藤原氏が頂点に立つころ、世界では三人のカリフが並び立った

和歌と宮廷文化を題材にした創作イメージ 大学受験歴史

問題1:藤原北家と西フランクの王権
(1)842年の承和の変で配流された、三筆の一人は誰ですか?
(2)969年の安和の変で大宰権帥へ左遷された左大臣①は誰ですか?
(3)987年、ユーグ・カペーの即位によって始まった王朝は何ですか?

問題2:地方の軍事勢力
(1)939年に関東で新皇を称した③と、瀬戸内海から西国で武力行動を起こした④は誰ですか? 二人の乱をまとめた名称も答えてください。
(2)907年、唐を滅ぼして後梁を建てた⑤は誰ですか? 華北の五王朝の交替と各地の政権の分立が続いた⑥時代は何ですか?
(3)兵を率いて反乱や盗賊の鎮圧を担い、追捕使とともに地方の治安維持に関わった⑦という職は何ですか?

問題3:三つのカリフ政権
(1)909年に北アフリカで成立したシーア派の王朝と、969年のエジプト征服に伴って建設した都市を答えてください。
(2)929年、アブド・アッラフマーン3世がカリフを称したイベリア半島の⑧朝は何ですか?
(3)945年12月にバグダードへ入り、アッバース朝カリフを残して政治・軍事の実権を握った⑨朝は何ですか?

問題4:北方の人々と文字・文化
(1)8世紀後半から海上遠征を活発化させた北欧の人々の活動は、何と呼ばれますか? また、911年にロロが西フランク王から与えられた領域を基礎に発展した公国は何ですか?
(2)916年に皇帝を称した耶律阿保機は、⑩という民族の指導者でした。その言語を記録するために作られた⑪文字も答えてください。
(3)10〜11世紀の日本で、かなや和歌・物語などを発展させた⑫文化と、905年に醍醐天皇が編纂を命じた⑬という和歌集を答えてください。

答えと解説:政変、軍事力、カリフ、文字

設問 答え 整理する点
1(1) 橘逸勢 842年、皇位継承をめぐる承和の変
1① 源高明 969年、安和の変で左遷
1(3) カペー朝 987年、ユーグ・カペー即位
2③・④、乱の名称 平将門・藤原純友、承平・天慶の乱 関東と西国の二つの反乱
2⑤・⑥ 朱全忠(朱温)・五代十国時代 唐の滅亡後の王朝交替と地域政権
2⑦ 押領使 兵を率いて鎮圧に当たる職
3(1) ファーティマ朝・カイロ 909年成立、969年エジプト征服
3⑧ 後ウマイヤ朝 コルドバでカリフを称する
3⑨ ブワイフ朝 アッバース家のカリフと軍事政権の併存
4(1) ヴァイキング・ノルマンディー公国 海上遠征と、領域支配への展開
4⑩・⑪ 契丹・契丹文字 中国北方の国家形成と言語の記録
4⑫・⑬ 国風文化・古今和歌集 日本語で表す貴族文化

9〜10世紀、日本では藤原北家が皇位継承と外戚関係を通じて勢力を強め、地方では武力を持つ人々が反乱とその鎮圧を担いました。唐の滅亡後の中国、複数のカリフが指導権を争うイスラーム世界、西フランクの王朝交替も同じ時代に重なります。

各地の政治を比較する手掛かりは、王位やカリフの地位、軍事力、統治を支える親族・官職の関係です。国家形成とともに進んだ文字や文化の変化も、四つの問題を結ぶテーマになります。

深掘り1:藤原北家と皇位継承

842年の承和の変と橘逸勢

橘逸勢は、嵯峨天皇・空海とともに三筆に数えられる平安初期の書の名手です。遣唐使として唐に渡った経験もありました。842年、仁明天皇の時代に起きた承和の変で、伴健岑とともに謀反の疑いをかけられ、伊豆への配流を命じられます。逸勢は道中で亡くなりました。

この事件で、淳和天皇の皇子である恒貞親王が皇太子を廃され、仁明天皇の皇子・道康親王が皇太子になりました。道康の母・藤原順子は藤原良房の妹です。のちの文徳天皇となる道康への継承が定まり、良房の外戚としての地位が強まりました。

事件の経緯には、皇位継承をめぐる対立と朝廷内の勢力関係が関わります。誰が事件を計画したかという意図の断定には、史料の検討が必要です。皇太子の交替と、良房の立場が強まった結果は分けて説明できます。

摂政・関白と外戚関係

良房は、娘の明子を文徳天皇の后とし、その子の清和天皇の外祖父になりました。858年に幼少の清和天皇が即位すると政務を支え、866年には正式に摂政の命を受けます。同年の応天門の変では、大納言の伴善男が失脚しました。

摂政は幼い天皇などに代わって政務を行い、関白は成人した天皇を補佐します。藤原氏の娘が后となり、その皇子が即位すると、藤原氏は天皇の母方の親族として政治を主導しやすくなりました。外戚関係と高い官職を世代ごとに確保することが、摂関政治を支える仕組みです。

969年の安和の変と源高明

源高明は醍醐天皇の皇子として生まれ、臣籍降下して源氏となり、左大臣まで昇りました。969年、源満仲らの密告に始まる安和の変で、謀反の疑いをかけられて大宰権帥へ左遷されます。高明の失脚は、藤原北家の有力な競争相手を減らしました。

842年の承和の変、866年の応天門の変、901年の菅原道真の左遷、969年の安和の変を並べると、朝廷内の勢力関係が変わった経過を追えます。摂関政治の定着には、これらの政変に加え、外戚関係、幼少天皇の即位、官職運用の慣例化が関わりました。

三筆とともに書道史で学ぶ三蹟は、小野道風・藤原佐理・藤原行成です。三筆は平安初期、三蹟は平安中期を代表する書家として、人物と時期を一組にして整理します。

深掘り2:カペー朝の成立と王権

西フランク王国では987年、カロリング家の国王ルイ5世が亡くなり、有力貴族のユーグ・カペーが王に選ばれました。この即位を始まりとする王朝がカペー朝です。

王国には、強い軍事力と領地を持つ諸侯がいました。ユーグの直接支配は限られており、王の称号と各地を実際に統治する力には幅がありました。後代の王が領地や統治権を広げる過程を追うと、フランス王権の形成を理解できます。

日本では藤原北家が天皇の外戚として勢力を強め、西フランクでは有力な貴族が王位に就きました。王家との親族関係を通じて政治を担う方式と、王家が交替する方式を比較できます。

深掘り3:承平・天慶の乱と地方の軍事力

平将門の乱

平将門は関東に基盤を持つ平氏の一族です。935年ごろから一族間の争いが続き、939年には常陸・下野・上野の国府を攻撃して、新皇を称しました。国府は国司が政務を行う拠点であり、その制圧は朝廷の地方支配への挑戦となりました。

940年、将門は藤原秀郷・平貞盛らに討たれました。反乱を鎮めたのも、東国に地盤と軍事力を持つ人々です。地方の武力が反乱側と朝廷側の双方で働き、鎮圧の功績は武士としての家の地位を高める機会となりました。

藤原純友の乱

藤原純友は、伊予での活動を経て瀬戸内海の勢力を率い、西国で大規模な武力行動を起こしました。瀬戸内海は物資輸送と海上交通の重要な経路です。海上勢力による攻撃は、各地の行政と朝廷への輸送に影響しました。

941年、純友の軍は大宰府を襲撃し、朝廷側の小野好古らが博多でこれを破りました。純友の乱も同年に鎮圧されます。将門と純友の二つの反乱を、当時の元号から承平・天慶の乱と呼びます。両者の共同計画を裏付ける確かな史料は確認されていません。

押領使・追捕使という職

朝廷は、押領使や追捕使などの職を用いて、反乱・盗賊の鎮圧や追捕を担わせました。押領使は兵を率いる軍事的な職、追捕使は対象を追跡して捕らえる職として整理できます。職掌は時期や地域によって重なりがあります。

国司や地方の有力者が、こうした職と軍事活動を通じて朝廷の秩序を支えました。中央の命令、地方の武力、功績に対する恩賞の結びつきが、武士の成長を読む手掛かりになります。

深掘り4:唐の滅亡と五代十国

唐の後期には、地方軍を率いる節度使の力が強まりました。黄巣の乱などで中央政権が弱まる中、軍事力を持つ指導者が勢力を広げます。907年、朱全忠が唐の皇帝から帝位を譲り受ける形で後梁を建て、唐は滅亡しました。朱全忠は朱温の名でも知られます。

五代は、華北で順に成立した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五つの王朝です。十国は、南方を中心に分立した地域政権をまとめた呼称です。華北の王朝交替と、各地の政権の並立という二つの動きを含む時代が、五代十国時代です。

960年には宋が成立し、その後に各地域の統合が進みました。日本の承平・天慶の乱と比較すると、地方の軍事力が中央の秩序を揺さぶった点が共通します。中国では、その軍事力を持つ勢力が帝位を獲得する王朝交替にもつながりました。

深掘り5:三つのカリフ政権とブワイフ朝

909年のファーティマ朝、969年のカイロ

ファーティマ朝は909年に北アフリカで成立した、シーア派のイスマーイール派の王朝です。王朝名は、ムハンマドの娘ファーティマに由来します。君主はファーティマとアリーの子孫であると主張し、カリフとしてアッバース朝と指導権を争いました。

969年にエジプトを征服し、カイロを建設します。アズハルのモスクと教育活動もその統治のもとで始まり、宗教・学問の拠点へ発展しました。909年の王朝成立は北アフリカ、969年のカイロ建設はエジプトへの進出に対応します。

929年、コルドバのカリフ

後ウマイヤ朝は、アッバース朝成立後にイベリア半島へ逃れたウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世が、756年に築いた政権です。929年、その後継者であるアブド・アッラフマーン3世がカリフを称しました。王朝の成立と、君主がカリフを称する時期を分けて覚えます。

王朝 主な拠点 宗派・正統性
アッバース朝 バグダード スンナ派のカリフ
ファーティマ朝 北アフリカ、後にカイロ イスマーイール派のカリフ
後ウマイヤ朝 コルドバ スンナ派、ウマイヤ家のカリフ

三人のカリフという表現は、これら三王朝の君主がそれぞれカリフを称し、正統な指導権を競った状態を指します。アッバース朝の政治的な統合が弱まる中、地域の支配と宗教上の権威を結びつける政権が並びました。

945年12月のブワイフ朝入城

ブワイフ朝は、カスピ海南岸のダイラム地方に出自を持つ、イラン系のシーア派の王朝です。945年12月、アフマドがバグダードへ入り、カリフからムイッズ・アッダウラの称号と大アミールの地位を得ました。翌946年には当時のカリフを廃位し、別のアッバース家のカリフを立てます。

軍事と行政の実権を握ったブワイフ朝は、アッバース家のカリフの地位を維持しました。広く認められていたカリフの権威は、その統治を支える役割を持ちます。自らカリフを立てたファーティマ朝と、アッバース家のカリフを利用したブワイフ朝では、権威と実権の組み合わせが異なります。

深掘り6:北方の人々と新しい国家

ヴァイキングとノルマンディー

北欧の人々は、8世紀後半から海を越える遠征を活発化させました。ヴァイキングと呼ばれる海上遠征者は、沿岸や川沿いを襲撃し、交易、入植、傭兵活動にも関わります。北欧の社会には農耕・牧畜・漁業を営む人々もおり、海上活動と各地の暮らしが結びついていました。

喫水の浅い船は川をさかのぼることができ、内陸の都市や修道院も遠征の対象になりました。船と航海の技術は、物資を運び、海外の土地へ定着するためにも使われました。

911年、西フランク王シャルル3世は、首長ロロにセーヌ川下流域の領域を与えました。キリスト教への改宗と王への奉仕を伴う合意を基礎に、支配領域が広がり、ノルマンディー公国へ発展します。ノルマンディーの名称は、北方の人々に由来します。

定着した人々は現地の言語とキリスト教文化を受け入れ、領主として統治を行いました。1066年、ノルマンディー公ウィリアムはイングランドを征服します。海上遠征から領域支配へ進んだ変化が、後のヨーロッパ政治にもつながりました。

契丹国家と二つの統治体系

契丹は、モンゴル高原東部から中国東北部にかけて活動した人々です。耶律阿保機は諸部族をまとめ、916年に皇帝を称しました。この年を遼の建国として学びます。当初の国号は契丹で、947年には遼と改称され、その後も国号の変更がありました。

領域には遊牧民と農耕を営む人々が暮らしていました。北面官は契丹の慣習に基づく官制、南面官は中国式の官制を中心とし、対象となる社会に合わせて統治を組み合わせました。中国の州県制度を用いた地域と、部族的な組織を生かした地域を含む国家です。

契丹語を記録する文字

契丹文字には、大字と小字の二つの体系があります。大字は920年に阿保機の命で作られ、小字は924〜925年ごろ、ウイグル文字を参考に考案されたと伝えられます。設問の答えは、両方を含む名称の契丹文字です。

文字は碑文や記録に用いられました。漢字を使う中国の制度と接しながら、契丹語を記す方法も整えた点に、統治と文化の特色があります。文字の解読と、その構造・語彙の研究は現在も続いています。

深掘り7:かなと国風文化

国風文化は、主に10〜11世紀、平安京の貴族社会を中心に発達した文化です。漢字、漢文学、仏教、美術などの受容を基礎に、日本語と宮廷生活に合う表現が豊かになりました。大陸との交流も、商人や僧の往来を通じて続きます。

かなの発達は9世紀から進みました。平仮名は漢字の草書をもとに、片仮名は漢字の一部を用いて形成されます。日本語の音や心情を書き表す手段が整い、和歌、日記、物語の表現を支えました。

905年、醍醐天皇は『古今和歌集』の編纂を命じました。撰者は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人です。日本最初の勅撰和歌集として、四季、恋、別れ、旅などの歌をまとめ、宮廷の和歌文化に大きな影響を与えました。

紀貫之の仮名序は、和歌の性質や歴史を日本語で論じた文章です。『土佐日記』『枕草子』『源氏物語』などにも、かなを用いた豊かな表現が見られます。契丹と日本では文字の仕組みや成立事情が異なりますが、中国文化との交流の中で自らの言語を記録する方法を発達させた点を比較できます。

和歌と宮廷文化を題材にした創作イメージ
和歌と宮廷文化を題材にした創作画像。巻物の字、屏風、室内と庭園は図案であり、古今和歌集の現存写本や10世紀の室内を示す史料ではない。

年表:同じ時代の変化を並べる

年 地域・出来事
842 日本:承和の変、橘逸勢らの配流と皇太子交替
866・901 日本:応天門の変/菅原道真の左遷
905 日本:『古今和歌集』編纂の勅命
907 中国:唐滅亡、後梁成立
909 北アフリカ:ファーティマ朝成立
911 西フランク:ロロへの領域授与、ノルマンディー形成へ
916 中国北方:耶律阿保機が皇帝を称する
929 コルドバ:アブド・アッラフマーン3世がカリフを称する
939〜941 日本:将門の新皇自称、将門・純友の乱の鎮圧
945年12月・946 バグダード:ブワイフ朝入城/カリフ交替
947・960 中国北方:遼への改称/中国:宋成立
969 日本:安和の変/エジプト:ファーティマ朝征服、カイロ建設
987 西フランク:カペー朝成立

10世紀の比較では、王位や宗教上の地位を持つ者と、軍事・行政を担う者との関係に注目できます。日本とバグダードでは、天皇やカリフの地位を残しながら別の有力者が政治を主導しました。地方の軍事勢力は、反乱の担い手、鎮圧者、新しい王朝や領域支配の担い手にもなります。

文字と文学の発達は、こうした政治の変化と同じ時間軸にあります。各地が取り入れた制度や文化を、言語と生活に合わせて展開した過程まで見ると、人物名・王朝名と社会の変化が結びつきます。

参考資料