問1(オランダ西インド会社)
オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、1602年の東インド会社に続き、1621年にアメリカ大陸やアフリカ西海岸との貿易・植民・軍事活動を進める特権会社を設立しました。この会社の名称は何ですか。
問2(台湾ゼーランジャ城の建設)
オランダは東アジア貿易の拠点を確保するため、1624年に台湾南部の安平に進出し、明や日本を含む東アジア交易の拠点となる要塞を築き始めました。後に知られるこの城の名称は何ですか。
問3(リシュリューの登場)
フランス国王ルイ13世のもとで1624年に国王評議会へ入り、ユグノーの政治・軍事力を抑えて王権を強化し、三十年戦争ではハプスブルク家に対抗する外交を進めた人物は誰ですか。
1620年代の世界史を眺めると、妙なほど「会社」「要塞」「王権」が並んで登場します。オランダでは大西洋を舞台にする特権会社がつくられ、台湾では東アジア交易を押さえる要塞の建設が始まりました。フランスでは、リシュリューが王権を強くする政策を進めています。
離れた土地の別々の出来事ですが、共通しているのは、遠くまで人・物・軍隊・命令を動かす仕組みが大きくなったことです。帆船だけ見ていると海の歴史、宮殿だけ見ていると政治史に見えますが、同じ年表へ置くとかなり景色が変わります。
答えは、問1がオランダ西インド会社、問2がゼーランジャ城(熱蘭遮城)、問3がリシュリューです。
ただし、この3問には「答案として覚える答え」と「実際の歴史を少し丁寧に説明した場合」との間に、小さな段差があります。そこまで埋めておくと、単語暗記から一段深い歴史教養になります。
- 答えを年表へ置くと、1621年から1625年の動きが見えてくる
- 問1|1621年のオランダ西インド会社は「商社」だけではなかった
- 問2|1624年、台湾南部に造られた要塞は後のゼーランジャ城
- 問3|リシュリューは宗教だけでなく国家の力関係を優先した
- 同時代の中国を深掘り|1621年、明は南西でも大規模な反乱に直面した
- 同時代のロンドンを深掘り|1625年、ペストが都市と政治を揺らした
- 1620年代を一本につなぐ鍵は「遠くを動かす仕組み」と、その限界
- 現代とのつながり|17世紀の会社や要塞を、そのまま現代へ置き換えない
- 試験で混同しやすいポイント
- まとめ|1620年代は会社・要塞・王権、そして各地の危機が同時に動いた
- 関連記事
- 参考資料
答えを年表へ置くと、1621年から1625年の動きが見えてくる
| 年 | 地域 | 出来事 | 見えてくる変化 |
|---|---|---|---|
| 1621年 | ネーデルラント | オランダ西インド会社設立 | 貿易と戦争を結ぶ大西洋政策 |
| 1621年 | 中国南西部 | 奢安の乱が始まる | 明が北東と南西の軍事負担を抱える |
| 1623年 | 東南アジア | アンボイナ事件 | 英蘭の商業競争が軍事・司法問題へ拡大 |
| 1624年 | 台湾南部 | オランダ東インド会社が大員に要塞建設を開始 | 台湾が東アジア交易網の重要拠点になる |
| 1624年 | フランス | リシュリューが国王評議会へ入る | 王権強化と反ハプスブルク外交が進む |
| 1625年 | ロンドン | ペスト大流行 | 都市生活と政治運営が感染症の影響を受ける |
こうして見ると、1620年代は「新しい国が次々できた時代」というより、すでに存在していた国家や会社が、より広い地域を動かすための仕組みを強化した時代でした。
まず3問の中心となる出来事を確認し、そのあと視野を中国とイングランドまで広げてみましょう。同じ1620年代に別の地域では何が起きていたのかを見ると、この時代が海上進出と王権強化だけで説明できないことも分かります。
問1|1621年のオランダ西インド会社は「商社」だけではなかった
問1の答えは、オランダ西インド会社(West-Indische Compagnie、WIC)です。オランダ国立公文書館には、1621年7月3日にネーデルラント連邦共和国の連邦議会が与えた特許状に関する記録が残っています。
すでに1602年にはオランダ東インド会社、いわゆるVOCが成立していました。それなのに、なぜまた会社をつくるのでしょう。
理由は活動する海域が違うからです。VOCは主にアジア方面で交易と軍事活動を行いました。一方のWICは、大西洋側の西アフリカ、アメリカ大陸、カリブ海などを活動の中心にします。名前が東と西で実に分かりやすいのですが、会社の仕事はあまり単純ではありません。
1621年は、スペインとの戦争が再び動き出した年でもある
ネーデルラントとスペインの間では、1609年から十二年休戦が続いていました。その期限が切れたのが1621年です。
国立公文書館は、WIC設立の目的について、西インド地域でオランダの交易上の立場を強めるだけでなく、スペインの交易力を弱め、戦争を海上へ広げる狙いがあったと説明しています。
ですからWICは、商品を買って売るだけの会社ではありません。船を持ち、植民活動を行い、敵側の船や拠点を攻撃する軍事的な役割まで担いました。現代の会社を想像したまま読むと、「営業部の次に艦隊が出てくるのですか」と少々戸惑います。17世紀の特許会社は、会社と国家の境目が今よりずっと曖昧だったのです。
WICを現代の民間企業と同じ感覚で理解すると、植民・軍事・国家政策との結びつきを見落とします。
大西洋交易の拡大は、奴隷制とも結びついた
もう一つ、見落としてはいけない面があります。WICの歴史は、大西洋での植民地拡大や奴隷貿易とも結びついています。
国立公文書館に残る旧WIC資料には、1640年代にギニアやアンゴラから連れてこられた奴隷化された人々の売却記録も確認できます。したがって、「オランダが海へ進出して商売で栄えた」という明るい成功物語だけでは、この会社の歴史を説明できません。
海上交易が大きくなるほど、利益だけではなく戦争、植民支配、人の強制移動まで同じ仕組みへ組み込まれていきました。1621年のWIC設立は、その大西洋世界が制度として強く組織されていく一つの節目です。

問2|1624年、台湾南部に造られた要塞は後のゼーランジャ城
問2の答案は、ゼーランジャ城(Fort Zeelandia、熱蘭遮城)です。現在の台湾・台南市安平一帯に築かれました。
ただし、ここには名称の注意があります。台湾文化部の史跡解説では、1624年にオランダ東インド会社が大員、現在の安平付近で建てた要塞は、当初Fort Oranjeと呼ばれ、4年後にFort Zeelandiaへ改称されたと説明されています。
したがって「1624年に完成した建物が最初からゼーランジャ城という名前だった」と断定するより、「1624年に建設が始まり、後にゼーランジャ城と呼ばれた」と理解すると正確です。
なぜ台湾南部だったのか
オランダ東インド会社が欲しかったのは、単なる軍事基地ではありません。東南アジア、中国沿岸、日本などをつなぐ交易の中継地点です。
台湾の史料機関には、1624年から1662年にかけてVOCが台湾を拠点に日本との貿易を行った研究資料が残っています。また、台湾の歴史資料では、大員を中心に中国、日本、東南アジアなどを結ぶ交易関係が築かれたことも確認できます。
日本では朱印船貿易の時代にあたり、日本の銀や商品も東アジアの海を動いていました。一方、中国沿岸からは生糸など多様な商品が流れます。台湾は、その間に浮かぶ大きな中継地点になり得ました。
港を押さえるだけでは、商品を安全に保管し、船を守り、現地を統治するには足りません。そこで要塞が必要になります。商館、倉庫、港、防御施設が一体になると、交易拠点は小さな町のような機能を持ち始めます。
ゼーランジャ城は「台湾だけの地方史」ではない
この要塞を台湾史の項目だけに閉じ込めると、少々もったいありません。バタヴィアを中心としたVOCの交易網、中国沿岸の商人、日本の朱印船、東南アジアの港市が同じ海で動いていたからです。
つまり1624年の大員進出は、「オランダが台湾へ来た」という一方向の話ではありません。中国商人、日本商人、東南アジア各地の市場、台湾の先住社会など、すでに存在した複数の世界へVOCが入り込んだ出来事でした。
ゼーランジャ城を覚える鍵は、「要塞」だけでなく「東アジアを結ぶ中継貿易の拠点」とセットにすることです。

問3|リシュリューは宗教だけでなく国家の力関係を優先した
問3の答えは、リシュリューです。正式にはアルマン・ジャン・デュ・プレシ、リシュリュー枢機卿として知られます。
1624年、リシュリューはルイ13世の国王評議会へ入り、しだいにフランス政治の中心人物となりました。ここで覚えたいのは、「偉い聖職者が大臣になった」という肩書だけではありません。
リシュリューの政策には大きく二つの方向があります。国内では国王に対抗できる政治・軍事勢力を弱め、国外ではフランスを囲むように勢力を持っていたハプスブルク家へ対抗しました。
ユグノーを「全面的に宗教弾圧した」とすると少し違う
フランスのプロテスタントであるユグノーは、ナントの勅令によって一定の宗教的権利だけでなく、政治的な集会や安全保障のための拠点も持っていました。
ところが国王側から見ると、強固な城塞と軍事力を持つ集団が国内に存在することになります。リシュリューとルイ13世は、この政治・軍事的な自立性を抑えようとしました。
その象徴が1627年から1628年のラ・ロシェル包囲です。その後、1629年のアレスの和議・勅令によって、ユグノー側は政治集会や安全保障のための要塞といった特権を失います。
ただし、ナントの勅令が認めていた宗教上の規定まで、この時点ですべて廃止されたわけではありません。リシュリューが狙った中心は、ユグノーの政治・軍事力を王権の下へ置くことでした。
「カトリックの枢機卿だからプロテスタントを全部なくそうとした」と覚えると、その後の外交が説明できなくなります。
三十年戦争ではカトリック国フランスが反ハプスブルクへ動く
三十年戦争は1618年に始まりました。当初は神聖ローマ帝国内の宗教対立が大きな要素でしたが、次第にヨーロッパ諸国の勢力争いが重なります。
フランスもカトリック国でした。それなら同じカトリックのハプスブルク家を応援しそうですが、実際の外交はそう単純ではありません。
ハプスブルク家はスペインとオーストリアに大きな勢力を持ち、フランスにとっては重大な競争相手でした。リシュリューはプロテスタント勢力への資金援助などを行いながらハプスブルク家を弱め、1635年にはフランスが戦争へ直接介入します。
「カトリック対プロテスタント」だけではなく、「フランス対ハプスブルク家」という国家間の力関係を見ると、リシュリューの外交が理解しやすくなります。
宗派が同じなら必ず味方、違えば必ず敵というほど、国際政治は親切な問題集ではありません。ここが三十年戦争の少々ややこしく、同時に面白いところです。

同時代の中国を深掘り|1621年、明は南西でも大規模な反乱に直面した
ここからは3問そのものから少し視野を広げ、同じ1620年代に別の地域で何が起きていたのかを見てみましょう。
最初に取り上げるのは、中国を支配していた明です。オランダが大西洋や東アジアで活動範囲を広げていたころ、明は北東部で後金との戦争を続けていました。そして1621年、その明の南西部でも大きな反乱が始まります。
四川・貴州を中心に広がった奢安の乱です。主要な指導者は奢崇明や安邦彦で、いずれもイ族(彝族)系の土司でした。
土司とは、中国王朝が南西部などの少数民族地域を統治する際、現地の有力者に官職を与えて地域支配を任せる仕組みです。中央政府がすべてを直接支配するのではなく、現地の首長を王朝の統治制度へ組み込んでいました。
1621年から四川・貴州で大規模化したこの事件を、一括して「苗族の反乱」と説明するのは正確ではありません。奢安の乱の主要指導者はイ族系の土司でした。
反乱の背景には、北東の戦争もあった
奢安の乱が興味深いのは、中国南西部だけを見ていても全体像がつかみにくい点です。
当時の明は、北東部の遼東で後金と激しく争っていました。後金はヌルハチが建てた勢力で、のちの清につながります。明は遼東戦線へ大量の兵士や軍事物資を送る必要があり、その負担は各地へ及んでいました。
軍事史研究では、明朝が遼東の戦争のため四川などにも兵員や物資の提供を求めていた状況の中で、1621年に奢崇明らの反乱が始まったことが論じられています。
つまり、北東で戦争をしていたところへ、南西でまったく無関係の事件が突然発生した、と考えるだけでは足りません。北東の戦争を支えるための動員そのものが、南西部の緊張とも結びついていたのです。
明は遠く離れた二つの方向へ兵とお金を使うことになった
地図で見ると、遼東と四川・貴州はかなり離れています。それでも王朝から見れば、どちらにも対応しなければなりません。
北東では後金との戦争を続け、西南では反乱を鎮圧する。兵士を動かせば食料が必要になり、武器や馬、輸送費もかかります。しかも一方へ兵力を集中すると、もう一方が手薄になる可能性があります。
広い領土を支配することは、大きな力になる一方で、問題が複数地域で同時に起きたときの負担も大きくします。1620年代の明は、まさにその難しさを抱えていました。
先ほど見たオランダは、会社と海上拠点を使って遠い地域へ活動範囲を広げようとしていました。一方の明では、すでに広い領域を維持するために、遠く離れた複数の戦線へ人と物資を送り続ける必要がありました。
同じ「遠くを動かす力」でも、拡大する側と維持する側では、見える景色がずいぶん違います。
奢安の乱だけで明の滅亡を説明しない
奢安の乱は明朝に大きな軍事負担を与えました。しかし、この反乱だけを1644年の明滅亡へ一直線につなげるのは適切ではありません。
その後も明は、後金・清との戦争、各地の農民反乱、財政問題、政治対立など複数の問題に直面します。気候や食糧事情についても研究が続いています。
王朝が崩れるとき、後世から見ると「原因はこれだ」と一つにまとめたくなるものです。しかし実際には、いくつもの負担が重なり、対応する余力が少しずつ失われていく場合があります。
奢安の乱を見る意味は、明末の危機が北東だけで起きていたのではなく、1620年代には南西部でも大きな軍事負担が生まれていたと分かることです。

同時代のロンドンを深掘り|1625年、ペストが都市と政治を揺らした
次に1625年のロンドンへ移ります。オランダでは海外交易が広がり、フランスではリシュリューが王権を強めていたころ、イングランド最大の都市ロンドンでは、まったく別の危機が人々の日常を襲っていました。
ペストの大流行です。
しかも1625年は、イングランド王ジェームズ1世が亡くなり、息子のチャールズ1世が王位を継承した年でもありました。つまり、王が代替わりする政治上の大きな節目と、都市を襲う感染症の流行が重なったのです。
ロンドンでは死亡者数を記録する仕組みがあった
17世紀のロンドンでは、教区ごとに死亡者数や死因を集計した「死亡表」が作られていました。
現存する1625年の記録では、ペストによる死亡者は35,417人とされています。現在の統計制度とは違いますが、当時の人々も都市で何人が亡くなり、どのような死因が多いのかを記録しようとしていたわけです。
のちにジョン・グラントは、こうした死亡表を数量的に分析しました。そして、ペストによる死亡が別の死因として記録された可能性にも注目しています。
そのため後世には、実際のペスト死は公式数字より多く、4万人規模だった可能性を示す推計もあります。
「1625年に公式記録で4万人以上がペスト死した」とするのは正確ではありません。公式死亡表では35,417人で、4万人を超える数字は過少記録を考慮した推計として分ける必要があります。
「人口の約2割」と固定するのも慎重に
当時のロンドンには、現在のような近代的な国勢調査がありませんでした。そのため、都市人口の母数そのものにも推計の幅があります。
「人口のおよそ2割」という説明を見ることはありますが、どの地域をロンドンとして数えるか、人口をどの程度と推計するかで割合は変わります。
それでも、公式記録だけで3万5千人を超えるペスト死が確認される規模です。当時の都市にとって非常に深刻な流行だったことに疑いはありません。
疫病は、新しい国王の政治日程にも入り込んだ
チャールズ1世は1625年3月に王位を継承しました。しかし、新しい国王が登場したからといって、社会が王室の予定どおりに動いてくれるわけではありません。
1625年には、ロンドンの疫病を避けるため、議会がオックスフォードでも開かれました。チャールズ1世の戴冠式は翌1626年2月2日にウェストミンスター寺院で行われています。
国王の即位、議会、外交、戦争といった政治史だけを追うと、歴史は宮殿の中だけで動いているように見えます。ところが同じ時期の都市では、感染症によって人々の移動や仕事、行政の運営そのものが揺さぶられていました。
王が代替わりしても、疫病は王室の予定表を読んでくれません。少々身もふたもない話ですが、政治史と社会史が同じ時間に進んでいることをよく示す出来事です。
ペストが清教徒革命を起こした、と考える必要はない
ここも因果関係を急がないようにしましょう。
1625年のペストが社会不安を広げたとしても、それだけで後のチャールズ1世と議会の対立や清教徒革命を説明することはできません。
王権と議会の関係、課税、宗教政策、対外戦争など、複数の政治問題がその後も積み重なりました。
1625年のロンドンを見る価値は、王朝や外交だけでは見えない「都市で暮らす人々の1620年代」を同じ時間軸へ置けることにあります。

1620年代を一本につなぐ鍵は「遠くを動かす仕組み」と、その限界
ここまで、オランダ西インド会社、ゼーランジャ城、リシュリュー、明の奢安の乱、ロンドンのペストを見てきました。
これらの出来事に直接の因果関係があるわけではありません。WICが設立されたからリシュリューが登場したわけではなく、台湾の要塞建設が中国南西部の反乱やロンドンの疫病を引き起こしたわけでもありません。
それでも同じ年表へ置く意味はあります。17世紀前半には、国家や会社が以前より大きな範囲へ人、金、商品、軍隊、情報を動かそうとしていました。
オランダは特許会社を使い、遠い海で交易と軍事活動を組織します。VOCは台湾南部へ拠点を築き、中国、日本、東南アジアを結ぶ交易網へ食い込んでいきました。
フランスではリシュリューが国内の独立した軍事力を王権の下へ集め、国外では国家の勢力関係を重視した外交を進めます。
一方、明では広大な領域の北東と南西で同時に軍事負担を抱えました。ロンドンでは、中央の政治が動く一方で、感染症という国家の命令だけでは止められない問題が都市を直撃しています。
1620年代は「国家や会社が遠くまで力を届かせようとした時代」であると同時に、「広い範囲を動かすほど、新しい負担や限界も見えてきた時代」だったのです。
現代とのつながり|17世紀の会社や要塞を、そのまま現代へ置き換えない
オランダ西インド会社を見ると、巨大企業と国家の関係を連想するかもしれません。ただし、WICは現代企業とはまるで違います。国家から特許を与えられ、軍事や植民活動まで担った組織です。
それでも、遠く離れた土地で活動するには、資金、船、港、情報、倉庫、現地拠点を組み合わせなければならない点は、現在の国際物流を考える手がかりになります。もちろん、現代の物流拠点と植民地要塞を同じものと扱うことはできません。
ゼーランジャ城から見えるのも、港の位置が交易の流れを左右するということです。商品が集まり、船が停まり、情報が交換される場所は大きな力を持ちます。だからこそ、交易拠点は軍事上の争点にもなりました。
リシュリューから学べるのは、宗教や理念だけでは国家間関係を説明できないという点でしょう。同じ宗派の国同士が争い、異なる宗派の勢力が協力する場合があります。「誰と価値観が同じか」と「誰と利害が一致するか」は別問題です。
明の奢安の乱を見ると、広い領域を持つ国家は、一か所だけではなく複数地域の問題へ同時に対応しなければならないことが分かります。そして1625年のロンドンの死亡表からは、社会の危機を数字で把握しようとする動きも見えてきます。
つまり1620年代を学ぶと、会社、物流、安全保障、行政、統計といった現在にもある言葉の「かなり遠い親戚」が見えてきます。ただし、先祖と子孫を同一人物だと思わないこと。歴史の比較では、その距離感が大事です。
試験で混同しやすいポイント
オランダ東インド会社と西インド会社は同じ会社ですか
別の会社です。VOCは1602年に設立され、主にアジア方面を活動範囲としました。WICは1621年に設立され、大西洋、西アフリカ、アメリカ方面で交易・植民・軍事活動を進めました。
ゼーランジャ城は1624年からその名前でしたか
学習上は「1624年、オランダが台湾にゼーランジャ城を建設」とまとめることが多いのですが、台湾文化部の解説では、1624年に建設された要塞は当初Fort Oranjeとされ、4年後にFort Zeelandiaへ改称されています。
リシュリューはフランスのプロテスタントを禁止したのですか
そこまで単純ではありません。1629年のアレスの和議・勅令でユグノーは政治・軍事上の特権を失いましたが、ナントの勅令に基づく宗教上の規定は維持されました。
カトリック国フランスが三十年戦争でプロテスタント勢力を支援したのはなぜですか
大きな理由はハプスブルク家への対抗です。宗派だけでなく、国家間の勢力関係が外交を動かしました。フランスはプロテスタント勢力を支援したのち、1635年に直接参戦します。
奢安の乱は苗族の反乱ですか
1621年から四川・貴州で大規模化した奢安の乱は、主要指導者がイ族系土司でした。明代には苗族による反乱も別にありますが、この事件を単純に「苗族の乱」と呼ぶのは避けたほうがよいでしょう。
1625年ロンドンのペストでは4万人以上が死亡したのですか
当時の公式死亡表に記録されたペスト死は35,417人です。後世には過少記録だった可能性が指摘され、4万人を超える推計もあります。公式記録と後世の推計を分けて理解してください。
まとめ|1620年代は会社・要塞・王権、そして各地の危機が同時に動いた
問1の答えはオランダ西インド会社、問2はゼーランジャ城、問3はリシュリューです。
1621年のWIC設立では、大西洋交易と戦争が特許会社という仕組みの中で結びつきました。1624年の台湾では、VOCが大員に要塞を築き、中国、日本、東南アジアを結ぶ交易網の拠点を整えていきます。
同じ1624年、フランスではリシュリューが国政の中心へ入り、国内では王権を強化し、国外では宗派だけに縛られない反ハプスブルク外交を進めました。
さらに同じ時代へ視野を広げると、明では1621年から奢安の乱が起こり、北東の後金との戦争と南西の反乱へ同時に対応する必要が生じています。ロンドンでは1625年に大規模なペスト流行が起こり、新王チャールズ1世の治世開始と政治運営の背景に都市社会の危機がありました。
1620年代を覚えるなら、「会社・要塞・王権が遠くまで力を伸ばす一方、広い国家や大都市では新しい負担も表面化した時代」と考えると、世界の出来事が一枚の年表へ収まります。
復習するときは、1621年のWICと奢安の乱、1624年の台湾とリシュリュー、1625年のロンドンを順に思い出してみてください。「何が起きたか」だけでなく、「なぜその出来事がその時代に重要だったのか」まで説明できれば、単語暗記はかなり立体的な歴史理解へ変わっています。
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参考資料
- Nationaal Archief, West-Indische Compagnie (WIC) 解説(確認日:2026年9月11日)
- Nationaal Archief, Oude West-Indische Compagnie 1621-1674 archive inventory(確認日:2026年9月11日)
- Taiwan Ministry of Culture, Fort Zeelandia Historical Sites(確認日:2026年9月11日)
- 國史館臺灣文獻館「近世初期荷蘭東印度公司VOC的台日貿易初探(1624-1662)」(確認日:2026年9月11日)
- Larousse, Louis XIII(確認日:2026年9月11日)
- Larousse, édit de grâce d’Alès(確認日:2026年9月11日)
- Kenneth M. Swope, The Military Collapse of China’s Ming Dynasty, 1618-44, Routledge(確認日:2026年9月11日)
- 四川省地方志工作办公室「明代『奢安之乱』中的永宁人『奢王』」(確認日:2026年9月11日)
- Wellcome Collection, London Great Bill of Mortality, 1625(確認日:2026年9月11日)
- Wellcome Collection, John Graunt, Observations upon the Bills of Mortality(確認日:2026年9月11日)
- House of Commons Library, English and Welsh Parliaments held away from Westminster(確認日:2026年9月11日)
- Westminster Abbey, Charles I(確認日:2026年9月11日)

