問題1:中世ヨーロッパの都市自立と「都市コミューン」
11世紀から12世紀にかけて、西ヨーロッパでは農業生産力の向上と商業の復活を背景に、中世都市が形成・発展しました。
(1)都市は封建領主から自治権を獲得し、自立を強めていきました。特に北イタリアにおいて、貴族や大商人が主導して成立し、周辺地域を併合して都市国家へと成長した自治都市を何と呼びますか?
(2)ドイツの有力都市は諸侯の支配から自立するため、皇帝から特許状を得て「帝国都市」となりましたが、こうした都市が持っていた地位は何と同じであるとされましたか?
問題2:十字軍の展開と宗教騎士団の活動
1095年のクレルモン宗教会議以降、聖地イェルサレムをめぐって十字軍の遠征が繰り返されました。この過程で、巡礼者の保護や聖地の防衛を目的とする宗教騎士団が結成されました。
(1)第1回十字軍以前のイェルサレムでの救護活動を起源とし、1113年に教皇の承認を受け、16世紀以降は「マルタ騎士団」とも呼ばれるようになった騎士団は何ですか?
(2)1119年ごろに設立され、聖地の防衛と巡礼者の保護を目的としてヨーロッパ各地に拠点を広げましたが、14世紀初めにフランス王フィリップ4世の攻撃を受け、解体された騎士団は何ですか?
問題3:日本の院政期文化と庶民芸能
12世紀の日本、すなわち平安時代末期は、上皇が政治の実権を握る院政の時代でした。文化面では、武士や庶民、芸能民の活力を取り込んだ新しい文化が広がりました。
(1)後白河上皇が歌詞を集めて編纂した歌謡集を『( ① )』と呼びます。この歌集に収められた流行歌謡自体の名称は何ですか?
(2)男装姿の女性が(1)の歌謡などを歌いながら舞った芸能、およびそれを演じる女性たちを何と呼びますか?
(3)補足:仏教の教えや仏・菩薩を日本語の詩歌でたたえる「和讃」は、浄土信仰の広がりとともに発展しました。今様や白拍子との違いも整理してください。
11〜12世紀には、都市の自治、宗教騎士団、流行歌謡を通じて、人々が集まり活動する場が広がりました。
西ヨーロッパでは、商人や都市住民が領主から自治を獲得しました。十字軍国家では、修道生活と軍事・救護活動を組み合わせた宗教騎士団が組織されます。日本では、民間の歌謡や芸能が院や貴族の文化に入り込みました。
解答は、問題1(1)がコムーネ、(2)が諸侯と同じ地位、問題2(1)が聖ヨハネ騎士団、(2)がテンプル騎士団、問題3(1)が今様、①が『梁塵秘抄』、(2)が白拍子です。
| 設問 | 答え | 押さえる一点 |
|---|---|---|
| 問題1(1) | コムーネ | 北イタリアで成立した自治都市・都市共同体 |
| 問題1(2) | 諸侯と同じ地位 | 皇帝直属となり、領邦君主に近い政治的地位を得た |
| 問題2(1) | 聖ヨハネ騎士団 | 救護活動を起源とし、のちに軍事的性格を強めた |
| 問題2(2) | テンプル騎士団 | 巡礼者保護から始まり、1312年に教皇が正式に解散させた |
| 問題3(1) | 今様/①は梁塵秘抄 | 今様は歌謡の名称、梁塵秘抄は歌謡集の名称 |
| 問題3(2) | 白拍子 | 歌舞の名称であると同時に、演者の呼称でもある |

問題1の答え|北イタリアの自治都市は「コムーネ」
問題1(1)の答えはコムーネ
北イタリアで貴族や大商人などが主導し、封建領主や司教の支配から自治を獲得した都市共同体は、一般にコムーネと呼ばれます。イタリア語の「comune」は、共同体や自治体を意味する語です。
コムーネは、都市の有力者が誓約によって結びつき、行政、裁判、徴税、軍事などを自分たちで担おうとした政治的共同体でした。
ミラノ、フィレンツェ、ピサ、ジェノヴァなど、都市ごとに成立事情や統治制度は異なります。コムーネは、北・中部イタリアに広がった自治都市・都市共同体の総称です。
なぜ11〜12世紀に都市が発展したのか
西ヨーロッパでは11世紀ごろから、農業生産がしだいに増え、人口や耕地も拡大しました。余剰農産物を交換する市場が発達し、地域間を移動する商人や専門的な手工業者の活動も活発になります。
地中海では、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの海港都市が東方との交易を伸ばしました。内陸でも街道、河川、城郭、司教座、修道院などを核として町が成長します。
都市は、もともと国王、諸侯、司教、修道院などの領主権の下に置かれていました。住民は通行税、市場税、関税、裁判権などをめぐって領主の支配を受けています。
経済力をつけた都市住民にとって、領主ごとに異なる税や規制は、商取引を妨げる要因になりました。そこで都市住民は、金銭による権利の買い取り、領主との交渉、誓約団体の結成、ときには武力衝突を通じて自治権を獲得していきます。
コムーネは周辺農村も支配した
力をつけた北イタリアの都市は、周辺の農村や小都市を支配下に置き、都市を中心とする地域国家へ成長しました。
都市の周辺支配領域は、イタリア史でコンタードと呼ばれます。都市は周辺農村から食料や原料を確保し、街道を押さえ、競争相手となる近隣都市と戦いました。
都市の有力家門は、市政を担うとともに周辺農村を支配しました。政治参加の範囲は財産・身分・同業者組織への所属などに制約され、貴族、大商人、商工業者の間で主導権争いが起こります。都市の自治と、住民個々人の政治参加の権利は、それぞれの条件を見る必要があります。
コムーネから都市国家へ
北イタリアでは神聖ローマ皇帝の影響力が残っており、皇帝は都市に対する権利を主張しました。12世紀後半、フリードリヒ1世が北イタリアへの支配を強めると、諸都市はロンバルディア同盟を結成して対抗します。
都市同盟側は1176年のレニャーノの戦いで皇帝軍に勝利し、1183年のコンスタンツの和で自治権を広く承認されました。皇帝の権威を認めながら、都市が行政や裁判などを担う関係が整えられます。
13世紀以降になると、都市内部では貴族勢力と商工業者層の対立、教皇派と皇帝派の争いなどが激しくなりました。混乱を抑えるため外部から行政・司法の責任者を招いたり、有力家門の一人に権力が集中したりします。
後者はシニョリーアと呼ばれる統治形態へつながりました。都市によって共和的な制度を保つもの、有力家門の支配が強まるものなど、異なる道をたどりました。

問題1(2)の答え|帝国都市は「諸侯と同じ地位」
皇帝直属になることが自立につながった
ドイツの有力都市の一部は、神聖ローマ皇帝から特許状を得て、地域の諸侯の支配から離れて、皇帝に直属する都市となりました。これが帝国都市です。
問題の答えは、帝国都市が諸侯と同じ地位を認められた、というものです。高校世界史では「皇帝直属となり、諸侯と同じ地位に立った」と整理されます。
ここでの「同じ地位」は、都市そのものが皇帝直属の政治単位として扱われたことを指します。都市は皇帝や帝国への税・軍事などの義務を負いながら、自治を進めました。帝国都市の地位は長期にわたって整えられ、帝国議会では1489年に都市の部会が認められ、1648年には議決権が確認されました。自治の始まりと帝国議会での権利の確立には、数世紀の隔たりがあります。
帝国都市と自由都市は厳密には出発点が異なる
歴史用語としては、もともとの帝国都市と自由都市には成立経緯の違いがありました。
帝国都市は、皇帝や国王の所領に成立し、皇帝に直接義務を負った都市です。一方の自由都市は、司教の支配を受けていた司教座都市などがその支配から自立し、一定の義務を免除された都市を指しました。
時代が下るにつれて両者の区別は薄れ、まとめて自由帝国都市と呼ばれるようになります。成立時には、皇帝・国王への直属を基盤とする都市と、司教の支配から自立した都市という経路の違いがありました。
北イタリアとドイツでは自立の形が違う
| 比較点 | 北イタリアのコムーネ | ドイツの帝国都市 |
|---|---|---|
| 主な成立基盤 | 都市有力者の誓約共同体 | 皇帝から与えられた特許状や直属関係 |
| 主な自立相手 | 司教、封建領主、皇帝など | 地域の領邦諸侯など |
| 政治的位置 | 周辺農村を含む都市国家へ成長 | 皇帝直属で、諸侯に並ぶ帝国構成員へ |
| 注意点 | 都市ごとに制度が異なる | 皇帝・帝国への義務を負う |
どちらも都市の自治を示しますが、北イタリアでは都市自身が周辺を支配する都市国家へ成長した点、ドイツでは皇帝直属という法的地位を利用して諸侯から自立した点に違いがあります。
「都市の空気は自由にする」の意味
中世都市を説明する際には、「都市の空気は人を自由にする」という言葉がよく使われます。一般には、農奴が都市へ逃れ、一定期間にわたり領主から身柄を請求されずに暮らすと、自由身分を得られる慣行を示すものです。
自由身分を得る条件は、都市の法と地域慣行によって異なりました。市政への参加には別の資格が必要で、富裕商人、親方、職人、日雇い労働者などの間には経済的・政治的な格差がありました。
問題2の前提|十字軍国家は継続的な人員を必要とした
1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で東方への軍事遠征を呼びかけました。第1回十字軍は1096年に出発し、1099年にイェルサレムを占領します。
その後、イェルサレム王国をはじめとする十字軍国家が東地中海沿岸に成立しました。遠征に参加した人々の多くはヨーロッパへ戻りました。現地の支配と交通路を守るため、継続して人員を確保できる組織が必要になりました。
また、ヨーロッパから聖地へ向かう巡礼者は、長い移動の途中で病気、負傷、盗賊の襲撃などに遭う危険がありました。こうした救護と防衛の必要から発展したのが宗教騎士団です。
宗教騎士団は、祈りと共同生活の規律を守りながら、救護、巡礼者保護、城塞防衛、戦闘などを継続して担う国際的な宗教組織でした。
問題2(1)の答え|聖ヨハネ騎士団
病院での救護活動を起源とする
問題2(1)の答えは聖ヨハネ騎士団です。日本語ではヨハネ騎士団、病院騎士団、ホスピタル騎士団などとも呼ばれます。
その起源は、第1回十字軍より前の11世紀後半、イェルサレムに設けられた巡礼者用の病院にさかのぼります。アマルフィ出身の商人たちが関わった施設で、病人や困窮した巡礼者の世話が行われました。
第1回十字軍によるイェルサレム占領後、ジェラールが率いた共同体は発展し、1113年2月15日、教皇パスカリス2世の教書によって宗教団体として正式に承認されました。
救護施設の起源は十字軍以前にあり、十字軍後に教皇の承認を受けて制度化され、その後に軍事的役割が広がりました。
救護組織から軍事組織へ変化した
聖ヨハネ騎士団は当初、病人や巡礼者を迎える救護活動を主要な任務としました。しかし十字軍国家の防衛状況が厳しくなると、病院や街道を守るために軍事活動も担うようになります。
騎士団は城塞の管理、防衛戦、巡礼路の警護などに関わりました。軍事活動が広がった後も、病院運営は組織の重要な使命として続きました。
この点が、初めから巡礼者の武力保護を中心に結成されたテンプル騎士団との大きな違いです。
ロードス騎士団からマルタ騎士団へ
1291年に十字軍勢力最後の主要拠点アッコンが陥落すると、聖ヨハネ騎士団は聖地を離れました。その後キプロスを経て、14世紀初めにはロードス島を拠点とします。
この時期にはロードス騎士団と呼ばれました。ロードス島を失った後、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世からマルタ島を与えられ、以後はマルタ騎士団の名で広く知られるようになります。
「聖ヨハネ騎士団」「ロードス騎士団」「マルタ騎士団」は、同じ歴史的系譜にある騎士団を、主な拠点や時代に応じて呼び分けた名称です。
問題2(2)の答え|テンプル騎士団
巡礼者を武力で守るために結成された
問題2(2)の答えはテンプル騎士団です。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」などと訳されます。
1119年ごろ、フランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンらが、イェルサレムへ向かう巡礼者を武力で保護するために結成したとされます。成立年には幅があり、フランス国立公文書館は1120年1月のナーブルス会議を創設の節目としています。イェルサレム王ボードゥアン2世から、神殿の丘にあった建物の一部を本拠として与えられました。
西ヨーロッパのキリスト教徒は、この場所を旧約聖書のソロモン神殿跡と関連づけていました。そのため組織は「神殿」を意味するテンプルの名で呼ばれるようになります。
1129年のトロワ教会会議で正式な宗教騎士団として承認され、クレルヴォーのベルナールらの支援を受けました。構成員は清貧、貞潔、服従などを誓いながら、戦闘任務に就きます。
ヨーロッパの支部は補給網でもあった
テンプル騎士団はヨーロッパ各地にも所領、農場、教会、支部を持ち、寄進された土地や資産を管理しました。
こうした拠点は、現地の戦闘員へ人員、馬、武器、食料、資金を送るための補給網として機能します。国境を越えた組織力は、十字軍国家を支えるうえで大きな役割を果たしました。
テンプル騎士団は、広域的な資産管理に加えて、預託・資金の移送・貸付などを担いました。こうした信用と資金管理の業務が、「銀行業の先駆者」と説明される理由です。
フィリップ4世の逮捕命令から解散まで
1291年にアッコンが陥落すると、テンプル騎士団は聖地での主要な軍事拠点を失いました。莫大な所領と資産を保有する一方、創設時の主要任務を果たす場所が失われたため、存在意義を疑問視する声も強まります。
フランス王フィリップ4世は1307年10月13日、フランス国内のテンプル騎士団員を一斉に逮捕させました。異端行為などの容疑がかけられ、拷問を伴う取り調べで自白が集められます。
最終的には、フィリップ4世から圧力を受けた教皇クレメンス5世が、1312年の教皇勅書によって騎士団を正式に解散させました。国王が逮捕と訴追を進め、教皇が正式な解散を決定しました。
騎士団の財産は原則として聖ヨハネ騎士団へ移されることになりました。ただし、実際の移管状況は地域によって異なり、各国の君主や別の騎士団が資産を得た例もあります。
二つの騎士団の起源とその後
| 比較点 | 聖ヨハネ騎士団 | テンプル騎士団 |
|---|---|---|
| 主な起源 | イェルサレムの病院と救護共同体 | 巡礼者を武力で守る騎士の共同体 |
| 教会による承認 | 1113年 | 1129年 |
| 初期の中心任務 | 病人・巡礼者の救護 | 巡礼路の警護と軍事防衛 |
| その後 | ロードス、マルタへ移り存続 | 1312年に教皇が解散 |
問題3の背景|院政期には文化の担い手が広がった
日本では1086年、白河天皇が譲位して上皇となった後も政治の実権を握り、院政が本格化しました。院政は、上皇の御所である院を中心に行われた政治です。
院の周囲には貴族や僧侶だけでなく、武士、僧兵、地方から来た人々、芸能を職業とする人々も集まりました。平安時代前期の宮廷文化とは異なる人間関係が形成され、民間で歌われていた歌謡や芸能が貴族社会へ入り込みます。
その代表が今様と白拍子です。また、浄土信仰を分かりやすい日本語で伝える歌として和讃も発展しました。
問題3(1)の答え|歌謡は「今様」、歌集は『梁塵秘抄』
「今様」は当時の新しい流行歌
問題3(1)で問われている流行歌謡の名称は今様です。空欄①に入る歌集名は『梁塵秘抄』です。
「今様」は文字どおり「今の様式」「当世風」を意味します。平安時代中期から末期にかけて流行した新しい歌謡で、宮廷に古くから伝わる雅楽や催馬楽とは異なる、当時の人々にとっての流行歌でした。
遊女、傀儡女、巫女など、各地を移動しながら歌や舞を披露する女性たちが、今様の重要な担い手となりました。その歌が都市や交通路を通じて広まり、院や貴族の文化にも受け入れられます。
後白河上皇は今様を熱心に学んだ
後白河天皇は1155年に即位し、1158年に譲位した後は上皇として院政を行いました。政治活動だけでなく、今様に熱中した人物としても知られています。
後白河上皇は専門的な歌い手から長年にわたって今様の歌い方を学び、自らも歌いました。美濃国青墓の芸能者として知られる乙前から教えを受けたことも、『梁塵秘抄口伝集』に記されています。
後白河上皇が今様の歌詞を集成したものが『梁塵秘抄』です。成立時期は治承年間、1177〜1181年ごろと考えられています。
書名の「梁塵」は、優れた歌声が建物の梁に積もった塵を動かすという中国の故事に由来します。優れた歌謡を集めた秘伝の書という意味を含む名称です。
今様は歌謡、梁塵秘抄は歌謡集
今様は歌謡の形式・ジャンルの名称です。それに対して『梁塵秘抄』は、後白河上皇が今様を中心に集めた書物の名称です。
現代に置き換えれば、「流行歌」と「流行歌を集めた歌集」の違いに近いでしょう。歌詞の集成に加えて、今様の習練や伝承を記す『梁塵秘抄口伝集』も編纂されました。
もとは複数巻から成る大部の編纂物でしたが、多くが失われ、現在確認できる部分は限られています。それでも、平安末期の人々の信仰、生活感覚、遊び、諸国への関心を伝える貴重な史料です。
問題3(2)の答え|芸能と演者を「白拍子」と呼ぶ
白拍子は歌舞と演者の両方を表す
問題3(2)の答えは白拍子です。白拍子という語は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞を指すと同時に、それを演じる女性を指します。
白拍子は、立烏帽子、水干、袴、太刀など、当時の男性装束に近い姿で舞ったとされます。一般に「男装の女性芸能者」と説明されるのは、この装束によるものです。
装束には、当時の舞楽や男性装束の伝統が取り入れられていました。
白拍子の歌と舞
今様は歌謡、白拍子は歌舞および演者を表す名称です。白拍子の芸能は今様や朗詠などの歌と舞を組み合わせ、内容や伝承には違いがありました。
芸能者と権力者のつながり
白拍子は貴族、上皇、武士などの前で芸能を披露し、有力者との関係を持つことがありました。『平家物語』には祇王や仏御前が登場します。静御前の歌舞は『吾妻鏡』にも記されており、白拍子の活動を伝える史料の一つです。
軍記物語や後世の伝承には文学的な脚色が含まれるため、人物像には史料上の限界があります。
白拍子の活動は、貴族文化と民間文化、都と地方、芸能と政治権力を結ぶものでした。社会の周縁に置かれることがある一方、高い芸能技術によって権力者の文化圏へ入り込んだ存在でもあります。
補足|和讃は仏教の教えを日本語でたたえる歌
和讃の基本的な意味
和讃とは、仏や菩薩、祖師の徳、仏教の教えなどを日本語の韻文でたたえる歌です。「和」は日本語、「讃」はたたえることを意味します。
漢文で書かれた経典や漢詩形式の讃に対し、一般の人々にも理解しやすい日本語で歌われた点が大きな特徴です。平安時代中期以降に作られ、浄土信仰の広まりとともに発達しました。
代表的な早期の作品としては、千観の作と伝えられる『極楽国弥陀和讃』などが挙げられます。鎌倉時代には親鸞が『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を作り、和讃の伝統を大きく発展させました。
今様・白拍子・和讃の違い
| 用語 | 何を指すか | 主な内容・特徴 | 名称の位置づけ |
|---|---|---|---|
| 今様 | 流行歌謡の一種 | 宗教、生活、恋愛、遊びなど題材は幅広い | 歌謡の形式・ジャンル |
| 梁塵秘抄 | 後白河上皇が編纂した歌謡集 | 今様を中心とする歌詞や伝承を保存 | 歌謡を収める書物 |
| 白拍子 | 歌舞および演者 | 男性装束に近い姿で歌い舞う女性芸能者 | 歌謡を用いた歌舞とその演者 |
| 和讃 | 仏教を日本語でたたえる歌 | 教えや仏・菩薩の徳を伝える宗教歌 | 宗教的な内容・用途を表す |
今様には仏教を題材とする歌が多く、和讃と内容が重なる場合があります。名称の分類基準はそれぞれ異なります。
今様は当時の流行歌謡としての性格を示す名称です。和讃は、仏教の教えや徳を日本語でたたえる内容・用途に基づく名称です。宗教的な今様には、和讃と近い表現を持つものがあります。

三つの問題をつなぐ11〜12世紀の変化
従来の権力の外側に新しい共同体が現れた
三つの問題に共通するのは、人々の移動と交流が活発になり、新しい共同体や文化が成立したことです。
コムーネでは、商人、貴族、法律家などが都市の自治を担う共同体を作りました。宗教騎士団では、複数地域から集まった構成員が国境を越え、共通の規則と任務の下で活動しました。
院政期の日本では、地方を移動する芸能者や宗教者が歌を広め、それを院や貴族が受け入れました。民間の歌謡が宮廷へ入り、宮廷での編纂によって後世へ伝えられました。
移動を支える場所と組織が重要になった
人々の移動を支える場所や組織も成長しました。
- 都市には、市場、街道、港、同業者組織、自治制度がありました。
- 十字軍世界には、巡礼路、港、城塞、病院、騎士団の支部がありました。
- 院政期の日本には、院、寺社、宿場、交通路、芸能者の人的ネットワークがありました。
こうした基盤があったからこそ、商品、資金、軍事力、信仰、歌謡が広い地域を移動できました。
新しい集団にも排除と支配があった
各共同体の活動には、政治参加の制限、周辺への支配、担い手の不安定な身分といった条件が伴いました。
コムーネでは有力者が都市政治を独占し、周辺農村を支配することがありました。十字軍と宗教騎士団の活動は、キリスト教側から見た聖地防衛である一方、現地のイスラーム教徒、ユダヤ教徒、東方キリスト教徒などに暴力と支配をもたらしました。
今様や白拍子の担い手も、高い技能によって有力者へ接近できた反面、身分的に不安定な立場に置かれました。文化が広がったことと、担い手が社会的に平等だったことは別問題です。
用語と成立した理由をつなげる
コムーネは都市の経済力と自治、聖ヨハネ騎士団は救護と防衛、テンプル騎士団は巡礼路の保護と結びつけます。帝国都市については、皇帝直属という関係によって、地域の諸侯から自立した点を押さえます。
日本の文化では、今様が歌謡、『梁塵秘抄』が歌謡集、白拍子が歌舞と演者、和讃が仏教を日本語でたたえる歌です。誰が担い、どの場で伝わったかを合わせて見ると、都市の発展、巡礼の組織、民間歌謡が院へ入った流れを理解できます。
参考資料
- ローマ・サピエンツァ大学:Lo sviluppo della giurisdizione nei comuni italiani del secolo XII(都市の裁判権、周辺領域、帝国との関係)。
- バイエルン歴史事典:アウクスブルク帝国都市の政治・社会史(帝国都市の自治と帝国議会への参加)。
- レーゲンスブルク市公式年鑑(1245年の自治権付与など、都市発展の年表)。
- マルタ騎士団公式:歴史(救護の起源と1113年の承認)。
- フランス国立公文書館:Les Templiers(トロワでの規則承認、1307年の逮捕、1312年の解散と財産移管)。
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース:青墓の乙前(今様の伝承と後白河法皇との関係)。
- CiNii Books:梁塵秘抄口伝集(習練、今様の歴史、芸能者との交流)。
- 浄土真宗本願寺派:宗門基本情報(親鸞の三帖和讃)。

