7世紀の世界史をつなぐ|ササン朝崩壊・玄奘・大化の改新・649年ラテラノ教会会議

大学受験歴史

7世紀の歴史を学ぶとき、西アジア、中国、チベット、日本、ヨーロッパを別々に覚えているだけでは、出来事の意味をつかみにくいものです。

西アジアでは、東ローマ帝国と長く争ったササン朝ペルシアが、新興のイスラーム勢力に敗れて倒壊しました。中国では唐の太宗が国力を整え、玄奘が仏典を求めてインドへ旅立ちます。チベット高原では吐蕃が統一され、日本では乙巳の変を契機に中央集権化が進められました。

さらに649年のローマでは、教皇マルティヌス1世がラテラノ教会会議を開き、東ローマ皇帝側が進めようとした宗教上の妥協策に正面から異議を唱えています。

地域は離れていますが、いずれも古い秩序が揺らぐなかで、政治権力、宗教、文字、制度を用いて、新しい統合の形を作ろうとした出来事として見ることができます。

この記事では、各問題の正答を先に確認したうえで、時代背景、出来事の因果関係、社会への影響、誤解しやすい点まで順を追って解説します。

問題1:7世紀のアジア動乱とササン朝の倒壊

7世紀の西アジアから中央アジアにかけては、新興のイスラーム勢力の拡大により、長年東ローマ帝国と抗争を続けていた大帝国が滅亡しました。

(1)6世紀後半から7世紀初頭にかけて東ローマ帝国と激しく戦い、ササン朝ペルシア最後の全盛期を築いた王は誰ですか?

(2)ササン朝ペルシアは、642年の「何の戦い」でアラブ軍に敗北し、その数年後に事実上倒壊しましたか?

(3)7世紀、メディナへ移住したムハンマドは、自らの共同体であるウンマを形成する過程で、それまでアラビア半島で勢力を持っていた「何という宗教」の教徒と対立しましたか?

問題2:知の往来と文字・技術の伝播

(1)唐の太宗・李世民の治世である(①)の時代、僧の(②)は仏典を求めて陸路でインドへ渡り、帰国後に当時の西域の事情を記した『大唐西域記』をまとめました。①の治世名と②の僧侶名を答えてください。

(2)7世紀初頭、チベットを統一して吐蕃を建国したソンツェン=ガンポの時代に、インド系文字をもとに作られた文字を何といいますか?

(3)ササン朝や中央アジアの美術文化は、シルクロードを通じて東アジアへ伝わりました。法隆寺に伝わる染織品にも見られる(③)文様と、唐を代表する三色陶器である(④)を答えてください。

問題3:日本の変革と中央集権化の進展

(1)645年、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した(⑤)を契機に、天皇を中心とする中央集権国家を目指して始まった一連の政治改革を何といいますか?

(2)上記の改革で示された、土地と人民を国家が直接支配するという原則を何といいますか?

問題4:649年のラテラノ教会会議

649年、教皇(⑥)はローマのラテラノで教会会議を開き、キリストには一つの意志しかないとする単意論を非難しました。本問題で第1回のラテラノ公会議とされるこの会議について、⑥の教皇名と⑦の会議名を答えてください。

  1. 正答を一覧で確認
  2. 問題1|ササン朝最後の全盛期から倒壊まで
    1. (1)の答えはホスロー2世
    2. ホスロー1世と混同しない
    3. (2)の答えはニハーヴァンドの戦い
    4. 642年に王朝が完全消滅したわけではない
    5. なぜ大帝国は急速に崩れたのか
    6. (3)の答えはユダヤ教
  3. 問題2|宗教を求める旅と文化の伝播
    1. (1)の答えは貞観と玄奘
    2. 『大唐西域記』は旅行記だけではない
    3. (2)の答えはチベット文字
    4. (3)の答えは連珠円文と唐三彩
    5. 美術の影響は一本の直線ではない
  4. 問題3|乙巳の変と大化の改新
    1. (1)の⑤は乙巳の変
    2. 一連の改革が大化の改新
    3. (2)の答えは公地公民
    4. 日本の改革を急がせた東アジア情勢
  5. 問題4|649年ラテラノ教会会議とは何か
    1. ⑥の答えはマルティヌス1世
    2. ⑦の答えは649年ラテラノ教会会議
    3. 皇帝側の「議論をやめよ」という命令にも反対した
    4. マルティヌス1世は逮捕され、流刑となった
    5. 会議の判断は後に公認された
  6. 4つの問題を一つの流れとして見る
    1. 古い秩序と新しい統合の衝突
    2. 宗教は信仰だけでなく社会を組織した
    3. 人と物と情報が国境を越えた
  7. 年代を並べて確認
  8. 間違えやすい点を整理
    1. ニハーヴァンドの戦いとササン朝の最終滅亡年
    2. 玄奘の旅と『西遊記』
    3. チベット文字と漢字
    4. 乙巳の変と大化の改新
    5. 649年会議と番号付きの第1ラテラノ公会議
  9. よくある質問
    1. ササン朝を滅ぼしたのはムハンマド本人ですか?
    2. 東ローマ帝国もササン朝と同時に滅びましたか?
    3. 連珠円文はすべてササン朝で制作されたものですか?
    4. 大化の改新で土地の私有はすぐになくなりましたか?
    5. 単意論は「キリストに人間性がない」という教えですか?
    6. 649年ラテラノ教会会議は正式な全地公会議ですか?
  10. まとめ

正答を一覧で確認

設問正答
問題1(1)ホスロー2世(フスラウ2世)
問題1(2)ニハーヴァンドの戦い
問題1(3)ユダヤ教
問題2(1)貞観 ②玄奘
問題2(2)チベット文字
問題2(3)連珠円文 ④唐三彩
問題3(1)乙巳の変、一連の改革は大化の改新
問題3(2)公地公民
問題4マルティヌス1世 ⑦649年ラテラノ教会会議

名称上の注意があります。本問題では649年の会議を「第1回ラテラノ公会議」としていますが、教会史の専門書では通常、649年ラテラノ教会会議または649年ラテラノ・シノドスと呼ばれます。番号付きの「第1ラテラノ公会議」は、一般には1123年の会議を指します。本記事では出題意図を尊重しながら、混同を避けるため「649年ラテラノ教会会議」と表記します。

問題1|ササン朝最後の全盛期から倒壊まで

(1)の答えはホスロー2世

ササン朝ペルシア最後の全盛期を築いた王は、ホスロー2世です。フスラウ2世、ホスロー・パルヴィーズとも表記されます。在位期間は590年から628年です。

ホスロー2世は即位直後に反乱によって王位を追われましたが、東ローマ皇帝マウリキウスの支援を受けて復位しました。この時点では、ササン朝と東ローマ帝国の間に協力関係が成立しています。

ところが602年、東ローマ帝国内で反乱が起こり、マウリキウスが殺害されました。ホスロー2世は旧恩人の復讐を名目として東ローマ領へ侵攻します。戦争は長期化し、ササン朝軍はシリア、パレスチナ、エジプトへ進出しました。

614年にはエルサレムを占領し、一時は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを脅かすほどの勢力を示します。領土の広さだけを見れば、ホスロー2世の時代はササン朝の最盛期でした。

しかし、領土拡大と国家の安定は同じではありません。遠征軍を維持し、広大な占領地を統治するには、莫大な費用と人員が必要です。長年の戦争によって、ササン朝も東ローマ帝国も深刻に疲弊しました。

東ローマ皇帝ヘラクレイオスが反撃に転じると、戦況は逆転します。627年、東ローマ軍がニネヴェ付近でササン朝軍を破り、翌628年にはホスロー2世が失脚して殺害されました。

ホスロー2世は、ササン朝の領土を最大級に広げた王であると同時に、長期戦によって王朝の基盤を弱めた王でもあります。最後の全盛期と倒壊の始まりが、同じ治世に重なっていたのです。

ホスロー1世と混同しない

ササン朝には、ホスロー1世という有名な王もいます。ホスロー1世は6世紀に税制や軍制の改革を進め、学問や文化を保護した名君として知られています。

一方、7世紀初頭まで東ローマ帝国と大規模な戦争を行い、ササン朝最後の全盛期を築いたのはホスロー2世です。「1世は国内改革」「2世は最後の大遠征」と分けると覚えやすくなります。

(2)の答えはニハーヴァンドの戦い

642年、ササン朝軍がイスラーム勢力のアラブ軍に大敗した戦いが、ニハーヴァンドの戦いです。ニハーヴァンドは現在のイラン西部に位置します。

ササン朝はこの戦い以前にも、カーディシーヤの戦いで敗れ、首都クテシフォンを失っていました。それでも各地の有力者や軍隊は抵抗を続けていました。

ニハーヴァンドでは、ササン朝側が各地から兵力を集めて大規模な反撃を試みました。しかし、アラブ軍との戦闘に敗れ、王朝が全国規模の軍事力を再編することは難しくなります。

この戦いは、イスラーム側の伝承で「勝利の中の勝利」と呼ばれるほど重要視されました。イラン高原の諸都市や地方勢力は、その後、個別にイスラーム勢力へ服属していきます。

642年に王朝が完全消滅したわけではない

ここで注意したいのは、ニハーヴァンドの戦いに敗れたその日に、ササン朝という国家が完全に消滅したわけではないことです。

最後の王ヤズデギルド3世は東方へ逃れ、各地の支援を得ながら抵抗を続けました。しかし、十分な兵力を集めることができず、651年にメルヴ付近で死亡します。

したがって、642年は組織的な軍事抵抗が決定的に崩れた年651年は最後の王が死亡して王朝が終焉した年として区別するとよいでしょう。

「ニハーヴァンドの戦いで即座にササン朝が消滅した」と覚えると、数年間続いた抵抗を見落とします。

なぜ大帝国は急速に崩れたのか

ササン朝の倒壊は、一度の戦いだけで説明できません。大きな原因の一つは、東ローマ帝国との長期戦です。両国は何十年にもわたって兵力と財力を消耗していました。

ホスロー2世の死後には王位争いが激しくなり、短期間に王が次々と交代します。中央政府の統制が弱まり、地方の有力者も独自の判断で動くようになりました。

疫病、重い税負担、軍事費の増加、農村の疲弊なども国家の力を奪いました。そこへ、アラビア半島を統合しつつあったイスラーム勢力が進出したのです。

イスラーム勢力が強かったというだけでなく、ササン朝が戦争と内紛によって弱体化していたことが、征服の速度を速めました。

(3)の答えはユダヤ教

設問が求める宗教名は、ユダヤ教です。

ムハンマドは622年、メッカからメディナへ移住しました。この移住をヒジュラといいます。ヒジュラは単なる避難ではなく、イスラーム共同体が政治的な組織を持つ転機になりました。

当時のメディナには、複数のアラブ系部族とユダヤ教徒の部族が暮らしていました。ムハンマドは、メッカから移住した信徒、メディナの協力者、現地の諸集団を結び付け、共同体を形成します。この共同体がウンマです。

初期の取り決めでは、ユダヤ教徒の諸集団も一定の権利と義務を持つ協力者として位置付けられていました。しかし、その後、都市防衛、同盟関係、部族間の競争、条約違反をめぐる対立が生じます。

ムハンマド側とユダヤ教徒の一部部族との関係は悪化し、追放や武力衝突に至りました。ただし、これを「宗教が違うという理由だけで、ユダヤ教徒全体を排除した」と単純化するのは適切ではありません。

ユダヤ教とイスラームが最初から全面的に敵対していたわけではなく、宗教、政治、部族関係、軍事上の事情が複雑に絡んでいました。

問題への正答はユダヤ教ですが、歴史を理解するうえでは、協力関係から対立へ変化した過程を見ることが重要です。

問題2|宗教を求める旅と文化の伝播

(1)の答えは貞観と玄奘

①は貞観、②は玄奘です。

貞観は唐の第2代皇帝である太宗・李世民の治世に用いられた年号で、627年から649年まで続きました。太宗の時代は、国内政治が比較的安定し、後世に「貞観の治」と呼ばれています。

玄奘は仏教の教えをより正確に理解するため、原典となる仏典を求めてインドへ向かいました。629年ごろに長安を出発し、河西回廊、タクラマカン砂漠周辺のオアシス都市、中央アジア、アフガニスタン方面を通ってインドへ入ります。

現代のような鉄道も整備された道路もない時代です。砂漠、山岳地帯、政治的に不安定な地域を越える旅には、大きな危険が伴いました。

玄奘はインド各地を巡り、ナーランダー僧院などで仏教学を学びます。当時の北インドでは、ヴァルダナ朝の王ハルシャが広い地域に影響力を持っていました。

645年、玄奘は多数の仏典や仏像を携えて長安へ帰還します。その後、持ち帰った仏典の翻訳に力を注ぎました。

『大唐西域記』は旅行記だけではない

玄奘の見聞をもとにまとめられた書物が、『大唐西域記』です。地理、政治、宗教、風俗、農産物、都市の様子などが記録され、7世紀の中央アジアと南アジアを知る重要な史料になっています。

学習上は「玄奘が著した」と説明されますが、厳密には、玄奘の報告を弟子の弁機が筆録・編集したとされます。

宗教的な目的で始まった旅が、広い地域の情報を唐へ持ち帰る結果となりました。玄奘は仏典だけでなく、遠い国々に関する知識も運んだのです。

(2)の答えはチベット文字

ソンツェン=ガンポの時代に整えられた文字は、チベット文字です。

ソンツェン=ガンポは7世紀前半、チベット高原の諸勢力を統合し、吐蕃の基礎を築きました。広い領域を統治するには、王の命令、法律、外交文書、宗教文書を共通の文字で記録する必要があります。

伝承では、ソンツェン=ガンポの命を受けたトンミ・サンボータがインドで文字と文法を学び、帰国後にチベット語を表す文字を整えたとされます。

チベット文字は、北インドで使われていたブラーフミー系文字の流れを引いています。唐との交流も吐蕃の文化や制度に影響を与えましたが、文字そのものを漢字から作ったわけではありません。

「唐の影響を受けた」という説明から、チベット文字が漢字系の文字だと考えないよう注意が必要です。

文字の整備は、仏典翻訳を進める基礎にもなりました。宗教の受容と国家統治が、文字を通じて結び付いた例といえます。

(3)の答えは連珠円文と唐三彩

③は連珠円文、④は唐三彩です。

連珠円文とは、小さな珠を連ねた円形の枠の中に、動物、鳥、人物、狩猟場面、植物などを配置する文様です。円の中に左右対称の動物を置く構図も多く見られます。

この装飾伝統は、ササン朝末期の美術や染織品に由来する要素を持ち、中央アジアで広く受け入れられました。交易を担ったソグド人などによって、シルクロード沿いに伝えられたと考えられています。

法隆寺に伝わる「四騎獅子狩文錦」は、連珠円文の中に騎馬人物と獅子狩りを表した染織品です。ササン朝系の王権表現や中央アジアの意匠が、唐を経て日本へ届いた文化交流の例として知られます。

唐三彩は、緑、褐色、白などの釉薬を用いた唐代の陶器です。「三彩」という名称ですが、必ず三色だけで彩られているという意味ではありません。

唐三彩には、馬、ラクダ、西方系の人物などを表した副葬品があります。そこからは、長安や洛陽に各地の商人、使節、宗教者が集まった国際的な社会の様子が見えてきます。

美術の影響は一本の直線ではない

設問では、ペルシアの絨毯装飾や細密画の技法が、法隆寺の文様や唐三彩へ影響したという流れが示されています。ただし、美術の伝播を一本の直線で結ぶ場合には注意が必要です。

一般にペルシア細密画と呼ばれる美術は、イスラーム時代、とくに後世の王朝のもとで大きく発展しました。そのため、7世紀の法隆寺染織品や唐三彩に、後世の細密画が直接影響したと説明するのは年代上無理があります。

7世紀の文化交流として捉えやすいのは、ササン朝系の連珠円文、動物文、狩猟文、金銀器、染織技術などが、中央アジアを経由して唐や日本へ広がったという流れです。

外来文化はそのまま複写されるのではありません。受け入れた土地の材料、技術、宗教、美意識に合わせて作り替えられます。文化の伝播とは、模倣だけではなく、選択と再構成の過程でもあるのです。

問題3|乙巳の変と大化の改新

(1)の⑤は乙巳の変

645年、中大兄皇子と中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺した政変を、乙巳の変といいます。「乙巳」は645年の干支に由来する名称です。

当時、蘇我氏は朝廷内で大きな権力を持っていました。とくに蘇我蝦夷と入鹿の父子は、政治の中心に強い影響力を及ぼしていました。

入鹿が暗殺された後、父の蝦夷も自害し、蘇我氏本宗家の政治的支配は崩れます。皇極天皇が退位し、孝徳天皇が即位すると、新しい政治体制の整備が始まりました。

一連の改革が大化の改新

乙巳の変を契機として進められた政治改革を、大化の改新といいます。

ここで、乙巳の変と大化の改新を同じ出来事として扱わないようにしましょう。乙巳の変は蘇我入鹿が暗殺された政変の名称です。大化の改新は、その後に進められた政治改革の総称です。

新政府は、唐の制度を参考にしながら、地方豪族に分散していた支配権を朝廷へ集めようとしました。戸籍、土地制度、税制、地方行政、交通制度などを整備し、天皇を中心とする国家を作ることが目標でした。

(2)の答えは公地公民

土地と人民を国家が直接支配するという原則を、公地公民といいます。

それまで有力豪族は、土地や人民を私的に支配していました。公地公民の原則では、土地と人民を朝廷に帰属させ、国家が戸籍を作り、土地を分配し、税や労役を課すことを目指します。

ただし、645年や646年を境に、すべての土地と人民が一斉に国家の支配下へ移ったわけではありません。地方豪族の力は残り、改革の実施には長い時間がかかりました。

また、『日本書紀』に記された改新の詔が、646年当時の内容をそのまま伝えているのか、後の律令制度を踏まえて整えられた部分があるのかについては、研究上の議論があります。

大化の改新を一日で完成した改革として覚えるのではなく、7世紀後半から8世紀初頭にかけて中央集権国家が段階的に作られたと考えることが大切です。

日本の改革を急がせた東アジア情勢

日本の中央集権化は、国内の権力争いだけから生まれたわけではありません。当時の朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が争い、唐も軍事的に介入していました。

660年に百済が滅亡すると、日本は百済復興を支援します。しかし663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北しました。668年には高句麗も滅びます。

敗戦後の日本では、唐や新羅の軍事行動に備える必要が生じました。北部九州に防人を置き、水城や山城を築き、外交と軍事を中央で統一的に運用する体制が求められます。

大化の改新から律令国家へ進む動きは、国内政治の改革であると同時に、東アジアの緊張への対応でもありました。

問題4|649年ラテラノ教会会議とは何か

⑥の答えはマルティヌス1世

649年にローマでラテラノ教会会議を開いた教皇は、マルティヌス1世です。

マルティヌス1世は649年に教皇となりました。当時のキリスト教世界では、キリストの本性と意志をどのように説明するかをめぐって、激しい論争が続いていました。

451年のカルケドン公会議では、キリストは神性と人性という二つの本性を持つとされました。しかし、この定義を受け入れない教会や地域も多く、東ローマ帝国の宗教的統一は実現していませんでした。

皇帝とコンスタンティノープルの教会指導者は、対立する諸派をまとめる妥協策を探ります。その過程で唱えられたのが、キリストには一つの意志しかないとする単意論です。

⑦の答えは649年ラテラノ教会会議

マルティヌス1世が649年10月に開いた会議が、649年ラテラノ教会会議です。英語ではLateran Synod of 649と表記されます。

会議はローマのラテラノで開かれ、西方の司教だけでなく、東方出身の修道士や聖職者も議論に関わりました。神学者マクシモスも、会議の準備と教義上の整理に大きな影響を与えたと考えられています。

会議では、キリストには神性と人性に対応する二つの自然な意志と働きがあると主張し、単意論を非難しました。

簡単にいえば、キリストが完全な神であると同時に完全な人であるなら、人としての意志も失われてはいないという考えです。ただし、二つの意志が互いに争うとしたわけではありません。人としての意志は、神としての意志と調和すると説明されました。

皇帝側の「議論をやめよ」という命令にも反対した

論争が帝国内の分裂を深めたため、東ローマ皇帝コンスタンス2世は、キリストの意志や働きが一つか二つかについて議論すること自体を禁じようとしました。この命令は「テュポス」と呼ばれます。

皇帝側から見れば、議論を止めることで宗教対立を沈静化し、帝国の統一を守ろうとしたわけです。

しかし、マルティヌス1世やマクシモスは、信仰の核心に関わる問題を政治的な命令で封じることはできないと考えました。649年の会議は、単意論だけでなく、議論を禁じた皇帝側の政策も批判します。

649年ラテラノ教会会議は、神学論争であると同時に、皇帝が宗教問題をどこまで統制できるかをめぐる政治的な対立でもありました。

マルティヌス1世は逮捕され、流刑となった

会議の決定は、皇帝コンスタンス2世の宗教政策に対する正面からの反抗と受け取られました。

マルティヌス1世は653年に皇帝側の官吏によって逮捕され、コンスタンティノープルへ連行されます。反逆者として扱われ、最終的に黒海北岸のケルソンへ流刑となり、655年に亡くなりました。

マクシモスも後に逮捕され、裁判と流刑を受けています。宗教上の言葉をめぐる論争が、教皇や修道士の生命に関わる政治事件へ発展したのです。

会議の判断は後に公認された

649年のラテラノ教会会議は、東西の教会全体が参加した正式な全地公会議として開催されたわけではありません。そのため、一般には地方教会会議、またはシノドスとして分類されます。

しかし、そこで主張された二意志論は、680年から681年に開かれた第3コンスタンティノープル公会議で正式に確認されました。単意論は否定され、キリストには二つの自然な意志と働きがあると定められます。

649年の会議は、後に公認される教義を先んじて明確に示した重要な会議だったのです。

4つの問題を一つの流れとして見る

今回の問題は、西アジア、中央アジア、東アジア、日本、ヨーロッパを扱っています。地域だけを見れば離れていますが、三つの共通点から整理できます。

古い秩序と新しい統合の衝突

ササン朝は、東ローマ帝国との長期戦と国内の混乱によって統治能力を失いました。その一方で、イスラーム勢力は宗教共同体ウンマを基礎として勢力を拡大します。

日本では、豪族に分散していた支配権を朝廷へ集める改革が進みました。吐蕃では、統一国家の形成とともに文字が整えられます。

ローマでは、皇帝が宗教論争を政治的に収めようとする一方、マルティヌス1世は教義上の判断を皇帝の命令に従属させない姿勢を示しました。

宗教は信仰だけでなく社会を組織した

イスラームのウンマは、信徒の集まりであると同時に、政治と軍事を担う共同体でした。玄奘の旅は仏教への情熱から始まりましたが、結果として唐へ膨大な地理情報をもたらします。

チベット文字は、仏典翻訳と国家統治の双方に用いられました。ラテラノ教会会議では、教義の定義が皇帝と教皇の権限争いにつながっています。

7世紀の宗教は、現代人が考える個人の信仰だけではありませんでした。法律、外交、教育、記録、戦争、国家統合と深く結び付いていたのです。

人と物と情報が国境を越えた

玄奘は中央アジアを通ってインドへ向かい、仏典と知識を持ち帰りました。ソグド人などの商人は、連珠円文をはじめとする美術意匠や工芸品を東西へ運びました。

649年のラテラノ教会会議にも、東方出身の修道士やギリシア語の神学文献が大きな役割を果たしています。

7世紀は、帝国同士が争った時代であると同時に、人、宗教、文字、技術、文献が地域を越えて移動した時代でした。

年代を並べて確認

  • 602年:ホスロー2世が東ローマ帝国との大規模戦争を開始
  • 614年:ササン朝軍がエルサレムを占領
  • 622年:ムハンマドがメディナへ移住するヒジュラ
  • 627年:唐で貞観の時代が始まる
  • 627年:東ローマ軍がニネヴェ付近でササン朝軍を破る
  • 628年:ホスロー2世が失脚し、ササン朝の内紛が深まる
  • 629年ごろ:玄奘が長安を出発
  • 642年:ニハーヴァンドの戦い
  • 645年:玄奘が唐へ帰国
  • 645年:日本で乙巳の変
  • 646年:改新の詔が出されたとされる
  • 649年:マルティヌス1世がラテラノ教会会議を開催
  • 651年:ヤズデギルド3世が死亡し、ササン朝が終焉
  • 653年:マルティヌス1世が皇帝側に逮捕される
  • 663年:白村江の戦いで日本軍が敗北
  • 680~681年:第3コンスタンティノープル公会議が単意論を否定

間違えやすい点を整理

ニハーヴァンドの戦いとササン朝の最終滅亡年

ニハーヴァンドの戦いは642年です。最後の王ヤズデギルド3世が死亡したのは651年です。642年を軍事的崩壊の決定打、651年を王朝の終焉として区別します。

玄奘の旅と『西遊記』

小説『西遊記』の三蔵法師は玄奘をモデルにしています。ただし、孫悟空や猪八戒が登場する物語は後世の文学作品です。歴史上の旅は『大唐西域記』などから確認します。

チベット文字と漢字

吐蕃は唐と交流しましたが、チベット文字の系統はインド系です。唐との交流があったことと、文字が漢字をもとに作られたことは同じではありません。

乙巳の変と大化の改新

蘇我入鹿暗殺の政変が乙巳の変です。その後に進められた改革が大化の改新です。設問に両方の答えを求める表現がある場合は、二つを分けて答えます。

649年会議と番号付きの第1ラテラノ公会議

出題上は649年の会議を「第1回ラテラノ公会議」と呼ぶ場合があります。しかし、教会史で番号付きの「第1ラテラノ公会議」といえば、通常は1123年の会議です。

649年の出来事を答案以外の文章で説明するときは、「649年ラテラノ教会会議」と年を付けると誤解を避けられます。

よくある質問

ササン朝を滅ぼしたのはムハンマド本人ですか?

いいえ。ムハンマドが亡くなったのは632年です。ササン朝への本格的な征服は、その後の正統カリフ時代に進みました。ニハーヴァンドの戦いは、第2代カリフであるウマルの時代の出来事です。

東ローマ帝国もササン朝と同時に滅びましたか?

東ローマ帝国はシリアやエジプトなどをイスラーム勢力に奪われましたが、国家そのものは存続しました。首都コンスタンティノープルを中心に、一般にビザンツ帝国と呼ばれる国家として1453年まで続きます。

連珠円文はすべてササン朝で制作されたものですか?

いいえ。文様の伝統はササン朝系ですが、中央アジアや中国などの工房でも制作されました。文様の起源と、個々の織物の制作地は分けて考える必要があります。

大化の改新で土地の私有はすぐになくなりましたか?

すぐに完全消滅したわけではありません。公地公民は国家が目指した原則ですが、現実には豪族の権益や地域差が残りました。制度は長い期間をかけて整えられました。

単意論は「キリストに人間性がない」という教えですか?

単純に人間性を否定したわけではありません。キリストの神性と人性を認めながら、意志は一つであると説明しようとした考えです。反対派は、人としての完全性を認めるなら、人としての意志も認める必要があると主張しました。

649年ラテラノ教会会議は正式な全地公会議ですか?

一般には正式な全地公会議には数えられず、ローマで開かれた教会会議またはシノドスと位置付けられます。ただし、そこで示された二意志論は、後の第3コンスタンティノープル公会議で正式に確認されました。

まとめ

問題1の正答は、ホスロー2世、ニハーヴァンドの戦い、ユダヤ教です。問題2は、貞観、玄奘、チベット文字、連珠円文、唐三彩です。問題3は、乙巳の変、大化の改新、公地公民です。

問題4は、教皇マルティヌス1世と649年ラテラノ教会会議です。出題上「第1回ラテラノ公会議」とされる場合がありますが、1123年の番号付き第1ラテラノ公会議との混同を避けるため、年を付けて覚えるのが安全です。

7世紀の歴史では、西アジアの大帝国が倒れる一方、イスラーム共同体が拡大しました。唐からインドへ玄奘が旅をし、チベットでは国家と文字が整えられ、日本では中央集権化が進みます。ローマでは、教皇が皇帝の宗教政策に異議を唱えました。

人物名と年号だけでなく、「誰が人々をまとめ、どの宗教・文字・制度を用い、何に対抗したのか」を見ると、離れた地域の出来事が一つの世界史としてつながります。