問題1:聖職叙任権闘争の終結
11世紀後半から続いたローマ教皇と神聖ローマ皇帝による聖職者の任命権をめぐる争いは、12世紀前半に一つの妥協点に達しました。
(1)1122年、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間で、皇帝が聖職叙任権を事実上放棄することで妥協が成立した協約を何といいますか。
(2)この協約以降、教皇権はさらに強化され、12世紀末に即位して「教皇は太陽であり、皇帝は月である」という言葉を残した人物によって絶頂期を迎えました。その教皇は誰ですか。
問題2:東欧の動向とキエフ国家
9世紀にノルマン人のルーシによって建国されたキエフ公国(キエフ国家)は、11世紀から12世紀にかけて独自の社会構造を深めていきました。
(1)10世紀末にビザンツ帝国の皇女との結婚を機にギリシア正教を国教としたキエフ大公は誰ですか。
(2)出典資料によると、11世紀のキエフ公国において、貴族による大土地所有とともに進展した、農民を土地に縛り付ける社会制度は何ですか。
問題3:中国の王朝交代と「靖康の変」
12世紀前半、中国では北方の新興勢力によって統一王朝が崩壊する事件が起きました。
(1)1125年、燕雲十六州の奪還を目指す北宋と結んで遼を滅ぼしましたが、その後北宋とも対立し、1126年にその都を陥落させたツングース系女真の国は何ですか。
(2)1127年、上記(1)の国によって北宋の上皇・徽宗や皇帝・欽宗が連行され、北宋が滅亡した事件を何と呼びますか。
(3)北宋の滅亡後、皇帝の弟・高宗が江南へ逃れて再興した王朝を何といいますか。また、その都が置かれた臨安は現在のどこにあたりますか。
問題4:日本の院政と「治天の君」
12世紀前半の日本は、白河上皇から引き継がれた院政が定着し、武士が中央政界で実力を蓄え始めた時期です。
(1)白河上皇のあと、1129年から崇徳・近衛・後白河天皇の3代にわたって院政を展開し、皇室の家長である「治天の君」として権勢を振るった上皇は誰ですか。
(2)この上皇の近臣として仕え、瀬戸内海などの海賊平定で功績を挙げ、西国武士を組織して、のちの平氏躍進の基礎を築いた人物は誰ですか。
最初に答えを確認する
4問を貫く重要な流れは、従来の支配者が単純に勝ち続けたのではなく、宗教権力との妥協、異文化の受容、外敵による王朝の南遷、上皇による天皇の統御という形で、権力の位置と仕組みが組み替えられたことです。
| 問題 | 設問 | 答え |
|---|---|---|
| 問題1 | (1) | ヴォルムス協約 |
| 問題1 | (2) | インノケンティウス3世 |
| 問題2 | (1) | ウラディミル1世(ヴラジーミル1世) |
| 問題2 | (2) | 農奴制 |
| 問題3 | (1) | 金 |
| 問題3 | (2) | 靖康の変 |
| 問題3 | (3) | 南宋、臨安は現在の浙江省杭州市 |
| 問題4 | (1) | 鳥羽上皇 |
| 問題4 | (2) | 平忠盛 |
年代だけを見ると、1122年のヴォルムス協約、1125年の遼滅亡、1127年の北宋滅亡、1129年の鳥羽上皇による院政開始が、短い期間に続いています。
ただし、これらの出来事に直接の因果関係があるわけではありません。同じ時期に、ヨーロッパ、東欧、中国、日本で、それぞれ異なる事情から支配の仕組みが変化していたと整理すると、地域をまたいだ年代の理解がしやすくなります。

問題1:ヴォルムス協約は皇帝と教皇の役割を分けた
答えはヴォルムス協約とインノケンティウス3世
問題1(1)の答えはヴォルムス協約です。1122年、教皇カリストゥス2世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の間で成立しました。
問題1(2)の答えは教皇インノケンティウス3世です。1198年に教皇となり、13世紀初頭の教皇権を代表する人物として知られています。
聖職叙任権闘争では何を争っていたのか
争点となった聖職叙任権とは、司教や修道院長などの高位聖職者を、その職に就ける権限です。中世ヨーロッパの司教は宗教上の指導者であるだけでなく、広い土地や収入を管理する有力者でもありました。
そのため、皇帝にとって司教の人事は政治支配の重要な手段でした。自分に従う人物を司教にできれば、世襲の領主とは異なる有力な協力者として利用できたからです。
一方、教会改革を進める教皇側は、俗人である皇帝が聖職を与えることを問題視しました。聖職者の任命を教会自身が管理しなければ、教会が世俗権力の道具になってしまうと考えたのです。
ヴォルムス協約は一方的な皇帝の敗北ではない
協約では、皇帝が司教に指輪と司教杖を授ける宗教的な叙任を断念し、聖職者の選出を教会側へ委ねる方向が示されました。指輪と司教杖は、司教の宗教的権威を象徴する品です。
ただし、皇帝の関与が完全になくなったわけではありません。地域による違いはありますが、皇帝は選挙への立ち会いや、領地・世俗的権利を示す笏の授与を通じて、一定の政治的影響力を残しました。
「皇帝が聖職者人事に一切関われなくなった」と覚えると不正確です。宗教的な職務を与える権限と、土地や政治的権利を認める権限を分けた妥協として理解する必要があります。
ヴォルムス協約は何を変えたのか
この協約によって、皇帝が教会を直接統制する従来の仕組みには歯止めがかかりました。教皇と皇帝の権限が完全に分離されたわけではありませんが、教会が世俗権力から独立した組織として動く余地が広がります。
その後の教皇は、国王や皇帝の上に立つ普遍的な宗教権威を主張しました。その到達点を象徴する教皇として挙げられるのがインノケンティウス3世です。
「教皇は太陽、皇帝は月」の意味
インノケンティウス3世は、教皇の権威と王権の関係を太陽と月になぞらえました。太陽が自ら光を放ち、月がその光を受けるように、王権は教皇権から威厳を受けるという考え方です。
この比喩は、教皇が宗教問題だけを扱うという立場ではなく、世俗の君主に対しても上位の権威を持つと主張したことを示します。インノケンティウス3世は王位継承問題への介入や、第4回十字軍の提唱、第4ラテラノ公会議の開催などを通して強い影響力を発揮しました。
ただし、「教皇は太陽であり、皇帝は月である」という日本語は、文書の内容を簡潔に表した定型的な訳・要約として使われています。現代の演説のように、その一文だけを独立して発言したと考えるより、教皇権と世俗権の関係を説明した比喩として理解するのが適切です。
同時代の流れ
11世紀から12世紀の西ヨーロッパでは、教会改革によって聖職売買や聖職者の妻帯などが批判され、教会組織の規律が整えられていました。聖職叙任権闘争も、この改革運動の一部です。
一方で、都市と商業が成長し、王権も新しい行政制度を整え始めていました。教皇権の強化だけでなく、イングランドやフランスなどで領域国家の基礎が築かれていた点も見落とせません。

問題2:キエフ国家はビザンツ文化を受け入れ、農業社会へ変化した
答えはウラディミル1世と農奴制
問題2(1)の答えはウラディミル1世です。日本語ではヴラジーミル1世、ウラジーミル1世と表記されることもあります。
問題2(2)の教科書的な答えは農奴制です。大土地所有が進み、農民の一部が領主への依存を強め、移動や自由を制限されていく社会変化を指します。
キエフ国家はどのように成立したのか
キエフ国家は、東ヨーロッパの河川交通を利用した交易と軍事活動を背景に形成されました。建国に関わった「ルーシ」は、一般にスカンディナヴィア方面から進出したノルマン系集団と説明されます。
彼らは、ドニプロ川などを通じてバルト海方面と黒海・ビザンツ帝国を結ぶ交易路を押さえました。やがて現地の東スラヴ人などと融合し、リューリク朝を支配者とする国家が成長します。
なお、「キエフ・ルーシ」や「キエフ国家」という名称は、後世の歴史学で用いられる呼称です。当時の人々が現代の国境と同じ意味で一つの国名を使っていたわけではありません。
ウラディミル1世はなぜギリシア正教を受け入れたのか
ウラディミル1世は10世紀末、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚し、ビザンツ系のキリスト教を受け入れました。伝統的には988年の改宗と集団洗礼が重要な節目とされています。
改宗には宗教的な意味だけでなく、政治的な利点もありました。ビザンツ皇帝家との婚姻によって、キエフ大公は国際的な権威を高められます。
また、地域ごとに異なる神々を信仰していた人々を、共通の宗教のもとにまとめる効果も期待できました。教会組織や聖職者を通して、文字文化や統治制度を広げることもできます。
改宗によって広がったビザンツ文化
キリスト教の受容後、キエフ国家にはビザンツ系の聖堂建築、宗教画、典礼、文字文化が伝わりました。キリル文字文化の普及も、東方正教会圏との結び付きの中で進みます。
これは単に宗教が変わったという出来事ではありません。キエフ国家が、西方のラテン・カトリック世界ではなく、コンスタンティノープルを中心とする東方キリスト教世界との結び付きを深めた選択でした。
ただし、1054年の東西教会分裂より前から交流はありました。988年の時点で、現在と同じ形に分かれた「ギリシア正教」という組織へ加入したと考えると、時代の順序が曖昧になります。
試験では「ギリシア正教を国教とした」と答えて問題ありませんが、歴史的には「ビザンツ系キリスト教を受容し、のちの東方正教会圏につながった」と捉えると、より正確です。
大土地所有と農奴制はどのように関係するのか
キエフ国家では、交易や貢納を基盤とした社会から、土地と農業生産の支配を重視する社会への変化が進みました。大公、諸公、貴族、教会などが大土地を所有し、農民から労働や貢納を受け取るようになります。
この過程で、借金や保護関係などを通して、有力者への依存を深める農民が現れました。教科書では、農民が土地に縛られて領主の支配を受ける農奴制の進展として説明されます。
しかし、11世紀のキエフ国家の農民が、すべて同じ身分の農奴になったわけではありません。自由農民、一定期間だけ債務に拘束された人、奴隷に近い立場の人など、法的・社会的地位には違いがありました。
当時の法典『ルースカヤ・プラウダ』にも、複数の身分や依存関係が記されています。そのため、地域全体に完成された一律の農奴制が成立していたと断定するより、農奴化や領主への従属が進んでいた段階と理解するのが安全です。
キエフ国家が分裂へ向かった理由
キエフ国家は11世紀のヤロスラフ賢公の時代に繁栄しましたが、その後は一族による領土分割や継承争いが続きました。各地の諸公が自立性を強め、キエフ大公の統率力が弱まります。
さらに、地中海方面へ向かう交易路の重要性が変化し、地方都市が独自に成長しました。こうして12世紀には、キエフを中心とする単一の支配より、複数の公国が並び立つ状態へ移っていきます。
のちにモンゴル軍が侵入したことは大きな打撃となりましたが、国家の分裂はモンゴル侵入より前から進んでいました。「モンゴル軍によって突然分裂した」と覚えないことが重要です。

問題3:靖康の変で北宋は滅び、政治の中心が江南へ移った
答えは金、靖康の変、南宋と杭州
問題3(1)の答えは、女真が建国した金です。完顔阿骨打が1115年に建国し、急速に勢力を拡大しました。
問題3(2)は靖康の変です。1127年、金軍が北宋の徽宗・欽宗をはじめとする皇族や官僚らを北方へ連行し、北宋が滅亡しました。
問題3(3)は南宋で、都の臨安は現在の中国浙江省杭州市にあたります。
金はなぜ短期間で遼を滅ぼせたのか
金を建てた女真は、中国東北部に居住していた人々です。当初は契丹人の遼に服属していましたが、遼の支配に反発し、阿骨打のもとで自立しました。
当時の遼では皇帝権力が弱まり、政治的な混乱も生じていました。女真軍は高い機動力と軍事力を持ち、遼の支配下にあった諸勢力も取り込んで勢力を広げます。
北宋は、遼に支配されていた燕雲十六州を回復するため、金と同盟しました。北宋が南から、金が北から遼を攻める構想です。
しかし、実際には金軍が遼攻略の中心となり、1125年に遼を滅ぼしました。北宋軍の弱さや内部事情を知った金は、今度は北宋に圧力をかけるようになります。
「遼を一緒に倒した金が裏切った」だけでは足りない
金と北宋の対立は、単純な感情的裏切りではありません。燕雲十六州の引き渡し、歳幣、遼の残存勢力の扱いなどをめぐり、両国の利害が衝突しました。
北宋側では、金との軍事力の差を十分に認識しないまま、遼の旧勢力を取り込もうとする動きもありました。金は北宋が協定を守っていないと判断し、1125年末から大規模な侵攻を始めます。
金軍は北宋の都・開封を包囲しました。いったん講和が成立したものの、北宋内部では抗戦と和平の方針が定まらず、金軍は再び南下します。
靖康の変では何が起きたのか
1127年、金軍は開封を占領し、上皇の徽宗、皇帝の欽宗をはじめ、多数の皇族、官僚、宮廷関係者を北方へ連行しました。これが靖康の変です。
「靖康」は欽宗の年号で、靖康元年が1126年、靖康2年が1127年にあたります。そのため、金軍による開封包囲から皇族連行までを、1126~1127年の出来事として説明する資料もあります。
問題文にある「1126年に都を陥落させた」という表現は、包囲・開城・再侵攻のどの段階を指すかに注意が必要です。北宋王朝の滅亡と徽宗・欽宗の連行を決定づけた年は1127年です。
南宋を建てた高宗は欽宗の弟ではない
北宋滅亡後、徽宗の第9子で、欽宗の弟にあたる趙構が皇帝に即位しました。これが南宋初代皇帝の高宗です。
問題文の「皇帝の弟」という部分は、欽宗の弟という意味です。高宗自身が「皇帝の弟」という名の役職だったわけではありません。
高宗は金軍の追撃を避けながら各地を移動し、最終的に江南を支配の中心としました。1138年には臨安を実質的な首都とし、南宋の政権基盤を整えます。
臨安は現在の杭州です。「臨安」という名称は、北方の旧都・開封の回復を諦めていないという建前から、恒久的な首都ではなく一時的な行在所として扱ったこととも関係します。
北宋の滅亡は中国全体の滅亡ではない
靖康の変で滅んだのは、宋王朝の北方を中心とする政権、すなわち北宋です。宋の皇族と官僚機構の一部は江南へ移り、南宋として約150年間存続しました。
南宋の領土は北宋より狭くなりましたが、長江下流域を中心とする農業、手工業、海上交易は発展します。政治的には北方を失った王朝でも、経済と文化が一方的に衰退したわけではありません。
杭州は大都市へ成長し、南宋宮廷では絵画や工芸、学問も栄えました。朱熹が大成した朱子学も南宋期の重要な知的成果です。

問題4:鳥羽上皇の院政が平氏台頭の土台をつくった
答えは鳥羽上皇と平忠盛
問題4(1)の答えは鳥羽上皇です。白河法皇が1129年に死去した後、院政の主導権を握りました。
問題4(2)の答えは平忠盛です。平清盛の父であり、鳥羽上皇の近臣として軍事・財政の両面で地位を高めました。
院政とは何か
院政とは、天皇が退位して上皇や法皇となった後も、政治の実権を握る仕組みです。上皇の御所や家政機関は「院」と呼ばれたため、院による政治を院政といいます。
院政を本格的に始めたのは白河上皇です。摂関家の影響を抑え、天皇の父や祖父という立場から、院庁や院近臣を用いて政治を進めました。
ただし、院政が始まったから摂関政治が即座に消えたわけではありません。上皇、天皇、摂関家、寺社、貴族などの複数の権力が併存し、その関係が変化したと見るべきです。
「治天の君」は退位した天皇なら誰でもなれるのか
治天の君とは、皇位継承や朝廷政治を実質的に統御する皇室の家長を指す歴史学上の表現です。単に退位した天皇全員を指す言葉ではありません。
鳥羽上皇は、白河法皇の死後、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の時代に強い影響力を持ちました。自らの子や近親者を皇位に就け、荘園や人事を掌握することで、皇室内部の頂点に立ちます。
近衛天皇が若くして死去した後、誰を次の天皇にするかという問題でも、鳥羽法皇の意向が大きく働きました。最終的に後白河天皇が即位しますが、この継承は崇徳上皇側に不満を残しました。
鳥羽上皇の院政はなぜ後の争乱につながったのか
鳥羽上皇の周囲では、皇位継承に関わる複雑な対立が生じていました。崇徳上皇と後白河天皇の関係、摂関家内部の争い、院近臣の利害が重なります。
1156年に鳥羽法皇が死去すると、それまで抑えられていた対立が表面化しました。これが保元の乱につながります。
したがって、保元の乱を武士同士の争いだけとして覚えるのは不十分です。皇室の家長をめぐる問題と摂関家内部の対立に、源氏・平氏の武士が動員された争いでした。
平忠盛はなぜ鳥羽上皇に重用されたのか
平忠盛は、白河院や鳥羽院に仕えた武士です。山陽・南海方面の海賊追討などで功績を挙げ、院の秩序維持を軍事面から支えました。
当時の瀬戸内海は、西国と京都を結ぶ重要な交通路でした。海賊の取り締まりは単なる治安維持ではなく、荘園から運ばれる年貢や交易品の輸送を守る意味を持ちます。
忠盛は西国の国司を歴任し、現地武士との主従関係を広げました。さらに、瀬戸内海や博多方面につながる海上交通を利用し、日宋貿易にも関わったとされます。
こうして得た軍事力、人脈、財力が、息子の平清盛へ引き継がれました。清盛が突然一代で平氏政権を築いたのではなく、忠盛の時代から蓄えられた基盤があったのです。
「海賊を家人化した」という説明の注意点
教科書や問題集では、平忠盛が海賊を平定し、西国武士を家人化したと簡潔に説明されます。これは平氏武士団の成長を理解するうえで有効な整理です。
ただし、討伐した海賊全員をその場で家臣にしたという単純な出来事ではありません。追討活動、国司としての支配、荘園管理、在地武士との関係を通して、平氏の軍事的なネットワークが段階的に広がったと考えるべきです。
「海賊」は現代の海賊団だけを意味しません。中世の史料では、朝廷や国衙の命令に従わず、海上交通や年貢輸送を妨げる在地勢力が海賊と呼ばれることもありました。

4つの問題を同じ年表で整理する
| 年代 | 地域 | 出来事 | 何が変わったか |
|---|---|---|---|
| 988年ごろ | 東欧 | ウラディミル1世がビザンツ系キリスト教を受容 | キエフ国家が東方キリスト教文化圏と結び付く |
| 1122年 | 西ヨーロッパ | ヴォルムス協約 | 宗教的叙任と世俗的権利を分け、皇帝と教皇が妥協する |
| 1125年 | 中国北部 | 金が遼を滅ぼす | 女真の金が北方の有力国家になる |
| 1126~1127年 | 中国 | 靖康の変 | 北宋が滅び、皇族が北方へ連行される |
| 1127年 | 中国南部 | 高宗が南宋を再興 | 宋の政治的中心が江南へ移る |
| 1129年 | 日本 | 白河法皇が死去し、鳥羽上皇が院政を主導 | 鳥羽上皇が治天の君として皇位継承を統御する |
| 1138年 | 中国 | 南宋が臨安を実質的な首都とする | 現在の杭州が南宋政治の中心となる |
| 1198年 | 西ヨーロッパ | インノケンティウス3世が教皇に即位 | 教皇権が世俗君主へ強い影響力を行使する |
出来事を取り違えないための判断ポイント
宗教と政治の関係を変えたのがヴォルムス協約
ヴォルムス協約では、教皇が皇帝を完全に支配したのではありません。司教の宗教的な任命と、土地・政治権利の授与を分けることで妥協しました。
インノケンティウス3世は協約の当事者ではなく、約76年後に即位した教皇です。協約を結んだ教皇はカリストゥス2世、皇帝はハインリヒ5世と区別します。
キエフ国家の改宗と農奴化は別の論点
ウラディミル1世の改宗は10世紀末の政治・宗教上の選択です。一方、大土地所有と農民の従属は、11世紀以降の社会経済的な変化として説明されます。
二つはキエフ国家の成長過程に含まれますが、改宗によって直ちに農奴制が生まれたわけではありません。因果関係を直接つなげないようにします。
靖康の変と南宋成立は連続した出来事
靖康の変は北宋滅亡の事件名で、南宋はその後に高宗が再興した王朝名です。事件名と王朝名を入れ替えないことが基本です。
また、北宋の都は開封、南宋の都は臨安です。臨安の現在地が杭州であることまで一組で覚えると、王朝の南遷が地理的に理解できます。
鳥羽上皇と平忠盛は主従関係の役割が異なる
鳥羽上皇は院政を主導した治天の君です。平忠盛は院に仕え、軍事力や西国支配を支えた武士でした。
鳥羽上皇が政治的な主導者、平忠盛がその支配を実務と武力の面から支えた近臣と整理すると混同しません。
よくある疑問
ヴォルムス協約で聖職叙任権闘争は完全に終わったのですか
主要な争点には妥協が成立しましたが、教皇と皇帝の対立そのものが消えたわけではありません。その後もイタリア支配、皇帝選挙、教会政策などをめぐる争いが続きました。
「聖職叙任権闘争の一つの決着」と表現するのが適切です。
インノケンティウス3世はヴォルムス協約を結んだ教皇ですか
違います。ヴォルムス協約を結んだ教皇はカリストゥス2世です。
インノケンティウス3世は1198年に即位し、ヴォルムス協約後に強まった教皇権の絶頂期を象徴する人物として問われています。
ウラディミル1世の時代にロシアという国家が成立したのですか
現在のロシア連邦と同じ国家が成立したわけではありません。キエフ国家の領域と歴史は、現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアなど複数地域の歴史につながっています。
現代国家の領土や民族意識を、そのまま10世紀へ当てはめないことが大切です。
金はのちの清と同じ女真の国ですか
金を建てたのも、清の前身である後金を建てた勢力も女真系ですが、同じ時代の同一国家ではありません。12世紀の金は完顔氏が建て、13世紀にモンゴル帝国によって滅ぼされました。
17世紀の後金はヌルハチが建て、その後、国号を清へ改めています。両者の間には約400年の隔たりがあります。
鳥羽上皇は1129年に天皇を退位したのですか
鳥羽天皇が退位したのは1123年です。1129年は白河法皇が死去し、鳥羽上皇が院政の主導権を本格的に握った年として重要です。
「退位した年」と「院政を主導し始めた年」を区別します。
まとめ:12世紀前半は権力の場所と支え方が変わった
問題1の答えはヴォルムス協約とインノケンティウス3世です。協約では、皇帝が宗教的な叙任から退く一方、世俗的権利への一定の関与を残しました。
問題2はウラディミル1世と農奴制です。ビザンツ系キリスト教の受容によって東方キリスト教文化圏との関係が深まり、大土地所有の進展とともに農民の従属も強まりました。
問題3は金、靖康の変、南宋と現在の杭州です。北宋は外敵によって滅びましたが、宋王朝は江南へ移って存続し、経済と文化を発展させました。
問題4は鳥羽上皇と平忠盛です。鳥羽上皇が治天の君として院政を進め、平忠盛が西国の軍事力と財力を蓄えたことが、後の平氏政権につながりました。
覚える順序は「人物名の暗記」からではなく、誰が、どの権限を、誰から切り離したのか、あるいはどこへ移したのかを確認することです。
最後に、次の四つの動詞で整理してください。ヴォルムスでは分ける、キエフでは異文化を受け入れる、宋は南へ移る、日本では上皇が天皇を統御する。この流れを押さえれば、答えと背景を結び付けて説明できます。
参考資料
- コトバンク「靖康の変」(2026年7月18日確認)
- コトバンク「南宋」(2026年7月18日確認)
- コトバンク「平忠盛」(2026年7月18日確認)

