倭の五王が中国へ使者を送ったころ、ユーラシアでは何が起きていたか

大学受験歴史

問題1:倭の五王と刀剣の銘文
5世紀の中国史料には、南朝へ使者を送った倭の五王(讃・珍・済・興・武)が記されています。
(1)倭王武は、ワカタケル大王・雄略天皇に比定する説が有力です。ワカタケル大王の名を記す鉄剣と、その名に復元される銘文を持つ大刀が出土した、埼玉県と熊本県の古墳を、それぞれ答えてください。
(2)倭王武の上表文で、朝鮮半島での倭と中国の交流を妨げる相手として訴えられている国はどこですか?

問題2:北魏の改革
(1)5世紀末、北魏の都を平城から洛陽へ移し、言語、服装、姓などの改革を進めた皇帝は誰ですか?
(2)この皇帝の治世に、馮太后らのもとで整備された土地支給の制度と、五家を隣・五隣を里・五里を党とする戸口管理の制度を、それぞれ答えてください。

問題3:ササン朝の東西の外交
(1)6世紀、ササン朝のホスロー1世が突厥と連携して、その中心的な勢力を破った中央アジアの集団は何ですか?
(2)ホスロー1世と同時代に、地中海の旧ローマ領の回復を進め、ササン朝との戦争と和平にも取り組んだ東ローマ皇帝は誰ですか?

答えと解説:人物、史料、制度を組み合わせる

設問 答え 確認する内容
1(1) 稲荷山古墳・江田船山古墳 金錯銘鉄剣と銀象嵌銘大刀
1(2) 高句麗 倭王武の外交上の訴え
2(1) 孝文帝 洛陽遷都と言語・服装などの改革
2(2) 均田制・三長制 土地と戸口・租税の把握
3(1) エフタル 560年ごろ、中心的な勢力が敗北
3(2) ユスティニアヌス1世 東ローマの西方遠征と対ササン朝外交

5〜6世紀の各地では、王権が外交や制度を通じて支配を整えていました。倭は中国の官爵を求め、北魏は土地と戸口を把握する仕組みを作り、ササン朝は東西の競争相手と戦争・同盟・和平を組み合わせました。史料の内容と政策の目的をつなぐと、同時代の違いを具体的に比較できます。

深掘り1:倭の五王が中国南朝へ使者を送った理由

倭の五王は、5世紀に中国の南朝へ使者を送った讃・珍・済・興・武の五人です。『宋書』倭国伝は、朝貢、官爵の授与、倭王の要求などを伝えています。倭王にとって中国皇帝からの称号は、国内外で自らの地位を示す権威となりました。

当時の朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅、加耶諸国が競争や協力の関係を結んでいました。倭も半島南部と交流し、鉄素材、技術、人の移動に関わっています。中国への遣使には、こうした国際関係の中で軍事・外交上の立場を高める狙いがありました。

478年の倭王武の上表文は、祖先からの征服や支配を述べ、高句麗が交流の道を妨げると訴えています。倭王が自分の王権と対外活動を、中国皇帝への言葉としてどう説明したかが分かる資料です。

武は、倭と朝鮮半島の諸地域の軍事を統括する称号を求めました。称号の要求と宋からの授与には範囲の違いがあり、各地で実際に行使された権力は、別の史料や遺跡も合わせて検討されます。官爵は、中国の外交秩序の中での位置づけと、倭王自身の主張を読む手がかりです。

倭王武とワカタケル大王

倭王武を、列島の刀剣銘文に見えるワカタケル大王、さらに記紀の雄略天皇に比定する説が有力です。これは、中国史料の年代、王の系譜、列島内の銘文などを組み合わせた判断です。五王すべての比定には、なお議論が残っています。

中国の史書、刀剣の銘文、後世に編纂された記紀は、作られた時期と目的が異なります。それぞれの記述を確かめ、対応する人物や出来事を検討することで、5世紀の王権の姿が研究されています。

深掘り2:二つの古墳と銘文が伝える王権

埼玉県行田市の稲荷山古墳からは、金錯銘鉄剣が出土しました。鉄剣には金線を埋め込んだ115文字があり、「辛亥年」、ヲワケという人物の系譜、ワカタケル大王に仕えたことが記されています。辛亥年は一般に471年とされ、531年とする説もあります。

熊本県和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌銘大刀には、大王の時代、仕えた人物、刀を作った人物、文字を書いた人物などが刻まれています。大王名の部分には欠損があり、稲荷山鉄剣の銘文などとの比較によってワカタケルと復元されます。

両古墳は、東国と九州という遠く離れた場所にあります。銘文に現れる大王への奉仕は、王権と各地の有力者の結びつきを考える重要な情報です。人々の系譜や役割を記した刀剣から、文字によって政治的な関係を表す営みも読み取れます。

古墳の規模や形、副葬品も、有力者の地位や交流を検討する資料です。広域に見られる共通の墓制と、地域ごとの違いを合わせて見ると、王権と地方勢力の関係をより具体的に考えられます。

深掘り3:孝文帝と馮太后の改革

北魏は鮮卑の拓跋氏が386年に建て、439年に華北を統一した王朝です。広い農耕地帯を治めるため、北方の軍事的な基盤と、中国の官僚や制度を結びつけていきました。

孝文帝の治世前半には、馮太后が政治を主導し、土地と戸口に関する改革が進められます。485年に均田制、486年に三長制が実施されました。孝文帝の治世の改革として整理しながら、実際に政策を支えた人物も確認すると、その経過が分かります。

孝文帝は494年に平城から洛陽へ遷都し、支配者層の言語、服装、姓、婚姻などに関わる改革を推進しました。洛陽は古くから中国王朝の都として重みを持つ都市です。遷都といわゆる漢化政策は、北魏の王権と支配者層を、中原の政治・文化の秩序へ結びつける役割を持ちました。

こうした変化の中で、洛陽の宮廷と北方の軍事集団の関係にも距離が生じます。6世紀の北方の反乱と王朝の混乱には、軍人の地位や生活の悪化、食糧事情など複数の要因が関わりました。改革、軍事集団、地域社会の変化を合わせて考えることが重要です。

均田制:土地を支給し、負担の基礎を整える

均田制は、年齢や身分などに応じて土地を支給し、農業生産と租税・労役の負担を支える制度です。返還を要する耕地と、桑などを植えて継承できる土地には、扱いの違いがありました。成年男子だけでなく、女性や奴婢などについても支給の規定が設けられています。

制度を運用するには、土地の所在や耕作する人々を把握する必要があります。豪族のもとに集まる農民を国家の戸籍と負担の仕組みに組み込むことも、重要な課題でした。土地の利用と租税の確保が、政策の中で結びついています。

土地と農民を把握する制度を表す説明用イメージ
均田制と三長制は、土地の支給と戸口・租税の把握を支えた。田畑、建物、衣装は説明用の創作図案で、北魏の特定の村落の復元資料ではない。

三長制:村落と戸口を把握する

三長制では、五家を隣、五隣を里、五里を党とし、それぞれに長を置きました。戸口、徴税、労役などの管理を、地域の単位から国家の統治へつなぐ仕組みです。

均田制の土地支給と、三長制による人の把握は、租税や労役を確保するための基盤を作りました。北魏の制度は、その後の中国王朝の土地制度と地方統治を考えるうえでも重要な前提になります。

深掘り4:ホスロー1世と中央アジアの勢力再編

ホスロー1世(在位531〜579年)は、ササン朝を代表する王の一人です。父カワード1世からの改革を受け継ぎ、徴税と軍事組織を整備しました。土地や負担の把握を通じて王権の財政を支えるという点で、北魏の改革との比較にもつながります。

東方では、エフタルがササン朝に大きな圧力をかけていました。484年にはササン朝のペーローズ王が敗れて戦死しています。ホスロー1世は、新たに中央アジアで勢力を広げた突厥と連携し、560年ごろにエフタルの中心的な勢力を破りました。詳しい年代は史料や研究によって幅があります。

ササン朝と突厥の連携を表す説明用イメージ
ホスロー1世のササン朝は突厥と連携してエフタルに対抗した。人物、衣装、旗は同盟を象徴する創作図案で、実際の会見の記録や復元図ではない。

敗北後も、エフタル系の諸勢力は各地に残りました。また、グプタ朝に圧力を加えたインドのフーナを、アルチョンなどの集団に区別して考える研究もあります。中央アジアとインドの集団の関係には議論があり、活動の地域と時期を区別して検討されています。

エフタルの中心勢力の敗北は、中央アジアの領域と交通路をめぐる競争を変えました。ササン朝と突厥の利害も変化し、同盟から新たな対立へと進みます。共通の相手との戦争後に、隣接する強国どうしの関係が組み直されたのです。

深掘り5:ユスティニアヌス1世との戦争と和平

東ローマのユスティニアヌス1世(在位527〜565年)は、北アフリカやイタリアなどで旧ローマ領の回復を進めました。同時に、帝国の東方ではササン朝との国境と和平を維持する課題を抱えます。

両帝国は532年に和平を結びました。その後、540年にはホスロー1世がローマ領へ侵攻し、アンティオキアを攻撃します。戦争と交渉は、メソポタミアやコーカサス方面にも及び、軍事と財政の負担を伴いました。

この二人を並べると、ユスティニアヌスの西方遠征と、帝国東方の外交が同時に進んでいたことが分かります。ホスロー1世も、中央アジアとローマ方面の両方に対応しました。東西の情勢と財政・軍事の条件が、それぞれの政策を支えていたのです。

まとめ:同時代の支配を史料と制度から読む

倭の五王の遣使と刀剣銘文は、王権の対外的な主張と各地の人々との結びつきを伝えます。北魏の均田制・三長制は、土地、戸口、租税を把握する統治の基盤でした。ササン朝は、東西の強国との関係を組み合わせて勢力を維持します。人物に史料・制度・外交相手を添えて整理すると、5〜6世紀の各地域の変化を比較して理解できます。

参考資料