戦う、定める、交渉する|13世紀の支配を変えた三つの決断

大学受験歴史

問題1(モンゴルの拡大):モンゴル帝国2代皇帝オゴタイ=ハンの時代、ヨーロッパ遠征を指揮したチンギス=ハンの孫は誰ですか。彼は1241年のワールシュタット(リーグニッツ)の戦いでポーランド・ドイツの連合軍を破り、のちに南ロシアに(⑤)を建国しました。

問題2(鎌倉幕府の法成文化):3代執権北条泰時が1232年に制定した、武家社会の慣習や「道理」を基準としたわが国初の武家法典を何といいますか。

問題3(聖地をめぐる外交):第5回(または第6回)十字軍において、アイユーブ朝との外交交渉によって、戦わずしてイェルサレムの一時的回復に成功した神聖ローマ皇帝は誰ですか。

三つの問題は、いずれも13世紀前半の出来事を扱っています。地域は東ヨーロッパ、日本、地中海東部と大きく離れていますが、共通しているのは、広がった支配をどのように維持するかという課題です。

モンゴル帝国は騎馬軍団によって支配圏を広げ、鎌倉幕府は武士の裁判基準を文章にまとめました。一方、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、聖地を軍事力だけで奪うのではなく、イスラーム側の君主との交渉によって獲得しようとしました。

答えは、問題1がバトゥとキプチャク・ハン国、問題2が御成敗式目、問題3がフリードリヒ2世です。

ただし、問題1の「バトゥがワールシュタットの戦いで連合軍を破った」という表現には、歴史を正確に理解するための注意点があります。バトゥは西方遠征全体の最高指導者でしたが、ワールシュタットの戦場で部隊を直接指揮した人物については、バイダルやカダンらの名が挙げられます。

  1. 三つの問題の答えを最初に確認
  2. 問題1の答えはバトゥとキプチャク・ハン国
    1. バトゥはチンギス=ハンの長男ジョチの子
    2. 西方遠征はロシア諸都市から東ヨーロッパへ進んだ
    3. ワールシュタットの戦いでは誰が指揮したのか
    4. 同時期に主力軍はハンガリーを攻撃した
    5. オゴタイの死と遠征の停止
    6. バトゥが築いたキプチャク・ハン国
    7. ロシアとユーラシアに与えた影響
  3. 問題2の答えは御成敗式目
    1. 北条泰時が1232年に制定した武家法
    2. なぜ新しい法典が必要だったのか
    3. 「道理」と先例を重視した法典
    4. 御成敗式目が扱った内容
    5. 律令を廃止した法律ではない
    6. 「日本最初の法律」ではない
    7. 51か条で終わらず追加法が作られた
    8. 現代の法との共通点と違い
  4. 問題3の答えはフリードリヒ2世
    1. 神聖ローマ皇帝でシチリア王でもあった
    2. 十字軍への出発が遅れ、教皇から破門された
    3. アル=カーミルにも交渉を選ぶ事情があった
    4. 1229年のヤッファ条約
    5. イェルサレム全体を自由に支配したわけではない
    6. 戦わなかったから全員に歓迎されたわけではない
    7. 戴冠式ではなく自ら王冠を載せた
    8. 第5回か第6回か
    9. イェルサレムの回復は一時的だった
  5. 三つの出来事を比較すると13世紀の特徴が見える
  6. 誤解しやすい点をまとめて確認
    1. バトゥ本人がワールシュタットで直接指揮したのか
    2. キプチャク・ハン国は1241年に建国されたのか
    3. 御成敗式目は日本最初の成文法か
    4. 御成敗式目は北条泰時だけで作ったのか
    5. フリードリヒ2世は平和主義者だったのか
    6. イェルサレムは完全にキリスト教側へ渡されたのか
  7. 覚え方は「征服・法・外交」の三語
  8. まとめ
  9. 参考資料

三つの問題の答えを最初に確認

問題答え押さえるべき出来事
問題1バトゥ/キプチャク・ハン国モンゴル軍がロシアから東ヨーロッパへ進出した
問題2御成敗式目(貞永式目)武家社会に適した裁判・統治の基準が文章化された
問題3フリードリヒ2世アイユーブ朝との交渉でイェルサレムを一時的に回復した

この三問を暗記するときは、「バトゥ=征服」「北条泰時=法」「フリードリヒ2世=外交」と分けるだけでも整理しやすくなります。

さらに、三人が直面した問題に注目すると、答えを忘れにくくなります。バトゥには広大な遠征軍を動かす課題があり、北条泰時には増加する武士の訴訟を公平に処理する必要がありました。フリードリヒ2世には、十分な軍事行動を行いにくい状況で十字軍の成果を示す必要があったのです。

問題1の答えはバトゥとキプチャク・ハン国

バトゥはチンギス=ハンの長男ジョチの子

ヨーロッパ方面への西方遠征を率いた人物として問われるのは、バトゥです。バトゥはチンギス=ハンの孫であり、チンギスの長男ジョチの子に当たります。

チンギス=ハンの死後、モンゴル帝国の大ハンには三男オゴタイが選ばれました。オゴタイの時代には、金への攻撃、西アジアへの進出、西方への大遠征が進められ、モンゴル帝国の領域はさらに拡大します。

西方遠征はバトゥ一人だけで行った戦争ではありません。オゴタイの子やチャガタイ家の王族を含む複数の皇族が参加し、経験豊富な将軍スブタイも作戦を支えました。

西方遠征はロシア諸都市から東ヨーロッパへ進んだ

モンゴル軍は1230年代後半、ヴォルガ川流域やルーシ諸公国への攻撃を本格化させました。リャザンやウラジーミルなどが攻略され、1240年にはキエフが陥落します。

当時のルーシは、一人の君主が強力に統一した国家ではなく、複数の公国に分かれていました。モンゴル軍は各地の抵抗を個別に破り、さらにポーランドとハンガリーの方向へ軍を進めました。

この遠征では、複数の部隊が別々の道を進みながら連動しました。ポーランド方面への攻撃には、ハンガリーへ向かう主力軍を北側から援護し、周辺勢力の合流を妨げる意味もあったと考えられています。

ワールシュタットの戦いでは誰が指揮したのか

1241年4月、モンゴル軍は現在のポーランド南西部にあるレグニツァ付近で、シロンスク公ヘンリク2世が率いる軍を破りました。日本では一般にワールシュタットの戦い、またはリーグニッツの戦いと呼ばれます。

「ワールシュタット」はドイツ語で「戦場」を意味する語に由来する呼び方です。現地名に近い表記では、レグニツァの戦いとなります。

注意点として、バトゥがこの戦場でポーランド方面軍を直接指揮した、と単純に理解するのは正確ではありません。

西方遠征全体ではバトゥが最高指導者でしたが、レグニツァ方面へ進んだ部隊については、チンギス=ハンの孫バイダル、オゴタイの子カダン、ジョチ家のオルダらが指揮官として挙げられます。資料によって指揮系統の説明には差がありますが、少なくともバトゥ自身がレグニツァの戦場で直接指揮したと断定するのは慎重であるべきです。

学校の問題では、西方遠征の総指揮者と、その遠征中に起きた代表的戦闘を一続きにして尋ねることがあります。そのため解答はバトゥでよいものの、歴史の理解としては「バトゥの西方遠征軍の一部が勝利した」と整理すると誤解を避けられます。

同時期に主力軍はハンガリーを攻撃した

レグニツァの戦いの直後、モンゴル軍の主力はハンガリー軍と衝突しました。1241年4月のモヒの戦いでは、ハンガリー王ベーラ4世の軍が大敗しています。

ポーランド方面とハンガリー方面の戦いを別々の侵略と見るよりも、連動した西方遠征として捉えることが重要です。北側の部隊がポーランドやシロンスクの軍を押さえ、その間に主力がハンガリーへ進むという広域的な作戦でした。

モンゴル軍の強さは騎射の技術だけによるものではありません。偵察、情報収集、部隊間の連絡、退却を装って敵陣を崩す戦術などを組み合わせていました。

オゴタイの死と遠征の停止

1241年12月、モンゴル帝国の大ハンであるオゴタイが死去しました。翌年、モンゴル軍はハンガリー方面から撤退します。

かつては、新しい大ハンを選ぶ会議に参加するため、オゴタイの死だけを理由として急に撤退したと説明されることが多くありました。しかし、実際には後継者選びだけでなく、遠征軍内部の事情、補給、占領地の環境、今後の戦略など、複数の要因を考える必要があります。

少なくとも、モンゴル軍がレグニツァで敗れて撤退したわけではありません。戦闘では優位に立ちながら、東ヨーロッパでの大規模な遠征を終えたという点が大切です。

バトゥが築いたキプチャク・ハン国

西方遠征後、バトゥはヴォルガ川下流域を中心に勢力を固めました。このジョチ家の政権は、日本の世界史では一般にキプチャク・ハン国と呼ばれます。

英語では「Golden Horde」、日本語では「金帳汗国」と呼ばれることもあります。ただし、この名称がバトゥの時代から国家の正式名称として一貫して用いられていた、と考えるのは適切ではありません。

キプチャク・ハン国は、黒海北岸、南ロシア、ヴォルガ川流域を中心に支配しました。ルーシ諸公国をすべてモンゴル人が直接統治したわけではなく、現地の諸侯に統治を続けさせ、貢納や服属を求める形も取られました。

そのため、キプチャク・ハン国の支配は、単純な「モンゴル人によるロシア全土の直接統治」ではありません。現地の公たちはハンの承認を受けながら支配し、貢納の徴収などを担いました。

ロシアとユーラシアに与えた影響

キプチャク・ハン国の成立によって、ルーシ諸公国は長期間にわたりジョチ家政権の影響下に置かれました。その一方で、ユーラシア各地を結ぶ交通や交易の経路も広がります。

モンゴル帝国は広い地域を一つの政治秩序に組み込んだため、人、物資、情報、技術が大陸を移動しやすくなる面がありました。ただし、交流の拡大だけを強調し、征服時の破壊や人的被害を軽視してはいけません。

歴史上の影響を考えるときは、「破壊か交流か」のどちらか一方ではなく、軍事征服による被害と、広域的な交通網の形成が併存したと捉える必要があります。

問題2の答えは御成敗式目

北条泰時が1232年に制定した武家法

問題2の答えは、御成敗式目です。制定年の元号から貞永式目とも呼ばれます。

御成敗式目は1232年、鎌倉幕府の第3代執権北条泰時のもとで制定されました。全51か条からなり、幕府が裁判や政治を行う際の基本的な基準となりました。

北条泰時一人が机に向かってすべてを書いた、と考えるのは適切ではありません。泰時を中心に、連署の北条時房や評定衆らが関与し、幕府の合議的な政治の中でまとめられた法典です。

なぜ新しい法典が必要だったのか

鎌倉幕府の成立後、御家人をはじめとする武士の間では、土地の境界、所領の相続、地頭の権限などをめぐる争いが増えていきました。

朝廷には律令や公家社会の法がありましたが、それだけでは武家社会で実際に起きている紛争を処理しにくい場合がありました。武士の土地支配や主従関係には、長年の慣習に基づく独自の事情があったからです。

承久の乱後、鎌倉幕府の影響力は西国にも広がりました。幕府が扱う土地紛争や訴訟が増えたことも、共通の裁判基準を整える必要性を高めました。

「道理」と先例を重視した法典

御成敗式目は、律令を全面的に廃止して新しい国家法を作ったものではありません。幕府の支配下にある武士の裁判を中心に、武家社会の慣習、幕府の先例、当時「道理」と考えられた判断を整理したものです。

ここでいう道理は、現代人が考える普遍的な正義と完全に同じではありません。当時の武家社会で妥当と考えられた秩序や判断を指します。

北条泰時は制定の趣旨を説明した書状の中で、京都の法律に詳しくない武士でも理解しやすく、公平に裁判を行うための基準を示そうとした趣旨を述べています。

つまり、御成敗式目の重要性は、難しい法知識を持つ者だけが判断するのではなく、幕府の裁判担当者が共通の基準に沿って判断できるようにした点にあります。

御成敗式目が扱った内容

御成敗式目には、神社や寺院の保護、守護と地頭の職務、所領の相続、土地争い、犯罪、裁判手続などが定められました。

とくに武家社会では、所領が生活と軍役の基盤でした。誰が土地を相続するのか、長期間支配していた土地をどのように扱うのかという問題は、幕府の安定にも直結します。

女性の所領相続が認められていたことも、御成敗式目を理解するうえで重要です。ただし、鎌倉時代の女性の権利が現代と同じ意味で平等だったわけではなく、時代が下るにつれて相続のあり方も変化しました。

律令を廃止した法律ではない

御成敗式目の制定によって、律令法や公家法が日本全国から直ちに消えたわけではありません。

中世の日本では、公家社会、寺社、荘園、武家社会などが、それぞれ異なる慣習や法を持っていました。御成敗式目は、まず幕府と御家人の世界で用いられる法でした。

ただし、鎌倉幕府の支配力が広がるにつれて、御成敗式目の考え方はより広い範囲に影響を及ぼしました。室町幕府や戦国大名の法にも、武家法の基礎として受け継がれていきます。

「日本最初の法律」ではない

試験では「わが国初の武家法典」という説明がよく使われます。ここで省略してはいけないのが、武家という条件です。

日本には御成敗式目より前から、律令をはじめとする成文法がありました。そのため、「御成敗式目は日本で最初に作られた法律」と答えるのは誤りです。

御成敗式目は、日本最初の法律ではなく、鎌倉幕府が制定した最初の本格的な武家法典と覚えます。

51か条で終わらず追加法が作られた

社会で起きるすべての問題を51か条だけで処理することはできません。その後、幕府は必要に応じて追加の法令を出しました。

これらは追加法と呼ばれ、御成敗式目を基本としながら、時代の変化や個別の問題に対応しました。御成敗式目は完成後に一切変わらない規則集ではなく、武家政治の法体系の出発点だったのです。

現代の法との共通点と違い

現代の法律と御成敗式目は、内容も社会的な前提も大きく異なります。それでも、裁判を担当する者によって判断が大きく変わらないよう、一定の基準を文章で共有するという発想には共通点があります。

一方、御成敗式目は近代国家の国民全員に等しく適用される法典ではありません。身分や支配関係が異なる中世社会で、幕府の裁判実務を安定させるために作られた法です。

現代とのつながりを考える際は、「現在の法律の直接の原型」と単純化するより、権力者の個人的判断だけに頼らず、共有された規範によって紛争を処理しようとした点に注目するとよいでしょう。

問題3の答えはフリードリヒ2世

神聖ローマ皇帝でシチリア王でもあった

問題3の答えは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です。彼はシチリア王でもあり、地中海世界と深い関係を持つ君主でした。

同じ「フリードリヒ2世」には、18世紀のプロイセン王フリードリヒ2世、いわゆるフリードリヒ大王もいます。しかし、十字軍に参加した人物は13世紀の神聖ローマ皇帝です。

フリードリヒ2世は、イスラーム世界の文化や学問と接点を持っていました。ただし、「イスラームに理解があったから平和主義者として交渉した」とだけ説明すると、政治的な事情を見落とします。

十字軍への出発が遅れ、教皇から破門された

フリードリヒ2世は十字軍への参加を約束していましたが、出発は何度も延期されました。1227年に遠征を開始した際には病気のため引き返し、教皇グレゴリウス9世から破門されます。

翌1228年、フリードリヒ2世は破門が解かれないまま再び出航しました。教皇の全面的な支持を受けた遠征ではなかったため、十字軍内部の協力にも限界がありました。

軍事力にも制約がある中で、フリードリヒ2世はアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルとの交渉を進めました。

アル=カーミルにも交渉を選ぶ事情があった

外交交渉が成立した理由を、フリードリヒ2世の話術だけに求めることはできません。交渉相手のアル=カーミルにも、和平を選ぶ政治的な事情がありました。

当時のアイユーブ朝は一枚岩ではなく、支配者一族の間に対立がありました。アル=カーミルはシリア方面の親族との関係にも対応しなければならず、十字軍との長期戦を避けたい事情がありました。

一方のフリードリヒ2世も、大軍によってイェルサレムを包囲し、長期戦を続けられる状態ではありませんでした。双方が別の政治課題を抱えていたことが、妥協の余地を生みました。

1229年のヤッファ条約

1229年2月18日、フリードリヒ2世とアル=カーミルの間で協定が成立しました。一般にヤッファ条約、またはヤッファ・テル=アジュール条約と呼ばれます。

この協定によって、イェルサレム、ベツレヘム、ナザレなどがキリスト教側の支配に戻されました。沿岸部からイェルサレムへ通じる道も確保され、約10年間の休戦が取り決められます。

フリードリヒ2世は大規模な戦闘を行わず、十字軍の最大目標だったイェルサレムへの支配を一時的に回復しました。そのため、この遠征は「外交によって成果を得た十字軍」として知られています。

イェルサレム全体を自由に支配したわけではない

「イェルサレムを回復した」といっても、都市全体をキリスト教側が無条件で支配したわけではありません。

岩のドームやアル=アクサー・モスクがある神殿の丘は、イスラーム側の管理下に残りました。イスラーム教徒の礼拝も認められています。

また、イェルサレムの城壁や防備をどこまで再建できるかは不明確でした。軍事的に完全な要塞都市を獲得したというより、宗教的・政治的に重要な都市について妥協が成立したと見るべきです。

戦わなかったから全員に歓迎されたわけではない

流血を避けた外交的成果は、現代の目から見ると合理的に感じられます。しかし、当時のキリスト教側とイスラーム側の双方に、協定への反発がありました。

キリスト教側では、破門中の皇帝が教皇の意向に反して交渉を進めたことや、聖地の一部がイスラーム側の管理に残ったことが問題視されました。フリードリヒ2世と現地の聖職者・騎士修道会との関係も良好とはいえませんでした。

イスラーム側でも、1187年にサラディンが奪還したイェルサレムをキリスト教側へ引き渡したことに反発が起こりました。外交で合意した二人の君主と、それを受け止める宗教界や住民の評価は一致していなかったのです。

戴冠式ではなく自ら王冠を載せた

1229年3月、フリードリヒ2世はイェルサレムの聖墳墓教会で、自ら王冠を頭に載せました。聖職者から正式に戴冠された一般的な儀式とは異なります。

フリードリヒ2世は、エルサレム女王イザベル2世との結婚を通じて王位を主張していました。しかし、破門中であったことなどから、彼の行動は強い反発を招きました。

「外交に成功して凱旋し、全キリスト教世界から称賛された」という物語ではありません。軍事的制約を外交で補った成果である一方、皇帝と教皇の対立をさらに印象づける出来事でもありました。

第5回か第6回か

この遠征は、現在の一般的な区分では第6回十字軍と呼ばれます。期間はおおむね1228年から1229年です。

一方、日本の教材や十字軍の数え方によっては、第5回十字軍に含めたり、「第5回、別の数え方では第6回」としたりする場合があります。遠征をどこで区切るかが資料によって異なるためです。

試験では、問題文に示された回数よりも、「外交交渉」「戦わずにイェルサレムを回復」「神聖ローマ皇帝」という三つの手がかりから、フリードリヒ2世を選ぶのが確実です。

イェルサレムの回復は一時的だった

ヤッファ条約による休戦は恒久的なものではありませんでした。条約後も、十字軍国家と周辺のイスラーム諸勢力の関係は安定し続けたわけではありません。

1244年、イェルサレムは再びキリスト教側の支配から失われました。このため、フリードリヒ2世の成功は「聖地問題を解決した」というより、限られた条件のもとで一時的な合意を成立させたものです。

外交は戦争を避ける有力な方法ですが、当事者間の合意だけで長期的な秩序が自動的に生まれるわけではありません。合意を支える政治状況や、周辺勢力の理解も必要であることが分かります。

三つの出来事を比較すると13世紀の特徴が見える

人物・制度直面した課題選んだ手段結果限界・注意点
バトゥユーラシア西部への勢力拡大複数軍団を連動させた軍事遠征南ロシアを中心とするジョチ家政権の形成個々の戦場をすべてバトゥが直接指揮したわけではない
北条泰時・御成敗式目武士の土地紛争や裁判の増加慣習・先例・道理の文章化幕府裁判の基本基準が整えられた日本全国の既存法を廃止した法典ではない
フリードリヒ2世軍事力が限られる中での聖地回復アル=カーミルとの外交交渉イェルサレムを一時的に回復部分的・期限付きの合意で、双方に反発があった

バトゥは機動力のある軍事組織を使い、北条泰時は裁判基準を整備し、フリードリヒ2世は相手側の事情も利用して交渉しました。三者の方法は異なりますが、いずれも一人の力だけで結果を出したわけではありません。

バトゥの背後には皇族・将軍・各部隊の連携がありました。御成敗式目は北条泰時を中心とする合議によって成立し、フリードリヒ2世の外交もアル=カーミル側の政治事情があって初めて成立しました。

歴史上の出来事を「英雄一人の決断」として覚えると分かりやすい反面、原因を単純化してしまいます。人物名を覚えた後、その人物を取り巻く組織、対立、制約まで確認すると、出来事の因果関係が見えてきます。

誤解しやすい点をまとめて確認

バトゥ本人がワールシュタットで直接指揮したのか

バトゥは西方遠征全体の最高指導者として答えになります。ただし、ワールシュタットの戦いに参加したポーランド方面軍では、バイダル、カダン、オルダらが指揮官として挙げられます。

したがって、「バトゥの率いる西方遠征軍が勝利した」と表現するのが安全です。

キプチャク・ハン国は1241年に建国されたのか

キプチャク・ハン国は、ある一日に独立宣言をして誕生した近代国家ではありません。ジョチ家に割り当てられた領域を基礎に、バトゥの征服と支配拠点の整備を通じて形成されました。

試験では「西方遠征後、バトゥが南ロシアに建てた」と整理しますが、実際の成立は段階的な過程です。

御成敗式目は日本最初の成文法か

日本最初の成文法ではありません。御成敗式目より前に律令などが存在しました。

正確には、鎌倉幕府が武家社会の慣習や裁判の先例を踏まえて制定した、最初の本格的な武家法典です。

御成敗式目は北条泰時だけで作ったのか

中心人物は北条泰時ですが、連署の北条時房や評定衆も関与しました。幕府の合議政治の中で作られた法典として理解する必要があります。

フリードリヒ2世は平和主義者だったのか

外交を選んだことだけから、現代的な意味での平和主義者と断定することはできません。軍事力、教皇との対立、シチリア支配、アル=カーミル側の事情などを考慮した現実的な政治判断でした。

イェルサレムは完全にキリスト教側へ渡されたのか

完全な移譲ではありません。神殿の丘にあるイスラームの聖所はイスラーム側の管理下に残り、協定には期限もありました。

「戦わずに全面勝利した」のではなく、双方が条件を受け入れた外交的妥協です。

覚え方は「征服・法・外交」の三語

三つの問題を解く際は、最初に出来事の性格を見分けます。

  • モンゴルの西方征服:バトゥ、キプチャク・ハン国
  • 鎌倉幕府の武家法:北条泰時、御成敗式目
  • 聖地をめぐる外交:フリードリヒ2世、アル=カーミル、ヤッファ条約

年代の並びにも注目してください。御成敗式目の制定は1232年、モンゴル軍のワールシュタットの戦いは1241年です。フリードリヒ2世とアル=カーミルの協定は1229年なので、三つとも十数年ほどの範囲に収まります。

13世紀前半のユーラシアでは、モンゴル帝国が急速に拡大する一方、日本では武家政権の法が整備され、地中海東部ではキリスト教君主とイスラーム君主の外交が行われていました。

地域史を別々に暗記するだけでなく、同じ時代に何が起きていたかを横に並べると、世界史と日本史の時間的なつながりをつかめます。

まとめ

問題1の答えはバトゥとキプチャク・ハン国、問題2は御成敗式目、問題3は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です。

バトゥはチンギス=ハンの孫で、西方遠征全体を率いました。ただし、ワールシュタットの戦場では別の皇族が現地部隊を指揮しており、バトゥ自身の直接指揮と断定しないことが大切です。

御成敗式目は、北条泰時を中心に1232年に制定された全51か条の武家法典です。律令を廃止した全国一律の法律ではなく、武家社会の慣習、先例、道理に基づいて幕府の裁判基準を整えた点に意味があります。

フリードリヒ2世は、1229年にアイユーブ朝のアル=カーミルと協定を結び、戦闘によらずイェルサレムを一時的に回復しました。しかし、聖地の一部はイスラーム側の管理下に残り、協定には期限がありました。

復習するときは、まず「征服・法・外交」の三つに分類し、次に人物名と制度名を結び付けます。最後に「直接指揮ではない」「日本最初の法律ではない」「完全な聖地回復ではない」という三つの注意点を確認すると、答えだけでなく出来事の構造まで説明できるようになります。

参考資料