問題1(フランスにおける王権の回復):1339年から始まったイングランドとの百年戦争において、フランスは一時劣勢に立たされましたが、1429年に「神の啓示」を信じる農民の娘( ① )の指揮によって包囲されたオルレアンを解放しました。その後、フランス王( ② )が正式に戴冠して王位に就き、中央集権化への道が開かれました。①と②に入る人名を答えなさい。
問題2(モンゴル高原の再編と明朝の危機):15世紀、中国(明)の北方にあったモンゴル(北虜)では、西北モンゴルのオイラート部が台頭しました。1449年、オイラートの指導者( ③ )は、明の第6代皇帝正統帝(英宗)を土木堡(どぼくほう)で破って捕虜にしました。この事件を何といいますか。
問題3(室町将軍の暗殺と権威の失墜):日本では1441年、赤松満祐が、結託した一向一揆や守護大名の反発を背景に、独自の「くじ引き」で選ばれた室町幕府第6代将軍( ④ )を京都の自邸に招いて謀殺しました。この事件を( ⑤ )の変(あるいは乱)といいます。④と⑤に入る語句を答えなさい。
問題4(日本における徳政一揆の爆発):1428年(正長元年)、近江国坂本の運送業者である( ⑥ )の蜂起を発端に、畿内一帯で民衆や地侍が質地の返還や債務の破棄(徳政)を求めて一斉に蜂起した、わが国初の本格的な土一揆を何といいますか。
この4問は、フランス・明・室町日本と地域こそ離れていますが、いずれも「権威を支えていた仕組みが大きく動いた15世紀」という視点で結ぶことができます。
先に答えを確認しておきましょう。①ジャンヌ・ダルク、②シャルル7世、③エセン、④足利義教、⑤嘉吉、⑥馬借です。事件名は問題2が「土木の変」、問題4が「正長の土一揆(正長の徳政一揆)」です。
ただし、この問題文には、そのまま暗記すると少し危ない表現も含まれています。百年戦争の開始年、シャルル7世の即位と戴冠の関係、足利義教の「くじ引き」、一向一揆と嘉吉の乱の関係などです。社会人の学び直しでは、答えと同時にこの部分まで押さえておくと、歴史の流れがずっと見えやすくなります。
まず4問の答えを一覧で確認する
| 問題 | 答え | 覚えるポイント |
|---|---|---|
| 問題1 | ①ジャンヌ・ダルク ②シャルル7世 |
1429年のオルレアン解放とランスでの戴冠 |
| 問題2 | ③エセン 事件名:土木の変 |
1449年、明の皇帝正統帝がオイラート軍の捕虜となる |
| 問題3 | ④足利義教 ⑤嘉吉 |
1441年、赤松満祐が第6代将軍を暗殺 |
| 問題4 | ⑥馬借 事件名:正長の土一揆 |
1428年、徳政要求が近江から畿内へ広がる |
問題1|ジャンヌ・ダルクの登場は、なぜフランス王権回復の転機になったのか
答えは①ジャンヌ・ダルク、②シャルル7世
①に入るのはジャンヌ・ダルク、②はシャルル7世です。1429年、ジャンヌ・ダルクが加わったフランス側はオルレアンの包囲を解き、その後シャルル7世はランスへ進んで、同年7月17日に戴冠しました。
ここで大切なのは、「一人の少女が突然フランスを救った」という英雄物語だけで覚えないことです。ジャンヌの登場が大きな意味を持ったのは、軍事的な局面と王位の正統性という二つの問題が重なっていたからなのですね。

背景には、フランス王位そのものをめぐる争いがあった
まず年代を補正しておきましょう。問題文では百年戦争が「1339年から」とされていますが、一般には1337年から1453年までの戦争として整理されます。1339年にも重要な軍事行動はありますが、百年戦争の開始年を問われた場合は1337年とするのが基本です。
百年戦争は、単純なフランス対イングランドの国境戦争ではありません。フランス王位の継承問題、フランス国内に領地を持つイングランド王との封建的関係、さらにフランス国内の諸勢力の対立が重なった長期戦でした。
15世紀初めには、フランス国内でもアルマニャック派とブルゴーニュ派の対立が激しくなります。そこへイングランド王ヘンリ5世が侵攻し、1415年のアジャンクールの戦いでフランス軍を破りました。
1420年のトロワ条約では、フランス王シャルル6世の娘カトリーヌと結婚したヘンリ5世とその子孫がフランス王位を継承するという枠組みが作られ、王太子シャルルの立場はきわめて苦しくなりました。
オルレアン解放は「戦場の勝利」と「正統性回復」を結びつけた
1428年、イングランド軍はロワール川沿いの重要都市オルレアンを包囲します。ここを失えば、王太子シャルル側の支配地域への圧力はさらに強まる可能性がありました。
そこへ現れたのが、ロレーヌ地方ドンレミ出身の若い女性ジャンヌ・ダルクです。彼女は神から使命を受けたと語り、1429年にシャルルのもとへ到達しました。その後オルレアンへ入り、フランス側の攻勢に加わります。
5月初旬の戦闘を経て包囲は解かれ、5月8日は現在もオルレアン解放を記念する重要な日となっています。
ただし、「ジャンヌが一人で全軍を指揮してオルレアンを解放した」と理解するのは正確ではありません。フランス側にはジャン・ド・デュノワをはじめとする軍事指導者がおり、ジャンヌは軍勢の士気や攻勢を強く後押しした象徴的存在であると同時に、実際の軍事行動にも参加しました。
シャルル7世は1429年に初めて王になったわけではない
もう一つ、試験問題で混同しやすいところです。シャルル6世が1422年に死去した後、王太子シャルルはすでにシャルル7世として王位を主張していました。
したがって、「1429年の戴冠によって初めて王位に就いた」と単純化すると正確ではありません。1429年7月17日にランスで行われた戴冠式は、すでに王を称していたシャルル7世の正統性を、フランス王権の伝統的な儀礼によって強く示す意味を持っていたのです。
ランスは歴代フランス王の戴冠と深く結びついた場所でした。ですから、オルレアンで軍事的な流れを変え、さらにランスで戴冠するという展開には、単なる戦勝以上の政治的意味がありました。
王権回復はジャンヌ一人で完成したわけではない
ジャンヌ・ダルクは1430年にブルゴーニュ派に捕らえられ、1431年にルーアンで処刑されました。しかしフランス王権の回復はその後も続きます。
1435年にはシャルル7世とブルゴーニュ公との和解が進み、イングランド側はフランス国内の重要な協力勢力を失いました。その後フランス側は領土を徐々に回復し、1453年には百年戦争が事実上終結します。
つまり因果関係は、「ジャンヌ登場→すぐ中央集権国家完成」ではありません。オルレアン解放と戴冠は大きな転機ですが、その後の外交・軍制・財政・領土回復などが重なって王権強化へつながった、と考えるのがよいでしょう。
現代につながる見方
この出来事から見えてくるのは、政治権力には「実際に支配できる力」と「正統だと認められる根拠」の両方が必要だという点です。もちろん中世の王権と現代政治を同一視はできませんが、制度・儀礼・社会的承認が政治的権威を支えるという視点は、歴史を考えるうえで有効です。
問題2|土木の変で、なぜ明の皇帝本人が捕虜になったのか
答えは③エセン、事件名は土木の変
③はエセン、事件名は土木の変です。1449年、オイラートを率いたエセンの軍が、明の正統帝自ら率いる親征軍を土木堡で破り、皇帝本人を捕虜にしました。
これは単なる国境での敗戦ではありません。当時の東アジア最大級の国家であった明で、現役皇帝が敵軍に捕らえられるという非常に大きな政治危機でした。

明が成立してもモンゴル勢力が消えたわけではない
1368年に明が成立し、元朝は中国本土からモンゴル高原方面へ退きました。しかし、これで北方のモンゴル系勢力が消滅したわけではありません。
15世紀になるとモンゴル高原では諸勢力の再編が続き、西方ではオイラートが勢力を伸ばしました。エセンは父トゴンの基盤を継ぎ、広い地域に影響力を及ぼす有力者となります。
明とモンゴル側の関係は、戦争だけでも友好だけでもありません。朝貢や交易を通じた関係がある一方、使節数や交易条件、国境をめぐって緊張も生じました。こうした複雑な関係のなかで、1449年に大規模な軍事衝突へ発展します。
正統帝の親征が大敗へつながった
オイラート軍の侵攻に対し、正統帝は自ら大軍を率いて北方へ出兵しました。しかし明軍は十分な態勢を整えられないまま進軍・撤退を重ね、土木堡付近でオイラート軍に大敗します。
正統帝本人まで捕虜となり、多数の高官や兵士が失われました。これが1449年の土木の変です。
教科書では「エセン=ハン」と記されることもありますが、ここにも細かな注意点があります。1449年の時点では、答えはまず「エセン」と覚えるのが安全です。エセンが自らハーンを称するのは土木の変より後です。
皇帝を失っても、明という国家そのものは止まらなかった
ここが土木の変の面白いところです。皇帝が捕虜になれば国家が直ちに降伏する、とエセン側が期待しても不思議ではありません。しかし明朝廷は別の動きを見せました。
北京では兵部の于謙らが防衛を主張し、正統帝の弟である郕王を新皇帝として立てます。これが景泰帝です。皇帝を捕虜にしたというエセン側の政治的な切り札は、それだけで明全体を屈服させるものではなくなりました。
オイラート軍は北京にも迫りましたが、明側は防衛を続けます。正統帝は翌1450年に明へ戻されました。
さらに正統帝は帰国後すぐ復位したわけではありません。1457年の奪門の変によって再び皇帝となり、今度は天順の年号を用いました。ですから、正統帝と天順帝は別人ではなく、同じ英宗の二つの在位期として整理すると理解しやすいでしょう。
土木の変が示したのは「皇帝」と「国家機構」は同じではないということ
土木の変は明に大きな衝撃を与えましたが、明朝そのものが1449年に崩壊したわけではありません。朝廷は皇位を切り替え、北京を防衛し、国家機構を維持しました。
社会人の歴史学習では、ここを「明がモンゴルに負けた」で終わらせないことです。最高権力者が失われても行政・軍事・官僚機構が動き続けたという点を見ると、国家制度の強さと同時に、皇位をめぐる新たな政治問題も見えてきます。
問題3|足利義教はなぜ暗殺され、嘉吉の乱は幕府をどう変えたのか
答えは④足利義教、⑤嘉吉
④は室町幕府第6代将軍足利義教、⑤は嘉吉です。事件全体は嘉吉の乱と呼ばれ、「嘉吉の変」と表記されることもあります。
1441年6月24日、播磨などの守護であった赤松満祐は、京都の自邸に足利義教を招き、宴の最中に殺害しました。その後、満祐は播磨へ退き、幕府の追討を受けて同年9月に自害します。

「くじ引き将軍」は義教が勝手に行ったくじではない
足利義教はしばしば「くじ引き将軍」と呼ばれます。しかし、問題文の「独自の『くじ引き』で選ばれた」という表現は誤解を招きます。
第5代将軍足利義量が若くして亡くなった後、父で前将軍の足利義持が政治を担っていました。1428年に義持が後継者を明確に定めないまま死去すると、幕府首脳は義持の弟たちの中から後継者を選ぶ必要に迫られます。
そこで三宝院満済や管領畠山満家らが協議し、石清水八幡宮で行われた籤によって義円が選ばれました。この義円が還俗し、のちに足利義教となります。
つまり義教本人が「自分を将軍にするためのくじ」を考案したのではありません。幕府側が後継者決定の方法として神意を問う形式の籤を用いた、という順序です。
暗殺の直接的な背景は、守護大名に対する義教の強い統制だった
将軍となった義教は、幕府権力の立て直しを進めました。関東の鎌倉公方足利持氏を討った永享の乱をはじめ、有力武家の家督や領国支配にも強く介入します。
1440年には一色義貫や土岐持頼が殺害されるなど、有力守護にとって義教の政治は自らの地位を脅かしかねないものでした。赤松氏でも、義教が赤松氏内部の別系統を重用したことなどから、満祐の不安は強まっていったと考えられています。
その緊張の中で、満祐は義教を邸宅へ招き、猿楽の宴の最中に暗殺しました。
「一向一揆と結託して暗殺した」と覚えない
ここは問題文で最も注意したいところでしょう。赤松満祐が一向一揆と結託し、その力を背景に義教を暗殺したとする整理には無理があります。
15世紀の日本で宗教勢力や民衆運動が重要になること自体は間違いありません。しかし嘉吉の乱の直接的背景として押さえるべきなのは、義教の強権的な政治、有力守護家への介入、赤松氏内部の立場への不安などです。
歴史問題では、同じ15世紀に起きた出来事を一つの因果関係にまとめてしまう誤りがよくあります。「一向一揆も室町時代だから関係しているはず」と結びつけず、誰と誰が実際に対立していたのかを確認する習慣を持つとよいでしょう。
嘉吉の乱後、将軍個人の権威は大きく傷ついた
現職の将軍が守護大名の邸宅で殺害されたことは、幕府にとって重大でした。幕府はすぐには赤松氏を制圧できず、最終的には山名氏など有力守護の軍事力を動員して追討を進めます。
赤松満祐は播磨の城山城で自害し、赤松氏が持っていた守護職の一部は山名氏などへ移りました。事件後、室町幕府の政治では有力守護の存在感がさらに大きくなっていきます。
ただし、「嘉吉の乱が起きたから、そのまま応仁の乱になった」と一直線につなげるのも避けましょう。応仁の乱には将軍家・畠山氏・斯波氏の継承問題や細川氏と山名氏の対立など複数の要因があります。嘉吉の乱は、その前段階で将軍権威と守護大名の関係が変化していく重要な事件として見るのが適切です。
現代につながる見方
嘉吉の乱を見ると、一人の最高権力者が強大な力を持つことと、政治制度そのものが安定していることは同じではないと分かります。義教は将軍権力を強めましたが、その強い統制が有力者の不安を増幅し、本人の死後には権力構造が大きく揺れました。
もちろん現代政治へそのまま置き換えることはできません。しかし、「個人の力」と「制度として持続する力」を分けて見る視点は、政治史を理解するうえで役立ちます。
問題4|正長の土一揆では、なぜ馬借の蜂起が広域運動へ発展したのか
⑥は馬借、事件名は正長の土一揆
⑥に入るのは馬借(ばしゃく)です。事件名は正長の土一揆、または正長の徳政一揆と呼ばれます。
馬借とは、馬を使って荷物を運搬した中世の運送業者です。単に農村で馬を飼っていた人々という意味ではありません。交通路や市場との結びつきが強く、人や情報が行き交う中世社会の流通を担った人々でした。

近江坂本から徳政要求が広がった
1428年、近江国坂本の馬借の蜂起を一つの起点として、徳政を求める運動が山城などへ波及しました。山科・醍醐方面の住民も加わり、さらに畿内各地へ広がっていきます。
ここでいう徳政とは、借金の帳消しや、担保として渡した土地・物品の取り戻しなどを求めるものです。当時の京都では酒屋や土倉が金融業を営んでおり、一揆勢はこうした債権者に対して証文の破棄や質物の奪還を行いました。
幕府に徳政令の発布を求めるだけでなく、自ら実力で債務関係を破棄しようとする行動も見られます。このような行動は私徳政と呼ばれます。
なぜ「わが国初の本格的な土一揆」といわれるのか
正長の土一揆については、興福寺大乗院に関係する記録『大乗院日記目録』に、天下の土民が蜂起し、日本が始まって以来初めてのことだという趣旨の記述があります。
このため教科書では、正長の土一揆を最初の本格的な土一揆として扱うことが一般的です。
ただし、「1428年以前の日本には民衆による集団抵抗が一度もなかった」という意味ではありません。ここで重要なのは、徳政という共通要求を掲げた大規模な蜂起が広域へ波及し、当時の記録者にも画期的な事件として認識されたという点です。
「土一揆=農民だけの反乱」と考えると見誤る
もう一つ大切なのが参加者です。「土民」という言葉から農民だけを想像しやすいのですが、実際の運動には馬借、地域住民、農民、地侍などさまざまな層が関わりました。
中世の社会運動を現代的な職業分類に当てはめすぎないことが大切です。交通を担う馬借が運動の起点になったことからも、都市・農村・交通路が互いに結びついていた様子が見えてきます。
土一揆はその後の室町社会にも続く
正長の土一揆の後も、徳政を求める一揆は繰り返されました。寺院や都市側が防御を強化したことも確認されており、京都の東寺では、正長年間から文明年間に頻発した土一揆への防御と考えられる堀の遺構が発掘されています。
つまり土一揆は、一度だけ起きた突発事件ではありません。債務や土地、流通、地域社会の自治など、中世後期の社会構造と深く結びついた現象でした。
現代の債務整理制度などと直接同じものではありませんが、経済的な負担が個人の問題にとどまらず、集団的な政治要求へ変わることがあるという点は、社会史を考える材料になります。
1428〜1449年を一本の時間軸にすると4問がつながる
ここまでを年代順に並べると、記憶しやすくなります。問題文の順番ではなく、実際の年代順にしてみましょう。
- 1428年:日本で正長の土一揆。近江坂本の馬借を起点の一つとして徳政要求が畿内へ広がる。
- 1429年:フランスでオルレアン包囲が解かれ、ジャンヌ・ダルクの働きが注目される。同年7月17日、シャルル7世がランスで戴冠。
- 1441年:日本で嘉吉の乱。赤松満祐が室町幕府第6代将軍足利義教を暗殺。
- 1449年:明で土木の変。オイラートのエセンが明軍を破り、正統帝を捕虜にする。
こうしてみると、わずか20年ほどの間に、西ヨーロッパから東アジアまで大きな政治的変動が続いています。

4つの出来事は「権威の回復」と「権威の限界」で比較すると覚えやすい
| 出来事 | 何が揺らいだか | その後どうなったか |
|---|---|---|
| オルレアン解放とシャルル7世戴冠 | フランス王位の正統性と支配力 | 戴冠と領土回復を通じて王権が再建されていく |
| 土木の変 | 明皇帝の軍事的権威 | 皇帝を交代させ、国家機構と北京防衛を維持 |
| 嘉吉の乱 | 室町将軍の権威 | 有力守護への依存とその政治的存在感が増す |
| 正長の土一揆 | 既存の債権・土地秩序 | 徳政を求める集団行動が室町社会で繰り返される |
フランスでは王の権威が立て直される方向へ進みました。一方、明では皇帝本人が捕虜になっても国家制度は存続し、日本では将軍が暗殺され、さらに民衆側からも既存秩序を揺さぶる動きが起きています。
ですから、この4問は人名だけをばらばらに覚えるより、「15世紀には、支配者の権威を支える仕組みそのものが各地で試された」とまとめると理解しやすくなります。
試験で間違えやすいポイントを最後に整理
百年戦争は1339年開始ではなく、一般には1337年開始
問題文の1339年をそのまま暗記しないようにしましょう。標準的な年代整理では1337〜1453年です。
シャルル7世は1429年の戴冠で初めて王を名乗ったわけではない
シャルルは1422年から王位を主張しています。1429年のランス戴冠は、その正統性を強める政治的・宗教的意味を持つ出来事です。
ジャンヌ・ダルクをオルレアン軍の唯一の司令官としない
ジャンヌは非常に重要な役割を果たしましたが、フランス軍には他の軍事指導者もいました。「ジャンヌ一人が軍を指揮して勝った」と単純化しないことが大切です。
エセンは「土木の変」とセットで覚える
エセン―オイラート―1449年―正統帝捕虜―土木の変という流れで覚えると混乱しにくくなります。
足利義教の籤は本人が勝手に行ったものではない
幕府首脳が後継者を決める方法として籤を採用し、石清水八幡宮で実施されました。選ばれた義円が還俗して義教となります。
嘉吉の乱を一向一揆との直接的な結託で説明しない
中心となる背景は義教と有力守護の関係、とくに赤松氏の立場への不安です。一向一揆を直接の暗殺勢力として結びつける整理は避けましょう。
正長の土一揆の⑥は「馬借」
馬借は馬による運送業者です。「農民」という答えでは空欄⑥には入りません。また事件名は正長の土一揆または正長の徳政一揆です。
FAQ
問題2では「エセン」と「土木の変」の両方を答えるのですか?
問題文には③の空欄と事件名を尋ねる文があるため、学習時には③エセン、事件名は土木の変の両方を答えられるようにしておくのが安全です。
問題3の⑤は「嘉吉の乱」と書けば間違いですか?
空欄が「(⑤)の変」となっているなら⑤には「嘉吉」と入れます。事件全体の名称を答える設問なら「嘉吉の乱」または「嘉吉の変」とします。教材によって表記が異なる場合があるため、設問の文型を確認してください。
正長の土一揆と嘉吉の徳政一揆は同じものですか?
同じではありません。正長の土一揆は1428年、嘉吉の徳政一揆は嘉吉年間に起きた別の徳政運動です。「嘉吉」という年号が問題3の将軍暗殺にも登場するため、出来事を混同しないようにしましょう。
まとめ|答えより先に「何が変わった事件か」を思い出す
最後に、もう一度答えを確認します。
- ① ジャンヌ・ダルク
- ② シャルル7世
- ③ エセン、事件名は土木の変
- ④ 足利義教
- ⑤ 嘉吉、事件名は嘉吉の乱(嘉吉の変)
- ⑥ 馬借、事件名は正長の土一揆(正長の徳政一揆)
暗記するときは、人名と事件名だけでなく「その事件で、どの権威や社会秩序がどう変化したのか」を一文で説明できる状態を目指してください。
おすすめの順番は、まず1428・1429・1441・1449年を時系列で並べ、次に「正長の土一揆―オルレアン解放―嘉吉の乱―土木の変」と出来事を置き、最後に馬借・ジャンヌ・ダルクとシャルル7世・足利義教・エセンを結びつける方法です。年代と因果関係を分けて覚えるだけで、人物名だけの丸暗記よりかなり崩れにくくなります。
参考資料
- コトバンク/山川出版社『山川 世界史小辞典 改訂新版』「土木の変」(2026年8月13日確認)
- ジャパンサーチ「足利義教の治世」(2026年8月13日確認)
- 鳥取県「第114回県史だより 嘉吉の乱と伯耆山名氏」(2026年8月13日確認)
- コトバンク「正長の一揆」(2026年8月13日確認)
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「大乗院日記目録」(2026年8月13日確認)
- 京都市埋蔵文化財研究所「教王護国寺(東寺)境内現地公開資料」(2026年8月13日確認)

