縄文時代の始まりと尖底土器|最古級の無文土器から定住のムラまで

完新世

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問1(縄文文化の始まり)
日本列島では約1万5000~1万6000年前に最古級の土器が使われ、弓矢の利用や定住の広がりなど、長い時間をかけて暮らしが変わっていきました。この文化と時代を、それぞれ何と呼びますか。

問2(尖底土器の形)
縄文時代早期に各地で見られる、底がとがった土器を「尖底土器」といいます。その底部は、平底の土器と比べてどのような形ですか。

問1の答えは縄文文化・縄文時代。問2は底がとがった形、尖底(せんてい)です。最初期の土器がすべて縄目の模様付きだったわけでも、尖底だったわけでもありません。一片の土器から始めて、文様、器の形、住まいへと目を移すと、長く続いた縄文の暮らしが見えてきます。

縄文時代の始まりを、一片の土器からたどる

大平山元Ⅰ遺跡の土器には模様がない

青森県外ヶ浜町の大平山元Ⅰ遺跡では、旧石器時代の終わりごろの特徴を残す石器とともに、土器片や石鏃が見つかりました。土器は無文土器。表面に縄を押した跡も、粘土を貼り付けた飾りもない、素朴な器です。「縄文時代」という名前から立派な縄目を期待すると、最初のページで肩すかしを食うかもしれません。

土器の表面には、ごく少量の炭化物が付いていました。名古屋大学の年代測定の説明では、その炭化物を調べ、暦年代に直すと約1万5320~1万6540年前という値が示されています。値には幅があるため、この記事では約1万5000~1万6000年前の最古級の土器として扱います。土器の登場を、ちょうど一つの年へ固定する必要はありません。

土器と一緒にある石器にも注目してください。石刃という薄く長い石器の技術や、刃の部分を磨いた石斧などが、移り変わる時期の道具を伝えています。古い技術が一晩で消え、新しい道具にすべて置き換わったのではありません。器が現れたころにも、人々は手慣れた石器を使い続けていました。

大平山元遺跡の調査史にも、この移り変わりが表れています。地元で見つかった石器をきっかけに調査が始まり、無文土器片と石器の組み合わせが確かめられました。土器だけを展示棚から取り出せば、そこに古い石器の技術が並んでいたことを見落とします。出土した場所で何と一緒だったかまで見ると、時代の境目が一本の線ではないと分かるのです。

土器に付いた「こげ」は何を伝えるか

土器片に付いた炭化物の年代を調べる方法は、土器が使われた時期を考える手がかりです。土器と同じ地層の木炭を測るだけでは、木炭がその器と本当に同時期か、別に確かめなくてはいけません。器の表面に残ったものなら、土器を使う行為により近い資料になります。

炭化物から「熱を加えて食べ物を扱ったらしい」と考えられても、それだけで料理名までは分かりません。別の縄文草創期の土器を広く調べた脂質研究では、淡水や海の生き物に由来する成分が多く確認されました。これは初期の土器で水産資源を加工した有力な証拠です。ただし、大平山元Ⅰ遺跡の一片から魚料理の献立を特定した、という意味ではありません。

土器があると、水を使った加熱や、食べ物の加工の幅が広がります。一方で、器を作るには粘土を選び、形を整え、焼き上げる手間がかかります。持ち運びにも気を遣うでしょう。土器は便利な容器ですが、人々が使い方を試しながら暮らしへ取り入れた道具でもあります。

年代にはもう一つ、読み方の注意があります。放射性炭素を測って出た「何年前」という値と、それを暦の年数に換算した値は同じではありません。大平山元Ⅰ遺跡では、土器の付着物から得た測定値を暦年代へ較正しています。記事で約1万5000~1万6000年前と述べるときは、較正後の年代をおおまかに示しています。数字の桁だけを見て別の資料と比べると、同じ遺跡なのに年代が違うように見えてしまいます。

模様はいつから付いたのか

無文から隆起線文へ

縄文草創期には、無文土器のあとに隆起線文土器が現れます。粘土の細いひもを器の表面に貼り付け、盛り上がった線を作る文様です。資料によっては「隆線文」とも書きます。まず文様のない器があり、後に表面を飾る技法が見られるという順序を押さえましょう。

愛媛県の上黒岩岩陰遺跡では、草創期の層から細隆線文土器や、狩りに関係する石器が見つかっています。出土した場所と層を確かめれば、「縄文の初めには模様があった」という一言より、時期ごとの違いをはっきり説明できます。器の表面に何が描かれているかは、年代を読む手がかりの一つです。

それでも、文様を見ただけで当時の人がどんな願いを込めたかまでは分かりません。貼り付けた線には技法として確かめられる部分と、意味を考える部分があります。二つを分けて眺めると、土器が身近な道具であると同時に、工夫を凝らした作品でもあったことが伝わります。

「縄文」の名前と、縄目の登場

縄文という時代名は、土器に付けられた縄の跡に由来します。しかし北日本の縄文遺跡群の解説では、最も古い土器は無文で、隆起線文、爪形文などを経て、約1万年前に縄目の模様を持つ土器が現れると説明しています。時代名は長い文化をまとめる名前であって、開始時の全土器に縄目が必要という条件ではありません。

教科書の写真で目立つ華やかな器も、時代が進んでからの姿です。最初期の小さな破片と同じ時点に並べると、数千年にわたる変化が見えなくなります。時代名、文様名、土器そのものの年代。この三つを少し離して考えるのが、縄文を読み解く近道です。

おおまかな順序は、次のように整理できます。年代は地域差と測定の幅を含む目安です。

見る時期 土器の手がかり 読み取り方
草創期の初めごろ 大平山元Ⅰ遺跡などの無文土器 「縄文」の名でも模様のない器がある
草創期の後の段階 粘土の細い線を付ける隆起線文 文様の技法が変わる
早期 地域ごとに多様な文様、尖底の器も多い 一種類の器だけで時代を代表させない

表の順序は「古い器を全員が同時に捨てた」という意味ではありません。同じ時期でも地域によって作り方が違い、似た形をした器の年代も出土場所を見て確かめます。

尖底土器の底は、なぜ目を引くのか

答えは、とがった底

縄文時代の早期には、地域ごとに異なる文様や器の形が広がります。東北地方から北海道南部の資料を紹介する公式解説も、この時期は底がとがった土器が多いと記しています。尖底は文字どおり、平らな床に置くための水平な底面を持たず、底へ向かって細くなる形です。

実物にはとがり方の違いがあり、丸底に近い尖底土器もあります。博物館の資料には、展示するとき支脚などの補助が必要だと記された例もあります。机にそのまま置けば倒れそうな器を、なぜ使ったのでしょう。答えを探すには、器の形だけでなく、炉や作業場の跡、表面のこげを一緒に見る必要があります。

地面や灰に底を入れたり、石や別のものを使って支えたりした可能性は考えられます。ただ、すべての尖底土器が同じ方法で固定され、「熱効率を上げるため」に作られたと決める証拠にはなりません。確かな答えは底の形。具体的な置き方や利点は、遺跡ごとに検討する問いです。

展示室では支えを添えられた土器を見て、古代の人も同じ台を使ったのだろうと思いがちです。しかし展示の支脚は、現在の資料を安全に置くための道具です。当時の調理場を知るには、炉の位置と器の出土状況、器の外側に残る熱の跡などを合わせて調べます。尖った形そのものは確かでも、使い方にはまだ調べる余地があります。

最初の土器まで尖底だったわけではない

草創期の土器片は、器全体が残っていないこともあります。大平山元Ⅰ遺跡の無文土器については、平底の深鉢だった可能性を述べる研究もありますが、破片から完全な形を復元することはできません。早期に多い尖底土器を、そのまま最古級の無文土器の形へさかのぼらせないことが大切です。

また、縄文の土器がどこでも同じ形へ変わったわけでもありません。地域や時期によって平底、尖底、丸底に近いものなどを見比べられます。形の違いは、作り方と使う場面の違いを考える入口になりますが、一つの理由ですべてを説明するのは難しいのです。

弓矢とムラの暮らしはどう広がったか

森、川、海を使い分ける

縄文時代の人々は、木の実や山菜を採り、シカやイノシシなどを狩り、海や川の魚介類を利用しました。弓矢や石槍、釣り針や銛など、場所と獲物に合わせた道具も使われます。大平山元遺跡から石鏃が見つかる一方、草創期の各地に同じ種類の道具が同時に行き渡ったと考える必要はありません。

季節によって手に入る食べ物は変わります。木の実は秋に集め、保存や下ごしらえを考える。魚や獣を得るには水辺と森の様子を知る。土器の煮炊きだけでなく、道具の使い分けや資源の知識が、同じ土地で暮らす条件になりました。いわば、土地の季節を読み取る技術です。

たとえば、クリやクルミは集めて利用し、トチノミのように下ごしらえが欠かせない木の実もあります。石皿やすり石があれば、堅い実を砕けます。海や川では、魚を捕る道具と貝を集める知識が要ります。食べ物の種類を数えるだけでは、この準備の手間は見えません。季節をまたいで食べていくために、人々は場所と道具を使い分けました。

本格的な水田稲作へ依存しなくても、採集・狩猟・漁労を組み合わせて定住が発展した点は、縄文文化の大きな特徴です。一方、縄文の人々が植物を一切育てなかったわけではありません。公式の遺跡群解説も、植物栽培が行われたことに触れています。「農耕をしなかった」という短い言葉だけで、多彩な植物利用まで消してしまわないようにしたいところです。

竪穴建物と集落は長い変化のなかにある

地面を掘り下げて床を作る竪穴建物は、縄文の住まいを思い浮かべる手がかりです。しかし、最古級の土器を使い始めた瞬間から、日本列島のどこにも同じ造りの竪穴建物と大きなムラがあったわけではありません。居住の拠点が生まれ、住居や墓を備えた集落が広がり、さらに地域の拠点となるムラが現れます。

大平山元遺跡は、その長い歴史の初めに位置づけられます。後の三内丸山遺跡などに見られる大型建物や整った集落の姿を、草創期の遺跡へそのまま持ち込むことはできません。何千年もの変化を一枚の風景に縮めず、土器と石器の小さな組み合わせから読み始めましょう。

縄文の定住は、同じ家にすべての人が一生住み続けたという意味でもありません。遺跡群の公式解説は、居住地が形作られ、集落が成立し、施設が多様になっていく段階を区別しています。移動を続ける人々の拠点と、後の大きな集落を同じ「定住」の一語で括ると、途中の工夫が隠れます。土器の出現は大切な目印ですが、それだけで大集落の完成を証明するわけではないのです。

岩戸と上黒岩の石製品が教える別の時間

土器とは別に、人の形を思わせる石製品にも目を向けます。大分県の岩戸遺跡からは「こけし形石偶」と呼ばれる石製品が出土しました。旧石器時代の資料で、女性像とみる解釈を採れば約2万5000年前にさかのぼるという研究があります。女性を表したのか、その用途は何かについては慎重な検討が必要です。

一方、愛媛県の上黒岩岩陰遺跡では、縄文草創期の層から線刻を施した小さな石製品や土器、石器が見つかりました。こちらには女性像と呼ばれる石偶の資料があります。名前に「岩」が入る二つの遺跡ですが、県も年代も、出土品の姿も同じではありません。

石に線を刻んだり形を整えたりした痕跡は、暮らしが食べ物と道具だけで成り立っていたわけではないことを考えさせます。ただし、どの石製品も豊穣を願うためのものだったと一律に決めることはできません。物の形から読み取れることと、当時の人の願いを推し量ることは分けておきたいものです。

上黒岩の出土品を一緒に見ると、細隆線文土器だけでなく、矢柄を整える道具や、シカ・イノシシなどの骨があることも分かります。そこには食べ物を得る仕事と、形を刻んだ石製品が共存しています。後者を見てすぐに祭りの場面を描きたくなりますが、道具の組み合わせや層位という確かな情報を先に押さえるほうが、この遺跡の具体的な姿へ近づけます。

古い石製品から後の土偶までを、一本の直接の系譜として結ぶにも証拠が要ります。年代を並べて似たところを探す作業は面白いものですが、間の長い時間を飛び越えることはできません。土器と石製品をそれぞれの遺跡に戻して考えると、列島の各地に違った試みがあったと分かります。

まとめ

縄文文化の始まりを考える手がかりの一つが、約1万5000~1万6000年前の大平山元Ⅰ遺跡の無文土器です。その後、隆起線文などの文様が見られ、早期には底のとがった尖底土器が各地で使われました。弓矢、食料の利用、住まいとムラの発展も長い時間をかけて進みます。二つの問いの答えは「縄文文化・縄文時代」と「尖底」。その言葉の後ろに、形も暮らしも変わり続けた時間を思い浮かべてください。

参考資料