目には目を、だけじゃない――バビロンの法と暮らし

古代メソポタミアの都市で、書記が粘土板を手に住民と向き合う場面。 完新世

問1 バビロン第1王朝とハンムラビ

紀元前18世紀のハンムラビ王と、その王朝について、最も適切な説明を一つ選んでください。

  • (ア)シュメール人のウル第3王朝を開き、ウルを都とした。
  • (イ)アムル人のバビロン第1王朝の第6代の王であり、バビロンを拠点にメソポタミアの南部を中心とする広い地域を支配した。
  • (ウ)ヒッタイトの王として、鉄製武器を世界中に普及させた。
  • (エ)アケメネス朝の王としてバビロンを征服し、ガズナ朝を倒した。

問2 ハンムラビ法典の特色

1901〜1902年にスサで発見された法典碑と、その内容について、最も適切な説明を一つ選んでください。

  • (ア)それ以前の法の伝統を持たない、世界初の成文法である。
  • (イ)傷害に同種の身体刑で応じる規定のほか、身分や事件の条件によって賠償(ばいしょう)などを定める規定があり、売買・家族・農業も扱う。
  • (ウ)すべての事件に対し、身分を問わず同額の罰金だけを科した。
  • (エ)ラテン語で羊皮紙に記され、ローマ皇帝が公布した。

問3 長く受け継がれたバビロニアの文化

古バビロニア期から後世までの文化について、適切な説明を一つ選んでください。

  • (ア)バビロンの守護神マルドゥークは、後世の創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』で神々の王として称えられた。
  • (イ)六十進法を使う数学や、粘土に転がして印影を残す円筒印章が発達した。後世の世界地図には、陸地とそれを囲む海が表された。
  • (ウ)後期バビロニアの天体観測や計算の方法の一部は、ギリシャの天文学にも取り入れられた。
  • (エ)(ア)〜(ウ)のすべてが適切である。

ハンムラビ法典は、傷つけ合ったときの刑罰だけを集めたものではありません。
取引の証人、水路の管理、家族の財産まで、都市の暮らしに関わる多くの問題を扱いました。
そこには、人々の争いを裁く働きと、自らを正義の王として示すハンムラビの姿が重なっています。

バビロンの繁栄を理解する鍵は、征服した土地の広さに加えて、人・物・記録を結ぶ都市の仕組みにあります。

まずはユーフラテス川沿いの町と、その周りの畑を思い浮かべてください。
穀物を運ぶ人、品を預かる人、粘土板に記録する人が、それぞれの仕事をしています。
その仕事の間に生まれる「誰の物か」「誰が責任を負うか」という問いを入口に、王国と法、そして神話や学術の歴史へ進みます。

1.川沿いの一都市が、王国の中心になるまで

バビロン第1王朝は、アムル人の王たちが築いた王朝です。
アムル語はセム語派に属しますが、王朝の下で書かれた文書では、アッカド語の古バビロニア方言が使われました。
王たちの出自と言葉、住民全体の文化を、ひとまとめに考えないことが大切です。

その背景には、ウル第3王朝の崩壊後、各地の都市が競い合った時代があります。
イシンやラルサなどの王たちは、豊かな農地や宗教上重要な都市を支配しようとしました。
バビロンも初めから周辺を圧倒していたわけではなく、こうした勢力の一つから成長していきます。

場所は現在のイラク中部、ユーフラテス川沿いです。
東にはティグリス川、さらにその先にはエラムの中心地スサがあります。
スサは現在のイラン南西部にあり、バビロンと同じ都市ではありません。
のちに法典碑が見つかる場所を、ここで地図の中に置いておきます。

メソポタミアのユーフラテス川・ティグリス川と、マリ、バビロン、スサの位置関係を示す概略地図。

ハンムラビは第6代の王で、在位は中年代説では前1792年頃から前1750年頃です。
細かな年代には編年(へんねん)上の議論がありますが、前18世紀の王として押さえると、出来事の位置を見失いません。
即位してすぐ巨大帝国を完成させたのではなく、外交と戦争を重ねながら支配を広げました。

南のラルサを倒し、ユーフラテス川上流側のマリなども制圧します。
支配の中心となったのは、古くからのシュメールとアッカドの地域です。
「メソポタミア統一」という言葉から、現在の国境で囲まれた全域を、同じ強さで長期間支配した国を想像するより、周辺の王国を従えた時期と、その後の変化を分けて捉えます。

ハンムラビの後には、息子サムスイルナが王位を継ぎましたが、広い支配圏は次第に揺らぎました。
王朝はさらに続き、一般的な中年代説では前1595年頃、ヒッタイト軍によるバビロン攻略で終わります。
ハンムラビの最盛期と王朝の終末には、百年以上の隔たりがあります。

2.品物を渡したら、記録も残す

王国が広がると、支配するだけでなく、各地の仕事をつなぐ必要が生じます。
農地、運河、労働、物の移動は、互いに関わっています。
畑で収穫できても、貸し借りや受け渡しの約束が定まらなければ、取引は続きません。

そこで働くのが、書記(しょき)です。
湿った粘土板へ葦(あし)の筆を押し付け、楔形文字(くさびがたもじ)を記します。
楔形文字は文字の形・書き方の名称であり、アッカド語はそれによって書かれる言語の一つです。
「何語か」と「どんな文字か」を分けると、古代の文書が読み取りやすくなります。

ハンムラビ法典の第104条は、商人が代理人へ穀物や羊毛、油などを預ける場面で、受領の記録を扱います。
第105条では、銀の受け渡しについて記録を確保しなかった場合の問題が述べられます。
商品を動かすことと、何を受け取ったかを確かめられるようにすることは、一続きの仕事でした。

古バビロニアの商人と書記が、品物の受け渡しを確かめて粘土板へ記録する二コマ漫画。

持ち主や関係者を示す道具には、円筒印章(えんとういんしょう)があります。
小さな円柱の側面に彫った模様を、柔らかい粘土の上で転がすと、帯状の印影(いんえい)が残ります。
文書だけでなく、容器や扉などを封じる粘土にも使われました。

円筒印章はハンムラビの時代より前から使われており、この王の発明ではありません。
古バビロニア期にも用いられ、本人や所有を示す働きを持ちました。
神々や祈る人の図像も刻まれ、取引の道具と、持ち主を守る願いが同じ小さな品に重なることもあります。

書記の残す粘土板は、石碑と同じ役割ではありません。
日々の取引や裁判の記録と、王の正義を大きく掲げる記念碑を分けて見ることで、法が働いた社会の厚みが見えてきます。

3.黒い石碑に、王は何を示したのか

現在ルーヴル美術館にある法典碑は、高さ約2.25メートルの黒い玄武岩(げんぶがん)に刻まれています。
上部には、王が太陽神であり正義の神でもあるシャマシュに向き合う浮彫(うきぼり)があります。
神が示す王権のしるしは、王が正義を担う存在であることを表しています。

石碑の文章は、大きく序文、法規の部分、結語からなります。
序文では神々と王の役割が語られ、法規では具体的な条件と裁きが並び、結語では王の業績と正義がたたえられます。
法規だけを取り出すと、この全体の仕組みを見落とします。

通常282条として整理される法規は、「もし、あることが起きたなら」という条件から始まり、その場合の処置を示す形式を取ります。
家族、財産、商業、労働など、扱う範囲は幅広いものです。
ただし、現代の民法や刑法のような体系を、そのまま古代に当てはめることはできません。

法典碑には、王が公正な裁きを実現するという宣言の性格もあります。
石に示された理想、日々の裁判、地域の慣行がどのように関わったかは、裁判記録や契約文書も合わせて調べる必要があります。
王が語る正義と、社会で実際に起きたすべての出来事は、同じものではないのです。

なぜ、バビロンではなくスサで見つかったのか

法典碑は、1901〜1902年のフランス隊によるスサの発掘で見つかりました。
造られた時代から何世紀も後、エラムの王が戦利品として運び去ったと考えられています。
出土地は、その品が初めに造られたり使われたりした場所と一致するとは限りません。

この移動は、バビロン第1王朝がエラムに滅ぼされたことを意味しません。
石碑が持ち去られる時代と、前16世紀のヒッタイト軍による王朝の終末は別の出来事です。
一つの石碑にも、製作、移動、埋没、発見という長い歴史があります。

4.「目には目を」は、どんな裁きだったのか

有名な言葉が示すのは、受けた害に対応する害で応じる同害報復(どうがいほうふく)です。
第196条では、ある身分の人の目を損なった場合に、加害者の目も損なう処置が定められています。
第200条には、同等の立場の人の歯を折った場合の身体刑があります。

これは、個人へ「好きなだけ仕返しをしなさい」と呼びかける標語ではありません。
裁きの中で、害と処置を対応させる考え方です。
一方、当時の身体刑には現代の人権観と大きく隔たる厳しさがあり、古代の仕組みを理解することと、その刑を現在に勧めることは別です。

同じ傷害でも、身分が違うと処置が変わる

法典に登場する社会の区分には、自由人のアウィールム、一定の従属的な立場を持つムシュケーヌム、奴隷のワルドゥムなどがあります。
日本語では貴族・平民・奴隷と簡略化されることもありますが、近代の身分や職業へ一対一に置き換えられる区分ではありません。
ここでは、人の法的な立場が裁きの条件になった点に注目します。

目や骨への傷害を例に、条文の条件を比べる
条文被害者の立場定められた処置
第196・197条対応する自由人の区分目や骨への同種の身体刑
第198条ムシュケーヌム金銭による支払い
第199条他人の奴隷奴隷の価値を基準とした所有者への支払い

第198条では、同じ目や骨の傷害でも、身体刑に代わって支払いが定められています。
第199条は、奴隷の価値の半分に当たる支払いを規定します。
ここでは被害を受けた本人の自由と権利より、所有者の財産という見方が前面に出ています。

害と処置を対応させる考え方があっても、すべての人を同じ権利の主体として扱う法ではありませんでした。

そのため「復讐を制限した公平な法律」という一言だけでも、反対に「厳しい刑罰だけの法律」という一言だけでも、内容を捉え切れません。
傷害の程度、故意かどうか、当事者の身分、何を保護する規定なのかを、組み合わせて読む必要があります。

用水路と建築にも、責任を問う規定がある

畑へ水を引く運河は、農業を支えると同時に、隣の畑へ被害を及ぼす原因にもなります。
第55条は、自分の畑へ水を入れる際の不注意によって、隣人の畑を水浸しにした場合の穀物による補償を扱います。
川の水を利用する社会では、個人の作業が共同の暮らしに影響するのです。

古バビロニア時代の農民が、土の水路から畑へ入る水の流れを調整する場面。

建築に関する規定では、家の不十分な施工で人が亡くなる場合と、財産が損なわれる場合で処置が変わります。
第232条には、失われた品の補償と、建物を建て直す責任が記されています。
法典からは、家を造る技術だけでなく、その仕事の結果に誰が責任を負うかという問いも読み取れます。

法典は、傷害、商業、農業、建築、家族の問題を、現在の私たちとは異なる社会の条件で結び付けていました。
条文の番号を暗記するだけでなく、どんな暮らしの場面から規定が必要になったかを考えると、内容が立体的になります。

5.世界初の法律だったのか――先行する法の伝統

ハンムラビより前にも、法を文字でまとめる試みはありました。
代表的なのが、前3千年紀末のウル第3王朝に関わるウル=ナム法典です。
ほかにも、イシンのリピト=イシュタルや、エシュヌンナの法規などが知られています。

ウル=ナム法典には、傷害に対する金銭的な補償の規定が見られます。
一方で、重大な犯罪に対する死刑もありました。
先行法はすべて穏やかで、ハンムラビが初めて厳罰へ転じた、という一直線の変化にはできません。

ハンムラビ法典を特別なものにしているのは、何もないところから法律そのものを発明したことではありません。
先行する法や書記の伝統を受け継ぎ、多くの具体的な事件の条件を、王の正義という枠の中に大きくまとめた点にあります。

また、王国が衰えることと、法典が人々の知識からすぐ消えることも違います。
文字で残された文書は、書写や学習を通して、王朝を越えて読まれ得ます。
政治の交代だけでは終わらない知識の歴史が、ここから続いていきます。

6.都市の神が、世界の秩序を担う神になる

バビロンの守護神が、マルドゥークです。
ハンムラビの時代にバビロンが大きな国家の中心となると、その神も重要性を増しました。
法典の序文にも登場し、王の統治を神々の秩序と結び付けています。

ただし、ハンムラビの即位と同時に、それまでの神々が一斉に地位を失ったわけではありません。
マルドゥークが神々の王として語られる姿には、長い時代の展開があります。
法典碑の上部に表されるシャマシュと、バビロンの守護神マルドゥークも、役割の異なる神です。

後世の創世叙事詩(そうせいじょじし)『エヌマ・エリシュ』は、マルドゥークの力と地位を語ります。
題名は冒頭の言葉に由来し、おおむね「上なるとき」という意味です。
標準的な構成は七つの書板からなり、現存する資料は複数の時代・場所の写本や断片を合わせて読むものです。

物語では、神々の対立の中で、マルドゥークが海の女神ティアマトと戦い、世界の秩序を築きます。
さらに人間の創造と、神々の仕事を人間が担うことへ話が進みます。
自然の始まりだけでなく、神々の序列(じょれつ)と、王権や人間の労働を説明する物語でもあります。

後世のバビロニアの神殿の中庭で、成人の奉仕者が穀物を入れた器を供物台に置く場面。

この叙事詩の成立時期には議論があり、ハンムラビ自身が現在知られる形を作らせたと断定はできません。
神の地位の上昇、物語の成立、現存写本の年代は、それぞれを分けて見ます。
そうすると、都市の政治的な力と、後世に受け継がれた信仰が、長い時間をかけて関わったことが分かります。

7.粘土板の計算から、夜空の記録へ

書記の学習には、文字だけでなく計算もありました。
古バビロニア期の粘土板には、計算表や、溝を掘る作業に関する問題などが残っています。
量を測り、仕事を配分する実用とともに、専門的な訓練そのものとしての高度な問題もありました。

特徴の一つが、六十進法(ろくじっしんほう)です。
60を区切りに桁(けた)が上がる仕組みで、整数だけでなく小数に相当する量の扱いにも使われました。
たとえば半分、3分の1、4分の1は、それぞれ60分の30、60分の20、60分の15と表せます。
分ける計算を理解する入口になります。

その便利さは、60に多くの約数があることから説明できますが、それだけで六十進法の誕生の理由すべてを確定できるわけではありません。
現代の1時間60分を見ていると、数の仕組みには王朝より長生きするものがある、と感じられます。
数字の世界では、政権交代より繰り上がりの方が安定しているようです。

正方形と対角線を描いた粘土板では、対角線の長さを求めるための平方根の近似値も示されています。
これはギリシャのピュタゴラスよりはるか以前の数学的な知識を伝える資料です。
ただし、図と計算が残ることから、現代と同じ記号や証明の形式まで使ったと考えることはできません。

古バビロニアの書記教育で、成人の学習者が計算した粘土板を教師と確かめる二コマ漫画。

占星術と、後世の計算天文学を分けて見る

メソポタミアの人々は、月や星の現れ方を記録し、天の出来事を王や国の行く末と結び付けて解釈しました。
こうした占星術と、観測を記録する営みは、古代には深く関わっています。
現代の科学と同じ前提で始まったわけではありませんが、記録の積み重ねには長期の変化を比べる力がありました。

とくに前1千年紀の後半には、天体の動きを数の並びで予測する計算が発達します。
後世のギリシャの天文学では、バビロニアの観測資料や計算法の一部が利用されました。
前2世紀のヒッパルコスの研究は、その具体例です。

古バビロニア期の数学と、千年以上後の高度な計算天文学、さらにギリシャでの受容を、ハンムラビ一人の業績にまとめないことが大切です。
ギリシャの学術のすべてをバビロニアだけの発明とするのでもなく、分野ごとに知識が伝わり、組み替えられた過程を考えます。

8.バビロンから見た世界――円い陸地と海の向こう

後世の世界観を伝える資料が、大英博物館の「バビロニアの世界地図」です。
同館の公開解説では前6世紀の粘土板として紹介され、高さ約12.2センチメートル、幅約8.2センチメートルの小さな品です。
ハンムラビが生きた前18世紀より、千年以上後の資料に当たります。

地図では、バビロンが中心的な位置に置かれ、ユーフラテス川や周辺地域が表されます。
中心の陸地の周りには、塩の海を示す円環(えんかん)の水路があり、その外側にも地域が配置されています。
周縁(しゅうえん)の地域には、神話的な生き物や英雄に関わる説明も添えられています。

この地図は、旅の途中で正確な道順や距離を確かめる現代の地図とは、目的が違います。
身近な地理と、海の向こうに広がる物語の世界を一つの図の中に置き、バビロニアの世界の捉え方を示しています。
「最古級の世界地図」という呼び方も、土地や町を表す地図がそれ以前に一切なかった、という意味ではありません。

現在残る粘土板の年代から、その原形が古バビロニア期まで確実にさかのぼるとは言い切れません。
ここで確かめられるのは、後世の書記が残した図と文章です。
古い知識を受け継ぐことと、特定の図の成立年代を証明することは分けて考えます。

9.三つの問題を、暮らしと年代から解く

問1の解答:(イ)――アムル人の王朝と、拡大したバビロン

正解は(イ)です。
第6代のハンムラビは前18世紀の王で、南部を中心とする広い地域を支配し、バビロンを政治の中心へ押し上げました。
アムル人の王朝という出自、都の位置、在位した時代、征服の広がりを結び付けて理解します。

(ア)はウル第3王朝との混同です。
(ウ)のヒッタイトは、のちのバビロン攻略に関わる勢力で、ハンムラビの所属する王朝ではありません。
(エ)は、古バビロニア期、アケメネス朝の時代、さらに後のガズナ朝という異なる時代を結び付けた内容です。

問2の解答:(イ)――条件を定めた裁きと、身分の違い

正解は(イ)です。
「目には目を」に代表される同害報復と、身分や事件の条件に応じた賠償が共にあります。
さらに、売買、家族、農地、建築などの規定もあるため、一つの言葉だけで内容を代表させないことがポイントです。

(ア)は先行する法の伝統と一致しません。
(ウ)のような一律の罰金でもなく、(エ)の言語・素材・王朝も合いません。
楔形文字とアッカド語、石碑という記念物と粘土板の文書を区別すると、法と記録の関係が整理できます。

問3の解答:(エ)――一つの王朝を越えて続く文化

正解は(エ)です。
(ア)はマルドゥークを称える神話、(イ)は計算や印章と後世の地図、(ウ)は知識が他の学術へ伝わったことを述べています。
この設問では、すべてがハンムラビの在位中に完成したという意味ではなく、長いバビロニア文化の歩みを問うています。

法を刻む、取引を書く、計算を練習する、星を記録する、物語を写す。
素材が同じ粘土でも、その仕事の目的は異なります。
何が、いつ、何のために残された資料かを確かめると、三つの選択肢がそれぞれの場所へ収まります。

まとめ

ハンムラビのバビロンは、征服と外交で広がった王国であり、取引や農業を支える記録の社会でもありました。
法典は、多様な暮らしの問題を条件に応じて扱いながら、王の正義と、身分による権利の差も表しています。

その後も、神話、数学、天文学、世界地図は、時代を越えて書き継がれました。
有名な王の名前を入口に、日々の仕事と長い知識の歴史を合わせて見ると、メソポタミアの文化が、暗記する言葉の列から人々の営みへと変わってきます。

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参考資料