奈良の都が栄えたころ、イスラーム軍は西欧へ迫っていた

大学受験歴史

問題1:710年、元明天皇によって藤原京から遷都され、唐の都である長安をモデルに造営された、現在の奈良市に位置する都は何ですか?

問題2:701年、刑部親王や藤原不比等らによって編纂・完成され、日本の律令制度による統治体制をほぼ整えることになった法典は何ですか?

問題3:732年、西ヨーロッパへ侵入したイスラーム軍を、フランク王国の宮宰カール・マルテルが撃退した戦いを何といいますか?

701年に大宝律令が完成し、710年には平城京へ都が移りました。日本で法と都を通じた国家づくりが進んだころ、西ヨーロッパではフランク王国の宮宰カール・マルテルが軍事力を強めています。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いは、その活動の一つでした。

三問の答えは、順に平城京、大宝律令、トゥール・ポワティエ間の戦いです。同じ8世紀前半に置くと、法を整えること、政治の拠点をつくること、軍事的な勝利から権威を得ることという、国家を支える異なる働きが見えてきます。

日本では制度と都の運営、西ヨーロッパでは軍事と王権の関係をたどります。平城京へ届いた荷物や、宮宰という役職にも目を向けると、用語の背後にいた人々の活動まで具体的に捉えられます。

地球儀を使って8世紀前半の日本と西ヨーロッパを同時代で見るイメージ
歴史学習のためのイメージです。

三問の答えと、それぞれの役割

問題 答え 大切な見方
問題1 平城京 律令国家の政治を行うための本格的な都
問題2 大宝律令 法にもとづく国家統治の仕組みを整えた法典
問題3 トゥール・ポワティエ間の戦い 西ヨーロッパにおけるフランク王国の存在感を高めた戦い

大宝律令と平城京は、日本の律令国家づくりの中でつながります。トゥール・ポワティエ間の戦いは、フランク王国と周辺勢力の関係の中に位置づけられる出来事です。まず各地域の流れを押さえ、最後に同じ時間軸で並べます。

問題1の答え:平城京

問題1の答えは、平城京です。710年、元明天皇の時代に、都は藤原京から平城京へ移されました。現在の奈良市を中心とする地域に造営された都で、奈良時代の中心となります。

平城京は、律令国家を運営するための政治都市でした。律令制度では、中央政府が全国を統治するために、役所、官人、戸籍、税、軍事、地方行政などを整える必要がありました。その中心に置かれる都は、天皇が住む場所であると同時に、国家運営の司令塔でもありました。

平城京は唐の長安の都城制を参考にして造営されました。碁盤目状の街路や大路、北側に置かれた宮は、東アジアの都市と政治のあり方を取り入れたものです。地形や規模に合わせて、東側に外京と呼ばれる張り出しも設けられました。

都を南北に通る朱雀大路の東が左京、西が右京です。北にいる天皇が南を向くと、東が左、西が右になるという配置です。道路と区画は、官人の住居や寺院、市場などの位置を整理し、人と物が集まる都市の骨格となりました。

平城京は都全体、平城宮は天皇の住まいと政治・儀式・役所の施設が集まる区域を指します。法で定めた仕事を実際に行うための場所として宮と都を見ると、大宝律令との関係がはっきりします。

平城京の大路と宮を表した歴史学習イメージ
歴史学習のためのイメージです。

儀式の場と、日常の行政を行う役所

平城宮には、重要な儀式を行う大極殿や朝堂院、天皇の住まいである内裏、日常業務を行う官衙がありました。外国使節を迎える場と、文書を扱う役所は、それぞれ役割を持っています。

現在の平城宮跡でも、発掘調査に基づく建物跡や復原施設から、その配置を確かめられます。大極殿は即位などの重要な儀式や外国使節との面会に使われました。宮の大きな建物は、天皇を中心とする秩序を人々に示す場所でもあったのです。

都では官人が働き、地方から物資が届き、寺院や市場が活動しました。国家の運営には、命令を出す人、記録をつくる人、食料や資材を供給する人が必要です。平城京は、その活動が集まる政治・文化・宗教の舞台でした。

藤原京・平城京・平安京を年代と場所で分ける

710年の遷都は、現在の奈良県橿原市を中心とする藤原京から、現在の奈良市に造営された平城京への移転です。藤原京でもすでに本格的な都城が整えられており、その経験を引き継いで平城京が造られました。

平城京への遷都が710年、京都の平安京への遷都が794年です。奈良時代と平安時代の区切りに結びつけると、似た名称を区別できます。平城京の後には784年の長岡京への遷都もありました。

奈良時代の途中にも、聖武天皇による恭仁京・難波宮・紫香楽宮などへの移動があり、745年に平城京へ戻っています。奈良時代という時代区分の中にも、都が移った時期がありました。設問では「710年」「元明天皇」「藤原京から遷都」「現在の奈良市」を結んで、平城京を答えます。

問題2の答え:大宝律令

問題2の答えは、大宝律令です。701年、刑部親王や藤原不比等らによって編纂され、日本の律令制度による統治体制をほぼ整えることになった法典です。

大宝律令を考えるときは、まず「律」と「令」の意味を押さえる必要があります。律は主に刑罰に関する法、令は行政組織や身分、税、役人の制度などを定める法です。二つを合わせて、刑罰と国家運営の基本を定めました。

日本では7世紀後半から、中央集権的な国家づくりが進みました。大化の改新、壬申の乱、天武・持統朝の政治改革などを経て、天皇を中心とする国家体制が整えられていきます。その流れの中で、701年に大宝律令が完成しました。大宝律令は、7世紀後半に進められた制度整備をまとめた法典として位置づけられます。

二官八省と、地方を結ぶ文書行政

中央の官制は二官八省を中心とします。神々の祭祀を扱う神祇官、政務を統括する太政官の二官と、政務を分担する八省からなる仕組みです。各省には職・寮・司などの実務を担う役所が付属しました。

地方は国・郡・里などの単位で編成され、国司や郡司が行政を担います。戸籍や計帳で人々を把握し、土地の支給や税・労役の徴収につなげました。官人の仕事を分け、その報告や命令を文書で行うことが、都と地方を結ぶ仕組みでした。

こうした制度は、地域の有力者や地方社会を通じて運用されます。交通や情報伝達には限界があり、地域の事情にも左右されました。法典に書かれた制度と、現場でどのように実行されたかを合わせて見ると、律令国家の実態が分かります。

租・庸・調は、何を納める負担だったのか

代表的な税は租・庸・調です。租は田に対して課す稲の税、庸は都での労役に代えて納める布など、調は絹・糸・布や地域の産物などの貢納でした。納める対象も、財源としての使われ方も異なります。

租は主に国の財源となり、庸・調は中央へ送られました。庸・調には、品物を準備することに加えて、都へ運ぶ運脚の負担も伴います。雑徭や兵役などもあったため、租だけを見て人々の負担全体を判断することはできません。

国家を支える物資の集積は、地方で生産し運搬した人々の生活と結びついていました。制度の利点と負担を同じ場面から考えられるのが、税を具体的に見る意味です。

荷札木簡から見える、地方と都のつながり

平城宮跡では、荷物につけた荷札木簡が出土しています。奈良文化財研究所の展示解説には、淡路国からの調の塩、伊豆国からの調のカツオ、伊勢国からの庸米の荷札が紹介されています。

荷札に記された地名や品物、税目からは、都に届くまでの物資の流れをたどれます。庸・調という制度上の分類が、塩やカツオなど具体的な品物として現れるのです。米の荷札にも異なる税目があるため、「米ならすべて租」と決めつけず、記された税目を確かめる必要があります。

木簡は、法典の規定と実際の行政・物流を結ぶ資料です。都の建物と地方の税を合わせて見ると、平城京の繁栄を支えた生産や運搬の仕事まで視野に入ります。

律令の制度と文書行政を表す概念イメージ
歴史学習のためのイメージです。

大宝律令と養老律令を分ける

大宝律令は701年に完成した法典です。後に編纂された養老律令は、学習上は718年の編纂と757年の施行を区別して押さえます。大宝律令の後も、法の文言や制度の整備が続いたことが分かります。

「701年」「刑部親王」「藤原不比等」が設問の手がかりです。制度を整えた701年と、その運営の中心が平城京へ移った710年を並べると、法と都の関係を説明できます。

奈良時代から平安時代にかけては、土地の支配や課税の方法も変化しました。律令を国家の骨組みとして捉えながら、人口の把握や税の徴収がどのように維持・変更されたかを見ると、その後の歴史にもつながります。

問題3の答え:トゥール・ポワティエ間の戦い

問題3の答えは、トゥール・ポワティエ間の戦いです。732年、西ヨーロッパへ侵入したイスラーム軍を、フランク王国の宮宰カール・マルテルが撃退した戦いとして知られています。

8世紀前半、ウマイヤ朝の勢力は北アフリカからイベリア半島へ進出し、西ゴート王国を倒しました。その後、ピレネー山脈を越えてガリア方面へ進みます。そこでフランク王国のカール・マルテルが軍を率いて戦い、イスラーム軍を退けました。

この勝利は、ガリアでの進出を阻み、カール・マルテルの軍事的な権威を高める出来事となりました。その政治的な意味は、メロヴィング朝のもとで宮宰の一族が実権を強めていた状況と合わせて考えられます。

カール・マルテルとは何者か

カール・マルテルは、フランク王国の宮宰でした。宮宰とは、もともとは宮廷の実務を担う役職ですが、メロヴィング朝後期には実権を握る存在になっていきます。宮宰の一族が軍事や政治の実権を強め、王位を持つ人物と実際に指揮する人物の間に隔たりが生じていました。

トゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルが勝利したことは、彼自身とその一族の権威を高めました。751年には子のピピンが王位につき、カロリング朝が始まります。さらに孫のカール大帝の時代に、王国の勢力は拡大しました。732年の勝利と751年の王朝交代を年代で分けると、カール・マルテル自身は宮宰だったことがはっきりします。

日本史でいえば、天皇を中心とした律令国家が制度を整えていた頃、西ヨーロッパでは、王そのものよりも実力を持つ宮宰が台頭していました。ここに、同じ8世紀前半でも地域によって国家の形が異なる面白さがあります。

軍を率いるフランク王国の宮宰を表したイメージ
歴史学習のためのイメージです。

戦いの名称と、後世につくられた評価

資料には「トゥール・ポワティエ間の戦い」「トゥールの戦い」「ポワティエの戦い」などの名称が使われます。人物や年代も確かめると、同じ戦いを指しているか判断できます。日本の歴史学習では732年、宮宰カール・マルテルと結びつけます。

「キリスト教世界を救った」という説明には、後世の大きな評価が含まれています。歴史家ジェイムズ・T・パーマーの研究は、初期の史料での扱いと、19世紀の国家・宗教をめぐる歴史叙述の中で増幅された意義を区別しています。

戦闘の結果としてフランク側が勝利したことと、この一戦が世界全体にどれほどの意味を持ったかという評価は、異なる問いです。フランク王国内の権力、地中海世界の動き、周辺の地域勢力の利害も見ると、軍事と政治の関係をより具体的に説明できます。

3つの出来事を同時代で並べてみる

年 地域 出来事 見方
701年 日本 大宝律令 法による国家統治の仕組みを整える
710年 日本 平城京へ遷都 律令国家の政治都市を整える
732年 西ヨーロッパ トゥール・ポワティエ間の戦い フランク王国とイスラーム勢力の境界を考える出来事

日本の二つの出来事は、法典で仕事と負担を定め、それを都と地方の行政で運用する関係にあります。西ヨーロッパの戦いは、軍を指揮する宮宰の力と王権の関係を考える手がかりです。

同じ時代に、政治の中心がどこにあり、何を根拠に人々を動かしたかを比べられます。日本では唐の制度や都城が重要な参考となり、フランク王国では周辺勢力との戦争と内部の権力関係が政治の動きを左右していました。

制度・都・戦いから、国家の動かし方を比べる

大宝律令は、役所の仕事を分け、人を把握し、税や労役を課す仕組みを定めました。平城京は、その仕事を行う官人や物資が集まる場所です。法の制定と、日々の業務を支える人員・記録・交通を合わせて見ると、制度が動く条件が分かります。

トゥール・ポワティエ間の戦いでは、カール・マルテルが軍事的な勝利を収めました。その後の一族の王位獲得までたどると、実際に軍を動かす力と、国王として認められる立場の関係が見えてきます。

  • 701年・大宝律令:国家を動かす法と制度。
  • 710年・平城京:制度を運用する政治都市。
  • 732年・トゥール・ポワティエ間の戦い:フランク王国の軍事的指導者が権威を強めた戦い。

人物・場所・年代に、この役割を一言ずつ添えると、三問の答えを説明できるようになります。奈良時代が始まってしばらくしたころ、西ヨーロッパではカール・マルテルが活動していた、と時間の幅でつかむこともできます。

当時の法律、宗教、身分、支配領域は、それぞれ固有の歴史を持っています。現代の組織や制度を理解の手がかりにしつつ、木簡などの資料や当時の役職に戻って確かめると、時代の違いも捉えられます。

701年・710年・732年を並べて覚えるためのイメージ
歴史学習のためのイメージです。

まとめ|三問の答えを、運営の仕組みと権力の動きで読む

答えは平城京、大宝律令、トゥール・ポワティエ間の戦いです。701年の法典整備と710年の遷都は、日本の律令国家づくりの流れの中にあります。都へ届いた荷札木簡は、その運営を地方の産物と人々の労働が支えたことを示す資料です。

732年の西ヨーロッパでは、宮宰カール・マルテルがイスラーム軍を退けました。その勝利を、一族が政治的な実権を強め、後にカロリング朝を開く流れの中に置くと、軍事と王権の関係が見えてきます。

同じ8世紀前半でも、法と都を整える動き、軍事力から権威を得る動きには、それぞれの背景がありました。年代を並べたうえで、人・物・記録を誰が動かしたかまでたどると、地域ごとの国家のあり方を比べられます。

参考資料