白村江の敗北から、日本はどう律令国家を築いたのか|東アジア再編の時代

唐で学ぶ留学生と文人の交流を表す創作イメージ 大学受験歴史

問題1:律令国家の形成と東アジアの再編
(1)672年の壬申の乱に勝利し、天皇を中心とする政治の仕組みを整えた天皇は誰ですか。また、その皇后として即位し、694年に藤原京へ遷都した天皇は誰ですか?
(2)新羅は唐と結んで百済・高句麗を滅ぼした後、唐との戦いを経て676年にどの範囲を統一しましたか。また、661年にダマスクスを首都として成立したイスラーム王朝は何ですか?

問題2:奈良時代の政治と帝国間の接触
(1)743年、開墾地の永久私有を条件付きで認めた法令は何ですか。また、764年の藤原仲麻呂の乱の後、称徳天皇に重用され、宇佐八幡宮神託事件で皇位との関係が問題になった僧は誰ですか?
(2)751年、中央アジアで唐軍がアッバース朝側の軍に敗れた戦いは何ですか。また、翌752年に東大寺で行われた大仏の儀式は何ですか?

問題3:歴史編纂と国際交流
(1)712年に成立した現存最古の日本の歴史書と、720年に成立した漢文・編年体の正史は何ですか。また、遣唐留学生として入唐し、玄宗に仕え、李白や王維とも交流した日本人は誰ですか?
(2)玄宗の治世前半の安定した政治は何と呼ばれますか。また、732年にフランク王国の宮宰カール=マルテルが、イベリア半島から北上したウマイヤ朝の軍を破った戦いは何ですか?

答えと解説:国家の仕組みと同時代の世界

設問 答え
1(1) 天武天皇・持統天皇
1(2) 朝鮮半島の大同江以南を中心とする地域・ウマイヤ朝
2(1) 墾田永年私財法・道鏡
2(2) タラス河畔の戦い・大仏開眼供養
3(1) 古事記・日本書紀・阿倍仲麻呂
3(2) 開元の治・トゥール・ポワティエ間の戦い

7世紀後半から8世紀にかけて、日本では国防、法、都城、歴史編纂を通じて国家の仕組みが整いました。朝鮮半島の勢力図が変わり、唐とイスラーム勢力は中央アジアで接触します。日本の制度づくりと、同時代の交流・戦争を並べて読むと、国内政治が置かれた環境も見えてきます。

深掘り1:白村江の敗戦と国家形成

663年の敗戦後に進んだ国防

660年、唐と新羅によって百済が滅ぼされました。倭は百済復興勢力を支援して出兵し、663年の白村江の戦いで唐・新羅側に敗れます。友好国の復興をめざした軍事行動の失敗と、半島における唐の進出は、列島の朝廷にとって国防上の大きな課題でした。

664年には筑紫の水城、665年には大野城・基肄城が築かれ、防人や烽火の整備も進みました。人員、食料、資材を集め、各地の防衛拠点を支えるには、朝廷と地域を結ぶ動員の仕組みが必要になります。国防と統治制度の整備は、こうして結びついていました。

中央集権化の取り組みは、645年以降の政治改革など、敗戦以前から続いています。白村江の敗戦は、進行中の改革に軍事的な緊張を加えました。天智朝の近江遷都や戸籍整備も、この時期の政治・国防の中に位置づけられます。

天武・持統朝から大宝律令へ

天智天皇の死後、672年に皇位継承をめぐる壬申の乱が起こりました。勝利した大海人皇子は、翌673年に天武天皇として即位します。天武朝では官人の組織や氏族の秩序が整えられ、681年に律令と国史の編纂が始まりました。

天武天皇の皇后だった持統天皇は、その政策を受け継ぎます。689年には飛鳥浄御原令が施行され、694年には藤原京へ遷都しました。「天皇」の称号と「日本」の国号も、7世紀後半から8世紀初めの国家形成に関わります。採用の正確な時期や使用の広がりには、史料に基づく議論が残っています。

藤原京は条坊道路で区画され、宮、官衙、寺院、宅地などを備えた都でした。儀礼の場と官人が働く空間を計画的に配置することで、朝廷の政治が都市の形に表れます。文武天皇の時代の701年には大宝律令が制定され、中央・地方の行政や身分、刑罰などを定める法体系が整いました。

律令国家の形成は、法典、戸籍、税、官人、都城を組み合わせて進んだ過程です。法の制定後も、土地の開発や税負担、地域支配の課題に応じて制度が運用・調整されました。

深掘り2:新羅の統一とイスラーム勢力の拡大

新羅は唐と結び、660年に百済、668年に高句麗を滅ぼしました。その後は旧百済・高句麗地域の支配をめぐって唐と争い、676年までに大同江以南を中心とする支配を確立します。学校でいう「新羅の朝鮮半島統一」は、この範囲を指します。

北方には698年に渤海が成立し、旧高句麗地域などに勢力を広げました。半島南部の新羅と北方の渤海が並存する時代には、日本もそれぞれと外交関係を持ちます。百済の滅亡から新羅・渤海との交渉へと、朝廷の外交相手は変化しました。

西アジアでは661年にウマイヤ朝が成立し、ダマスクスを首都としました。領域の拡大はその後の数十年間に進み、711年には配下の軍がイベリア半島へ渡ります。東方では中央アジアにも進出し、都市や交易路をめぐる各地の勢力との関係が重要になりました。

750年にアッバース朝がウマイヤ朝に代わって成立し、翌751年には唐軍とのタラス河畔の戦いが起こります。唐、新羅、渤海、イスラーム諸勢力の変化を年表に並べると、外交と交易が複数の政治勢力の間で行われていたことがわかります。

深掘り3:奈良時代の土地政策と仏教

墾田永年私財法の目的と条件

710年に平城京へ遷都し、律令に基づく政治が営まれました。土地と人口を把握し、田を班給して租税を集める制度のもとで、農地を増やすことは国家の重要な課題でした。743年の墾田永年私財法は、開墾への意欲を高めるため、新たな墾田の永久私有を認めた法令です。

開墾には国司の許可などの手続きがあり、位階に応じた所有面積の制限も定められました。永久私有を認められた土地にも、租を納める義務がありました。所有の継続と免税は、制度上それぞれ別の問題です。

資金や人手を集められる貴族・寺院は、大規模な開発を進めました。墾田の私有は初期荘園の形成につながり、のちの土地制度にも影響します。免税や国司の立ち入りをめぐる権利は、その後の政治や制度の変化を通じて広がっていきました。

752年の大仏開眼供養

聖武天皇の時代には、疫病、飢饉、政治不安が重なりました。仏教によって国を守る国家鎮護の考えから、741年に国分寺・国分尼寺建立の詔、743年に大仏造立の詔が出されます。大仏の鋳造は749年に終わり、752年に東大寺で開眼供養が行われました。

開眼は仏像を礼拝の対象として迎える儀式です。インド出身の僧・菩提僊那が導師を務めました。聖武天皇、行基、良弁、菩提僊那は、東大寺で大仏造立に関わる「四聖」として伝えられています。金を塗る作業などは開眼後も続きました。

大仏造立には銅や金、燃料、木材、多くの技術者と労働力が必要でした。朝廷の事業と行基らの勧進によって支えられ、資材調達や労働は各地の人々の負担にもなります。国家鎮護の理念と、造立を支えた物資・人員の両方が、この事業の歴史です。

道鏡と皇位をめぐる政治

道鏡は孝謙上皇に重用された僧です。764年、藤原仲麻呂が武力で政権を握ろうとして敗れると、孝謙上皇は称徳天皇として再び即位しました。乱を鎮圧したのは上皇側の勢力で、その後の政権で道鏡の地位が上がり、766年には法王となります。

769年には、道鏡を皇位につけることをめぐる宇佐八幡宮神託事件が起こりました。『続日本紀』は、宇佐へ派遣された和気清麻呂が、皇位は皇族が継ぐべきだという神託を持ち帰り、処罰されたと記します。事件の記述には編纂時の政治的立場が関わり、道鏡や称徳天皇の意図は史料の性格を踏まえて検討されています。

770年に称徳天皇が亡くなると、道鏡は失脚しました。仏教者の権威、天皇の支持、貴族の政治力、皇位継承が交わった事件として整理すると、僧の名前と権力争いの関係を理解しやすくなります。

深掘り4:歴史書と海を越えた知識

712年に成立した『古事記』は、神話、天皇の系譜、物語、歌謡などを収める、現存最古の日本の歴史書です。720年の『日本書紀』は、漢文・編年体で編まれた国家の正史で、持統天皇の時代までを扱います。

両書の編纂は、天武朝から進んだ歴史の整理と関わります。皇室の由来や国家の過去を示すことには、支配の正統性を説明する意味がありました。神話や古い時代の記述は、伝承の成立と編纂の目的を考え、考古資料や他の史料とも照合して読まれています。

717年に遣唐留学生として唐へ渡った阿倍仲麻呂は、科挙に合格し、朝衡の名で玄宗に仕えました。李白や王維との交流は、遣唐使の外交に加え、留学生が唐の官人・文人社会に参加したことを伝えます。仲麻呂自身は帰国を果たせず、唐で生涯を終えました。

遣唐使と帰国した留学生・僧は、法、漢文、仏教、技術などを列島へ伝えました。唐には中央アジアや西アジアの人々も来訪しており、その文化は唐や朝鮮半島を経由して日本へ届きます。正倉院の宝物にも、広域の交流と関わる意匠が見られます。

唐で学ぶ留学生と文人の交流を表す創作イメージ
留学生が唐で知識を学び、人々と交流した様子を表す創作画像。人物の容貌、衣装、建築、文字は図案で、阿倍仲麻呂や李白・王維の実像を示す資料ではない。

深掘り5:開元の治、タラス、トゥール・ポワティエ

玄宗の治世前半、開元年間を中心とする安定した政治は「開元の治」と呼ばれます。長安には各地の使節、商人、留学生が集まりました。治世後半には政治状況が変わり、755年の安史の乱によって唐の支配は大きく揺らぎます。

751年のタラス河畔の戦いでは、唐軍がアッバース朝側の軍に敗れました。中央アジアには在地の政治勢力もあり、戦いはその地域の支配と同盟関係の中で起こっています。

中国人捕虜が製紙法をサマルカンドへ伝えたという話は、11世紀ごろの文献に現れる後世の伝承です。紙はタラス以前から中央アジアで使われていました。戦いに参加した捕虜が技術伝播に果たした役割は確定しておらず、製紙の西方への普及は、交易と各地の製造の広がりを含む過程として研究されています。

732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでは、フランク王国の宮宰カール=マルテルが、イベリア半島から北上したウマイヤ朝の軍を破りました。この勝利はカールの勢力と名声を強めます。後世には宗教対立の節目としても語られましたが、遠征の目的や規模、長期的な影響の評価には議論があります。

人物と年号をつなぐ整理

人物・時期 主な出来事
天智朝 663年の白村江敗戦後、防衛施設や戸籍を整備
天武朝 672年の壬申の乱に勝利。681年に律令・国史の編纂開始
持統朝 689年の飛鳥浄御原令、694年の藤原京遷都
文武朝 701年の大宝律令制定
聖武天皇の時代 743年の墾田永年私財法・大仏造立の詔。752年、退位後に大仏開眼供養
孝謙上皇・称徳天皇の時代 764年の仲麻呂の乱と重祚、道鏡の台頭、769年の神託事件

日本の国家形成を追う軸は、国防、法と行政、土地と租税、仏教、歴史編纂です。同時代の世界を見る軸は、勢力の交代、外交、交易、知識の移動。各地域の出来事をこの二つの軸でつなぐと、年号と制度名に具体的な意味が加わります。

参考資料