イエリコの石壁と新石器時代|農耕より先に始まった定住の歴史

完新世

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問1(大きな定住集落イエリコ)
パレスチナのヨルダン川流域に位置し、紀元前9千年紀から8千年紀には大きな定住集落となった遺跡があります。湧き水の近くに住居が築かれ、石造の壁・塔・濠の跡も残るこの遺跡の名称は何ですか。

問2(定住生活と新石器時代)
西アジアで定住が広がり、農耕・牧畜や磨製石器の利用が進んだ時代を何と呼びますか。初期には、まだ土器を作らなかった地域や時期も含みます。

答えは問1がイエリコ(エリコ、テル・エス・スルタン)、問2が新石器時代です。イエリコには約1万年前、石壁や塔を造るほどの共同作業がありました。ただし、農耕・定住・土器の使用が同じ日に始まったわけではありません。村ができるまでの長い時間を、三つの場所からたどってみましょう。

イエリコの石壁が伝える暮らし

湧き水のそばに人が集まった

現在のパレスチナ、ヨルダン川流域にあるテル・エス・スルタンは、古代イエリコの遺跡です。「テル」は何世代にもわたる建物の跡が積み重なった丘を指します。近くには湧き水がありました。乾いた土地で安定した水を得られることは、同じ場所へ繰り返し戻り、そこで暮らしを続けるうえで大きな利点だったでしょう。

ユネスコによれば、この場所には紀元前1万500年ごろにさかのぼる人間活動の跡があります。そのすべてが最初から同じ大きさの集落だったわけではありません。紀元前9千年紀から8千年紀には、石壁、濠、塔を伴う大きな定住集落が営まれていました。「人がいた時期」と「大きな集落や石造施設があった時期」は、分けて覚えると混乱しません。

丘の土を上から下へ見ていくと、異なる時代の暮らしが重なっています。ユネスコはこの遺跡に29の居住段階を認めています。いま目にする丘の姿を、そのまま紀元前8000年ごろの景色として想像することはできません。同じ場所に住む人々が建て直しを重ねたため、建物の跡も時代ごとに違います。この積み重なりを読むのが考古学の大切な仕事です。

壁と塔から、何が分かるのか

発掘で確認された石壁、濠、塔には、個々の住居とは違う規模の仕事が必要でした。石を運び、地面を掘り、位置を決めて築く。作業を続けるには、複数の人が時間と手間を出し合う必要があります。石の積み方そのものに、「この場所で一緒に暮らそう」という営みが刻まれているようです。

その壁を軍事用の城壁と呼びたくなるかもしれません。しかし用途には議論があります。洪水や泥流への備えという説もあり、塔の意味も一つには決められていません。石造施設の存在と、その施設を造った目的の推定は別の話です。遺跡から直接見えるのは、当時の人々が大きな共同工事を行ったという事実でしょう。

巨大な壁に目を奪われますが、生活の中心には住まいと食べ物がありました。出入りする人が多ければ、建築材、水、食料をどう確保するかも毎日の問題です。壁だけを見て「王が命じたはずだ」と考えることもできません。共同作業のあり方と、誰が指示したかは別の問いです。発掘された構造物が教えてくれる範囲にとどめると、かえって人々の工夫が鮮明になります。

なお、イエリコの先史時代の集落を、後の時代の都市国家と同じ意味で「都市」と考えるのは慎重でありたいところです。世界遺産の説明も、新石器時代の大きな定住集落と、青銅器時代に見られる都市文化を区別しています。ここでは、まず湧き水のそばで人々が共同生活を続けた場所として見ていきます。

定住は農耕のあとに始まったのか

ナトゥフ文化の人々は野生の資源を使った

イエリコより少し前のレヴァント地方に目を向けましょう。およそ1万5000年前から1万1500年前までのナトゥフ文化では、狩猟採集を基盤にしながら、長く同じ場所に滞在する暮らしが見られました。時期や場所によって移動のしかたは異なり、すべての人が一年中一か所に住んでいたと決めることはできません。

彼らは野生の穀物を刈る石鎌の刃を使い、石臼や石製の道具で植物を加工しました。畑で育てた作物だけが食べ物になるわけではなく、自然に生える穀物を集める技術も暮らしを支えていたのです。野生の麦を刈ることと、自分たちで種をまき、次の収穫を管理することは同じではありません。この違いが、農耕の始まりを考える鍵になります。

「半定住」は、定住に失敗したという意味ではありません。季節によって利用しやすい場所を変えながら、特定の拠点へ繰り返し戻る暮らしも成り立ちます。石鎌で刈り取る時期、集めた穀物を加工する場所、ほかの食べ物を得る季節を合わせて考えると、移動と長期滞在が同居していたことが分かります。村への道は一方向ではなく、地域の水や植物の条件にも左右されました。

ナトゥフ文化に見られる半定住は、「まず畑を作り、そのあと家を建てた」という一列の説明を揺さぶります。暮らす場所がある程度決まり、季節ごとに採れるものを知り、道具を使い込む。その積み重ねのなかで、人と植物の関わりが変わっていきました。年代の長い文化なので、ひとつの村の一場面だけで全体を代表させることもできません。

食料を置く場所が、暮らしを変える

さらに、死海の近くにあるヨルダンのドラ遺跡では、およそ1万1300~1万1200年前の土器以前の新石器時代に、穀物を蓄えるための建物が見つかっています。床を浮かせて空気を通す工夫があり、虫や小動物から収穫物を守るのに役立ったと考えられます。植物の完全な栽培化に先立つ段階にも、貯蔵のためのまとまった設備があったわけです。

その建物があれば、採れた穀物をすぐ食べ尽くさず、先の季節へ持ち越せます。共同で蓄えるのか、各家に置くのかという選択も生まれます。現代の「在庫管理表」を求めるには早すぎますが、食べ物を明日へ残すには、当時もかなりの段取りが必要だったはずです。

床を地面から離す工夫は、集めた穀物をどこに置くかという切実な問題から読み解けます。収穫したら終わりではなく、湿気や小動物から守らなければ次の季節に使えません。ドラの貯蔵施設は住居の間に設けられており、研究者は共同の蓄え方を考える材料にしています。ただし、出土した建物の配置から当時の所有権まで読み取ることはできません。

ここで気をつけたいのは、貯蔵庫が見つかったからといって、穀物のすべてが現在の小麦のような栽培種だったとはいえないこと。ドラの研究では、形の上では野生の植物を扱いながら、栽培や管理を強めていた段階が論じられています。採る、蓄える、育てるという営みには、長い重なりがありました。

新石器時代には、土器がなくてもよいのか

「土器以前の新石器時代」を知る

授業では新石器時代を、農耕・牧畜、磨製石器、土器の組み合わせで覚えることがあります。全体の変化をつかむには便利ですが、西アジアの初期を年代順に眺めると、三つがそろって登場したわけではありません。イエリコの初期の重要な段階は、名前のとおり先土器新石器時代に含まれます。

人々は土器が普及する前にも、石や植物質の素材を使い、食べ物を加工・保管していました。土器がない時期の集落を、新石器時代から除外する必要はありません。反対に、世界のどこでも土器が生まれた瞬間に農耕が始まったともいえません。地域ごとの年代を確かめながら、道具と暮らしの変化を見ていくのが近道です。

磨製石器も「古い石器を全部捨て、新しい道具に入れ替えた」という意味ではありません。割って鋭い刃を作る打製石器は、その後も用途に応じて使われました。新しい加工技術と古くからの技術が並んでいたと考えると、日々の作業が少し具体的に見えます。

道具を時間の物差しにするときは、「何に使う道具か」も見たいところです。切る、すりつぶす、穴を開けるといった作業では求められる形が違います。村が大きくなり、食べ物を加工する機会が増えれば、一種類の石器ですべてを済ませるわけにはいきません。石器の名前は時代区分の合図ですが、実際の暮らしには複数の技術が混じっていました。

農耕村落ジャルモを比べる

時間を進めて、イラク北東部、ザグロス山地のふもとにあるジャルモを訪ねましょう。おおむね紀元前8千年紀から7千年紀に人が住んだ初期の村落遺跡で、発掘では建物跡、穀物を扱った痕跡、石製の道具などが調べられました。近年の植物考古学研究も、穀物の利用と調理法を改めて検討しています。

ジャルモは、村に暮らしながら食べ物を作り、加工する営みを考えるうえで大切な場所です。ただし遺跡のすべての層を、土器を用いる一つの時期にまとめることはできません。土器の出現は居住の後の段階に集中し、土器のない層も発掘されています。土器の有無だけで村の暮らしを一枚の絵にしてしまうと、長い変化を見失うでしょう。

ジャルモの研究が面白いのは、発掘時に見つかったものを並べるだけで終わらない点です。植物の細かな残りを回収し、穀物をどう食べたかを調べ直す研究が進んでいます。建物、石器、植物、調理の跡を合わせると、「農耕村落」という短い言葉の中に、毎日の多様な仕事が見えてきます。イエリコの石壁と比べる際も、どちらが進んでいたかを競うのでなく、何が残り、何を調べられるかに注目したいものです。

粘土製の小像も出土しています。その姿に現在の言葉で「女神」という意味を与えたくなりますが、当時の人が何と呼び、どんな場面で使ったかは分かりません。ものが残っていることと、その意味を言い当てることの間には、距離があります。

動物の骨も食生活を調べる材料です。ザグロス地域の村落については、ヒツジとヤギの飼育を骨の形や成長段階などから検討する研究があります。ジャルモを「畑だけの村」と見ない理由がここにあります。ただし、骨があっただけで、その動物をどのように飼い、いつから乳や毛まで利用していたかを一度に証明することはできません。作物と家畜の関係も、村ごとの資料に即して読む必要があります。

同じイエリコにも別の時代が積もる

ジャルモからイエリコへもう一度戻ると、丘に重なった時代の違いがよく分かります。イエリコでは後の先土器新石器時代の層から、頭骨に漆喰を盛り、目の部分に貝殻をはめた資料も知られています。約9000年前のものとして紹介されるこの頭骨を、紀元前8000年ごろの石壁づくりと同じ一瞬の風景に置くことはできません。

人の死後の扱いには、共同体の記憶や儀礼が関わっていた可能性があります。それでも頭骨を見ただけで、信じていた神の名や儀礼の全手順までは分かりません。初期の石壁、後の頭骨、さらに時代が下った青銅器時代の都市文化を順に区別すると、長く住み続けた場所ならではの歴史の厚みが伝わります。

遠くの石が村へ届いた理由

黒曜石は産地から離れた場所にも現れる

村に家を建てても、周囲の土地だけですべてが手に入るわけではありません。黒曜石は火山に由来するガラス質の石で、割ると鋭い刃を作れます。初期の西アジアでは、アナトリアなどの産地に由来する黒曜石が離れた地域の遺跡でも見つかります。石の産地を調べることは、人や物のつながりを知る手がかりです。

とはいえ、遠い産地の石が見つかっただけでは、持ち主が産地まで往復したとは決まりません。人から人へ手渡され、いくつもの場所を経由して届いた可能性もあります。貨幣を用いた店や、決まった価格表があったと推定することもできません。遠隔地の素材が届いた事実と、具体的な交換方法は区別して考えます。

黒曜石が役に立つのは、産地ごとの成分を比べる研究ができるからです。遺跡から離れた火山地域と似た特徴が見つかれば、その石が長い距離を移動したという説明に根拠が生まれます。一方、石そのものは「誰と誰が交換したか」を記録していません。見えない道筋を急いで一本に決めず、各地の遺跡に残る素材を照らし合わせる必要があります。

海の貝や色のある石も、遠くの素材への関心を伝えることがあります。ただし「死海の塩はいくらで売れた」「この貝はすでに貨幣だった」といった話は、時代と遺跡を特定する証拠が要ります。黒曜石の移動という確かな手がかりから、当時の人間関係を想像するのがよさそうです。

イエリコ、ナトゥフ文化、ジャルモをどう結ぶか

三つの名前を覚えるときは、一本の進化の階段に並べるより、それぞれが何を教えてくれるかを見ると理解が深まります。ナトゥフ文化は、狩猟採集と長期滞在が両立する例。初期イエリコは、土器がなくても大きな定住集落と共同建築が成り立つ例。そしてジャルモは、農耕村落の暮らしと、土器を伴う段階への変化を考える例です。

この三者は同じ村の連続した三つの姿ではありません。場所も年代も異なり、暮らし方に共通点があっても、それぞれ独自の歴史があります。定住、栽培、家畜の管理、道具、貯蔵は、地域ごとに重なり合いながら変化しました。「農耕が始まった翌日に新石器時代の完成形の村が建った」という考え方から離れると、遺跡が伝える小さな工夫が見えてきます。

イエリコの壁の前に立つつもりで、先ほどの問いに戻りましょう。名前を答えるだけなら「イエリコ」で十分です。そこに、湧き水のそばで暮らし続けた人々が、共同の工事を進めていたことを添えられれば、石壁が歴史の説明に変わります。新石器時代という言葉にも、土器を持たない初期の村まで入ると分かれば、道具の名前に振り回されません。

まとめ

イエリコは、紀元前9千年紀から8千年紀に大きな定住集落となり、石壁・濠・塔を残しました。その目的は断定できませんが、人々の共同作業を示します。ナトゥフ文化では本格的な農耕より前に長期滞在が見られ、ジャルモでは農耕村落の変化を追えます。新石器時代の暮らしは、一度に完成したのではなく、地域ごとに少しずつ形を変えていきました。

参考資料