王は骨に問い、村は暮らしをつなぐ――殷とインダス後の世界

殷後期の一般化した仕事場で、成人の記録係が整えた骨片を手元で確かめている場面。 完新世

問1(殷の建国伝承と遺跡)中国の殷(商)について適切なものを、一つ選べ。

(ア)後世の文献では、湯王が夏の桀王を倒して王朝を開いたと伝えられる。

(イ)青銅器文化が発達し、殷後期の王都の遺跡として、安陽の殷墟が知られる。

(ウ)殷墟の甲骨文字は、王の卜占や政治・生活を知る重要な同時代資料である。

(エ)上記のすべてが適切である。

問2(神権政治と青銅器)殷の政治と祭祀について、最も適切なものを一つ選べ。

(ア)殷では宗教や占いは行われず、王権は宗教と無関係だった。

(イ)後期の王たちは、帝や祖先に関わる神意を問う卜占を行い、青銅製の酒器や食物の器などが祭祀に用いられた。

(ウ)紙と木版印刷が普及し、科挙によって官僚が選ばれた。

(エ)殷は全ユーラシアを征服した海洋帝国だった。

問3(インダス都市の変容とヴェーダ文化)紀元前2千年紀の南アジアについて、適切なものを一つ選べ。

(ア)紀元前1900年頃以降、インダスの都市社会は地域ごとに変化し、シンドのジュカル文化など、後期ハラッパーの地方的な文化が見られる。

(イ)インド・アーリア語を使う人々の北西方面からの移動と交流は、ヴェーダ文化の形成を考える重要な要素である。

(ウ)『リグ・ヴェーダ』は口頭で伝えられた賛歌集で、身分秩序の表現も、その成立の段階や後の社会変化を踏まえて読む必要がある。

(エ)上記のすべてが適切である。

磨いた骨に熱を加え、そこに生じる亀裂(きれつ)を読む。
殷(いん)の王の周りでは、天候や収穫、戦いや祭祀(さいし)について問う仕事が行われていました。
残された短い文字は、三千年以上たった今も、王たちの関心を伝えます。

殷は、同時代の文字資料と遺跡から実在が確かめられる中国の初期王朝です。
建国者の湯王(とうおう)にまつわる後世の伝承と、後期の王都・殷墟(いんきょ)で見つかった資料では、歴史を知る手掛かりの性質が異なります。

後半では南アジアへ移り、インダス文明の大都市が変わった後にも続いた地域社会を見ます。
二つの地域を直接の影響関係で結ぶのではなく、紀元前2千年紀に、国家や社会がどのような形で変化したのかを、それぞれの資料からたどります。

殷はいつ、どこにあったのか――鄭州から安陽へ

殷は、商(しょう)とも呼ばれる王朝です。
一般に紀元前1600年頃から前1046年頃までの時代に位置づけられ、黄河流域を中心に勢力を持ちました。
殷と商は別々の王朝が続いたという意味ではなく、同じ王朝を指す呼び方です。

初期の歴史を考えるうえでは、河南省の鄭州(ていしゅう)などで見つかった大規模な都市遺跡や、二里岡(にりこう)文化の青銅器が重要です。
王朝の全期間を通して、都がずっと一か所にあったと考えると、こうした資料の広がりを捉えられません。

殷墟は、現在の河南省安陽(あんよう)付近にある、殷後期の王都の遺跡です。
紀元前13世紀頃から前11世紀の王権や社会を知る拠点で、宮殿・宗廟(そうびょう:祖先をまつる施設)の基礎、王墓、工房などが調べられてきました。

「中国最古の実在王朝」という表現は、考古資料だけでなく、その時代の王権を文字によって確認できるという点を含んでいます。
殷以前にも大きな集落や高度な工芸文化は存在しました。
国家のような社会の発達と、文献に名の残る王朝をどこまで結びつけられるかは、別の検討を必要とします。

黄河中流域の鄭州と、その北にある安陽・殷墟の位置関係を示す模式地図。

湯王はどのように語られたか――建国伝承の意味

後世の『史記』などでは、殷の建国者は湯、あるいは成湯(せいとう)と呼ばれます。
夏(か)の最後の王・桀(けつ)を鳴条(めいじょう)の戦いで破ったというのが、よく知られる建国の物語です。
天乙(てんいつ)などの呼び名も伝わります。

この話には、良い王が悪い王を倒し、新しい秩序を開くという意味づけがあります。
後に、王の姓が変わり、天命を受けた王朝が交代する「易姓革命(えきせいかくめい)」を考える際にも、湯と桀の対比は重要な先例として語られました。

一方、建国の戦いの一部始終や、登場人物の言葉まで、同時代の記録からそのまま確定できるわけではありません。
伝承の内容として紹介できることと、発掘で直接確認できることには違いがあります。
湯の物語を読む際には、後の時代の人々が王の正統性をどう説明したのか、という問いも生まれます。

王朝交代には、武力、政治的な連合、支配の広がりが関わります。
悪い王と良い王の対比だけで全てを説明するより、都市や工房、墓の規模なども合わせて見ると、初期国家が持つ力の実態に近づけます。

王は何を骨に問うたのか――甲骨文字の中の政治

殷墟で出土した甲骨(こうこつ)は、主にウシの肩甲骨やカメの腹甲を材料にしています。
表面を整えた骨や甲羅に熱を加えると亀裂が生じます。
その形を読み、神意を探るのが卜占(ぼくせん)です。
そこに刻まれた文字が甲骨文字と呼ばれます。

文字が伝える問いは、戦争や王の祭祀だけに限りません。
雨、収穫、病気、出産、狩猟など、王を中心とする多くの関心が記録されました。
問うた内容に加え、判断や結果が記された例もあります。
王の政治と、暮らしを左右する天候や食料への関心が重なっています。

神権政治とは、神や祖先との関係が、統治の権威や判断を支える政治のあり方です。
殷では、帝(てい:上帝とも呼ばれる)や祖先に関わる信仰が重要でした。
王や占いの専門家たちは、儀礼を通じて秩序の維持を図りました。

ただし、占いを行ったから実務がなかったということではありません。
中国国家博物館が紹介する武丁(ぶてい)王期の甲骨には、王が農作業を命じた内容が伝わっています。
耕作をどう進めるかを指示する仕事と、神意を問う行為が、同じ王の活動に含まれていました。

卜占を支える仕事にも、材料を集め、整え、加熱し、判断を記す工程があります。
甲骨文字は、王の命令や信仰を伝えると同時に、その記録を残せる専門的な人々の存在を示します。

甲骨文字は漢字の歴史をたどる最古級のまとまった資料です。
絵に似た形だけでなく、すでに言葉を記録する仕組みとして使われていました。
現代の漢字と形が結びつく例もあり、文字の変化を長く追える点に大きな価値があります。

殷後期の成人二人が、卜占に使う整えた骨を確かめ、記録する二コマ漫画。

祭りの器は、どう作られたのか――青銅器と王権

殷の王権を目に見える形で示すのが、精緻(せいち)な青銅器です。
爵(しゃく)や斝(か)などの酒器、食物を供える鼎(かなえ)など、多様な器が作られました。
祭祀に用いられる器は、飲食の道具であると同時に、祖先との関係と支配者の力を示す存在でした。

表面には、動物の顔を思わせる複雑な文様が見られます。
饕餮文(とうてつもん)という呼び方で知られる表現も、その一つです。
後世の名称を用いて分類される文様であり、当時の人々が全てを同じ名称や意味で理解していたと確定することはできません。

鋳造(ちゅうぞう)には、土で作った複数の型を組み合わせる技術が用いられました。
器の模型から外側の型を取り、部材を分け、内側の中子(なかご)との間に金属の入る空間をつくります。
細かな文様と器の形を、完成前から型に組み込む仕事です。

型を組み合わせる技術には、形の計画、乾燥、組み立て、金属を扱う技能が必要です。
原料や燃料を集め、職人を働かせる組織も欠かせません。
青銅器の迫力は、美術の完成度とともに、多くの仕事を集中できる社会の力を伝えています。

現在の出土青銅器で目立つ緑色は、長い時間による腐食の表面です。
作られた当時の金属の見え方とは異なります。
古代の作業場を考えるときには、博物館で見る色だけでなく、鋳上がった器の質感も想像する手掛かりになります。

古代中国の成人の職人が、土の型の部材を作業台で整えている場面。

殷は誰に滅ぼされたのか――後世へ残った仕組み

殷は、紀元前11世紀、一般に前1046年頃とされる時期に、周(しゅう)の武王(ぶおう)によって倒されました。
牧野(ぼくや)の戦いと呼ばれる王朝交代です。
建国の湯と桀の物語とともに、殷と周の交代も、後の政治思想で繰り返し語られます。

王朝が代わっても、青銅器を作る技術や、祖先をまつる文化、文字を用いる伝統は次の時代へ受け継がれました。
西周の青銅器には長い銘文(めいぶん)も見られ、王からの命令や贈与などを残します。
支配者の交代と、技術や儀礼の継続が重なるのです。

甲骨に問いを刻むことと、金属器に言葉を残すこと。
記録の材料や目的が変わるなかで、文字は権威を伝え、出来事を記憶する役割を広げていきます。
殷の歴史は、周が成立したところで完全に消えるものではありません。

インダスの大都市が変わった後にも、村は続いた

同じ紀元前2千年紀、南アジアでは別の社会変化が進んでいました。
紀元前2600〜前1900年頃に発展したインダス文明の大都市は、前1900年頃以降、規模や機能を変えます。
広い地域で共通していた都市の仕組みは弱まり、地方ごとの特色が強くなりました。

この変化を後期ハラッパーと呼びます。
大都市を中心にした統合的な仕組みが変わっても、人々の生活が一斉に止まったわけではありません。
農耕や土器作りなどには継続があり、地域内の交換や新しい居住の形が見られます。

シンド地方では、ジュカル文化と呼ばれる南部の文化的な伝統が知られます。
ジャウカルなどの表記もあります。
特色ある彩文土器や、幾何学的な模様の印章が手掛かりになります。
成熟期の石製分銅やインダス文字の使用が続くかどうかも、変化を考える材料です。

ジュカル文化をパンジャーブまで一律に広げることはできません。
北のハラッパー周辺では墓地H文化など、別の地方的な特徴が見られます。
土器の形が変わる様子を追うにも、どの場所の、どの年代の資料なのかが必要です。

土器を分けて名前を付ける考古学者は、食器棚の整理がたいへん得意そうです。
ただ、その分類は片付けのためでなく、人々の交流や生活の変化をたどるためにあります。

殷では王都に集まった青銅器と文字が目立ち、南アジアのこの時期には地域ごとに変わる集落や土器が重要になります。
資料の残り方が異なるため、二つを同じものさしで「進歩」「後退」と並べるだけでは、社会の実態を捉えられません。

後期ハラッパーのシンド地方で、成人の陶工二人が土器を整え、日陰に並べる二コマ漫画。

アーリア人とヴェーダの時代へ――移動と声の伝承

南アジア北西部には、紀元前2千年紀にインド・アーリア語を使う人々が移動し、在来の人々との接触が重なったと考えられています。
紀元前1500年頃という年代は、その流れを整理する目安として用いられます。
多数の人々が一つの峠を一度に越えた事件として、全過程を固定することはできません。

「アーリア」は古代の言語や文化の文脈で使われる語で、現代の人種の分類と同じ意味ではありません。
人の移動、言語の広がり、道具の分布は、関わり合いながらも、それぞれ異なる資料から検討されます。
一種類の土器だけで、使った全員の言語を決めることは難しいのです。

ヴェーダとは、祭祀に関わる知識や聖典の伝統です。
最古の賛歌集に位置づけられる『リグ・ヴェーダ』には、火や嵐などに結びつく神々への賛歌(さんか)が集められました。
長く口頭で受け継がれ、声の形で保持された知識です。

身分秩序を考える際には、ヴァルナという区分が重要になります。
ただし、四つの区分を述べる賛歌を含め、文書内にも成立段階の違いがあります。
移住の瞬間に、後世と同じ制度が一挙に完成したと読むことはできません。
後のヴェーダ時代へかけて、社会や政治の変化とともに身分秩序も展開しました。

インダスの都市の変容と、インド・アーリア語やヴェーダ文化の広がりは、時期が重なる部分を含みながらも、別々に検討すべき過程です。
長く続く在来の暮らしと、新しい言葉や儀礼との接触を重ねると、南アジアの次の時代が見えてきます。

問題の解答・解説――史料の種類と地域をそろえる

問1の正解は(エ)です。
(ア)は後世の文献が伝える建国の物語として正しく、(イ)は殷後期の王都・殷墟と青銅器文化、(ウ)は同時代の甲骨文字の価値を述べています。
伝承と出土資料が、それぞれ何を伝えるかを区別した説明です。

問2の正解は(イ)です。
殷後期の王権には、帝や祖先との関係、卜占、青銅器を用いる祭祀が関わりました。
紙、木版印刷、科挙はいずれも後の時代の制度や技術で、殷の統治を説明するものではありません。

問3の正解は(エ)です。
(ア)は地方化した後期ハラッパー社会の一例としてシンドのジュカル文化を挙げ、(イ)は移動と接触を通じたヴェーダ文化の形成、(ウ)は賛歌の口頭伝承と成立段階を説明します。
地域名と時代の幅を添えることで、長い変化を一度の征服へまとめずに理解できます。

まとめ――王朝の交代と、暮らしの継続を読む

殷の歴史は、湯王の建国伝承と、殷墟の甲骨文字・青銅器という、性質の異なる手掛かりから見えてきます。
神意を問う王の周りには、農業、記録、工芸を担う人々の仕事がありました。

南アジアでは、インダスの都市社会が変わった後にも地域の暮らしが続き、言語や儀礼の新たな広がりが重なります。
国家が生まれるときも、大都市の仕組みが変わるときも、人々が次の日へつないだ仕事に目を向けると、古代史の輪郭が豊かになるのです。

参考資料