大帝国が崩れ、日本が生まれ変わる|7世紀、ユーラシアを走った変革の波

649年の教義論争と教会会議を表す創作イメージ 大学受験歴史

問題1:西アジアの帝国とイスラーム共同体
(1) 590〜628年にササン朝を治め、7世紀初めに東ローマ帝国との戦争で領土を大きく広げた王は誰ですか?
(2) 642年、ササン朝軍がアラブ軍に大敗し、イラン高原への征服が進む転機となった戦いは何ですか?
(3) ムハンマドがメディナで共同体を築く過程で、同盟や都市防衛などをめぐって対立した一部部族は、何という宗教を信仰していましたか?

問題2:旅、文字、美術の交流
(1) 唐の太宗の治世に用いられた年号①と、その時期にインドへ旅をし、『大唐西域記』のもととなる見聞を伝えた僧②は何ですか?
(2) ソンツェン=ガンポの時代にインド系文字をもとに整えられたと伝えられる文字は何ですか?
(3) 法隆寺に伝わる四騎獅子狩文錦にも見られる、小さな珠を連ねた円形の枠の文様③と、唐代の多彩な釉薬を用いた陶器④は何ですか?

問題3:日本の政変と改革
(1) 645年に中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した政変⑤と、それを契機に進められた一連の政治改革は何ですか?
(2) 朝廷が土地と人民を直接支配するという、改革の原則を示す学習上の用語は何ですか?

問題4:649年のラテラノ教会会議
キリストに一つの意志を認める単意論を非難した、649年のローマの教会会議について、教皇⑥と会議名⑦を答えてください。

答えと解説:地域ごとの変化を並べる

問題 答え
1(1) ホスロー2世(フスラウ2世)
1(2) ニハーヴァンドの戦い
1(3) ユダヤ教
2(1) ①貞観 ②玄奘
2(2) チベット文字
2(3) ③連珠円文 ④唐三彩
3(1) ⑤乙巳の変/一連の改革:大化の改新
3(2) 公地公民
4 ⑥マルティヌス1世 ⑦649年ラテラノ教会会議

7世紀には、西アジアでササン朝が終わり、イスラーム勢力が拡大しました。唐では政治制度が整えられ、玄奘の旅が中央アジアとインドの知識をもたらします。チベットでは統合と文字の整備、日本では朝廷への権力集中が進みました。ローマでは、教義の決定と皇帝の政策をめぐる対立が起こります。

各地域の変化には、戦争による秩序の再編、信仰による集団の組織、文字や制度による統治という共通の論点があります。実際の接触や交流は経路と当事者を確認し、同時代の比較は各地域の事情を踏まえて読むと、因果関係が明確になります。

深掘り1:ホスロー2世とササン朝の終焉

領土の拡大と長期戦

ホスロー2世は、即位後に王位を追われ、東ローマ皇帝マウリキウスの援助で復位しました。602年にマウリキウスが殺害されると、復讐を掲げて東ローマ帝国に侵攻します。

ササン朝軍はシリア、パレスチナ、エジプトに進出し、614年にはエルサレムを占領しました。ホスロー2世の治世は、ササン朝最後の大規模な領土拡大の時期です。6世紀に国内の税制・軍制を整えたホスロー1世と、7世紀初めの大遠征を進めた2世を、年代と政策で整理できます。

東ローマ皇帝ヘラクレイオスが反撃し、627年にはニネヴェ付近でササン朝軍が敗れました。628年にホスロー2世が失脚して殺害され、王位争いが続きます。長期戦の負担と王権の不安定化が、王朝の統治力を弱めました。

642年の敗戦、651年の王朝終焉

ムハンマドは632年に亡くなり、その後はカリフが共同体を指導しました。ササン朝への征服はこの時期に進み、カーディシーヤでの敗戦と首都クテシフォンの喪失を経て、王朝は重要な財政・軍事基盤を失います。

642年、第2代カリフ・ウマルの時代に、ニハーヴァンドでササン朝軍が大敗しました。イラン高原への征服が進む転機となり、各地で抵抗や服属の交渉が続きます。戦闘の詳しい経過や兵力は、伝承が一致せず確定しにくい点があります。

最後の王ヤズデギルド3世は東方へ移り、651年にメルヴ付近で死亡しました。642年は大規模な軍事的敗北、651年は王朝の終焉として分けて覚えます。東ローマ帝国もシリアやエジプトなどを失いましたが、コンスタンティノープルを中心とする国家は存続しました。

ササン朝の崩壊には、東ローマとの長期戦、王位争い、有力者間の対立が重なりました。アラブ軍側は征服の中で兵力と資源を組織し、旧支配層の一部を取り込んで勢力を広げました。戦争の前後で、支配を支える財政・軍事・同盟がどう変わったかを見ることができます。

深掘り2:メディナの共同体とユダヤ教徒

622年、ムハンマドはメッカからメディナへ移住しました。ヒジュラと呼ばれるこの出来事は、信仰を中心とする共同体ウンマを組織する転機となり、イスラーム暦の紀元となりました。

メディナには、アラブ系の諸部族とユダヤ教徒の諸集団が暮らしていました。共同体の形成にあたり、防衛や相互の義務に関する取り決めが結ばれます。「メディナ憲章」と呼ばれる文書の構成や、どのユダヤ教徒の集団が参加したかについては、研究上の議論があります。

その後、同盟関係や都市防衛、ムハンマドの指導権をめぐって、一部のユダヤ教徒の部族との対立が深まり、追放や武力衝突に至りました。設問の答えはユダヤ教です。対象をメディナの特定の部族に絞り、協力の取り決めと関係悪化の順をたどると、当時の政治的な状況を説明できます。

深掘り3:貞観の時代と玄奘の旅

貞観は、唐の第2代皇帝・太宗が用いた627〜649年の年号です。太宗の政治は、後世に「貞観の治」と呼ばれ、政治を考える模範として重視されました。

玄奘は仏典の原典を求め、629年ごろに長安を出発しました。河西回廊と中央アジアのオアシス、山岳地帯を通り、インドへ向かいます。ナーランダーで学び、北インドのハルシャ王とも関わりました。645年に唐へ帰国し、仏典翻訳に取り組みます。

『大唐西域記』は、玄奘の報告をもとに弟子の弁機が筆録・編集した書物です。地理、政治、宗教、風俗などが記され、7世紀の中央アジア・南アジアを知る重要な史料となりました。後世の小説『西遊記』は玄奘をモデルにし、歴史上の旅を文学へ発展させた作品です。

仏典を求める宗教的な目的が、各地の知識を唐へ伝える結果につながりました。旅の経路では、オアシス都市や僧院など、人と情報をつなぐ拠点が重要な役割を担いました。

深掘り4:吐蕃の文字と東西の工芸

チベット文字の系統と創製伝承

7世紀前半、ソンツェン=ガンポはチベット高原の勢力を統合し、吐蕃の基礎を築きました。チベット文字は北インドのブラーフミー系文字の流れを引きます。

伝承では、王の命を受けたトンミ・サンボータがインドで学び、チベット語を表す文字を整えたとされます。創製者と経緯は伝承として扱い、文字のインド系の特徴と、記録に用いられた実例を合わせて見ます。文字は外交・行政の文書を作り、後の仏典翻訳を進める基盤になりました。

連珠円文と制作地

連珠円文は、小さな珠を連ねた円形の枠に、動物、人物、狩猟などを配置する文様です。ササン朝系の意匠が中央アジアと中国で受け入れられ、東アジアの染織にも見られます。

法隆寺の四騎獅子狩文錦は、連珠円文の中に騎馬人物と獅子狩りを描いた織物で、奈良国立博物館のデータベースでは中国・唐時代の作品とされています。文様の文化的な系統と、個々の作品の制作地を分けると、各地の工房で外来の意匠が使われたことが分かります。

唐三彩と国際的な社会

唐三彩は、緑、褐色、白などの釉薬を用いた唐代の陶器です。色数は作品によって異なり、青なども使われました。7世紀後半から8世紀に発展し、馬、ラクダ、人物などの副葬品がよく知られています。

交易と人の往来が盛んな唐の社会は、工芸品の題材にも表れました。連珠円文は染織の意匠、唐三彩は陶器と施釉の技術として、それぞれの素材と技法を確認します。7世紀の交流は、染織や金銀器などを通じて受け入れられた意匠から具体的にたどれます。

深掘り5:乙巳の変と大化の改新

645年、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した政変が乙巳の変です。入鹿の父・蝦夷も自害し、蘇我氏本宗家の権力が崩れました。皇極天皇が退位し、孝徳天皇のもとで政治体制の整備が進みます。

乙巳の変を契機とする一連の改革が大化の改新です。政変の名称と、改革の総称を分けて答えます。目標は、豪族に分散していた支配を朝廷へ集め、地方行政、戸籍、土地、税、交通などを整備することでした。

公地公民は、朝廷が土地と人民を直接支配するという原則を示す学習上の用語です。具体的な制度は、7世紀後半から8世紀初めにかけて段階的に整えられました。地方豪族の権益や地域差も残り、原則と実施の経過を合わせて見ます。

『日本書紀』は646年の改新の詔を記しますが、編纂時の表現や後の制度が含まれる点には検討が必要です。地方行政改革などは実施が確実視される一方、改革全体の実態は研究が続いています。

東アジアでは唐が朝鮮半島へ軍事介入し、660年に百済、668年に高句麗が滅びました。日本は百済復興を支援し、663年の白村江で唐・新羅連合軍に敗れます。その後の防衛施設の整備と軍事・外交体制の強化は、中央集権化を進める理由となりました。国内の政変と国際的な緊張が、制度づくりに重なったのです。

深掘り6:649年ラテラノ教会会議

単意論と二つの意志

649年、教皇マルティヌス1世はローマのラテラノで教会会議を開きました。会議では、キリストに一つの意志を認める単意論が非難され、神性と人性に対応する二つの自然な意志と働きが主張されました。

451年のカルケドン公会議は、キリストの神性と人性という二つの本性を認めました。単意論は、キリストの本性をめぐる対立を調整するために唱えられた教説です。反対派は、完全な人間性には人としての意志も必要だと考えました。二つの意志は、キリストの中で調和すると説明されます。

神学者マクシモスは、会議の教義上の整理に重要な役割を果たしました。東方出身の修道士やギリシア語の文献も関わり、教義の立場を同時代の東西の人々が議論したことが分かります。

649年の教義論争と教会会議を表す創作イメージ
教会会議を表す創作画像。人物、衣装、堂内、会議の配置は図案で、649年のラテラノの実景を示す史料ではない。

教義の判断と皇帝の政策

東ローマ皇帝コンスタンス2世は、意志や働きが一つか二つかを論じることを禁じるテュポスを発し、宗教対立の沈静化を図りました。649年の会議は、この政策も批判します。教義を明確にすることと、皇帝が帝国の統一を保つことの間に対立が生じました。

マルティヌス1世は653年に皇帝側に逮捕され、コンスタンティノープルへ連行された後、黒海北岸のケルソンへ流刑となり、655年に亡くなりました。マクシモスも裁判と流刑を受けます。教義上の論争は、教皇と皇帝の権限をめぐる政治事件へ発展しました。

649年の会議は、一般に地方教会会議・シノドスとして分類されます。二つの自然な意志と働きの教義は、680〜681年の第3コンスタンティノープル公会議で確認されました。

会議名は「649年ラテラノ教会会議」と年を付けます。番号付きの「第1ラテラノ公会議」は1123年の会議を指し、649年の会議とは名称の区分が異なります。

年表:戦争、移動、制度を比較する

年 出来事
602・614 ホスロー2世の対東ローマ戦争/エルサレム占領
622 ヒジュラ、メディナでの共同体形成
627・628 ニネヴェ付近でササン朝軍敗北/ホスロー2世失脚
627〜649 唐の貞観の時代
629ごろ〜645 玄奘のインドへの旅と帰国
642 ニハーヴァンドの戦い
645・646 乙巳の変/『日本書紀』が記す改新の詔
649 ラテラノ教会会議
651 ヤズデギルド3世の死、ササン朝終焉
653・655 マルティヌス1世逮捕/流刑地での死
663 白村江の戦い
680〜681 第3コンスタンティノープル公会議

ササン朝では戦争と内紛が王朝の統治を崩し、メディナでは同盟と信仰が共同体を組織しました。玄奘の旅と工芸の交流は知識や意匠を運び、吐蕃と日本では文字・行政制度が統治を支えます。ラテラノの会議は、教義を決める権威と皇帝の政策の関係を示しました。当事者と、統合に使われた手段を比較すると、7世紀の変化を地域ごとに具体的に読めます。

参考資料