地方官が力を持ち、和風文化と新王朝が育った|10世紀の日本と世界

尾張国の訴えを題材にした文書提出の創作イメージ 大学受験歴史

問題1:地方統治と徴税
(1)国司のうち、実際に任国で行政と徴税の責任を負う最上席者を何と呼びますか?
(2)有力農民の①は、国衙の徴税・経営単位である②の耕作と納税を請け負いました。①と②を答えてください。
(3)988年、尾張国の郡司・百姓らから31か条の訴えを受け、989年に尾張守を解任された人物は誰ですか?

問題2:文字、和歌、仏教
(1)894年、遣唐使派遣の再検討を求めた人物は誰ですか?
(2)905年、醍醐天皇の命で編纂が始まった、日本最初の勅撰和歌集は何ですか?
(3)釈迦の入滅後、正法・像法を経て、正しい修行や悟りが得られにくくなる時代を③とします。③に入る語を答えてください。

問題3:唐から宋へ、中国北方の国家
(1)907年に唐を滅ぼして後梁を建てた節度使と、その後の華北の王朝交替・各地の政権分立を含む時代名を答えてください。
(2)916年に皇帝を称した契丹の耶律阿保機のもとで、契丹語を記録するために作られた文字は何ですか?
(3)960年に宋を建て、太祖と呼ばれた人物は誰ですか?

問題4:西欧とイスラーム世界
(1)911年にロロが西フランク王から与えられた領域を基礎に発展した公国は何ですか?
(2)987年、国王に選ばれ、カペー朝を開いた人物は誰ですか?
(3)929年、アブド・アッラフマーン3世がカリフを称した、コルドバを拠点とする④朝は何ですか?

答えと解説:地域を動かす人と制度

設問 答え 整理する点
1(1) 受領 任国の行政・徴税責任者
1①・② 田堵・名 経営を担う人/徴税・経営の土地単位
1(3) 藤原元命 988年の訴え、翌年の解任
2(1) 菅原道真 894年の遣唐使派遣再検討
2(2) 古今和歌集 905年、四人の撰者による勅撰和歌集
2③ 末法 仏教の教えと修行をめぐる時代認識
3(1) 朱全忠(朱温)・五代十国時代 唐滅亡後の王朝交替と政権分立
3(2) 契丹文字 大字と小字の二つの体系
3(3) 趙匡胤 960年に宋を建国
4(1) ノルマンディー公国 ロロへの領域授与から発展
4(2) ユーグ・カペー 987年即位、新しい王統
4④ 後ウマイヤ朝 イベリア半島のカリフ政権

10世紀の日本では、朝廷が必要とする税を、受領と現地の経営者を通じて確保する仕組みが発達しました。かなで表す文学が豊かになり、浄土への往生を願う信仰も広がります。中国では唐が滅んだ後に宋が成立し、北方の契丹も独自の国家を築きました。

西欧とイスラーム世界でも、新しい領域支配と王統、カリフの指導権をめぐる競争が生まれました。誰が税・軍事・行政を担い、どの地位や文化が統治を支えたかを比較すると、同じ時代の変化を結びつけられます。

深掘り1:受領が担った行政と徴税

人と土地を把握する方式の変化

律令の租は田地を基準に課され、庸・調などは成人男子を中心とした負担でした。戸籍・計帳と班田の仕組みによって、人々と土地を把握し、租税や労役を求めました。

戸籍と実際の居住者のずれ、逃亡・浮浪・偽籍、班田の行き詰まりなどが進むと、人の把握に基づく徴収が難しくなります。朝廷は国司に租税確保の責任を負わせ、地方の土地経営者を通じて徴収する方式へ重心を移しました。土地を単位として負担をまとめる仕組みが発達します。

受領と国司の関係

国司は、朝廷が各国へ任命する官人です。守・介・掾・目などの等級があり、そのうち任国で実際に行政責任を引き受けた最上席者を受領と呼びます。受領は役割を表す呼称で、国司の官職名は守や介などです。

多くの場合は守が受領となりました。上位者が任地へ赴かない遥任の場合には、次席の官人などが現地の責任を負うこともあります。官職の順位と、実際に任国で仕事をする者を合わせて見ることが必要です。

受領は、朝廷への租税納入に責任を持つ一方、国内の徴税と行政に広い裁量を持ちました。国衙は郡司や在地の有力者と関わりながら、土地の耕作、物資と労働力の確保、租税の輸送などを運営します。受領の職は、富を蓄える機会とも結びつきました。

田堵・負名・名

田堵は、土地経営に力を持つ有力農民です。耕作者や労働力をまとめ、国衙のもとで耕作と納税を請け負いました。名は徴税・経営のための土地のまとまりで、名田とも呼ばれます。納税責任を負う者を負名と呼び、田堵負名という表現でも学びます。

田堵が担うのは人と土地の経営、名が表すのはその経営・徴税単位です。官物などの物資や、臨時雑役などの負担を、このような仕組みを通じて集めました。成立と運用の具体像には、時期と地域による違いがあります。

立場 主な役割
朝廷 国司へ行政と租税納入を求める
受領・国衙 国内の徴税と行政を運営する
郡司・田堵など 現地の生産、耕作、納税を支える
名 負担をまとめる土地の単位

土地経営と地域での活動を通じて、田堵などの有力者が後の荘園の現地管理者や武士につながる場合もありました。その経過は、時期・地域・家ごとの条件によって異なります。

深掘り2:尾張国の訴えと藤原元命

988年、尾張国の郡司・百姓らは、尾張守の藤原元命の政治を31か条にわたって訴えました。この文書が『尾張国郡司百姓等解』、または『尾張国郡司百姓等解文』です。「解」は、下級の機関などから上級へ提出する公文書の形式です。

文書には、過重な徴税、不当な物資や労働力の徴発、元命の子弟・従者による行為などが訴えられています。これらは提出者側の訴えとして読む必要があります。元命は翌989年に尾張守を解任されました。

郡司や有力農民は、地域の生産と徴税を支えていました。その負担をめぐる対立が、朝廷に国司の処分を求める行動につながります。受領の裁量が広がるとともに、在地の人々の交渉力と、任免を判断する朝廷の役割も働いていたことを示す事例です。

早稲田大学図書館が公開する重要文化財の文書は、1281年の奥書を持つ写本です。一部には欠損があります。988年の訴えの内容と、現存資料が後世の写本であることを分けて確認できます。

尾張国の訴えを題材にした文書提出の創作イメージ
文書提出を表す創作画像。人物、衣装、建物、文書は図案であり、現存する尾張国の解文の写真ではない。

深掘り3:遣唐使と日本語の文化

894年の道真の建議

894年、遣唐大使となった菅原道真は、唐の情勢と渡航の危険を踏まえ、派遣の可否を改めて審議するよう求めました。唐では反乱や軍事勢力の争いが続き、公式使節の派遣条件が変わっていました。

894年は遣唐使停止の節目として学びます。研究では、その年の明確な制度廃止決定とする説明には検討が加えられ、派遣が行われず、その後も再開されなかった経過が重視されています。唐は907年に滅びました。

大陸との海上交易、商人や僧侶の往来は続きます。書籍、仏教、美術、技術などの受容を基礎に、宮廷社会で日本語や生活に合った表現が発達しました。主に10〜11世紀の貴族社会で展開したこの文化を、国風文化と呼びます。

かなと『古今和歌集』

かなの形成は9世紀から進みました。平仮名は漢字の草書をもとに、片仮名は漢字の一部を用いて発達します。平仮名は和歌・日記・物語などに広く使われ、片仮名は漢文を読むための補助にも用いられました。日本語の音と語り口を書き表す方法が整います。

905年、醍醐天皇の命で『古今和歌集』の編纂が始まりました。撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人です。勅撰は天皇や上皇の命による編纂を指し、この歌集は日本最初の勅撰和歌集となりました。

紀貫之の仮名序は、和歌の本質や歴史を日本語で論じています。和歌を宮廷の公的な文化として重視した編纂は、その後の歌集にも影響しました。かなによる表現の発達は、『枕草子』『源氏物語』などの文学にもつながります。

和歌の編纂を題材にした創作イメージ
和歌編纂を表す創作画像。装丁、硯、紙面の文字は図案で、古今和歌集の現存写本を示す写真ではない。

深掘り4:末法思想と浄土信仰

末法思想は、釈迦の入滅後を正法・像法・末法の三段階に分け、時代が進むと正しい修行や悟りが得られにくくなるとする時代認識です。各段階の長さには複数の説があります。日本では1052年を末法の始まりとする計算が広く知られました。

浄土信仰は、阿弥陀仏の浄土に往生することを願う信仰です。10世紀には、疫病・飢饉・災害や武力衝突による不安もあり、死後の救いを求める人々に支持されました。末法思想は時代を捉える考え、浄土信仰は往生を願う信仰として区別できます。

空也は市中で念仏を広め、社会事業にも関わり、市聖と呼ばれました。源信は985年に『往生要集』を著し、極楽と地獄、往生のための念仏などの実践を、経典の記述を集めて説きました。浄土信仰の展開は1052年以前から確認できます。

『往生要集』の成立背景は、本文と引用した経典に即して検討されています。念仏を軸に多様な教えと実践を整えた点も重視され、末法思想との関係には研究上の議論があります。社会不安、仏教の時代認識、往生を求める実践を合わせて追うと、この時代の信仰が具体的になります。

深掘り5:唐の滅亡、契丹、宋

907年の唐滅亡と五代十国

唐の後期、地方軍を率いる節度使が軍事・財政・行政で力を増しました。黄巣の乱に参加した後に唐へ降った朱全忠も、その一人です。907年、唐の皇帝から帝位を譲り受ける形で後梁を建てました。朱全忠は朱温、即位後は朱晃の名でも知られます。

華北では後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五王朝が順に交替し、南方を中心に地域政権が分立しました。これが五代十国時代です。五代の王朝交替は907〜960年、各地域の政権の宋への統合はその後も続きます。

契丹の国家と文字

中国北方では、契丹の指導者・耶律阿保機が諸部族をまとめ、916年に皇帝を称しました。この年を遼の建国として学びます。当初は契丹を国号とし、947年に遼へ改称した後も、国号の変更がありました。

北面官は契丹の慣習を生かす官制、南面官は中国式の官制を中心とし、遊牧社会と農耕地域を含む領域を統治しました。統治する社会に合わせ、部族的な組織と州県制度を組み合わせています。

契丹語を記録する契丹文字には、大字と小字があります。920年に阿保機の命で大字が作られ、小字は924〜925年ごろにウイグル文字を参考に考案されたと伝えられます。命令や記録を自らの言語で残す仕組みが整いました。解読と語彙・構造の研究は続いています。

960年の宋建国と統合の進展

後周の軍人だった趙匡胤は、960年に皇帝となり、宋を建てました。宋の太祖と呼ばれます。武将が政権を左右した五代の政治を経て、宋では軍の統制と文官を重視する行政が進められました。

太祖は各地の統合を進め、弟の太宗の時代、979年には北漢が滅びました。北方の遼やその領域は引き続き存在し、宋・遼・高麗などが外交、戦争、交易を行う東アジアの秩序が形成されます。建国の960年と、各地域の統合の経過を分けると、国家の範囲が明確になります。

深掘り6:ノルマンディーとカペー朝

北欧の人々は船で海や川を移動し、襲撃、交易、移住を行いました。ヴァイキングと呼ばれる海上遠征者の一派を率いたロロは、911年、西フランク王シャルル3世からセーヌ川下流域の領域を与えられます。王への奉仕と改宗を伴う合意が、ノルマンディー公国形成の基礎になりました。

定着した人々は、現地の言語、キリスト教、領地支配の仕組みを受け入れました。1066年にはノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服します。海上遠征者が領域を治める者となった変化は、その後の西欧政治につながります。

987年、西フランクの国王ルイ5世が亡くなると、ユーグ・カペーが王に選ばれ、カペー朝が始まりました。初代王の直接支配は限られ、各地の諸侯が領地と軍事力を持っていました。王統の継承と王領の拡大を通じ、後代に王権が強まります。

日本の受領は、朝廷に任命され、徴税と行政の責任を負いました。西欧の諸侯は領地と軍事力を基盤に支配を行いました。中央と地方を結ぶ仕組みの違いを残しながら、現地で実務を担う者の役割を比較できます。

深掘り7:三つのカリフ政権とコルドバ

909年、北アフリカでファーティマ朝が成立し、シーア派のイスマーイール派の君主がカリフを称しました。969年にエジプトへ進出し、カイロを建設します。バグダードのスンナ派のアッバース朝とは、指導権をめぐって競争する関係でした。

756年にイベリア半島で成立した後ウマイヤ朝では、929年にアブド・アッラフマーン3世がカリフを称しました。コルドバを拠点とするスンナ派のカリフ政権です。アッバース朝・ファーティマ朝・後ウマイヤ朝の君主が、それぞれ正統な指導権を主張する状態を、三人のカリフの並立と呼びます。

コルドバは、西地中海の政治・経済・文化の中心の一つとなりました。イベリア半島にはイスラーム、キリスト教、ユダヤ教の人々が暮らし、学問や技術が蓄積されます。各宗教集団の立場や関係は、時期と支配の条件によって変化しました。

年表:地方統治と新しい権威の形成

年 出来事 対応する変化
894・905 道真の派遣再検討/『古今和歌集』編纂の勅命 使節の方式と日本語の文学
907・909 唐滅亡、後梁成立/ファーティマ朝成立 新しい王朝と指導権
911・916 ロロへの領域授与/阿保機が皇帝を称する 領域支配と北方国家
920・929 契丹大字制定/コルドバのカリフ 言語の記録と正統性
960・979 宋建国/北漢滅亡 王朝交替と地域統合
985・987 『往生要集』/カペー朝成立 往生の実践と王統
988・989 尾張国の訴え/元命の解任 受領・在地勢力・朝廷の関係
1052 末法の始まりとされた年 仏教の時代認識

受領と田堵は徴税と土地経営を担い、かなと和歌は宮廷の文化を豊かにしました。中国と北方、西欧、イスラーム世界では、軍事力を持つ者が政権や領域を築き、その支配を皇帝・王・カリフの地位で支えました。役割、出来事、統治を支える根拠を一組にすると、10世紀の各地域の変化を整理できます。

参考資料