シュメール人はなぜ都市を築いた?神殿と都市国家の始まり

完新世

問題|都市国家・神殿・政治のつながりを考える3問

問1(都市国家を築いた人々)

ティグリス・ユーフラテス両河の下流、南メソポタミアでは、先行する集落を土台に前4千年紀に都市化が進み、前3千年紀にはウル・ウルク・ラガシュなどの都市国家が発達しました。この地域で、他の言語との系統関係が確立していない言語を用い、都市文明の発展に重要な役割を果たした人々を何と呼びますか。

問2(神殿を支える巨大建築)

メソポタミアでは、神殿を高い位置に設けるため、日干しレンガなどを積んだ巨大な階段状の基壇(きだん)が造られました。前2100年ごろにウル・ナンム王がウルに建てたものがよく知られる、この建築を何と呼びますか。

問3(神の権威に基づく統治)

シュメールの都市国家では、支配者が神から統治を託されたという考え方が王権を支え、宗教と政治が深く結びついていました。このように神や宗教的な権威によって統治が正当化される政治のあり方を何と呼びますか。

  1. 問題の答えと解説
    1. 問1の答え:シュメール人
    2. 問2の答え:ジグラト
    3. 問3の答え:神権政治(しんけんせいじ)
  2. なぜ、神殿を中心に都市国家が育ったのか
  3. シュメール人が暮らしたのは、二つの川の下流域
    1. ウルク・ウル・ラガシュはどこにあった?
    2. 「シュメール人」の出自はどこまで分かる?
  4. 村があった土地で、なぜ都市が大きくなったのか
    1. 畑の収穫は、水と共同作業に支えられた
    2. 農業以外の仕事をする人を、どう養うか
  5. ウルクでは、建物・生産・記録が一緒に変わった
    1. 大きな建築は、集団を動かす力の表れ
    2. ろくろと型は、多くの器を作る社会に合っていた
    3. 粗い器を使って、パンと仕事の関係を調べる
    4. 人の記憶を越える量を、粘土に残す
    5. 小さな粘土板に、穀物と数量を組み合わせる
  6. 都市国家とは、都市と周辺の暮らしを治める国
    1. 都市と周辺の村・農地を含む政治のまとまり
    2. 文化を共有しながら、都市どうしが競い合った
  7. 神殿は、祈りと暮らしが交わる場所だった
    1. 神の家を支えるには、人と物が必要になる
    2. 土地・家・家畜の取引を、石に残す
    3. 「神権政治(しんけんせいじ)」は、王が神から権威を受ける仕組み
  8. ジグラトは何のための建物だったのか
    1. 高い基壇(きだん)の上に、神をまつる場所を置く
    2. ウルクの都市化と、ウルの有名なジグラトは時代が違う
    3. 王の建築を、乾かすレンガと人の手から見る
  9. 周辺地域と、その後の時代へ視野を広げる
    1. 東のスサでも、物資を記録する仕組みが育った
    2. イェリコ、ニネヴェとは、場所も時代の焦点も異なる
    3. シュメール人とアッカド人の違いは?
  10. まとめ|都市は、人の仕事をつなぐ仕組みから育った
  11. 関連記事
  12. 参考資料

問題の答えと解説

問1の答え:シュメール人

シュメール人は、南メソポタミアでシュメール語を用い、都市文明の発展を担った人々です。シュメール語の系統関係は明らかになっておらず、人々の出自や移住時期にも未解明の点があります。都市の成立は、先行する集落の暮らしから続く長い変化として捉えられます。

問2の答え:ジグラト

ジグラトは、神殿を支える巨大な階段状の基壇です。高い場所に神殿を設ける伝統が発達し、前2100年ごろにはウル第三王朝の王による大規模な建設が行なわれました。有名なウルのジグラトは、ウルクで都市化が進んだ前4千年紀末より後の時代に属します。

問3の答え:神権政治(しんけんせいじ)

神権政治は、神や宗教的な権威を統治の根拠とする政治のあり方です。シュメールでは、神から統治を託された支配者という考えが王権を支えました。実際の都市運営には神殿・宮殿やさまざまな役割の人々が関わり、その力関係は都市や時代によって変化しました。

なぜ、神殿を中心に都市国家が育ったのか

食料を生み、水路を保ち、仕事を分担し、物資を配る仕組みが結びついて、都市を支える社会が育ちました。神殿はその重要な拠点となり、やがて王たちが都市と周辺の土地を治める都市国家が競い合います。

舞台は、現在のイラク南部にあたる南メソポタミア。前4千年紀にウルクなどで都市化が進み、前3千年紀には都市国家が競い合うようになります。灌漑(かんがい)で育てた作物が、都市で働く人々を支えました。

川から引いた水の先に畑があり、その収穫物が都市へ運ばれる。水路と農地から、都市の工房や神殿へ、人々の仕事がつながっていました。

シュメール人が暮らしたのは、二つの川の下流域

ウルク・ウル・ラガシュはどこにあった?

ティグリス川とユーフラテス川は、西アジアを流れてペルシア湾へ向かいます。この二つの川を中心とする地域がメソポタミアです。南部の平野には、川が運んだ土砂が積もり、耕地と湿地が広がっていました。

その南部で発達した都市に、ウルク、ウル、ラガシュがあります。ウルクとウルは名前が似ていますが、別の都市です。ウルはウルクの南東、ラガシュはウルクのほぼ東、わずかに北に位置します。さらにウルの南西には、早くから神殿が営まれたエリドゥがありました。

図:前4千年紀末〜前3千年紀の主要都市と周辺地域の位置を示す概略図。河道や海岸線は時代によって変化するため、図では都市の位置関係を中心に示しています。

現在の地図で遺跡を見ると、川から離れている場所もあります。川筋や湿地の広がりは、長い時間の中で変化しました。今は乾いた土地にある遺跡も、かつては水路や船の往来で結ばれていました。

ペン博物館のラガシュ発掘調査も、都市が耕地と湿地の入り交じる環境に育ち、市内や都市間の移動に船が使われたことを重視しています。水は畑を潤すとともに、人や荷物を運ぶ道にもなっていました。

「シュメール人」の出自はどこまで分かる?

シュメール人は、南メソポタミアでシュメール語を用い、都市文明の発展に重要な役割を果たした人々です。シュメール語は、現在知られている他の言語との系統関係が確立していない「孤立した言語」に分類されます。

シュメール人の出自や南メソポタミアへの移住時期は、まだ明らかになっていません。この地域には都市化以前から集落があり、長く続いた暮らしの中で都市が発達しました。

村があった土地で、なぜ都市が大きくなったのか

畑の収穫は、水と共同作業に支えられた

前4千年紀の都市化より前、南メソポタミアではウバイド文化の時代から集落・農業・神殿が発達していました。こうした集落で積み重ねられた生産や共同作業を土台として、都市化が進んでいきます。

雨の少ない南部で農業を営むには、川の水を利用することが重要でした。灌漑とは、水路などを通して畑へ水を引くことです。水を届けられれば耕作の可能性が広がりますが、水路を使い続けるには、土砂を取り除き、壊れた場所を直し、水の流れを保つ仕事が続きます。

同じ水系を使う畑では、一つの場所の作業が別の場所にも影響します。水を使う順番や、誰が補修に加わるかを調整する必要が生じます。こうした課題は、家族だけで完結する暮らしから、より大きな集団で協力する暮らしへ目を向ける手がかりです。

農業と人口の変化、手工業、交易、信仰、集団をまとめる権力が、長い時間をかけて関わり合いました。

農業以外の仕事をする人を、どう養うか

都市に暮らす人が増えると、土器を作る人、布を織る人、建物を造る人、荷を運ぶ人、物資を管理する人など、農業以外の仕事も広がります。こうした仕事の専門化を支えるには、農業以外の仕事をする人へ食料が届く仕組みが欠かせません。

収穫物の一部を集めて保管し、働く人へ渡す。そこには、物を集める場所、管理する人、運ぶ手段が要ります。食料が多く採れることと、それを都市の暮らしに結びつけることの間には、いくつもの仕事が挟まっていました。

農家は都市へ食料を供給し、都市の工房や管理組織は道具・製品・労働の組織化などを通して周辺の暮らしに関わります。農村と都市は、食料や製品、人の仕事を通して支え合っていました。

南部で手に入りにくい石材、金属、上質な木材などを入手するため、遠い地域との交換も広がりました。耕地と水路に根を張りながら、遠方へもつながっていく。都市は、その両方を持つ場所として育ちました。

ウルクでは、建物・生産・記録が一緒に変わった

大きな建築は、集団を動かす力の表れ

前4千年紀、ウルクは南メソポタミアを代表する大きな中心地になります。前3200年ごろには、日干しレンガの巨大建築や高度な工芸品を備えた、当時最大級の都市へ成長していました。

日干しレンガは、形を整えた泥を乾燥させた建材です。南部で手に入れやすい土を使えますが、大きな建築には大量のレンガを作り、運び、積む人手が必要です。建物の大きさは、材料の量だけでなく、労働を集めて作業を続けさせる組織の存在も示しています。

ウルクには、大規模な公共・宗教建築が集まる区域がありました。個々の建物の用途や、そこで働いた人々の役職には未解明の点が残ります。発掘された建築、道具、印章、粘土板を組み合わせて、都市の運営が探られています。

ろくろと型は、多くの器を作る社会に合っていた

人が増え、食料を保管・加工・分配する活動が広がると、容器も多く必要になります。ウルク文化では、高速で回転するろくろや型を用いた土器の量産が見られます。器を一つずつ作る技術に加え、数をそろえる生産が重要になりました。

都市の規模が大きくなるほど、同じような道具や器をまとまった数で用意する意味が増します。土器の作り方は、都市で必要とされた仕事の変化を映しています。

形のそろった器は、穀物の配給に使われたとも考えられています。具体的な用途には議論があり、地域や時期によって使い方が異なった可能性もあります。

粗い器を使って、パンと仕事の関係を調べる

ウルク期の大量生産を代表するのが、口の縁を斜めに切った厚手の鉢です。英語ではベベルリム・ボウルと呼ばれます。粗い土で作られた似た形の器が多く出るため、一定量の食料を渡す容器とする解釈が広がりました。形をそろえて数を作ることが、人々への食料供給と結びついていた可能性があります。

2010年のジル・グールダーの研究は、実験考古学から、この器をパンを焼く型として検討しました。厚い壁と円錐形の形状で膨らんだパンを焼けることを示し、公的な仕事に携わる人への食料供給に関わった可能性を提案しています。パン型として働くことと、発掘された器のすべてに同じ用途を認めることは区別して検討されています。グールダー「Administrators’ bread」

穀物を渡す場合には、受け取った後に挽いて調理する仕事が残ります。パンを渡す場合には、挽く、こねる、焼く工程を供給する側が担います。器の用途の違いは、食料の姿と、調理を誰が担当したかという都市生活の仕組みに関わります。容器の数と形、使った痕跡、出土した建物を合わせることで、その仕事の分担を考えられます。

人の記憶を越える量を、粘土に残す

荷物が集まり、出入りが増えると、「何を、どれだけ、誰に渡したか」が重要になります。前4千年紀末の南メソポタミアでは、粘土板に数量や品物を示す記号を記し、物資や配給を管理する記録が現れました。後の楔形文字(くさびがたもじ)へつながる初期の文字です。

たとえば、穀物を運び込む人と、倉庫で量を確かめる人、働く人へ配る人が別なら、その間を結ぶ記録が役立ちます。数量を後から照合できるようになるからです。記録は、互いに直接は知らない人々の仕事をつなぐ役割も果たしました。

食料の種類と量を記録し、出入りを照合する仕事が、文字の発達を支えました。

初期の記録は、絵に近い記号と数の組み合わせで、品物や数量を示すものが中心でした。記録の仕組みが発達し、言葉をより詳しく表せるようになるにつれて、文字の用途も広がっていきます。

小さな粘土板に、穀物と数量を組み合わせる

メトロポリタン美術館の粘土板1988.433.2は、前3100〜2900年頃に作られた、縦4.7、横6.5、厚さ2センチメートルの資料です。先のとがった道具で描いた絵に近い記号と、数量を示す丸い押し跡を組み合わせています。大麦やエンマー小麦の受け入れ・分配に関する記録と考えられています。初期の記録には動詞が乏しく、具体的な取引の方向には不確かさが残ります。メトロポリタン美術館・穀物の管理粘土板

品物を表す記号と数の印を対応させれば、種類の異なる穀物を別々の項目として残せます。読み手は、記号が表す品物と、数の単位を共有している必要があります。記録を残す道具に、読む側の知識が加わって、物資を照合する仕組みが働きます。都市の管理には、食料を得る力と、こうした約束を運用する技術が重なっていました。

都市国家とは、都市と周辺の暮らしを治める国

都市と周辺の村・農地を含む政治のまとまり

前2900〜2350年ごろの初期王朝期になると、南メソポタミアでは都市国家が競い合います。ウルクの都市化が進んだ前4千年紀末から、さらに時代が進んだ段階です。ウル・ウルク・ラガシュは、それぞれの発展の過程を経て、都市と周辺領域を治める中心地になりました。

都市国家は、中心都市と、その周囲の村・農地・水路などを含む政治的なまとまりです。都市の中には神殿や宮殿、工房、住宅があり、外側の生産地がそこで暮らす人々を支えます。

都市国家ラガシュには、ラガシュ市を含む複数の都市がありました。「ラガシュ」という名は、一つの都市と、それを含む国の領域の両方に使われています。

村から続く共同作業や信仰に加え、都市国家には、人や物資を継続して動かす組織、領域を支配する権力、他の政治集団と交渉し争う力が備わっていました。

文化を共有しながら、都市どうしが競い合った

「シュメール」は、これらの都市があった地域や文化を指す呼び名です。都市どうしは言語や神々、文字の使い方などを共有しながら、それぞれの支配者のもとで政治的な利害を競っていました。

耕地、水路、交易の通り道は、どの都市にとっても重要です。領域を守り、広げようとする動きは、交渉や戦争につながります。初期王朝期には支配者の存在感が増し、都市の防衛や遠方との関係を担う王権が、いっそう目立つようになりました。

大規模な建築やぜいたくな副葬品(ふくそうひん)は、富と労働を集中できた人々の力を示します。都市は多様な仕事を可能にする一方、身分や財産の差が目に見える場所にもなったのです。

神殿は、祈りと暮らしが交わる場所だった

神の家を支えるには、人と物が必要になる

都市には、それぞれを守ると考えられた神がいました。ウルでは月の神ナンナがその代表です。神殿は神の家とされ、祭祀(さいし)、つまり神をまつる儀礼が行なわれました。都市の安定や繁栄と神への奉仕は、深く結びつけて理解されていました。

儀礼を続けるには、供え物の穀物や家畜、布、器、建物を維持する労働が要ります。そのため神殿は、宗教上の中心であるとともに、土地や物資、働く人を管理する大きな組織としても活動しました。

神殿に属する土地から収穫物が届き、組織の仕事をする人へ食料が配られる。神殿の儀礼は、こうした生産と物資管理の実務に支えられていました。

都市では神殿のほかに、宮殿、家や親族のまとまり、職人や交易に関わる人々も経済活動を営んでいました。初期王朝期の土地取引を記した資料は、神殿が管理する土地に加えて、私有地も存在したことを伝えています。

土地・家・家畜の取引を、石に残す

初期王朝期の石碑58.29には、シャラ神に仕えるウシュムガルと娘を中心に、三つの畑、三つの家、家畜に関する取引が記されています。前2900〜2700年頃の資料で、人物像と文字を組み合わせた高さ22.4センチメートルの石碑です。側面の小さな人物たちは、取引の証人と考えられています。売買・譲渡のどの立場をウシュムガルが担ったかは、初期文字の解釈上、確定していません。メトロポリタン美術館・ウシュムガルの石碑

畑、住居、家畜は、それぞれ食料を生む土地、生活や仕事の場所、生産を支える資産です。取引を記し、関わった人を表すことは、誰が何を扱う権利を持つかを示す行為でした。神殿が土地を管理した社会の中に、個人の土地保有も見られます。都市の経済を考える際には、神殿の記録に、このような家や人々の取引を重ねることで、複数の活動主体を具体的に捉えられます。

「神権政治(しんけんせいじ)」は、王が神から権威を受ける仕組み

シュメールの政治を説明するときに使われる神権政治とは、神や宗教的な権威によって統治が正当化される政治のあり方です。都市は神に属し、支配者は神から統治を託された、という考え方が王権を支えました。

この考えに立つと、王が神殿を建てる行為は、信仰の表現と、自らの支配の根拠を示す行為を兼ねます。都市を守り、土地を豊かにし、神にふさわしい建物を整える。そうした仕事を果たす支配者であることが、王の姿として示されたのです。

実際の運営には、神官、管理を担う人々、王と宮殿の組織が関わりました。都市や時代によって役割の分担や力関係は変わります。

王の碑文(ひぶん)や奉納物(ほうのうぶつ)は、支配者が自分をどう見せたかったかを伝えます。一方、人々の日常は、住宅や生活道具、取引記録にも残されています。こうした資料を合わせて、支配者と住民それぞれの暮らしが研究されています。

ジグラトは何のための建物だったのか

高い基壇(きだん)の上に、神をまつる場所を置く

ジグラトは、神殿を高い位置に置くための、巨大な階段状の基壇です。基壇とは、建物を支える土台のこと。日干しレンガなどを積み重ね、上へ行くほど小さくなる段を設けた姿で知られています。

有名なウルのジグラトでは、日干しレンガを中心部に使い、外側を焼いたレンガなどで覆っていました。土を乾かすだけのレンガと、火で焼いて強くしたレンガを使い分けたのです。

この建築が象徴する意味には、未解明の点が残ります。神々の住む高い山を表したという解釈もあります。

平野に大きな基壇を築くには、多くの資材と労働を集める力が必要でした。神殿の高さと規模は、神の重要さに加え、建設を支えた都市や王の力を目に見える形にしました。

ウルクの都市化と、ウルの有名なジグラトは時代が違う

前4千年紀末には、すでにメソポタミア各地に大きな日干しレンガの基壇が造られていました。高い場所に重要な建築、とりわけ神殿を置く伝統があり、前3千年紀には階段状の大基壇が発達していきます。

写真でよく知られるウルのジグラトは、前2100年ごろ、ウル第三王朝のウル・ナンム王による建設事業と結びついています。ウルクが大都市となった前3200年ごろから、千年以上後のことです。

神殿を高い場所に設ける伝統は、長く受け継がれました。その間に、建築の形や規模、建設を進めた支配者の勢力範囲も変化しています。

旧約聖書の「バベルの塔」の物語も、メソポタミア各地に広がったジグラトの伝統と結びつけて語られます。

現在見られるウルの遺構には、後世に修復された部分も含まれます。上部は失われており、その姿は古代の記述や図像などから復元されています。

王の建築を、乾かすレンガと人の手から見る

ペン博物館は、メソポタミアの建築に使われたレンガに、乾燥中に付いた人や犬の足跡が残ることを紹介しています。土を型に入れ、乾かして、積める状態に整える作業の途中に生じた痕跡です。王名を押したレンガが建設事業を伝える一方、こうした跡は、材料を扱う現場の動きを伝えます。

同館の解説は主に前2000年頃の都市生活を扱い、土器の製作、金属加工、織物、運搬、記録などの仕事を示しています。これは前4千年紀末のウルクからさらに時代が進んだ社会です。都市が続く間に、作業を分けて製品と食料をやり取りする仕組みが発達しました。神殿や王の大建築は、暮らしを支える生産の仕事を集めた成果でもあります。ペン博物館「メソポタミアの都市生活」

ラガシュの調査では、住居、道、工房、水路、公共の食事場所を組み合わせて、都市の暮らしを調べています。地表の測量、地下を探る調査、地層の掘削を使い、作業場と住居がどのように配置されたかを検討します。大きな神殿を中心に見る方法に、街区で働き、食事をし、荷を運んだ人々の資料が加わっています。ペン博物館・ラガシュ考古学プロジェクト

周辺地域と、その後の時代へ視野を広げる

東のスサでも、物資を記録する仕組みが育った

南メソポタミアの東、現在のイラン南西部にはスサがありました。ここでも古くから集落や社会が発達し、前4千年紀末〜前3千年紀初めには、原エラム文字による記録が使われています。

スサには文字が使われる以前から集落と高度な土器文化がありました。その長い歴史の中で、原エラム文字はおおむね前3100〜2900年ごろに用いられています。

原エラム文字は、現在も完全には解読されていません。数や記号の繰り返し、粘土板の形式を分析し、当時の管理の仕組みを探る研究が続いています。

物資を数え、管理する仕組みは、周辺地域との交流を伴いながら各地で発達しました。シュメールの都市も、スサをはじめとする西アジアの地域と結びついていました。

イェリコ、ニネヴェとは、場所も時代の焦点も異なる

西アジアの古い集落としては、ヨルダン川流域のイェリコも知られています。イェリコでは新石器時代から定住生活が営まれ、シュメールの都市化よりはるかに古い歴史があります。

一方、ニネヴェは北メソポタミアのティグリス川沿いにあり、後にアッシリアの王都として大きく発展しました。

シュメール人とアッカド人の違いは?

シュメール語に対し、アッカド語はセム語派に属する言語です。言語の系統は異なりますが、同じメソポタミアで長く接触し、文字や文化を共有してきました。楔形文字は、後にアッカド語を書くためにも用いられます。

前24世紀ごろには、サルゴンの率いるアッカド王朝が、複数の都市国家を広い支配の下にまとめます。都市どうしが競い合う世界から、より大きな領域を治める王権へ、政治の規模が変わっていきました。

シュメール語や神殿の伝統は、王朝を越えて受け継がれました。アッカド王朝の後にはウル第三王朝が栄え、ウル・ナンム王の建設事業へとつながります。シュメール語は日常の話し言葉として使われなくなった後も、学問や宗教の世界で長く受け継がれました。

まとめ|都市は、人の仕事をつなぐ仕組みから育った

農業で得た食料を運び、専門の仕事を支え、物資を記録し、共同作業や領域を管理する。その重なりの中で、都市を動かす組織が大きくなりました。

  • 前4千年紀にはウルクなどで都市化が進み、前3千年紀の初期王朝期には都市国家が競い合いました。
  • 都市国家は、中心都市に加え、周辺の村・農地・水路を含む政治的なまとまりでした。
  • 神殿は信仰と経済活動の重要な拠点となり、王権は神の権威によって統治を正当化しました。
  • ジグラトは神殿を支える巨大な基壇で、有名なウルの建築は都市化の始まりより後の時代に属します。

神殿を見上げるとき、その足元には畑、水路、工房、倉庫、そして記録を残す人々がいます。壮大な建築を支えたのは、そうした人々の毎日の仕事でした。

関連記事

参考資料