科学革命は「迷信との決別」だけではない――ベーコン・ケプラー・ガリレオが変えた証拠の作法

17世紀の観察・実験・数学と研究者の書斎を題材にした創作のイメージ 大学受験歴史

問1(フランシス・ベーコンの経験論)
絶対王政期のイギリスにおいて、高級官僚として活躍したのち、観察・経験に基づく真理の探究を追求した哲学者が登場しました。

(1) 「知は力なり」という有名な言葉を遺し、現象の観察や実験を積み重ねて普遍的な一般法則を導き出す( ① )法を提唱して、後のイギリス経験論の基礎を築いたこの哲学者は誰ですか。

(2) 彼は1620年に著した『ノヴム・オルガヌム(新機関)』などにおいて、人間の正しい認識を妨げる4つの先入観(偏見・錯覚)をラテン語で「( ② )(偶像)」と名付け、これらを排除することを求めました。①と②に入る語句を答えなさい。

問2(ケプラーの法則の発見)
天体観測の膨大な精密データを引き継いだドイツの天文学者( ③ )は、惑星が太陽を一つの焦点とする「楕円軌道」を描いて運動しているという惑星の運行法則(ケプラーの法則)を発見し、コペルニクスが唱えた地動説を数学的に強く支えました。③に入る天文学者の名前を答えなさい。

問3(ガリレオ・ガリレイの天体観測と宗教裁判)
イタリアの物理学者・天文学者ガリレオ=ガリレイは、自ら製作した( ④ )を用いて天体を直接観測し、木星の衛星や金星の満ち欠けを発見して地動説を強力に支持しました。

(1) 彼はコペルニクスの地動説を支持する『天文対話』を著しましたが、カトリック教会によって何にかけられ、地動説の放棄・自説の撤回を余儀なくされましたか。

(2) ガリレイが、この撤回の裁判からの退廷時に「それでも地球は動く」とつぶやいたという逸話は広く知られています。この逸話は、同時代の確実な記録によって裏づけられた史実といえますか。

答えと解説

答えから確認すると、①は帰納法、②はイドラ、③はヨハネス・ケプラー、④は望遠鏡です。問1の人物はフランシス・ベーコン。ガリレオが1633年に受けたのはローマの異端審問(宗教裁判)です。問3(2)の逸話は、裁判直後の発言を示す同時代の確実な記録が確認されていません。

科学革命では、観察する、測る、実験する、数学で確かめるという証拠の扱い方が大きな役割を果たしました。三人はそれぞれ異なる方法で、自然についての知識を確かめようとします。

当時の研究には宗教的な動機や、錬金術・自然魔術の思想も関わっていました。研究方法と、その背景にある自然観を合わせて見ていきましょう。

ベーコンの帰納法|観察を整理して一般的な判断へ進む

①の答えは帰納法、②はイドラ、人物はフランシス・ベーコンです。

フランシス・ベーコンはイングランドで法律家・政治家として歩み、ジェームズ1世のもとで大法官にまで上りました。その一方で、知識の作り方そのものを組み替えようとする壮大な構想を持っていました。

1620年刊行の『ノヴム・オルガヌム』で中心になる考えの一つが、個別の観察を慎重に積み重ねながら一般的な判断へ進む方法です。学校ではこれを帰納法と覚えます。

ベーコンは少数の観察から結論へ飛びつくことを警戒し、現象が現れる場合と現れない場合、程度の違いなどを比較する方法を考えました。資料を整理し、説明に合わない候補を除きながら、段階的に一般的な判断へ進もうとしたのです。

観察の内容に加え、観察する人間の認識がどう偏るかも検討の対象でした。この問題を整理したのが、次に見るイドラの分類です。
ベーコンによる観察と記録を題材にした想像図

ベーコンによる観察と記録を題材にした想像図。創作したイメージとして掲載しています。

4つのイドラ|人間の認識をゆがめる要因

ベーコンは、人間の認識をゆがめるものをイドラ(idola、偶像)と呼び、四種類に整理しました。種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、劇場のイドラです。

  • 種族のイドラ:人間という種に共通する認識上の癖
  • 洞窟のイドラ:個人の教育、経験、好みなどから生じる偏り
  • 市場のイドラ:言葉の使い方や人間同士の交流から生じる混乱
  • 劇場のイドラ:受け継がれてきた学説や哲学体系を、十分に検討せず受け入れることから生じる偏見

種族と洞窟のイドラは、人間に共通する性質や個人の経験にかかわります。市場と劇場のイドラは、言葉や学説を受け入れる仕方にかかわります。ベーコンは、こうした偏りを検討することを、観察資料の収集と結びつけました。
Stanford Encyclopedia of Philosophyは、『ノヴム・オルガヌム』のベーコンが、観察資料を系統的に集め、イドラのような認識上の誤りを避けながら、一般的な命題へ慎重に進む方法を構想したと説明しています。

「知は力なり」|知識を人間の生活に役立てる

「知は力なり」はベーコンを象徴する言葉です。1597年の『Meditationes Sacrae(聖なる瞑想)』には、ラテン語で「ipsa scientia potestas est」という表現があります。「知そのものが力である」という趣旨で、元の文脈では神の知と力が論じられています。

自然研究の構想でも、ベーコンは知識と実際に働きかける力を結びつけ、人間の生活を改善することを目標にしました。観察・経験・実験を重視し、知識を作る方法と、その知識を役立てる目的を示した点が重要です。

ケプラーの法則|火星の観測から惑星運動を記述する

③の答えはヨハネス・ケプラーです。ケプラーはティコ・ブラーエが蓄積した精密な天体観測、とくに火星のデータを利用し、惑星運動を説明しようとしました。

当時、円は完全な形と考えられ、コペルニクスの地動説も惑星運動の説明に円運動を用いていました。ところが火星の観測値が、きれいな円にはどうしても収まりません。ケプラーは観測値とのずれを検討し、運動の形を探りました。

ケプラーは最終的に円へのこだわりを退け、惑星の軌道を楕円として表しました。1609年の『Astronomia Nova(新天文学)』では、現在「ケプラーの第一法則」「第二法則」と呼ばれる関係が示されます。

ケプラーが観測資料と惑星軌道を検討する場面の想像図

ケプラーが観測資料と惑星軌道を検討する場面の想像図。創作したイメージとして掲載しています。

楕円軌道と速さの変化、周期と距離の関係

第一法則では、惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道を運動します。第二法則では、太陽と惑星を結ぶ線が等しい時間に等しい面積を掃くため、惑星は太陽に近い場所ほど速く、遠い場所ほど遅く動くことになります。

さらに1619年の『宇宙の調和』では、惑星の公転周期の二乗が、軌道の長半径の三乗に比例する第三法則が公表されました。長半径は楕円の長い軸の半分の長さです。ここで重要なのは、「天は完全な円を等速で動くはずだ」という前提より、観測結果を説明できる数学的関係が優先されたことです。

太陽中心の惑星体系を、精密な数学的関係で支えた

ケプラーの法則は、太陽中心の惑星体系を精密に記述するものです。コペルニクスの配置を引き継ぎながら、円運動の前提を見直し、軌道の形と速さの変化を数学で表しました。

NASAの解説も、ティコの火星観測と円軌道との不一致が、楕円軌道へ導いた過程を紹介しています。コペルニクスによる太陽中心の配置と、ケプラーによる惑星運動の記述を組み合わせて押さえましょう。

ガリレオの望遠鏡|木星の衛星と金星の満ち欠け

④に入るのは望遠鏡です。ガリレオはオランダでの望遠鏡製作の情報を受け、自ら改良した望遠鏡を1609年から天体観測に用いました。

1610年に観測した木星の衛星は、木星を中心に回る天体の存在を示しました。同年、金星には細い三日月状から満ちた円盤状まで、さまざまな位相があることも確かめます。

ガリレオ博物館の解説によれば、これらの金星の位相は、金星を地球と太陽の間に置く従来のプトレマイオス型体系と合わず、金星が太陽を回る配置を支持しました。ガリレオはこれを地動説の支持に用います。

この観測には、説明できる範囲の条件があります。ティコ・ブラーエの体系でも金星の位相を説明できました。そこでは地球は静止し、太陽が地球を回り、他の惑星が太陽を回ります。金星の観測が示した配置と、地球自身が動くかという問いは、区別して考える必要があります。
ガリレオの望遠鏡による天体観測を題材にした想像図

ガリレオの望遠鏡による天体観測を題材にした想像図。創作したイメージとして掲載しています。

1632年の『天文対話』から1633年の裁判へ

ガリレオは1632年に、二つの主要な世界体系を論じる対話形式の著作を出版しました。翌1633年、ローマへ召喚され、異端審問所による裁判を受けます。

ガリレオ博物館の資料では、裁判は1633年6月22日に結審し、ガリレオは自説を放棄する宣誓を求められました。終身禁錮の判決が下され、その後は軟禁状態で暮らすことになります。

ですから、試験答案としては「宗教裁判」または「異端審問」でよいでしょう。裁判の背景には、聖書解釈、教会内部の事情、出版の経緯がありました。1616年には教会が地動説を退け、ガリレオにもその説を放棄するよう警告していました。1632年の出版と1633年の裁判を、この先行措置とつないで理解しましょう。

「それでも地球は動く」は、本当に裁判直後の発言だったのか

「それでも地球は動く(Eppur si muove)」は、ガリレオにまつわる有名な逸話です。1633年の裁判直後に本人が発言したことを示す、同時代の確実な記録は確認されていません。

宇宙物理学者マリオ・リヴィオの史料調査では、よく知られた形の逸話が印刷物に現れるのは、ジュゼッペ・バレッティの1757年の著作です。関連する絵画の年代や来歴も検討されています。逸話としての伝承と、本人の発言として確認できる範囲を分けて扱いましょう。

教科書の外へ――1600年前後には「見る・試す」道具と発想が広がっていた

同じ時代には、磁気、解剖、血液、顕微鏡、化学的医療の研究も進んでいました。模型や観察器具、解剖の記録、治療法の構想は、それぞれ新しい知識を探る手段となります。

これらの研究には、実験的な方法と、宗教や自然魔術の思想が関わっていました。具体的な道具や著作から、その広がりを見てみましょう。
ギルバートの球形磁石と磁針による実験を題材にした想像図

ギルバートの球形磁石と磁針による実験を題材にした想像図。創作したイメージとして掲載しています。

1600年、ウィリアム・ギルバートは小さな地球「テレラ」を使った

イングランドの医師・自然哲学者ウィリアム・ギルバートは1600年、『De Magnete(磁石論)』を刊行しました。磁石を球形にした小型模型、いわゆるテレラを用いて磁針の振る舞いを調べ、地球そのものを大きな磁性体として考えました。

Royal Societyの資料も、『De Magnete』が地球を大きな磁気的球体として扱った著作であることを紹介しています。小さな模型を作り、磁針の振る舞いを調べることで、地球規模の現象を理解しようとした点が重要です。

模型を使って現象を再現し、そこから地球の性質を考える研究は、磁気を実験で探る重要な取り組みでした。

ファブリキウスの静脈弁|記載から血液循環の理解へ

パドヴァ大学の解剖学者ヒエロニムス・ファブリキウスは1603年の著作で静脈弁を詳細に記述し、図示しました。後に弟子のウィリアム・ハーヴィが血液循環を考えるうえで、この構造は重要な材料になります。

静脈弁には先行する観察がありました。医学史研究では、シャルル・エティエンヌが1545年の刊行物で言及し、ジャック・シルヴィウスも1555年に四肢の静脈弁を記載したことが確認されています。

ファブリキウスは静脈弁を詳しく記載・図示し、その構造が広く認められることに貢献しました。観察、刊行、働きの理解という段階を区別すると、後のハーヴィとの関係も捉えやすくなります。
さらに、ファブリキウス自身は静脈弁の働きを、後のハーヴィと同じようには理解していませんでした。ハーヴィが1628年に血液循環説を公刊し、静脈の血液が心臓へ向かうことを体系の中で説明したことで、弁の意味も変わって見えてきます。

1615年のリバヴィウス|輸血の方法を文章で構想した

ドイツの医師・化学者アンドレアス・リバヴィウスは1615年、健康な人と病人の血管を管で結ぶという輸血の方法を文章で描写しました。これは輸血史のかなり早い段階に現れる構想です。

医学史資料は、リバヴィウスの記述を輸血方法の構想・提唱として扱っています。実施を裏づける記録は確認されていません。健康な人から病人へ、銀の管で動脈をつなぐ方法が描かれていました。

実際の輸血実験は、血液循環説が広まった17世紀半ば以降に展開します。構想の提示と、その後の実験の経過を年代で押さえましょう。

顕微鏡の起源|製作者の帰属と、ガリレオの観察

初期の複式顕微鏡は、複数のレンズを組み合わせて微小なものを見る器具でした。1590年ごろのオランダでヤンセン父子が製作したという説が知られています。発明者の帰属には議論があり、確定していない点を残して理解する必要があります。

ガリレオ博物館の年譜には、1624年にガリレオがハエの拡大像を人々に見せた記録があります。1625年には、アッカデーミア・デイ・リンチェイのヨハネス・ファーバーが、その小型拡大器具を「microscopio」と呼びました。

望遠鏡は天体を、顕微鏡は微小なものを、肉眼より詳しく観察するための道具となりました。科学革命では、理論とともに、何をどの程度まで観察できるかという条件も変化していきます。

クロルの徴候説|自然の形や特徴を治療のしるしとして読む

オスヴァルト・クロルは1609年に『Basilica Chymica』を刊行しました。現存する書誌資料では、この書物に「事物の内的徴候」を論じる内容が含まれていることを確認できます。

クロルはパラケルスス派の医化学に連なる人物で、自然界の形、色、特徴を、治療上の意味を示す「しるし」として読む徴候説(doctrine of signatures)を展開しました。

徴候説では、自然物と人体の形などの対応に治療上の意味を見いだしました。自然界に示されたしるしを読み解く考え方は、当時の薬物や身体をめぐる知識の一部だったのです。

17世紀初頭の知的世界では、実験、数学、錬金術、医学、宗教、自然魔術が交わっていました。観察や実験の発展と、当時の自然観を合わせて見ることで、研究の背景を理解できます。

大学・宮廷・出版と学者の移動が研究を支えた

今回登場した場所を並べると、イングランドではベーコンとギルバート、神聖ローマ帝国圏ではケプラー、北イタリアではファブリキウスとガリレオ、ローマではガリレオの裁判というように、科学革命はヨーロッパ各地の大学、宮廷、印刷文化、学者の移動を背景に進みました。

とくにパドヴァは重要です。ファブリキウスが解剖学を教え、その弟子となったハーヴィが後に血液循環説をまとめます。ガリレオも1592年から1610年までパドヴァ大学で活動しました。人物を一人ずつ暗記するより、「知識が都市と人の間を移動した」と見ると17世紀の姿が立体的になります。

この3問を一つの流れで覚える方法

試験直前なら、三人を別々のカードにするより、「頭の偏りを疑う→天体を数値で追う→道具で直接見る」という流れで覚えてみてください。

  • ベーコン:経験・観察を積み、イドラを警戒する――帰納法
  • ケプラー:ティコの観測データを数学的に処理する――楕円軌道
  • ガリレオ:望遠鏡によって天体を直接観察する――木星衛星、金星の満ち欠け、1633年の異端審問

ベーコンは方法論、ケプラーは数学的天文学、ガリレオは観測と物理学という、それぞれの分野で取り組みました。その違いを残したまま、自然についての主張を、権威以外の証拠によって確かめようとする流れとして結びつけるのが理解しやすいでしょう。

まとめ――科学革命の核心は「何を信じるか」より「どう確かめるか」へ

17世紀の科学革命では、自然についての主張を確かめる方法と、そのための道具が大きく展開しました。

ベーコンは人間自身の認識の偏りを問題にし、ケプラーは観測値に合わない円運動へのこだわりを退け、ガリレオは望遠鏡で従来とは違う天界の姿を可視化しました。その周囲でも磁気、解剖、血液、顕微鏡をめぐる研究が動いています。

その一方でクロルの徴候説のように、現代科学とは異なる自然観も同じ時代に生きていました。当時の研究方法と自然観の両方をたどることが、科学史を理解する手がかりになります。

観察・実験・数学・再検討によって、自然についての主張を確かめる方法が大きく組み替えられました。

復習するときは、三人の名前とともに、「ベーコンは何を疑ったか」「ケプラーは何を捨てたか」「ガリレオは何を新しく見たか」を自分の言葉で説明してみてください。そこまで言えれば、人物と研究方法を、一つの時代の流れとして整理できます。

参考資料

情報確認日:2026年10月12日