問題1(モンゴルの西征とロシア):
1241年、チンギス=ハンの孫であるバトゥらによる西征の一環として、モンゴル軍はワールシュタット(リーグニッツ)の戦いでポーランド諸侯やドイツ騎士などの軍を破りました。西征を通じてバトゥが南ロシア平原などに築いた政権は( ① )ハン国と呼ばれ、ロシア諸侯を長期間支配下に置きました。このロシアにおけるモンゴルの支配体制を、一般に「( ② )のくびき」と呼びます。
問題2(第6回十字軍):
1228年から29年にかけて行われた第6回十字軍において、神聖ローマ皇帝( ③ )はアイユーブ朝との外交交渉によって、戦わずしてイェルサレムの暫定的な回復に成功しました。皇帝とアイユーブ朝側の双方に、交渉を選ぶ政治的な事情がありました。
問題3(レコンキスタの進展):
イベリア半島では、13世紀前半にキリスト教諸国による( ④ )(国土回復運動)が加速しました。特に( ⑤ )王国やアラゴン王国が勢力を伸ばし、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いでムスリム勢力に決定的な勝利を収めたことで、半島におけるイスラーム勢力は衰退へと向かいました。
13世紀のユーラシアでは、東ではモンゴル軍がロシアと中欧へ進み、西では十字軍とイスラーム勢力がイェルサレムをめぐって向き合い、イベリア半島ではキリスト教諸国が南へ領土を広げていました。
三つの問題に共通するのは、軍事力、外交、王国間の連携によって既存の勢力図が組み替えられた過程です。
空欄の答えは、①キプチャク、②タタール、③フリードリヒ2世、④レコンキスタ、⑤カスティリャです。
| 空欄 | 答え | 覚える要点 |
|---|---|---|
| ① | キプチャク | バトゥが西方に築いた政権 |
| ② | タタール | ロシア諸侯に対するモンゴル系政権の支配 |
| ③ | フリードリヒ2世 | 交渉によりイェルサレムを一時回復 |
| ④ | レコンキスタ | イベリア半島で進んだキリスト教勢力の南進 |
| ⑤ | カスティリャ | 13世紀の領土拡大を主導した王国の一つ |

問題1の答え|キプチャク・ハン国と「タタールのくびき」
①はキプチャク、②はタタール
問題1の答えは、①キプチャク、②タタールです。日本の世界史では、バトゥが南ロシアを中心に築いた政権をキプチャク・ハン国と呼び、その支配を「タタールのくびき」と表現するのが一般的です。
英語圏の歴史書では、この政権は主としてGolden Horde(黄金のオルド)と呼ばれます。また、研究上はチンギス=ハンの長男ジョチの領地を受け継いだ政権という意味で、ジョチ・ウルスという名称も用いられます。
バトゥの西征はロシアから中欧へ続いた
バトゥはチンギス=ハンの孫で、ジョチの子にあたります。モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイの時代、バトゥはスブタイらとともに大規模な西方遠征を率いました。
モンゴル軍は1230年代後半からルーシ諸公国を攻撃し、リャザンやウラジーミルなどを次々に攻略します。1240年には、東ヨーロッパの重要都市だったキーウも陥落しました。
その翌年、モンゴル軍はポーランドとハンガリー方面へ進みます。1241年4月、現在のポーランド南西部で行われたリーグニッツの戦いでは、ポーランド諸侯やドイツ騎士などからなる軍を破りました。
日本の教科書では、ドイツ語名に由来するワールシュタットの戦いという名称でも知られています。現在のポーランドの地名はレグニツァ、ドイツ語ではリーグニッツです。名称が違っても、この問題では1241年の同じ戦いを指しています。

なぜモンゴル軍は中欧から引き返したのか
ポーランド方面へ向かった軍がリーグニッツで勝利したのとほぼ同じ時期、バトゥらの主力はハンガリー王国の軍を破りました。西征は、複数の軍が各方面に進む作戦でした。
モンゴル軍は、1242年に中欧から退きました。伝統的には、1241年末に大ハーンのオゴタイが死去し、後継者選出に関わる必要が生じたことが大きな理由と説明されます。
撤退の理由については、モンゴル帝国内部の政治事情に加え、ハンガリー平原の環境、補給、軍馬の維持、占領統治の難しさなども研究されています。年輪資料と文献を組み合わせた研究は、1242年の寒冷で湿潤な条件が、牧草地や騎馬軍団の移動を制約した可能性を示しました。これは環境からの説明であり、撤退理由を一つに確定した結論ではありません。
モンゴル軍は主要な会戦に勝利した後に撤退しました。軍事的な勝敗と、遠征を続けるための政治・補給・環境の条件は、分けて考える必要があります。
ジョチ家の領地から西方の政権が形づくられる
バトゥの政権は、西征で獲得した領域と、ジョチ家の領地を基盤に形づくられました。バトゥは父ジョチの一族に割り当てられた西方領土を基盤とし、征服したキプチャク草原、ヴォルガ川流域、ルーシ諸公国への支配を徐々に整えていきました。
政治の中心はヴォルガ川下流域に置かれ、サライと呼ばれる都市が発展します。ここからルーシ諸侯に対して貢納を求め、支配者としての承認を与える体制が形成されました。
「タタールのくびき」はどのような支配だったのか
多くのルーシ諸公国では在来の諸侯が統治を続け、ハンの権威を認めて貢納を納めました。征服後の服属関係は、このような在来の支配者を通じて維持されます。
有力な諸侯は、統治者として認めてもらうためにハンの宮廷へ赴き、承認状を得ました。命令への反抗や貢納の拒否が起これば、軍事的な制裁を受ける危険がありました。
「タタールのくびき」は、こうした貢納、服属、諸侯の任命承認、軍事的威圧を組み合わせた支配を指す歴史上の呼称です。在来の諸侯を通じた間接支配を軸にすると、その仕組みがつかめます。
支配はモスクワの台頭にも関係した
ルーシ諸公国のなかでは、どの諸侯がハンの信任を得て貢納を取りまとめるかが重要になりました。やがてモスクワ公国は、周辺の公国に対する影響力を強めていきます。
ハンとの関係や貢納徴収の役割は、モスクワが勢力を広げる際にも利用されました。その成長には、周辺諸侯との競争など複数の条件が関わっています。
15世紀になるとキプチャク・ハン国側は分裂し、モスクワ大公国は力を増します。1480年のウグラ河畔の対峙は、一般にモンゴル系政権によるロシア支配の終わりを示す出来事とされています。
「タタール」という呼称と、住民の変化
13世紀に西方へ進出した軍隊の支配層はモンゴル系でしたが、ヨーロッパやロシアでは、東方から来た遊牧勢力を広く「タタール」と呼ぶことがありました。
その後、キプチャク・ハン国ではテュルク系住民との融合が進み、言語や文化の面でもテュルク化が進展します。さらに14世紀にはイスラームが政権内で定着しました。
13世紀のモンゴル軍、後世の政権の住民、現在のタタール人は、それぞれの時代と社会に即して区別します。「タタール」という呼び方の範囲も、地域や時代によって変わりました。
問題2の答え|フリードリヒ2世は外交でイェルサレムを得た
③は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世
問題2の答えは、③フリードリヒ2世です。彼が率いた1228~1229年の遠征は、現在の一般的な区分では第6回十字軍と呼ばれます。
この十字軍では、アイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルとの交渉によって、イェルサレムの一部を一時的にキリスト教側の管理下へ戻す合意が成立しました。大規模な会戦に代わり、外交が成果を生んだ点が特徴です。
フリードリヒ2世は地中海世界を統治する皇帝だった
フリードリヒ2世は、神聖ローマ皇帝であると同時にシチリア王でもありました。彼が育ったシチリアでは、ラテン系キリスト教文化、ギリシア文化、イスラーム文化が交わっていました。
宮廷では異なる言語や宗教的背景を持つ人々が活動し、フリードリヒ自身もイスラーム世界の学問や政治文化に関心を示しました。イスラーム世界への関心は、異なる背景の相手と関わる姿勢にも表れています。外交の成立には、双方の政治的な利害が関わりました。
王権を強化する際には、厳しい政策も採りました。シチリア島のムスリム住民を南イタリアへ強制移住させた事実もあります。異文化への関心と、統治に伴う強制の双方を見る必要があります。
出発の遅れによって教皇から破門された
フリードリヒ2世は以前から十字軍への参加を約束していました。しかし、遠征は繰り返し延期されます。1227年に出航した際も、軍中で疫病が発生し、皇帝自身も病気になったとして引き返しました。
教皇グレゴリウス9世はこれを約束違反とみなし、フリードリヒを破門します。それでも皇帝は翌1228年、破門されたまま東地中海へ向かいました。
この遠征は、皇帝が教皇と激しく対立し、破門された状態で行われました。

アル=カーミルにも交渉を選ぶ事情があった
アイユーブ朝側にも、フリードリヒとの戦争を避けたい事情がありました。
アイユーブ朝はサラーフ=アッディーンの死後、その一族によって領域が分けられていました。アル=カーミルは親族との対立を抱え、シリア方面の政治情勢にも注意を払わなければなりませんでした。
そのためアル=カーミルにとっても、限定的な譲歩によってフリードリヒとの戦争を避け、より切迫した内部問題へ対処することには利点がありました。
1229年の協定でイェルサレムが一時回復した
1229年2月、フリードリヒ2世とアル=カーミルの間で協定が結ばれました。一般にヤッファ条約と呼ばれる合意です。
合意により、イェルサレムの主要部分、ベツレヘム、ナザレなどが一定期間キリスト教側の管理下に置かれました。イスラーム教の重要な聖地である岩のドームやアル=アクサー・モスクを含む神殿の丘では、ムスリム側の宗教的権利が保たれました。
フリードリヒはイェルサレムへ入り、聖墳墓教会で王冠を戴きました。ただし、破門中だったため、通常の宗教儀礼を伴う正式な戴冠式とは異なります。
期限付きの合意と、1244年の陥落
協定は約10年の休戦を定めた期限付きの合意でした。聖地の権利や防衛などをめぐる課題も残り、町の支配はその後の政治と軍事の動きによって変わります。
1244年にはイェルサレムが再びイスラーム勢力側に奪われます。したがって、フリードリヒ2世の成果は、限られた国際情勢のなかで成立した暫定的な回復と評価する必要があります。
第5回か第6回かで迷う理由
1228~1229年のフリードリヒ2世の遠征は、現在では通常、第6回十字軍と数えます。第5回十字軍は、1217年ごろから1221年まで続いたエジプト遠征を指すのが一般的です。
十字軍の「第何回」という区分は、後世の歴史家による整理です。どの遠征を独立した十字軍とみなすかによって、古い教材や分類では番号がずれることがあります。
現在の標準的な世界史問題で1228~1229年、フリードリヒ2世、外交によるイェルサレム回復が並んでいれば、第6回十字軍と判断するのが基本です。
問題3の答え|レコンキスタを進めたカスティリャ王国
④はレコンキスタ、⑤はカスティリャ
問題3の答えは、④レコンキスタ、⑤カスティリャです。レコンキスタは、日本語では一般に国土回復運動と訳されます。
キリスト教諸国がイベリア半島の北部から南へ勢力を広げ、イスラーム政権の領域を征服していった長期的な過程を指します。起点は8世紀にさかのぼるとされ、最終的には1492年のグラナダ陥落へ至りました。
諸王国の征服と、宗教を越える政治関係
中世イベリア半島には、それぞれの君主と領土を持つ複数の王国がありました。「国土回復」という訳語を用いる際も、その時代の政治地図に沿って読むことが大切です。
キリスト教側には、カスティリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、ポルトガルなどの異なる王国がありました。これらの王国はイスラーム勢力と戦う一方、キリスト教王国同士でも領土や王位をめぐって争っています。
イスラーム側にも複数の政権がありました。コルドバの後ウマイヤ朝が崩壊した後には、タイファと呼ばれる小国が分立し、北アフリカからムラービト朝やムワッヒド朝が進出しました。
宗教の境界を越えた同盟や臣従関係も存在しました。レコンキスタは、宗教、王朝、領土、貢納関係が絡み合う長期的な政治過程でした。
1212年の戦いでは複数の王国が連携した
13世紀の南進を大きく後押ししたのが、1212年7月16日のラス・ナバス・デ・トローサの戦いです。
キリスト教側の中心となったのはカスティリャ王アルフォンソ8世でした。これにアラゴン王ペドロ2世、ナバラ王サンチョ7世らの軍が加わり、ムワッヒド朝のカリフ、ムハンマド・アン=ナースィルの軍と戦いました。
日頃は競合する諸王国が大規模に連携できたことが、勝利の重要な条件でした。また、教皇インノケンティウス3世が十字軍としての性格を認めたため、イベリア半島外から参加した兵士もいました。

この勝利は何を変えたのか
ラス・ナバス・デ・トローサの敗北によって、イベリア半島におけるムワッヒド朝の軍事的威信は大きく揺らぎました。さらに北アフリカを含む帝国内部の混乱が進み、その支配力は低下していきます。
1212年の勝利後も、イスラーム政権は半島に存続しました。キリスト教諸国は再編を経ながら、その後の数十年間に領土を広げていきます。
カスティリャ=レオンでは、フェルナンド3世の時代にコルドバが1236年、セビリアが1248年に征服されます。アラゴン王国もハイメ1世のもとで、マヨルカ島やバレンシア方面へ勢力を広げました。
13世紀後半までに、イベリア半島で存続する主要なイスラーム政権は、南部のナスル朝グラナダ王国を中心とする地域に限られていきます。
半島西部で南進したポルトガル
空欄⑤のカスティリャとともに、アラゴン、ナバラなどもそれぞれの地域で活動していました。ポルトガルは半島西部で独自に南進し、13世紀半ばまでに現在の国境に近い領域を形成しています。
問題文でカスティリャが特に挙げられるのは、同王国が中央部からアンダルシア方面へ大きく領土を広げ、後のスペイン統合でも中心的な位置を占めるようになったためです。
1492年の征服と、その後の社会
レコンキスタの終点とされるのは、カスティリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の時代です。両王は1492年にグラナダを降伏させ、ナスル朝を滅ぼしました。
カスティリャとアラゴンは、君主の婚姻を通じて結びつきました。それぞれの法、議会、行政制度は、その後も長く維持されます。王権の結合と制度の統合には、異なる経過がありました。
また、征服後の社会ではユダヤ教徒やイスラーム教徒に対する改宗圧力や追放が進みます。レコンキスタを「国土回復の成功物語」としてのみ語ると、半島に存在した宗教的・文化的多様性と、統合の過程で生じた排除が見えなくなります。
三つの出来事を同じ時間軸に置いてみる
1212年のイベリア半島での勝利、1229年のイェルサレムをめぐる協定、1241年の中欧への西征。同じ世紀の各地で、勢力関係が異なる方法で変わりました。
| 年 | 地域 | 出来事 | 勢力図への影響 |
|---|---|---|---|
| 1212年 | イベリア半島 | ラス・ナバス・デ・トローサの戦い | キリスト教諸国の南進が加速する転機となる |
| 1228~1229年 | 東地中海 | フリードリヒ2世の第6回十字軍 | 交渉によりイェルサレムを一時回復する |
| 1237~1240年 | ルーシ | バトゥ軍によるルーシ諸公国の征服 | 諸侯がモンゴル系政権の支配下に入る |
| 1241年 | 中欧 | リーグニッツの戦い | モンゴル軍の軍事力が中欧諸国を震撼させる |
| 13世紀中頃 | イベリア半島 | カスティリャとアラゴンの領土拡大 | イスラーム政権の領域がグラナダ周辺へ縮小する |

軍事力、外交、連携が支配の形を変える
バトゥらの西征では、征服に続いて貢納や諸侯の承認を通じた支配が整えられました。フリードリヒ2世とアル=カーミルは、それぞれの政治的な事情から、聖地の権利と期限を定める協定を選びます。イベリア諸国は、競合する王国同士の連携と、その後の都市の征服によって領域を広げました。
戦場での勝敗に加え、貢納、条約、王国間の連携が、その後の支配を形づくっています。三つの事例は、征服後の制度と、交渉や協力が成立する条件を比べる材料になります。
まとめ|答えを地域の変化と結びつける
空欄は、①キプチャク、②タタール、③フリードリヒ2世、④レコンキスタ、⑤カスティリャです。
問題1では、バトゥの西征からキプチャク・ハン国の形成、ロシア諸侯に対する間接支配までを一続きで押さえます。「タタールのくびき」では、貢納と諸侯統制の仕組みが支配を支えました。
問題2では、フリードリヒ2世がアル=カーミルとの交渉によってイェルサレムを一時回復した点が中心です。第6回十字軍は、戦場での勝利よりも外交が成果を生んだ珍しい例でした。
問題3では、カスティリャ、アラゴン、ナバラなどの利害と連携を見ます。1212年の勝利は13世紀の南進を後押しし、その後も征服や政権間の関係が変化しました。1492年のグラナダ陥落までは、さらに約280年を要します。
復習するときは、まず五つの空欄を答え、そのあとに「誰が」「どの方法で」「何を変えたか」を一文ずつ説明してみてください。用語だけでなく因果関係まで思い出せれば、類題にも対応しやすくなります。
参考資料
- Encyclopaedia Iranica「GOLDEN HORDE」
- レグニツキェ・ポレ自治体「Historia Legnickiego Pola」
- Büntgen・Di Cosmo「Climatic and environmental aspects of the Mongol withdrawal from Hungary in 1242 CE」
- フォーダム大学史料集:フリードリヒ2世の1229年の書簡
- フォーダム大学史料集:1228~1229年のフリードリヒ2世の十字軍
- 研究論文「Too Big to be Owned: Reflections on Jerusalem in Islamic History」
- プラド美術館:ラス・ナバス・デ・トローサの戦いの解説
- アラゴン州政府「Reyes de Aragón」
- メトロポリタン美術館「The Art of the Nasrid Period」
- メトロポリタン美術館:イベリア半島1400~1600年の年表

