問題1(ハンザ同盟と自由都市):
12~13世紀に北ドイツの商人を中心として形成された( ⑮ )同盟は、リューベックを中心に都市間の連合へ発展し、北海・バルト海の交易に大きな影響力を持ちました。一方、南ドイツの( ⑯ )は交易都市として成長し、後にはフッガー家による鉱山金融の拠点となりました。
問題2(イギリス議会の発展):
1215年にマグナ・カルタ(大憲章)が出されたイングランドでは、王権と諸侯の交渉、課税への同意、代表の参加を通じて議会が発展しました。1295年、エドワード1世が貴族・聖職者・州の騎士・都市の代表を招集した議会は、後世に( ⑰ )議会と呼ばれます。
問題3(中世ヨーロッパの経済と技術):
商業の拡大を背景に、1252年にフィレンツェで鋳造が始まった( ⑱ )金貨は、広域の取引で使われました。また、磁針で方角を知る( ⑲ )の航海利用が進み、眼鏡や機械時計の発達とともに、人々の暮らしを変えていきました。
三問の答え
⑮ハンザ、⑯アウクスブルク、⑰模範、⑱フローリン、⑲羅針盤。商人が海と内陸の都市を結び、王は課税への協力を求めて代表を集めました。貨幣への信用や実用的な道具が、その活動を支えます。地域・年代・役割を結びつけて、三問を見ていきましょう。
| 空欄 | 答え | 覚える要点 |
|---|---|---|
| ⑮ | ハンザ | リューベックを中心に北海・バルト海交易を展開した都市・商人の連合 |
| ⑯ | アウクスブルク | イタリア方面と北方を結ぶ南ドイツの交易都市 |
| ⑰ | 模範 | 1295年にエドワード1世が招集した模範議会 |
| ⑱ | フローリン | 1252年にフィレンツェで鋳造が始まった金貨 |
| ⑲ | 羅針盤 | 方位を知る道具として航海や移動の発達を支えた |

問題1:海上交易を結んだハンザ同盟と南ドイツの商業都市
⑮の答えは「ハンザ」
⑮にはハンザが入ります。一般には「ハンザ同盟」と呼ばれ、北ドイツの諸都市や商人団体を中心に形成された交易ネットワークです。
中心都市として知られるのが、バルト海沿岸に近いリューベックでした。リューベックは北海方面とバルト海方面を結ぶ位置にあり、海上交易の中継点として発展します。
商人たちは交易の利益と安全を守るために協力しました。12~13世紀に商人の結びつきが広がり、14世紀には都市の代表が話し合う連合へ発展します。最盛期は14~15世紀。共通の利害に応じて協力する、比較的緩やかな組織でした。
ハンザ同盟が扱ったのは生活に必要な商品だった
地中海方面の交易では、香辛料や絹などの高価な商品が注目されます。これに対して北海・バルト海交易では、穀物、木材、塩、魚、毛皮、蜜蝋など、日々の生活や都市経済を支える商品が多く取引されました。
たとえば、穀物は人口を養うために必要です。木材は建築や造船に使われ、塩は食料の保存に欠かせません。ニシンなどの魚も、宗教上の慣習で肉食を控える日に需要がありました。
商品を安定して運ぶには、船と港に加え、市場、倉庫、商館が必要です。商人の間で取引の慣行を共有し、紛争を処理する仕組みも整えました。こうして離れた都市を商業網として機能させたことが、ハンザの力になったのです。
在外商館が遠隔地交易の拠点になった
ハンザ商人の活動を支えたのが、ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドの四大商館です。異なる地域の商品が、これらの拠点を通じて結ばれました。
こうした拠点は、商品の保管、商談、宿泊、仲間同士の規則の運用などに使われます。現地社会の中に入りながらも、ハンザ商人独自の共同体を保つ場所でもありました。
北欧や東欧の商品は西方へ運ばれ、西ヨーロッパの毛織物や加工品は反対方向へ運ばれます。海は地域を隔てる境界であると同時に、都市同士を結ぶ道になったのです。
特権と交渉で北方交易の影響力を高めた
ハンザ商人は各地の支配者と交渉し、商業上の特権を獲得しました。主要な拠点を押さえることで、北海・バルト海の流通に強い影響力を持ちます。
同じ海域には、イングランド、スカンディナヴィア、ネーデルラント、ロシア方面の商人や地域勢力も活動していました。交易をめぐる競争の中で、ハンザは特権と利益を守ろうとしたのです。

⑯の答えは「アウクスブルク」
⑯にはアウクスブルクが入ります。南ドイツに位置し、アルプスを越えるイタリア方面の道と、北方へ向かう内陸路につながる都市でした。
13世紀には、アウクスブルクの商人がアルプス南側のボルツァーノで商品を売買していた記録があります。1300年ごろの取引先はまだ限られ、14世紀にヴェネツィアなどとの交易が伸びました。南ドイツの商業都市としては、ニュルンベルクも重要です。商品は都市や定期市を経由し、多くの商人の手を通って運ばれました。
交易都市の成長と、後世のフッガー家の鉱山金融
アウクスブルクの商人や金融業者は、後に鉱山の採掘・精錬・金属販売・融資へ活動を広げます。とくにフッガー家は、ティロル地方の銀やハンガリー方面の銅などの取引に深く関わり、ヨーロッパ有数の富を築きました。
12~13世紀の交易都市の成長と、15~16世紀のフッガー家の鉱山金融は、時期を分けて覚えましょう。アウクスブルクは、他地域の鉱山に資金と商業網をつなぐ拠点として栄えました。
都市の自治と、自由都市・帝国都市の地位
中世ドイツの都市では、市場、裁判、課税、防衛などを市の評議会が担うようになりました。自治権の範囲は都市ごとに異なり、皇帝・司教・諸侯との交渉や争いを通じて変化します。
帝国都市は、諸侯や司教を介さず国王・皇帝に直属する都市です。自由都市は、もともと司教などの支配から離れ、高度な自治を獲得した都市を指しました。後には両者の違いが薄れ、「自由帝国都市」とまとめて呼ばれることもあります。
帝国都市には皇帝への納税や軍事上の義務があり、都市内部にも身分差が残りました。有力商人が市政を握る都市では、手工業者が政治参加を求めて争うこともあります。都市の自治を読むには、住民のうち誰が意思決定に加われたのかまで確かめる必要があります。
北と南の商業圏は一つの流通網へ近づいた
北方ではハンザ都市が穀物や木材などを動かし、南方ではイタリア商人が東方からの香辛料や絹を扱いました。その間をつないだのが、シャンパーニュ地方の定期市や南ドイツの諸都市です。
商品は複数の商人や運送人に引き継がれ、倉庫、市場、河川港、山越えの道を経て運ばれました。
こうして地域ごとに分かれていた市場が、次第に広域の商業圏へ組み込まれていきます。都市の成長は、農村の生産物をより遠くの市場へ結びつけることにもなりました。
問題2:課税と代表の参加が結びついたイングランド議会
⑰の答えは「模範」
⑰には模範が入り、全体では模範議会となります。英語ではModel Parliamentと呼ばれ、1295年にイングランド王エドワード1世が招集しました。
この議会には、国王、貴族、高位聖職者だけでなく、各州の騎士や都市の市民代表も召集されました。後のイングランド議会で一般的になる代表構成の「型」を示したため、後世に模範議会と呼ばれています。
マグナ・カルタが王の権力に制約を設けた
1215年、イングランド王ジョンは有力諸侯の反発を受け、マグナ・カルタを認めました。課税や裁判に制約を設けた文書で、主に貴族・教会などの権利と封建社会の関係を扱っています。
1215年の文書はまもなく無効とされ、後に再発行されました。それでも、王も法や慣習に従うという原則は、後世の政治に大きな意味を持つようになります。権利を保障される範囲や、議会が王を制約する力は、その後の長い歴史の中で広がっていきました。
代表者を集めた大きな理由は課税だった
中世の王は、戦争、城の維持、行政運営などに多額の費用を必要としました。とくに13~14世紀の戦争費用は、新たな課税を求める大きな理由となります。貨幣経済と都市の発達によって、州や都市から集める税の重要性も増しました。
新たな課税を受け入れさせるには、諸侯だけでなく、州の騎士や都市の有力者からも同意を得る必要がありました。そこで王は、課税に関係する幅広い代表者を会議へ呼びます。
王は課税への同意を得たい。代表者は地域の要望や不満を伝えたい。両者の必要が交わり、代表を招く慣行が定着していきました。
1265年の先例から1295年の「模範」へ
1265年には、シモン・ド・モンフォールが州の騎士と都市代表を含む議会を招集しています。エドワード1世の時代にも代表を集める例が重なり、1295年の構成が後世の標準となっていきました。
このとき招かれたのは、原則として各州から騎士2人、各都市から市民代表2人です。騎士は地方の土地所有者層、都市代表は都市の有力者を主な基盤としていました。
1295年は代表構成の重要な節目です。貴族院と庶民院の分化は、さらに後の14世紀に進みました。騎士と都市代表が庶民院、貴族と高位聖職者が貴族院につながっていきます。

王の統治に協力し、地域の要求を伝える場
中世の議会は、国王が統治を進めるための協力機関でもありました。代表者は課税の承認を求められる一方、地域の請願や不満を示します。協力と交渉を重ねることで、議会の役割が広がりました。
都市や州には、代表を送り出す費用負担もありました。出席を義務や負担として受け止める場合もあり、代表の選び方と参加できる人の範囲は、地域ごとの慣行によって異なります。
立憲政治とは、統治者の権力を法や制度によって制限する政治のあり方です。マグナ・カルタ、課税への同意、代表の参加、請願などが長い年月をかけて積み重なり、その基礎を形づくりました。その後も王と議会の力関係は変動し、対立や内戦を経験します。模範議会は、その歩みの一つの節目として位置づけられます。
問題3:信用される金貨が遠隔地商業を支えた
⑱の答えは「フローリン」
⑱にはフローリンが入ります。1252年にフィレンツェで鋳造が始まった金貨で、イタリア語ではfiorino d’oro(フィオリーノ・ドーロ)と呼ばれます。日本語の「フィオリーノ金貨」も、この金貨を指す表記です。
表面にはフィレンツェを象徴するユリ、もう一方の面には都市の守護聖人である洗礼者ヨハネが表されました。金の品位や重量が比較的安定していたため、フィレンツェの外でも信用されるようになります。
遠隔地交易では、異なる地域の商人同士が取引します。価値を判断しやすい貨幣があると、高額の売買や決済を進めやすくなりました。
フローリン金貨は、都市の境界を越えて受け入れられる国際的な商業貨幣の一つになりました。
13世紀に西ヨーロッパで金貨が再び重要になった
中世前半の西ヨーロッパでは、銀貨が貨幣流通の中心でした。しかし、地中海交易や遠隔地商業が拡大すると、高額取引に適した金貨への需要が高まります。
1252年にはフィレンツェだけでなく、ジェノヴァでも金貨の鋳造が始まりました。さらにヴェネツィアでは、1284年にドゥカート金貨が導入されます。
1252年のフローリンは13世紀半ば、1284年のドゥカートは13世紀末です。金貨の鋳造と流通は、都市ごとに時期をずらして広がりました。
フローリンとドゥカートを混同しない
| 金貨 | 鋳造開始 | 都市 | 覚え方 |
|---|---|---|---|
| フローリン金貨 | 1252年 | フィレンツェ | フィレンツェのユリを表した金貨 |
| ドゥカート金貨 | 1284年 | ヴェネツィア | ヴェネツィアの交易を支えた金貨 |
空欄が「( )金貨」という形で、フィレンツェとの関係を問う場合はフローリンが有力です。ヴェネツィアや1284年が示されていれば、ドゥカートを答えます。
フローリンとドゥカートは、どちらも中世後期の国際商業で重要ですが、都市と鋳造開始年が異なります。
貨幣の流通には信用が必要だった
中世には多くの支配者や都市が貨幣を発行しました。貨幣によって重量や金属の含有量が異なるため、商人は価値を確かめる必要がありました。
商人は、貨幣の重さを量り、品位を確かめ、両替商を通じて価値を判断します。信用度の高い金貨は、検査や交渉の手間を減らしました。
都市が発行する貨幣の信頼性は、その都市の商業力にも影響します。一定の品質が保たれたフローリンは、フィレンツェ商人の活動範囲とともに広まりました。
貨幣の受け入れやすさには、金属の品質、発行都市への信用、商人の取引網、受け取る側の信頼が関わっていました。

羅針盤・眼鏡・時計は人々の行動範囲と時間感覚を変えた
⑲の答えは「羅針盤」
⑲には羅針盤が入ります。磁針を利用して方位を知る道具です。中国では11世紀に磁針についての記録があり、ヨーロッパでも12世紀末ごろに航海での利用が記されました。13~14世紀には、形状と使い方が発展します。
中国で発達した磁気の知識とヨーロッパでの利用を結ぶ、具体的な伝播経路は明らかになっていません。中国とヨーロッパの記録を、まずそれぞれの地域での利用を示す資料として読めます。
方位の情報を、海図や航海経験と組み合わせた
羅針盤が示すのは方角です。船の位置を判断するには、海岸線、水深、風、潮流、星、海図、航海経験などを合わせて使いました。
沿岸の目印や経験は、羅針盤の利用が始まってからも重要でした。嵐、暗礁、海賊、船体の損傷などの危険への備えも必要です。15世紀以降の遠洋航海には、船舶の改良、天体観測、国家の支援、商業資本など、さらに多くの条件が関わります。
眼鏡は読み書きを続けられる時間を延ばした
眼鏡は、13世紀末ごろのイタリアで作られ始めたと考えられています。初期の眼鏡は、二つのレンズをつないで鼻の上に載せたり、手で支えたりする形式でした。凸レンズで近くの文字を見やすくする、老眼の補助を主な用途としていたと考えられます。
眼鏡の普及は、修道士、聖職者、書記、商人、職人など、細かな文字や作業を見る人々に影響します。年齢とともに近くが見えにくくなっても、読書や写本制作、帳簿管理を続けやすくなりました。
知識や記録を扱える期間が延びることは、教育、行政、商業、技術継承にとっても意味のある変化でした。
機械時計は時間を共同で測る道具になった
ヨーロッパでは13世紀末ごろに機械式時計が現れ、14世紀には大型の公共時計が教会や都市の塔に設置されるようになります。鐘で時刻を知らせ、町の人々が時間を共有する設備となりました。
修道院では祈りの時刻、都市では市場、労働、会議、門の開閉などに時間が関わります。機械で一定の間隔を測る方法が加わる一方、太陽や季節に応じた時間の慣行も続きました。
初期の機械時計には誤差が大きいものもあり、公共の場で時を知らせる役割が中心でした。精密に秒を測る現代の時計へ至るには、さらに長い改良の歴史が必要です。
道具の成立は、記録・改良・普及を分けて見る
羅針盤、眼鏡、時計には、発明者や発明年を一つに決めにくいものがあります。原型となる知識、試作品、文書に残った最初の例、広く普及した時期が、それぞれ異なるためです。
13世紀を中心とするこの時期には、実用的な知識と道具が、都市・交易・知的活動の中で発達しました。歴史問題で世紀を覚えるときも、成立から普及までの段階を分けると、前後の時代と結びつけやすくなります。

三つの問題をつなぐと中世ヨーロッパの変化が見える
商人の活動範囲が地域の境界を越えた
ハンザ同盟は北海・バルト海の都市を結び、南ドイツの都市は地中海方面と北方をつなぎました。遠隔地商業が広がると、都市は周辺の農村に加え、遠くの産地や市場とも結びつくようになります。
商品の到着を待つ人、倉庫を管理する人、運送を担う人、貨幣を交換する人、契約を記録する人が必要になりました。商業の発達は、多くの仕事と制度を生み出します。
貨幣の普及が王の政治にも影響した
貨幣経済が発達すると、王は軍事力や行政を維持するため、貨幣による税収を求めるようになります。しかし、都市や州に広く課税するには、課税される側との交渉が必要でした。
経済活動が複雑になり、課税対象となる社会集団が広がったことが、代表者を集める政治の背景にありました。
議会の発展には、戦争費用、王位をめぐる争い、貴族との関係、法慣行も関わりました。経済の変化と政治上の交渉が重なる中で、その役割が広がったのです。
技術は商業を支え、商業は技術を広げた
羅針盤は航海を助け、時計は都市生活の時間を整え、眼鏡は文書を読む人の活動を支えました。一方で、こうした道具が広がるには、材料、職人、販売網、利用者が必要です。
技術が商業を発展させ、商業によって技術や知識が別の地域へ運ばれる。この相互作用が、中世後期の社会を変えていきました。
後世へ受け継がれた仕組み
中世ヨーロッパには、戦争、疫病、身分差、宗教対立がありました。同時に、都市の自治、遠隔地交易、金融、大学、議会、実用技術も発達しています。
こうした仕組みの一部は、形を変えて近代社会へ受け継がれました。当時の制度を読むときは、現代と似ている働きに加え、参加できる人の範囲や権利・義務の違いを確認しましょう。
問題を解くときの判断手順
この範囲では、用語を一つずつ覚えるより、地域、年代、役割の三つを組み合わせると混乱しにくくなります。
- 地域を確認する:北海・バルト海ならハンザ同盟、南ドイツの中継都市ならアウクスブルクを考える。
- 年代を確認する:1215年ならマグナ・カルタ、1295年なら模範議会、1252年ならフローリン金貨を結びつける。
- 役割を確認する:方角なら羅針盤、視力の補助なら眼鏡、公共の時間管理なら機械時計と判断する。
- 似た語を分ける:フィレンツェのフローリンと、ヴェネツィアのドゥカートを区別する。
- 説明文の誇張を補正する:「独占」「成立」「発明」といった語が、実際には段階的な変化を簡略化している場合があると考える。
まとめ
答えは、⑮ハンザ、⑯アウクスブルク、⑰模範、⑱フローリン、⑲羅針盤です。
ハンザ同盟は、北海・バルト海沿岸の都市と商人を結びました。アウクスブルクなどの南ドイツ諸都市は、北方と地中海方面をつなぐ内陸交易で発展します。
イングランドでは、王が課税への協力を得る必要から幅広い代表を集め、1295年の模範議会へつながりました。フィレンツェのフローリン金貨は、都市を越えて信用される貨幣として遠隔地商業を支えます。
羅針盤、眼鏡、時計は、それぞれ移動、視覚、時間管理を助けました。これらの道具は、知識の蓄積、職人の改良、都市の需要が重なって普及しました。
復習では、地域・年代・役割をそろえ、交易の拡大が貨幣・政治・技術とどう結びついたかを確認しましょう。別の形式で出題されても、年代と因果関係から答えを導きやすくなります。
参考資料
- ヨーロッパ・ハンザ博物館:ハンザの形成と都市の連合
- ヨーロッパ・ハンザ博物館:四大商館と交易品
- アウクスブルク市歴史事典:中世からの経済史(Mark Häberlein)
- フッガー財団公式:金属取引と金融
- ミュンスター大学・比較都市史研究所:帝国都市と自由都市
- 英国議会:マグナ・カルタ
- 英国議会:エドワード1世と模範議会
- 英国議会・Erskine May:議会の歴史
- 大英博物館:フィレンツェのフローリン金貨
- Lucia Travaini:フローリンからドゥカートへ(ミラノ大学公開論文)
- ヴェネツィア国立考古学博物館:造幣所と1284年の金貨
- スウェーデン国立科学技術博物館:羅針盤の歴史
- 英国検眼士協会・光学博物館:眼鏡の歴史
- 英国科学博物館:初期の機械時計
史実確認日:2026年10月11日。博物館・議会・大学・地域史研究の公開資料を照合しました。

