれました。その一方で、ユーラシア各地を結ぶ交通や交易の経路も広がります。
モンゴル帝国は広い地域を一つの政治秩序に組み込み、人、物資、情報、技術が大陸を移動する交通網を発展させました。征服時には都市の破壊や大きな人的被害も生じています。軍事征服の被害と、その後の広域的な交流を、それぞれの経過に沿って捉えることが必要です。
問題2の答えは御成敗式目
北条泰時が1232年に制定した武家法
問題2の答えは、御成敗式目です。制定年の元号から貞永式目とも呼ばれます。
御成敗式目は1232年、鎌倉幕府の第3代執権北条泰時のもとで制定されました。全51か条からなり、幕府が裁判や政治を行う際の基本的な基準となりました。
泰時を中心に、連署の北条時房や評定衆らが関与し、幕府の合議的な政治の中でまとめられた法典です。詳しい編纂過程は明らかになっていません。
なぜ新しい法典が必要だったのか
鎌倉幕府の成立後、御家人をはじめとする武士の間では、土地の境界、所領の相続、地頭の権限などをめぐる争いが増えていきました。
朝廷には律令や公家社会の法がありましたが、それだけでは武家社会で実際に起きている紛争を処理しにくい場合がありました。武士の土地支配や主従関係には、長年の慣習に基づく独自の事情があったからです。
承久の乱後、鎌倉幕府の影響力は西国にも広がりました。幕府が扱う土地紛争や訴訟が増えたことも、共通の裁判基準を整える必要性を高めました。

「道理」と先例を重視した法典
御成敗式目は、幕府の支配下にある武士の裁判を中心に、武家社会の慣習、幕府の先例、当時「道理」と考えられた判断を整理したものです。
道理は、当時の武家社会で妥当と考えられた秩序や判断を指します。
北条泰時は制定の趣旨を説明した書状の中で、京都の法律に詳しくない武士でも理解しやすく、公平に裁判を行うための基準を示そうとした趣旨を述べています。
裁判担当者が共通の基準に沿って判断できるようにしたことが、御成敗式目の重要な役割でした。
御成敗式目が扱った内容
御成敗式目には、神社や寺院の保護、守護と地頭の職務、所領の相続、土地争い、犯罪、裁判手続などが定められました。
とくに武家社会では、所領が生活と軍役の基盤でした。誰が土地を相続するのか、長期間支配していた土地をどのように扱うのかという問題は、幕府の安定にも直結します。
女性の所領相続も認められていました。相続のあり方は家や身分、時期によって異なり、その後の武家社会では家督や所領を一人に集中させる傾向が強まります。
公家法・寺社の法と並存した武家法
中世の日本では、公家社会、寺社、荘園、武家社会などが、それぞれの慣習や法を持っていました。御成敗式目は、まず幕府と御家人の世界で用いられる法で、律令法や公家法も並存します。
鎌倉幕府の支配力が広がるにつれて、御成敗式目の考え方はより広い範囲に影響を及ぼしました。室町幕府や戦国大名の法にも、武家法の基礎として受け継がれていきます。
日本では、御成敗式目以前から律令などの成文法がありました。設問の「わが国初の武家法典」は、鎌倉幕府が武家の裁判基準をまとめた、本格的な法典という意味で押さえましょう。
基本の51か条に加えて、追加法が作られた
幕府は制定後も、新しい問題や個別の事情に応じて法令を出しました。
これらは追加法と呼ばれ、御成敗式目を基本としながら、時代の変化や個別の問題に対応しました。御成敗式目を基本に、追加法を積み重ねて武家政治の法体系が整えられたのです。
裁判の判断基準を文章で共有する
裁判を担当する者によって判断が大きく変わることを防ぐため、一定の基準を文章で共有する。この点は、御成敗式目を現在の読者が理解する際にも手がかりになります。
御成敗式目は、身分や支配関係が異なる中世社会で、幕府の裁判実務を安定させるために作られました。具体的な条文を読む際には、当時の土地支配や主従関係も併せて確かめましょう。
問題3の答えはフリードリヒ2世
神聖ローマ皇帝でシチリア王でもあった
問題3の答えは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です。彼はシチリア王でもあり、地中海世界と深い関係を持つ君主でした。
18世紀のプロイセン王フリードリヒ大王も、フリードリヒ2世という名を持ちます。設問では「13世紀の神聖ローマ皇帝」という時代と王位を手がかりにしましょう。
フリードリヒ2世は、イスラーム世界の文化や学問と接点を持っていました。外交を選んだ背景には、教皇との対立や、遠征を支える軍事力の制約もありました。
十字軍への出発が遅れ、教皇から破門された
フリードリヒ2世は十字軍への参加を約束していましたが、出発は何度も延期されました。1227年に遠征を開始した際には病気のため引き返し、教皇グレゴリウス9世から破門されます。
翌1228年、フリードリヒ2世は破門が解かれないまま再び出航しました。教皇との対立を抱えた遠征となり、現地の聖職者や十字軍勢力との協力にも制約がありました。
軍事力にも制約がある中で、フリードリヒ2世はアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルとの交渉を進めました。

アル=カーミルにも交渉を選ぶ事情があった
交渉相手のアル=カーミルにも、和平を選ぶ政治的な事情がありました。
当時のアイユーブ家では、支配者一族の間に対立がありました。アル=カーミルはシリア方面の親族との関係にも対応しなければならず、十字軍との長期戦を避けたい事情がありました。
一方のフリードリヒ2世には、軍事力の制約と、教皇との対立への対応が必要でした。双方が別の政治課題を抱えていたことが、妥協の余地を生みます。交渉は、両陣営を行き来する使節を介して進められました。
1229年のヤッファ条約
1229年2月18日、フリードリヒ2世とアル=カーミルの間で協定が成立しました。一般にヤッファ条約、またはヤッファ・テル=アジュール条約と呼ばれます。
この協定によって、イェルサレム、ベツレヘム、ナザレなどがキリスト教側の支配に戻されました。沿岸部からイェルサレムへ通じる道も確保され、約10年間の休戦が取り決められます。
フリードリヒ2世は大規模な戦闘を行わず、十字軍の最大目標だったイェルサレムへの支配を一時的に回復しました。そのため、この遠征は「外交によって成果を得た十字軍」として知られています。
神殿の丘はイスラーム側の管理が続いた
岩のドームやアル=アクサー・モスクがある神殿の丘は、イスラーム側の管理下に残りました。イスラーム教徒の礼拝も認められています。
城壁の再建や都市の防備については、皇帝と現地の聖職者が残した記録に違いがあります。1229年の協定は、聖地の支配と礼拝、休戦の条件を調整した合意として捉えることができます。
両側の宗教界や現地勢力に反発があった
キリスト教側では、破門中の皇帝が教皇と対立しながら交渉を進めたことや、聖地の一部がイスラーム側の管理に残ったことへの反発がありました。フリードリヒ2世と現地の聖職者・騎士修道会との関係にも緊張が続きます。
イスラーム側でも、1187年にサラディンが奪還したイェルサレムをキリスト教側へ引き渡したことに反発が起こりました。合意した君主と、現地の宗教界や住民との間には、協定の評価に隔たりがありました。
聖墳墓教会で自ら王冠を載せた
1229年3月、フリードリヒ2世はイェルサレムの聖墳墓教会で、自ら王冠を頭に載せました。破門中の皇帝による行為として、現地の聖職者から批判を受けました。
フリードリヒ2世は、エルサレム女王イザベル2世との結婚を通じて王国への支配権を主張しました。1228年の女王の死後、王位は息子コンラートへ移り、皇帝はその摂政としての権利を主張しています。
軍事的制約を外交で補った成果は、皇帝と教皇の対立、王国の支配権をめぐる争いと結びついていました。
第5回か第6回か
この遠征は、現在の一般的な区分では第6回十字軍と呼ばれます。期間はおおむね1228年から1229年です。
一方、日本の教材や十字軍の数え方によっては、第5回十字軍に含めたり、「第5回、別の数え方では第6回」としたりする場合があります。遠征をどこで区切るかが資料によって異なるためです。
試験では、問題文に示された回数よりも、「外交交渉」「戦わずにイェルサレムを回復」「神聖ローマ皇帝」という三つの手がかりから、フリードリヒ2世を選ぶのが確実です。

イェルサレムの回復は一時的だった
ヤッファ条約では約10年間の休戦が定められました。その後も、十字軍国家と周辺のイスラーム諸勢力との交渉や衝突が続きます。
1244年、イェルサレムは再びキリスト教側の支配から失われました。1229年の回復は、限られた範囲と期限のもとで成立した外交的合意でした。協定の内容と、その後の政治・軍事状況を併せて見ると、一時的な成果の意味を捉えられます。
三つの出来事を比較すると13世紀の特徴が見える
| 人物・制度 | 直面した課題 | 選んだ手段 | 結果 | 限界・注意点 |
|---|---|---|---|---|
| バトゥ | ユーラシア西部への勢力拡大 | 複数軍団を連動させた軍事遠征 | 南ロシアを中心とするジョチ家政権の形成 | 各方面を皇族・将軍が指揮し、指揮系統には史料差がある |
| 北条泰時・御成敗式目 | 武士の土地紛争や裁判の増加 | 慣習・先例・道理の文章化 | 幕府裁判の基本基準が整えられた | 幕府の裁判が中心で、公家法・寺社の法も並存した |
| フリードリヒ2世 | 軍事力が限られる中での聖地回復 | アル=カーミルとの外交交渉 | イェルサレムを一時的に回復 | 部分的・期限付きの合意で、双方に反発があった |
バトゥの遠征を支えたのは、皇族・将軍・各部隊の連携でした。御成敗式目は、北条泰時を中心に時房や評定衆が関与してまとめられ、フリードリヒ2世の外交は、アル=カーミル側の政治事情とも結びついていました。
人物名と手段を覚えた後、その人物を取り巻く組織、対立、制約を確認すると、結果が生まれた理由を説明しやすくなります。
覚え方は「征服・法・外交」の三語
三つの問題を解く際は、最初に出来事の性格を見分けます。
- モンゴルの西方征服:バトゥ、キプチャク・ハン国
- 鎌倉幕府の武家法:北条泰時、御成敗式目
- 聖地をめぐる外交:フリードリヒ2世、アル=カーミル、ヤッファ条約
年代の並びにも注目してください。御成敗式目の制定は1232年、モンゴル軍のワールシュタットの戦いは1241年です。フリードリヒ2世とアル=カーミルの協定は1229年なので、三つとも十数年ほどの範囲に収まります。
13世紀前半のユーラシアでは、モンゴル帝国が急速に拡大する一方、日本では武家政権の法が整備され、地中海東部ではキリスト教君主とイスラーム君主の外交が行われていました。
地域史を別々に暗記するだけでなく、同じ時代に何が起きていたかを横に並べると、世界史と日本史の時間的なつながりをつかめます。
まとめ
問題1の答えはバトゥとキプチャク・ハン国、問題2は御成敗式目、問題3は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です。
バトゥはチンギス=ハンの孫で、西方遠征全体を率いました。ワールシュタットではポーランド方面の部隊が勝利し、バトゥとスブタイの主力はハンガリー方面で戦いました。
御成敗式目は、北条泰時を中心に1232年に制定された全51か条の武家法典です。武家社会の慣習、先例、道理に基づいて幕府の裁判基準を整え、公家法や寺社の法と並存しました。
フリードリヒ2世は、1229年にアイユーブ朝のアル=カーミルと協定を結び、戦闘によらずイェルサレムを一時的に回復しました。しかし、聖地の一部はイスラーム側の管理下に残り、協定には期限がありました。
復習するときは、まず「征服・法・外交」の三つに分類し、次に人物名と制度名を結び付けます。最後に「遠征全体と各部隊」「武家法と他の法」「協定の対象と期限」を確かめると、各出来事の仕組みまで説明できるようになります。

