問1(江戸幕府の開府と世襲)
(1) 1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年、後陽成天皇より何という将軍職に補任されて江戸幕府を開きましたか。
(2) 家康は早くも1605年、将軍職を息子の( ① )に譲り、自らは大御所として政治に関与し、1607年には駿府を拠点としました。これは、将軍職が徳川家によって「世襲」されることを天下に示す意味を持ちました。①に入る2代将軍の名前を答えなさい。
問2(藤原惺窩と林羅山:朱子学の興隆)
江戸時代初期、君臣・父子など人間関係の秩序や礼を重視する( ② )学が大きな影響力を持つようになりました。
(1) もと相国寺の僧で、仏教から離れて儒学を研究し、日本の近世朱子学の展開に大きな影響を与えた儒学者は誰ですか。
(2) その弟子で、師の推薦を受けて徳川家康に仕え、「上下定分の理」で知られ、のちの林家につながった人物は誰ですか。
問3(本願寺の東西分立)
親鸞を宗祖とする本願寺教団は戦国期から大きな宗教勢力となりました。17世紀初頭、京都では西本願寺とは別に( ③ )本願寺が成立します。③に入る名称を答えなさい。
答えと解説
答えは、問1(1)征夷大将軍、(2)①徳川秀忠、問2の②朱子、(1)藤原惺窩、(2)林羅山、問3の③東です。
家康は関ヶ原の勝利後、将軍職の継承、法令、儀礼、学問、寺社との関係を通じて政権の基盤を固めました。将軍任官、朱子学、本願寺の分立は、それぞれ政治的な地位、統治を支える知識、宗教組織との関係にかかわる出来事です。
解答を確認したら、1600年代初頭の経過と、その背景を見ていきましょう。
1600年の関ヶ原から1603年の征夷大将軍へ
1600年9月(旧暦)、徳川家康を中心とする東軍は関ヶ原の戦いに勝利しました。続いて1603年、家康は征夷大将軍に任じられます。
政治史で押さえたいのは、1600年の軍事的勝利と1603年の将軍任官は別の出来事だという点です。国立公文書館の家康関係年表では、慶長8年2月12日(旧暦)、家康が伏見城で勅使を迎え、征夷大将軍・右大臣などに任じられたことが確認できます。
征夷大将軍という役職には、鎌倉幕府、室町幕府以来の武家政権の歴史がありました。家康は朝廷から将軍に任じられることで、武家を率いる政治的地位を形にしました。軍事的な優位に、歴史ある官職の権威が加わったのです。
この意味で、問1(1)の答えは征夷大将軍。試験では「1600年=関ヶ原」「1603年=征夷大将軍」と二段階に分けると混乱しません。
1605年、なぜ家康はわずか2年で将軍を辞めたのか
家康は1605年に征夷大将軍を辞し、息子の徳川秀忠が2代将軍となりました。国立公文書館の年表では、慶長10年4月16日(旧暦)に家康が将軍職を辞し、秀忠が征夷大将軍・内大臣に任じられたことが確認できます。
将軍職を譲った後も、家康は大御所として重要な政策に関与しました。1607年には駿府を拠点とし、江戸の将軍秀忠とともに政治を進めます。
国立公文書館は、秀忠への継承を、徳川家が将軍として政権を世襲することを天下に示した出来事と説明しています。家康が存命中に息子が将軍となったことは、次の世代へ政権を継ぐうえで大きな意味を持ちました。
家康・秀忠期には軍事力と法・学問による統治が並行した
江戸時代の政治では、武力や厳しい大名統制を重視する「武断政治」と、法・儀礼・学問による秩序維持を重視する「文治政治」という区分が使われます。一般に文治政治への転換期として扱われるのは、17世紀後半、とくに4代将軍徳川家綱以降です。
家康・秀忠期には大坂の陣があり、軍事力を背景とする統制が大きな役割を果たしていました。同時に、法令や記録、学問によって政権を支える取り組みも進みます。両方の動きを年代に沿って追うと、この時期の特徴が分かります。
1615年には武家と朝廷を法によって枠組みに入れた
大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した1615年、幕府は武家諸法度を発布しました。国立公文書館によると、以心崇伝が起草し、7月7日(旧暦)に諸大名を伏見城へ集め、将軍秀忠の名で全13カ条が読み上げられています。
さらに同年7月17日(旧暦)には禁中並公家中諸法度が出されました。天皇・上皇・公家・門跡などを含む朝廷社会についても、幕府が制度的な枠組みを設けていきます。
徳川政権は軍事力を背景に、法令、官職、儀礼、記録を組み合わせて統治の枠組みを整えました。武家と朝廷への法令は、その具体的な取り組みです。

藤原惺窩から林羅山へ|家康はなぜ儒学者を必要としたのか
問2の空欄②は朱子で、「朱子学」となります。朱子学は、中国宋代の朱熹によって体系化された儒学で、人間社会の秩序や道徳を宇宙の原理と結びつけて考えました。
日本で近世朱子学の展開に大きな役割を果たした人物の一人が藤原惺窩です。惺窩は若いころ相国寺で僧侶として学びましたが、その後、儒学への関心を深めました。
惺窩の弟子として登場するのが林羅山、名を信勝、のち道春とも称した人物です。国立公文書館の年表には、1607年3月8日(旧暦)に家康が駿府で林信勝を引見し、剃髪を命じて道春と号させた記録があります。
「上下定分の理」は何を説明したのか
羅山でよく問われるのが上下定分の理です。天地に上下の区別があるように、人間社会にも君臣などの秩序があると考える立場として、高校倫理でも扱われます。
君臣などの上下関係を自然や宇宙の秩序に結びつける点で、幕府の身分秩序を支える考え方として説明されます。
家康期に重要なのは、林羅山ら儒学者が政治・外交・文書・出版などに関わり、儒学的な知識が徳川政権の運営へ入り込んでいったことです。
朱子学を正学とする政策として知られる寛政異学の禁は1790年の出来事です。老中松平定信の改革のもと、林家の学問所での教育に対して、朱子学以外の学派を講じることを禁じました。家康期の儒学者登用から約180年後の政策として、年代と対象を押さえましょう。
朱子学そのものを東アジアの広い流れから復習したい場合は、関連記事「15世紀、東西で仕組みが組み替わる|朝鮮の文字・宗教再編から海のイスラーム化、ばね時計へ」も参考になります。
林羅山と書物・記録|法令を支える知識の収集と出版
家康に仕えた林羅山は、書物や記録を扱う知識人としても活動しました。師の惺窩は家康に『貞観政要』を講じ、羅山の学識が家康に認められるきっかけをつくっています。
国立公文書館によると、家康は歴史書、法律書、儒学書、兵法書などを読み、公家や寺社が持つ典籍・古記録を調べさせ、書写・収集しました。1614年には、公家や門跡などが所蔵する記録を調査させたことも確認できます。
古記録には、過去の制度や儀礼を調べるための情報が含まれています。国立公文書館は、禁中並公家中諸法度や寺院に対する法度を制定する際にも、古記録の収集が必要だったと説明しています。
さらに家康は出版事業にも積極的でした。伏見では木活字、駿府では銅活字による出版を進め、古典や政治に役立つ書物を複製できる環境を整えていきました。
過去の制度や先例を調べ、必要な書物を複製し、政治に利用できる形で保持することが、政権の運営を支えました。古記録の調査は法令制定に、活字による出版は書物の流通に、それぞれ役立ったのです。

本願寺の東西分立|教団内の対立と家康の寺地寄進
問3の答えは東本願寺です。現在の京都には、西本願寺と東本願寺という二つの大きな本願寺があります。
分立の背景には、石山合戦末期の方針対立、顕如没後の継承問題、家康による教如への寺地寄進がありました。順に経過をたどりましょう。
分裂の火種は家康以前から存在していた
真宗大谷派(東本願寺)の公式史によると、石山合戦末期、11代顕如は織田信長との和議に応じて大坂本願寺を退去しました。一方、長男の教如は籠城を続け、父と方針が対立します。
その後、顕如の死後には教如がいったん本願寺を継ぎましたが、豊臣秀吉から退隠を命じられ、弟の准如が継職しました。これが現在の西本願寺につながります。
本願寺内部の継承問題や門徒の支持の分化は、徳川家康による1602年の寺地寄進より前から進んでいました。
1602年、家康が教如へ京都の寺地を寄進した
大きな転機は1602年で、徳川家康は教如に京都の烏丸六条・七条間の寺地を寄進しました。教如はそこで新たな本願寺を形成し、現在の東本願寺につながっていきます。
真宗大谷派の公式史では、1603年に御真影を迎えて阿弥陀堂を建立し、1604年には御影堂を建立したとされています。寺地寄進を経て、御真影の奉迎と堂宇の建立が進み、新たな教団の拠点が整えられました。
大谷大学博物館も、東本願寺の歴史について、1602年に教如が家康から京都東六条の寺地を与えられたことを起点として紹介しています。
家康の寄進は、以前からの継承対立の中で活動を続けていた教如を支えるものでした。教団内の事情と徳川政権の支援が重なり、東西に本願寺が並び立つ形へ進んだのです。
親鸞から本願寺教団が成立していく長い流れは、関連記事「財産を捨て、救いを問い直す|13世紀の西欧と日本で広がった信仰の再出発」を先に読むとつながりが見えやすくなります。
政治が秩序を固める一方、京都では「美しい本」が生まれていた|嵯峨本
同じ17世紀初頭を文化史へ視線を移すと、京都では嵯峨本と呼ばれる美しい古活字版が作られていました。
国立国会図書館は、嵯峨本について本阿弥光悦と角倉素庵が刊行に関与したとされ、流麗な活字の書体や豪華な装訂で知られる古典籍だと説明しています。
代表例の一つである『伊勢物語』は、慶長13年、1608年から刊行されました。嵯峨本のなかには、雲母を用いた装飾的な料紙を使ったものも知られています。
政権の出版と、京都の古典文学の出版
家康の伏見版・駿河版は、政権が集めた書物や政治に役立つ古典を刊行する事業でした。嵯峨本では古典文学が、流麗な活字や装飾的な料紙を用いた美しい本として作られます。
同じ17世紀初頭に、政治のための知識を複製する活動と、古典文学を新たな形で届ける活動が進んでいました。書物の内容と、出版を支えた人々を組み合わせて考えると、それぞれの特徴が分かります。
1611年のフランスではニュースを本に蓄積した|『メルキュール・フランソワ』
日本の嵯峨本とほぼ同時期、西ヨーロッパでも印刷物が政治情報を蓄積する役割を広げていました。その一例がフランスの『Le Mercure françois(メルキュール・フランソワ)』です。
フランス国立図書館(BnF)の書誌では、この刊行物は1611年から1648年にわたる定期刊行物として登録されています。第1巻は1605年以後の出来事から記述を始め、ジャン・リシェらが出版に関わりました。
内容はフランス国内だけに閉じず、同時代の政治、戦争、宮廷、外交などを継続的に記録していきます。出来事を後から読み返せる印刷物として蓄積した点は、同時代の出版文化を比較する手がかりになります。
政治・戦争・外交などの出来事を巻ごとにまとめた、定期的なニュース記録・政治情報刊行物として理解すると、その役割を捉えやすくなります。
1600年代初頭を比べる|記録と出版が担った役割
日本とフランスの出来事を同時代の事例として並べると、記録と出版が担った役割を比較できます。
日本では家康が将軍職を秀忠へ継がせ、武家諸法度などの制度を整え、古記録を収集し、出版事業を進めました。京都では嵯峨本が刊行され、古典文学が活字を通じて新しい形で流通します。
フランスでは政治事件を継続的にまとめる出版物が現れました。扱う内容も政治環境も異なりますが、情報を記録し、複製し、後から参照できる形にすることの重要性が増していたという比較はできます。
家康期の政治では、軍事的な優位に加え、官職、法令、記録、知識を政権の基盤としてどう用いたかが重要です。出版は、そうした知識を保持し、伝える手段の一つでした。
直前の16世紀末の東アジアを復習するなら、関連記事「知識も軍隊も商船も海を越えた|16世紀末の東アジアを動かした科学・朝鮮侵略・朱印船」から続けて読むと、秀吉期から家康期への変化を追いやすくなります。
まとめ|世襲・法・学問・寺社との関係から家康期を学ぶ
問1の答えは征夷大将軍、徳川秀忠。問2は朱子(朱子学)、藤原惺窩、林羅山。問3は東本願寺です。
1600年から1615年までの出来事を、政権の継承と統治の基盤づくりという流れで整理しましょう。
関ヶ原で勝った家康は1603年に征夷大将軍となり、1605年には秀忠へ将軍職を継承しました。林羅山ら知識人を用い、古記録を集め、出版を進め、1615年には武家や朝廷を対象とする法令も整えます。
宗教界では、本願寺内部に以前から存在した対立の上に、1602年の家康による教如への寺地寄進が加わり、東西本願寺の分立へつながりました。
家康期の政治では、軍事的な優位を背景に、将軍職の世襲、法令、学問、宗教組織との関係、記録の収集が進められました。
そして同じころ、京都では嵯峨本が作られ、フランスでは政治ニュースを継続的に記録する刊行物が現れます。政治・文学・ニュースという異なる分野で、書物を集め、複製し、参照する活動が広がっていたのです。
1600年、1602年、1603年、1605年、1615年に何が起きたのかを、記事を閉じてから自分の言葉で説明してみてください。説明できない年があれば、その節だけ読み返すと整理できます。
参考資料
- 国立公文書館:家康関係年表
- 国立公文書館:千姫の輿入れ(将軍職の継承)
- 国立公文書館:家康の内政・外交
- 国立公文書館:武家諸法度
- 国立公文書館:古記録の所在調査・収集
- 国立公文書館:家康の出版事業
- 真宗大谷派:東本願寺の歴史
- 玉川大学教育博物館:近世儒学の祖藤原惺窩の消息
- 慶應義塾:藤原惺窩筆書状
- 揖斐高:寛政異学の禁と学制改革(日本学士院、2023)
- 国立国会図書館:伊勢物語・源氏物語
- BnF:Le Mercure françois
- 国立国会図書館:家康の政策(駿府への移動)
情報確認日:2026年10月12日

