1960年はなぜ転換点だった?新安保条約・所得倍増計画・OPECをつなぐ

大学受験歴史

問題1:1960年に岸信介内閣のもとで調印され、アメリカの日本防衛義務などが盛り込まれた一方、国内で激しい反対運動(安保闘争)を巻き起こした条約を何といいますか?

問題2:1960年に池田勇人内閣が閣議決定した、10年間で実質的な国民所得を2倍にすることを目標とし、日本の高度経済成長をさらに推進した計画を何といいますか?

問題3:1960年に、産油国がメジャー(国際石油資本)に対抗して石油価格の維持や利権の確保を図るために結成した国際組織は何ですか?

答えは、問題1が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約、一般にいう新安保条約です。問題2は国民所得倍増計画、問題3は石油輸出国機構(OPEC:Organization of the Petroleum Exporting Countries)です。

三つとも1960年の出来事ですが、一本の原因と結果で結ばれているわけではありません。安全保障、経済政策、石油をめぐる国際関係という別の動きを同じ年の地図に置くと、戦後日本が何を土台に成長しようとしていたのかが見えやすくなります。

1960年は、「日米安全保障の再編」「成長政策の明確化」「産油国の協調」という三つの変化を並べると理解しやすい年です。

1960年を一本の年表で見る

時期 出来事 何が変わったか
1月19日 新安保条約に署名 日米の安全保障関係を改定
5月19日〜20日未明 衆議院で新安保条約をめぐる採決 条約内容だけでなく国会運営も大きな争点になる
6月23日 批准書交換、新安保条約発効 新しい日米安全保障体制が正式に動き出す
7月19日 第1次池田勇人内閣成立 経済重視の政治運営へ軸足が移る
9月10日〜14日 バグダッド会議でOPEC結成 産油国が石油政策で協調する枠組みを作る
12月27日 国民所得倍増計画を閣議決定 10年以内の実質的な経済規模倍増を目標に掲げる

こうして並べると、年の前半は安保改定をめぐる激しい政治対立、後半は池田内閣の経済政策とOPECの誕生が目立ちます。ただし、「安保闘争があったからOPECができた」という関係ではありません。同じ1960年に、日本の安全保障と成長戦略、世界の資源秩序がそれぞれ動いたと整理するのが正確です。

問題1:新安保条約で何が変わったのか

新安保条約は、1960年1月19日にワシントンで署名され、6月23日の批准書交換と同時に発効しました。1951年に結ばれた旧日米安全保障条約に代わる条約です。

大きな違いの一つは、アメリカの日本防衛義務が条文で明確になったことです。新条約第5条は、日本の施政下にある領域への武力攻撃に対して、日米が共通の危険に対処するため行動すると定めています。旧条約では、このような形のアメリカの対日防衛義務は明記されていませんでした。

一方、新条約第6条は、日本国内の施設・区域をアメリカ軍が使用する枠組みを定めています。つまり新安保条約は、「日本を守ってもらう約束」だけではなく、冷戦下で日本をアメリカとの安全保障関係の中に位置づける条約でもありました。

安保闘争では、条約内容と政治の進め方が争点になった

反対運動が大きくなった理由は一つではありません。軍事同盟を強めることで日本が国際的な軍事対立へ巻き込まれるのではないかという懸念があり、アメリカ軍基地の存在や「極東」の安全との関係も論点になりました。

さらに、国会審議の進め方への反発が重なります。国立国会図書館の史料解説によると、1960年5月19日に衆議院で警官隊が導入され、50日間の会期延長が可決されました。翌20日未明には衆議院本会議で新安保条約が承認されます。この国会運営が、条約への反対だけでなく、議会制民主主義の手続きそのものへの批判を強めました。

安保闘争を「激しいデモがあった事件」とだけ覚えると、外交・安全保障と国会手続きという二つの争点を見落とします。

6月15日には国会周辺のデモで死者が出る事態となり、反対運動は深刻な社会的対立へ発展しました。新安保条約は国会承認の手続きを経て、6月23日に発効します。同日、岸信介首相は退陣を表明し、7月19日に池田勇人内閣が成立しました。

問題2:国民所得倍増計画は「給料を2倍」にする計画ではない

国民所得倍増計画は、1960年12月27日に池田勇人内閣が閣議決定した経済計画です。名称だけを見ると、個人の給料を一律に2倍へ引き上げる政策のように見えますが、目標はそこではありません。

国立公文書館が公開する閣議決定文では、今後10年以内に国民総生産を26兆円(1958年度価格)へ到達させることを目標としています。言い換えると、物価変動の影響を除いた実質的な国民経済の規模を、およそ10年間で2倍にする構想です。

目的も成長率だけではありませんでした。計画は、雇用を増やして完全雇用を目指し、国民の生活水準を引き上げることを掲げています。また、農業と非農業、大企業と中小企業、地域間、所得階層間にある格差の是正も課題として明記しました。

そのため政策の対象は、工場の設備投資だけに限られません。道路、港湾、住宅、下水道などの社会資本、輸出の拡大、教育・訓練、科学技術、社会保障や福祉まで、成長を支え生活へつなげる広い分野が含まれていました。政策名は短いのに中身はかなり広い。ここは名前だけで覚えると少し損をするところです。

安保闘争のあと、池田内閣は経済重視を打ち出した

岸内閣の退陣後に成立した池田内閣は、「寛容と忍耐」を掲げ、経済を重視する政治運営へ軸足を移しました。新安保条約をめぐって社会の対立が深まった直後だけに、生活向上と経済成長を前面に出す政策は、1960年代の日本政治を考える重要な手がかりになります。

ただし、ここでも単純な因果関係にはしないほうが安全です。高度経済成長そのものは1960年12月に突然始まったわけではなく、日本経済は1950年代半ばから高い成長を続けていました。国民所得倍増計画は、すでに進んでいた成長を前提に、その方向と政策目標を明確にした計画です。

「国全体の成長」と「家庭の実感」は同じではない

ここで大切なのが、経済全体が伸びても、すべての家庭が同じ速度で豊かさを感じるわけではないという視点です。これは感想だけの話ではありません。国民所得倍増計画そのものが、農業と非農業、大企業と中小企業、地域、所得階層の間にある格差を政策課題として挙げています。

したがって、高度経済成長を「みんなが一斉に豊かになった時代」と表すだけでは粗すぎます。雇用や所得、家電の普及、都市化が進む一方で、産業や地域による差、公害や住宅問題など、成長に伴う課題も現れました。成長率と生活実感を分けて見ると、所得倍増計画の狙いが理解しやすくなります。

日本の高度経済成長は、なぜ石油と結びついたのか

国民所得倍増計画とOPECをつなぐとき、間に置くべき言葉は「石油」です。日本では1950年代から1960年代に、エネルギーの中心が石炭から石油へ移る「エネルギー革命」が進みました。

資源エネルギー庁によると、1962年には原油輸入が自由化され、同じ年に日本のエネルギー供給で石油が石炭を初めて上回りました。重化学工業の発展、石油コンビナートの建設、自動車の普及が進み、成長する経済ほど多くの石油を必要とする構造が強まっていきます。

ここで重要なのは、日本の高度経済成長が国内の設備投資や勤労だけで完結していなかったことです。海外から大量の原油を安定して輸入できることも、工場、発電、輸送を動かす前提になりました。経済成長のアクセルを踏むほど、海外資源との結びつきも深くなったのです。

問題3:OPECはなぜ1960年に生まれたのか

OPECは、石油輸出国機構の英語名Organization of the Petroleum Exporting Countriesの頭文字です。1960年9月10日から14日までイラクのバグダッドで開かれた会議を経て、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5か国が創設しました。

当時の国際石油市場では、大手国際石油会社が原油の生産や販売、価格形成に大きな影響力を持っていました。OPECの公式史は、国際石油会社による原油の公示価格の一方的な引き下げが、産油国側の協調を促す直接的な背景の一つだったと説明しています。

産油国は、自国の天然資源から得られる利益を守り、石油政策を協調し、市場の安定を図るために組織を作りました。つまりOPECの誕生は、石油を持つ国々が「資源を採る場所」であるだけでなく、資源政策の決定に自ら関わろうとした動きとして読むと意味が分かります。

OPEC結成と1973年の石油危機は同じ出来事ではない

ここは年代を分けておきたいところです。OPECが結成されたのは1960年です。一方、日本経済を大きく揺らした第一次石油危機は1973年で、第四次中東戦争を背景に供給制限や原油価格の急上昇が重なって起きました。

1960年のOPEC結成だけで、すぐに日本の高度経済成長が止まったわけではありません。むしろ日本では1960年代を通じて石油への依存が高まりました。そのため1970年代に石油供給と価格が不安定になると、エネルギーを海外に頼る成長モデルの弱点が一気に表面へ出たのです。

三つの出来事をつなぐと、1960年の意味が見える

新安保条約、国民所得倍増計画、OPECは、分野の違う三つの出来事です。それでも同じ年に並べる価値があります。

新安保条約からは、日本が冷戦下でどのような安全保障の枠組みを選んだのかが見えます。国民所得倍増計画からは、政治的対立の後に経済成長と生活向上を大きな政策目標として掲げたことが分かります。OPECからは、その成長を支える石油について、産油国側でも主導権を強めようとする動きが始まっていたことを読み取れます。

三つを一列の因果関係にしてはいけません。ただし、戦後日本の発展に必要だった条件を考えると、相互に見比べる意味があります。安全保障の安定、成長を促す国内政策、海外からの資源供給。この三条件が重なる場所に、1960年代の日本経済がありました。

言葉だけ覚えるなら「新安保条約・国民所得倍増計画・OPEC」で終わります。そこから一歩進めて、「日本は日米安全保障体制の下で成長を進め、その成長は輸入石油への依存を深める時代でもあった」と説明できれば、三問が一つの歴史像になります。

まとめ:1960年は安全保障・成長・資源が同時に動いた年

1960年、新安保条約は日米安全保障関係を改定し、その国会承認をめぐって大規模な安保闘争が起きました。同じ年の後半、池田勇人内閣は国民所得倍増計画を決め、10年以内に実質的な経済規模を2倍にする目標を掲げます。世界では、5つの産油国がバグダッドに集まりOPECを結成しました。

復習するときは三つの名称だけでなく、「安全保障は何が変わったか」「所得倍増は何を倍にする計画か」「産油国はなぜ協調したか」を一文ずつ説明してみてください。この三点が言えれば、1960年を年号ではなく構造で理解できています。

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参考資料