なぜ帝国は崩れた?アッカド崩壊とシュメールの復興

南メソポタミアの都市、水路、神殿基壇を一般化した歴史学習イメージ 完新世

第1回:アッカド帝国の崩壊とシュメールの復興
扱う時代:紀元前2400〜2000年頃

問1 アッカド帝国の衰退期、ザグロス山地方面と結びつけられ、メソポタミアへの進出と支配が伝えられる人々を何と呼びますか。

問2 紀元前2112年頃、ウル=ナムが南メソポタミアの都市ウルを拠点に開いた王朝を何と呼びますか。

問3 ウル第3王朝期に成立し、創始者ウル=ナムの名で知られる、現存する最古級の成文法集を何と呼びますか。

アッカド帝国は、王位をめぐる争いや地方都市の自立、グティ人など周辺勢力の進出が重なる中で衰えました。
その後、南メソポタミアでは都市の王権が再編され、ウルを中心とする新しい統一国家が生まれます。

この流れをつなぐのは、征服の物語だけではありません。
神殿を建て、人と物を動かし、法と言葉で秩序を支える営みです。
シュメールの復興は、都市の伝統を受け継いで広い地域を治め直した歴史として読むと、人物と王朝の関係が見えてきます。

二つの川と都市から、物語の舞台をつかむ

舞台は、西アジアのメソポタミア。
現在のイラクを中心とする、ティグリス川とユーフラテス川の流域です。
南部の平野には、川の水を農地へ導く灌漑(かんがい)を土台として、多くの都市が育ちました。

今回の中心は、南部のウル、ウルク、ラガシュです。
ウルはウルクの南東に位置し、ラガシュはウルクの東寄り、その北西近くにはギルスがあります。
ギルスはラガシュの国を構成した重要都市で、後に登場するグデアの神殿建設と深く関わります。

視線を東から北東へ移すと、ザグロス山地が連なります。
グティ人は、この山地方面と結びつけて語られる人々です。
都市の集まる平野と、その外側の山地の位置関係が、帝国の衰退を理解する手掛かりになります。

ウル、ウルク、ラガシュ、ギルス、ニップールとザグロス山地の位置関係を示す概略地図

図:南メソポタミアの主要都市と東方の山地を示す概略地図。
河道・海岸線は模式的に示しています。
都アッカドの正確な所在地や、グティ人の詳しい移動経路は示していません。

アッカドという言葉にも、二つの使い方があります。
一つは帝国の中心となった都市の名前、もう一つは南メソポタミア北寄りの地域を指す名前です。
帝国の存在と活動は碑文(ひぶん)などから分かりますが、都そのものの場所は確定していません。

四百年の流れを年表で見渡す

年代の目安出来事物語の中での位置
紀元前2400年頃南部の都市国家が並び立つ帝国成立前の都市の世界
紀元前24〜23世紀頃サルゴンが広域を統一アッカド帝国の成立
紀元前23世紀頃ナラム=シンの時代に帝国が全盛期を迎える広域支配の拡大
紀元前22世紀頃帝国の支配が縮小し、地方の王権が自立グティ人の進出と都市の再編
紀元前22世紀末頃ラガシュのグデアが神殿建設を進めるシュメール語の碑文と造形の充実
紀元前2112年頃ウル=ナムがウル第3王朝を開く南部を中心とする再統合
紀元前2004年頃ウルがエラム勢力に攻略されるウル第3王朝の終わり

この時代の年代には、採用する編年(へんねん)による違いがあります。
ここでは広く用いられる年代を目安とし、特にグデアの活動年代は幅をもって示しました。
帝国の衰退、地方都市の活動、ウルの台頭が、前後しながら進んだことを押さえると読みやすくなります。

アッカド帝国――都市を越えて王が治めた時代

紀元前2400年頃の南メソポタミアでは、都市ごとに王や支配者がいました。
それぞれに神殿と農地を持ち、ときには境界や水をめぐって争う世界です。
そこへ登場したサルゴンは、多くの都市を征服し、広い地域を一つの王権の下へ組み入れました。

こうして成立したアッカド帝国は、メソポタミアで初めて広域的な統一を実現した国家として知られます。
都市の枠を越え、南部から北方へと支配を伸ばした点に特徴がありました。
離れた都市を治めるには、王の命令を届け、各地の支配者と結びつき、物資を集める仕組みが必要になります。

サルゴンの孫に当たるナラム=シンの時代、帝国は全盛期を迎えました。
戦勝を示す造形では、王が大きく表され、神に関わる角の付いた冠を着けています。
そこには、広い世界を治める王の特別な立場を示そうとする意図が読み取れます。

ただ、広い地域を手に入れることと、そこを治め続けることには、それぞれ別の難しさがありました。
都市には以前からの支配者や神々、土地をめぐる利害があります。
帝国の王権は、その地域ごとの力と向き合いながら成り立っていたのです。

帝国はなぜ崩れたのか――グティ人と内側の動揺

ナラム=シンの後も、帝国の支配はしばらく続きました。
後継者シャル=カリ=シャッリの時代には王権が維持されましたが、その末期には王位をめぐる争いが現れます。
南部では自立を回復する都市の支配者が増え、末期の王たちが治める範囲は、都の周辺へ縮小していきました。

この衰退期の物語で登場するのが、問1の答えとなるグティ人です。
ザグロス山地方面と結びつけられ、メソポタミアへの進出や支配が伝えられています。
中央の統制が弱まる時期に周辺勢力の圧力が重なり、各都市が独自に動く余地も広がりました。

帝国の崩壊は、一度の侵入だけで説明し切れる出来事ではありません。
王位争い、地方都市の自立、外側からの進出が重なる過程として捉えると、王朝の終わりを急ぎ過ぎずに理解できます。

当時については、後世に書かれた文学作品や王の勝利を伝える文書も重要な手掛かりです。
そこに描かれた敵の姿には、秩序を回復した王を際立たせる役割もあります。
グティ人の生活や支配の実態を細部まで復元するには、史料(しりょう)の限界が残ります。

乾燥化の研究が加える、もう一つの視点

帝国の衰退を考える研究では、気候も論点になっています。
約4200年前の乾燥化と、北メソポタミアで集落が放棄された時期との関係が調べられてきました。
イランの石筍(せきじゅん)を分析した研究では、土ぼこりの増加を示す変化と、北部の集落放棄の年代が近いことが報告されています。

農業の収穫が不安定になれば、食料を集めることや人々を支えることにも影響が及びます。
これは国家を考えるうえで重要な視点です。
一方、地域による違いや政治の動きもあるため、帝国全体の崩壊を乾燥化だけに結びつけることはできません。

グデアのラガシュ――神殿と文字が伝える都市の力

帝国の支配が弱まった後、南メソポタミアでは地方の王権が存在感を増しました。
その一人が、紀元前22世紀末頃に活動したラガシュの支配者グデアです。
彼の時代を知る手掛かりとして、神殿建設の碑文と、多くの彫像(ちょうぞう)が残っています。

グデア像には、硬い閃緑岩(せんりょくがん)で造られたものがあります。
手を合わせて座る姿などからは、神を敬い、神殿を整える支配者の立場が伝わります。
像の表面に刻まれた文字は、誰のために何を建てたかを後世へ届ける役割も果たしました。

ラガシュの国に属するギルスでは、ニンギルス神の神殿建設が大きな事業となりました。
グデアの円筒碑文(えんとうひぶん)は、夢による神の命令、建材の調達、建設へと物語を進めます。
神の意志に従って都市を整えることが、王の仕事として語られているのです。

建設には、平野で得やすい土だけでなく、遠方の木材や石なども必要でした。
神殿を建てるという一つの行為には、物資の移動、職人の仕事、労働を支える食料が関わります。
碑文の宗教的な語りを読むと同時に、背後にある都市の組織力にも目を向けられます。

この時代には、シュメール語の讃歌(さんか)や祈りの文学も充実しました。
都市の王権を支える文化が、神殿、石の像、粘土に刻む文章を通じて形になったのです。
グデアの活動は、ウル第3王朝へ続く時代の文化的な豊かさを示しています。

ウル第3王朝――都市の再統合を進めた王たち

グティ人の支配を破った王として知られるのが、ウルクのウトゥ=ヘガルです。
彼の勝利を伝える文書には、グティ人の王ティリガンを打ち破ったことが語られています。
ウル第3王朝の成立前には、ウルクの王が力を示す段階がありました。

その後、ウルを拠点とするウル=ナムが台頭します。
紀元前2112年頃を始まりとするこの王朝が、問2の答えであるウル第3王朝です。
紀元前2004年頃まで、およそ一世紀にわたって続きました。

「第3」と呼ぶのは、歴史上のウルの王朝を区別するためです。
ウルの都市がこのとき初めて造られたという意味ではありません。
長い都市の歴史の上に、新しい王権が成立したと考えると、名前と実態が結びつきます。

王たちは「シュメールとアッカドの王」を名乗りました。
南部のシュメールの都市に根を置きながら、さらに広い地域を治めようとした王権です。
その支配には、アッカド帝国以来の広域統治の経験と、南部の都市・神殿の伝統がともに関わっています。

シュメールの復興を、言葉と行政から見る

この時代には、シュメール語が行政や文学で重要な役割を担いました。
そのため、ウル第3王朝を中心とする時代は、シュメールの復興、あるいは新シュメール時代と呼ばれます。
政治の中心が移っても、言語や文字の利用は、その地域の人々や仕事と結びついて続いていました。

国家の日々の姿を伝えるのが、楔形文字(くさびがたもじ)で書かれた粘土板です。
穀物の受け渡し、家畜、衣料、働き手への配給などを扱う行政文書が残っています。
王の大きな称号の下では、何を誰にどれだけ渡したかという、細かな記録の仕事が動いていました。

たとえば配給の記録があれば、物資を受け取った人や数量、時期を後から確かめられます。
別の場所へ物を送るときにも、口頭の約束だけでなく記録が役立ちます。
こうした実務を通して、離れた都市や施設を結ぶ国家の働きが見えてきます。

当時の書記に表計算ソフトを渡したら、計算より先に「粘土板の保管場所が空く」と喜んだかもしれません。
もちろん想像上の冗談ですが、管理には計算だけでなく、記録を残し、探せるようにする仕事もあったのです。

ウル=ナム法典――銀で償(つぐな)う規定と王の正義

人と物を動かす国家には、争いを処理し、秩序を示す言葉も必要でした。
ウル第3王朝期に成立したウル=ナム法典は、問3の答えに当たります。
ウル・ナム法典とも表記され、現存する最古級の成文法集として知られています。

成文法(せいぶんほう)とは、文字で表された法のことです。
この法集には、王が正義を実現する姿を示す前文と、さまざまな場合を想定した規定があります。
弱い立場の人を強い者の手に渡さないという趣旨も述べられ、王が社会の秩序を守る存在として描かれます。

ウル=ナムの名で知られる一方、成立や伝存の過程、子のシュルギとの関わりには研究上の議論があります。
現在読める本文も、残された複数の資料を照合して理解が進められてきました。
伝わった法集を通じて、当時の王権が何を正義として示そうとしたかを考えられます。

金銭補償とは、傷害などを銀で償わせること

この法集の特徴として挙げられるのが、傷害などに対して銀の支払いを定めた規定です。
相手に同じ傷を負わせる代わりに、一定量の銀によって損害を償わせる考え方が見られます。
これが、学習上よくいう金銭補償です。

当時の銀は、現代の硬貨のように枚数を数える形とは異なり、重さを基準に扱われました。
支払う銀の量を定めることは、損害への対応を数量で表すことでもあります。
法の規定と、計量・記録という実務がつながる部分です。

架空の成人が天びんで銀を量り、書記が粘土板に記録する学習用イメージ

イラスト:銀の計量と粘土板への記録を一般化した学習用イメージ。
特定の裁判や法典原物を再現したものではありません。

銀による補償の規定と、殺人などに対する厳しい刑罰は共存していました。
法集には死刑を定める規定もあり、家族や奴隷身分に関する規定も含まれます。
金銭補償という特徴は、当時の社会全体を現代的な平等の制度として評価する意味ではありません。

後のハンムラビ法典は、紀元前18世紀のバビロニアで成立します。
ウル=ナム法典は、それより前に法を文章としてまとめた伝統を示す重要な例です。
二つの法典を比べる際には、それぞれの時代と、規定が扱う行為や人々の立場をそろえて読む必要があります。

ウルの大ジグラト――信仰を支えた建設事業

法と言葉で秩序を示した王たちは、都市の景観にも大きな足跡を残しました。
ウルでその代表となるのが、月神ナンナに捧げられた大ジグラトです。
ナンナは、アッカド語ではシンと呼ばれる神に対応します。

ジグラトは、神殿を高い位置に置くための巨大な階段状の基壇(きだん)です。
ウル=ナムが進め、子のシュルギへ引き継がれた建設事業の一つでした。
都市の中心にそびえる建物は、神を敬う王の姿と、国家の動員力を目に見える形で示しました。

南メソポタミアの神殿基壇とレンガを運ぶ架空の成人を描いた学習用イメージ

イラスト:南メソポタミアの神殿基壇建設を一般化した学習用イメージ。
失われた上部構造や、ウルの具体的な建設工程を確定復元したものではありません。

建物には、内部の日干しレンガと、外側を覆う焼成(しょうせい)レンガが使われました。
日干しレンガは、泥を形にして乾かしたものです。
焼成レンガは火で焼いて固めたもので、大きな建物では材料の性質に応じた使い分けがありました。

レンガを造る人、運ぶ人、積む人が働くには、食料や道具も集めなければなりません。
神殿建設は、信仰と物資の管理が結びつく国家の大事業です。
グデアの碑文で見た都市の営みは、ウルの王たちの下でも、広い規模で続いていきました。

遺構(いこう)は現在のイラク南部に残っています。
ただし、長い歴史の中で改修され、現代にも復元が加えられています。
現在見える姿には、ウル第3王朝から後の時代までの積み重なりがあるのです。

王朝の終わりと、その後に残った文化

ウル第3王朝も、永続する国家ではありませんでした。
末期には中央の支配が弱まり、紀元前2004年頃、ウルは東方のエラム勢力によって攻略されます。
これにより、ウルを中心とする王朝は終わりを迎えました。

しかし、王朝の終わりと、シュメールの文化が消える時点は一致しません。
シュメール語の文学や学問は、後の時代にも書き写され、学ばれました。
国家が組み替わる中でも、文字を扱う人々が伝え続けたものがあったのです。

アッカドからウルへと視線を移すと、征服した王の名だけでは見えない歴史が現れます。
神殿の建材を集める人、銀を量る人、粘土板へ記す人。
都市を支えた多くの仕事が、王朝の盛衰の背後で動いていました。

3問の解答と解説

問1の答え:グティ人

ザグロス山地方面と結びつけられ、アッカド帝国の衰退期にメソポタミアへ進出した人々です。
王位争いや都市の自立も合わせて捉えると、帝国の支配が縮小した流れを説明できます。

問2の答え:ウル第3王朝

ウル=ナムがウルを拠点に開いた王朝で、年代の目安は紀元前2112〜2004年頃です。
シュメール語による行政・文学、神殿建設、広域統治が展開しました。

問3の答え:ウル=ナム法典(ウル・ナム法典)

ウル第3王朝期の、現存する最古級の成文法集です。
傷害などへの銀による補償と、殺人などへの厳罰の両方を知ると、規定の特徴を具体的に理解できます。

まとめ――帝国の盛衰を、都市の仕事から読む

アッカド帝国の衰退後、南部の都市の力が再編され、ウル第3王朝の統治へつながりました。
グティ人の進出、グデアの神殿建設、ウルの法と行政を結ぶと、シュメール復興の道筋が見えてきます。

王朝名とともに覚えておきたいのは、都市を続かせた仕事です。
神殿を建て、争いの扱いを定め、物資の動きを記録する。
その営みをたどることで、四千年以上前の歴史を、人々が暮らしを支えた物語として読めるようになります。

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参考資料