都市が自立し、騎士団と流行歌が生まれるまで|11〜12世紀を動かした新しい共同体

大学受験歴史

問題1:中世ヨーロッパの都市自立と「都市コミューン」

11世紀から12世紀にかけて、西ヨーロッパでは農業生産力の向上と商業の復活を背景に、中世都市が形成・発展しました。

(1)都市は封建領主から自治権を獲得し、自立を強めていきました。特に北イタリアにおいて、貴族や大商人が主導して成立し、周辺地域を併合して都市国家へと成長した自治都市を何と呼びますか?

(2)ドイツの有力都市は諸侯の支配から自立するため、皇帝から特許状を得て「帝国都市」となりましたが、こうした都市が持っていた地位は何と同じであるとされましたか?

問題2:十字軍の展開と宗教騎士団の活動

1095年のクレルモン宗教会議以降、聖地イェルサレムをめぐって十字軍の遠征が繰り返されました。この過程で、巡礼者の保護や聖地の防衛を目的とする宗教騎士団が結成されました。

(1)第1回十字軍の時期に成立し、当初は主にイェルサレムで傷病者の救護などに携わり、16世紀以降は「マルタ騎士団」とも呼ばれるようになった騎士団は何ですか?

(2)1119年ごろに設立され、聖地の防衛と巡礼者の保護を目的としてヨーロッパ各地に拠点を広げましたが、14世紀初めにフランス王フィリップ4世の攻撃を受け、解体された騎士団は何ですか?

問題3:日本の院政期文化と庶民芸能

12世紀の日本、すなわち平安時代末期は、上皇が政治の実権を握る院政の時代でした。文化面では、武士や庶民、芸能民の活力を取り込んだ新しい文化が広がりました。

(1)後白河上皇が歌詞を集めて編纂した歌謡集を『( ① )』と呼びます。この歌集に収められた流行歌謡自体の名称は何ですか?

(2)男装姿の女性が(1)の歌謡などを歌いながら舞った芸能、およびそれを演じる女性たちを何と呼びますか?

(3)補足:仏教の教えや仏・菩薩を日本語の詩歌でたたえる「和讃」は、浄土信仰の広がりとともに発展しました。今様や白拍子との違いも整理してください。

三つの問題は、一見すると別々の地域を扱っています。しかし、いずれも11〜12世紀ごろに、従来の支配や文化の枠内だけでは説明できない新しい集団と活動の場が生まれたことを示しています。

西ヨーロッパでは、商人や都市住民が領主から自治を獲得しました。十字軍国家では、修道生活と軍事・救護活動を組み合わせた宗教騎士団が組織されます。日本では、民間の歌謡や芸能が院や貴族の文化に入り込みました。

解答は、問題1(1)がコムーネ、(2)が諸侯と同じ地位、問題2(1)が聖ヨハネ騎士団、(2)がテンプル騎士団、問題3(1)が今様、①が『梁塵秘抄』、(2)が白拍子です。

設問答え押さえる一点
問題1(1)コムーネ北イタリアで成立した自治都市・都市共同体
問題1(2)諸侯と同じ地位皇帝直属となり、領邦君主に近い政治的地位を得た
問題2(1)聖ヨハネ騎士団救護活動を起源とし、のちに軍事的性格を強めた
問題2(2)テンプル騎士団巡礼者保護から始まり、1312年に教皇が正式に解散させた
問題3(1)今様/①は梁塵秘抄今様は歌謡の名称、梁塵秘抄は歌謡集の名称
問題3(2)白拍子歌舞の名称であると同時に、演者の呼称でもある

  1. 問題1の答え|北イタリアの自治都市は「コムーネ」
    1. 問題1(1)の答えはコムーネ
    2. なぜ11〜12世紀に都市が発展したのか
    3. コムーネは周辺農村も支配した
    4. コムーネから都市国家へ
  2. 問題1(2)の答え|帝国都市は「諸侯と同じ地位」
    1. 皇帝直属になることが自立につながった
    2. 帝国都市と自由都市は厳密には出発点が異なる
    3. 北イタリアとドイツでは自立の形が違う
    4. 「都市の空気は自由にする」の意味
  3. 問題2の前提|十字軍国家は継続的な人員を必要とした
  4. 問題2(1)の答え|聖ヨハネ騎士団
    1. 病院での救護活動を起源とする
    2. 救護組織から軍事組織へ変化した
    3. ロードス騎士団からマルタ騎士団へ
  5. 問題2(2)の答え|テンプル騎士団
    1. 巡礼者を武力で守るために結成された
    2. ヨーロッパの支部は補給網でもあった
    3. フィリップ4世の逮捕命令から解散まで
    4. 二つの騎士団を同じものにしない
  6. 問題3の背景|院政期には文化の担い手が広がった
  7. 問題3(1)の答え|歌謡は「今様」、歌集は『梁塵秘抄』
    1. 「今様」は当時の新しい流行歌
    2. 後白河上皇は今様を熱心に学んだ
    3. 『梁塵秘抄』は今様だけの別名ではない
  8. 問題3(2)の答え|芸能と演者を「白拍子」と呼ぶ
    1. 白拍子は歌舞と演者の両方を表す
    2. 今様を歌ったが、今様と白拍子は同義ではない
    3. 白拍子は政治社会とも無関係ではなかった
  9. 補足|和讃は仏教の教えを日本語でたたえる歌
    1. 和讃の基本的な意味
    2. 今様・白拍子・和讃の違い
  10. 三つの問題をつなぐ11〜12世紀の変化
    1. 従来の権力の外側に新しい共同体が現れた
    2. 移動を支える場所と組織が重要になった
    3. 新しい集団にも排除と支配があった
  11. 誤解しやすい点をまとめて確認
    1. コムーネは都市内の全員が平等な民主政だった?
    2. 帝国都市は神聖ローマ皇帝から完全に独立した?
    3. 聖ヨハネ騎士団は第1回十字軍で創設された軍事団体?
    4. フィリップ4世がテンプル騎士団を正式に解散させた?
    5. 今様と『梁塵秘抄』は同じもの?
    6. 白拍子は女性芸能者だけを指す?
    7. 今様・白拍子・和讃はすべて同じ歌?
  12. まとめ|答えを「成立した理由」と結びつける
  13. 参考資料

問題1の答え|北イタリアの自治都市は「コムーネ」

問題1(1)の答えはコムーネ

北イタリアで貴族や大商人などが主導し、封建領主や司教の支配から自治を獲得した都市共同体は、一般にコムーネと呼ばれます。イタリア語の「comune」は、共同体や自治体を意味する語です。

コムーネは、単に商人が集まってできた市場ではありません。都市の有力者が誓約によって結びつき、行政、裁判、徴税、軍事などを自分たちで担おうとした政治的共同体でした。

ミラノ、フィレンツェ、ピサ、ジェノヴァなど、都市ごとに成立事情や統治制度は異なります。そのため、「コムーネならすべて同じ制度だった」と考えず、北・中部イタリアに広がった自治都市の総称として理解するとよいでしょう。

なぜ11〜12世紀に都市が発展したのか

西ヨーロッパでは11世紀ごろから、農業生産がしだいに増え、人口や耕地も拡大しました。余剰農産物を交換する市場が発達し、地域間を移動する商人や専門的な手工業者の活動も活発になります。

地中海では、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの海港都市が東方との交易を伸ばしました。内陸でも街道、河川、城郭、司教座、修道院などを核として町が成長します。

ところが都市は、もともと国王、諸侯、司教、修道院などの領主権の下に置かれていました。住民は通行税、市場税、関税、裁判権などをめぐって領主の支配を受けています。

経済力をつけた都市住民にとって、領主ごとに異なる税や規制は、商取引を妨げる要因になりました。そこで都市住民は、金銭による権利の買い取り、領主との交渉、誓約団体の結成、ときには武力衝突を通じて自治権を獲得していきます。

コムーネは周辺農村も支配した

北イタリアのコムーネを理解するうえで重要なのは、城壁内だけで完結した自治体ではなかった点です。力をつけた都市は、周辺の農村や小都市を支配下に置き、都市を中心とする地域国家へ成長しました。

都市の周辺支配領域は、イタリア史でコンタードと呼ばれます。都市は周辺農村から食料や原料を確保し、街道を押さえ、競争相手となる近隣都市と戦いました。

つまりコムーネは、「領主の支配から自由になった住民全員の平等な共同体」というだけではありません。都市の有力家門が政治を握り、都市が周辺農村を支配する側に回ることもありました。

「自治都市=身分差のない民主的な都市」と考えるのは誤りです。自治権が強まっても、政治参加の範囲は限られ、貴族、大商人、商工業者の間で激しい主導権争いが起こりました。

コムーネから都市国家へ

北イタリアでは神聖ローマ皇帝の影響力が残っており、皇帝は都市に対する権利を主張しました。12世紀後半、フリードリヒ1世が北イタリアへの支配を強めると、諸都市はロンバルディア同盟を結成して対抗します。

都市同盟側は1176年のレニャーノの戦いで皇帝軍に勝利し、1183年のコンスタンツの和で自治権を広く承認されました。ただし、これで皇帝との関係が完全に断たれたわけではありません。

13世紀以降になると、都市内部では貴族勢力と商工業者層の対立、教皇派と皇帝派の争いなどが激しくなりました。混乱を抑えるため外部から行政・司法の責任者を招いたり、有力家門の一人に権力が集中したりします。

後者はシニョリーアと呼ばれる統治形態へつながりました。コムーネは固定された完成形ではなく、都市共和国や都市君主国へ変化する過程の一段階でもあったのです。

問題1(2)の答え|帝国都市は「諸侯と同じ地位」

皇帝直属になることが自立につながった

ドイツの有力都市の一部は、神聖ローマ皇帝から特許状を得て、地域の諸侯ではなく皇帝に直属する都市となりました。これが帝国都市です。

問題の答えは、帝国都市が諸侯と同じ地位を認められた、というものです。高校世界史では「皇帝直属となり、諸侯と同じ地位に立った」と整理されます。

ここでいう「同じ地位」とは、都市が世襲貴族になったという意味ではありません。領邦諸侯の支配下から離れ、都市そのものが帝国を構成する政治単位として扱われた、という意味です。

帝国都市と自由都市は厳密には出発点が異なる

歴史用語としては、もともとの帝国都市自由都市には成立経緯の違いがありました。

帝国都市は、皇帝や国王の所領に成立し、皇帝に直接義務を負った都市です。一方の自由都市は、司教の支配を受けていた司教座都市などがその支配から自立し、一定の義務を免除された都市を指しました。

しかし、時代が下るにつれて両者の区別は薄れ、まとめて自由帝国都市と呼ばれるようになります。学習問題では「帝国都市」「自由都市」「自由帝国都市」が近い意味で用いられることがありますが、成立の経路まで同一だったわけではありません。

北イタリアとドイツでは自立の形が違う

比較点北イタリアのコムーネドイツの帝国都市
主な成立基盤都市有力者の誓約共同体皇帝から与えられた特許状や直属関係
主な自立相手司教、封建領主、皇帝など地域の領邦諸侯など
政治的位置周辺農村を含む都市国家へ成長皇帝直属で、諸侯に並ぶ帝国構成員へ
注意点すべてが同一制度ではない皇帝から完全に独立したわけではない

どちらも都市の自治を示しますが、北イタリアでは都市自身が周辺を支配する都市国家へ成長した点、ドイツでは皇帝直属という法的地位を利用して諸侯から自立した点に違いがあります。

「都市の空気は自由にする」の意味

中世都市を説明する際には、「都市の空気は人を自由にする」という言葉がよく使われます。一般には、農奴が都市へ逃れ、一定期間にわたり領主から身柄を請求されずに暮らすと、自由身分を得られる慣行を示すものです。

ただし、これは全ヨーロッパで同じ時期に同じ規則が適用された、という意味ではありません。都市ごとの法や地域慣行によって条件は異なりました。

また、自由身分になったからといって、ただちに市政へ参加できたとは限りません。都市内にも富裕商人、親方、職人、日雇い労働者などの格差がありました。

問題2の前提|十字軍国家は継続的な人員を必要とした

1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で東方への軍事遠征を呼びかけました。第1回十字軍は1096年に出発し、1099年にイェルサレムを占領します。

その後、イェルサレム王国をはじめとする十字軍国家が東地中海沿岸に成立しました。しかし遠征に参加した人々の多くはヨーロッパへ戻ります。現地の支配と交通路を守るためには、一時的な遠征軍とは別の継続的組織が必要でした。

また、ヨーロッパから聖地へ向かう巡礼者は、長い移動の途中で病気、負傷、盗賊の襲撃などに遭う危険がありました。こうした救護と防衛の必要から発展したのが宗教騎士団です。

宗教騎士団は、修道士と騎士を単純に足した組織ではありません。祈りと共同生活の規律を守りながら、救護、巡礼者保護、城塞防衛、戦闘などを継続して担う国際的な宗教組織でした。

問題2(1)の答え|聖ヨハネ騎士団

病院での救護活動を起源とする

問題2(1)の答えは聖ヨハネ騎士団です。日本語ではヨハネ騎士団病院騎士団ホスピタル騎士団などとも呼ばれます。

その起源は、第1回十字軍より前の11世紀後半、イェルサレムに設けられた巡礼者用の病院にさかのぼります。アマルフィ出身の商人たちが関わった施設で、病人や困窮した巡礼者の世話が行われました。

第1回十字軍によるイェルサレム占領後、ジェラールが率いた共同体は発展し、1113年2月15日、教皇パスカリス2世の教書によって宗教団体として正式に承認されました。

「第1回十字軍の最中に騎士団が突然創設された」とだけ覚えると、成立過程を見誤ります。病院と救護共同体の起源は十字軍以前にあり、十字軍後に独立した修道会として制度化され、さらに軍事的役割を強めました。

救護組織から軍事組織へ変化した

聖ヨハネ騎士団は当初、病人や巡礼者を迎える救護活動を主要な任務としました。しかし十字軍国家の防衛状況が厳しくなると、病院や街道を守るために軍事活動も担うようになります。

騎士団は城塞の管理、防衛戦、巡礼路の警護などに関わりました。ただし、軍事化した後も救護活動が消えたわけではありません。病院運営は組織の重要な使命として残ります。

この点が、初めから巡礼者の武力保護を中心に結成されたテンプル騎士団との大きな違いです。

ロードス騎士団からマルタ騎士団へ

1291年に十字軍勢力最後の主要拠点アッコンが陥落すると、聖ヨハネ騎士団は聖地を離れました。その後キプロスを経て、14世紀初めにはロードス島を拠点とします。

この時期にはロードス騎士団と呼ばれました。ロードス島を失った後、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世からマルタ島を与えられ、以後はマルタ騎士団の名で広く知られるようになります。

したがって、「聖ヨハネ騎士団」「ロードス騎士団」「マルタ騎士団」は、まったく別の三団体ではありません。同じ歴史的系譜にある騎士団を、主な拠点や時代に応じて呼び分けた名称です。

問題2(2)の答え|テンプル騎士団

巡礼者を武力で守るために結成された

問題2(2)の答えはテンプル騎士団です。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」などと訳されます。

1119年ごろ、フランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンらが、イェルサレムへ向かう巡礼者を武力で保護するために結成したとされます。イェルサレム王ボードゥアン2世から、神殿の丘にあった建物の一部を本拠として与えられました。

西ヨーロッパのキリスト教徒は、この場所を旧約聖書のソロモン神殿跡と関連づけていました。そのため組織は「神殿」を意味するテンプルの名で呼ばれるようになります。

1129年のトロワ教会会議で正式な宗教騎士団として承認され、クレルヴォーのベルナールらの支援を受けました。構成員は清貧、貞潔、服従などを誓いながら、戦闘任務に就きます。

ヨーロッパの支部は補給網でもあった

テンプル騎士団は聖地だけで活動したわけではありません。ヨーロッパ各地に所領、農場、教会、支部を持ち、寄進された土地や資産を管理しました。

こうした拠点は、現地の戦闘員へ人員、馬、武器、食料、資金を送るための補給網として機能します。国境を越えた組織力は、十字軍国家を支えるうえで大きな役割を果たしました。

遠隔地間で資金を扱ったことから、テンプル騎士団はしばしば「銀行業の先駆者」と説明されます。たしかに預託、送金、融資に近い業務を担いましたが、現代の銀行と同じ制度を運営していたわけではありません。

「テンプル騎士団が現代銀行そのものを発明した」と断定するのは避けるべきです。広域的な資産管理と信用取引を行った点が重要であり、現代金融機関と制度上同一だったわけではありません。

フィリップ4世の逮捕命令から解散まで

1291年にアッコンが陥落すると、テンプル騎士団は聖地での主要な軍事拠点を失いました。莫大な所領と資産を保有する一方、創設時の主要任務を果たす場所が失われたため、存在意義を疑問視する声も強まります。

フランス王フィリップ4世は1307年10月13日、フランス国内のテンプル騎士団員を一斉に逮捕させました。異端行為などの容疑がかけられ、拷問を伴う取り調べで自白が集められます。

最終的には、フィリップ4世から圧力を受けた教皇クレメンス5世が、1312年の教皇勅書によって騎士団を正式に解散させました。したがって、厳密には「フィリップ4世が単独で法的に解散させた」というより、国王が逮捕と訴追を進め、教皇が正式な解散を決定したと整理するのが正確です。

騎士団の財産は原則として聖ヨハネ騎士団へ移されることになりました。ただし、実際の移管状況は地域によって異なり、各国の君主や別の騎士団が資産を得た例もあります。

二つの騎士団を同じものにしない

比較点聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団
主な起源イェルサレムの病院と救護共同体巡礼者を武力で守る騎士の共同体
教会による承認1113年1129年
初期の中心任務病人・巡礼者の救護巡礼路の警護と軍事防衛
その後ロードス、マルタへ移り存続1312年に教皇が解散

問題3の背景|院政期には文化の担い手が広がった

日本では1086年、白河天皇が譲位して上皇となった後も政治の実権を握り、院政が本格化しました。院政は、上皇の御所である院を中心に行われた政治です。

院の周囲には貴族や僧侶だけでなく、武士、僧兵、地方から来た人々、芸能を職業とする人々も集まりました。平安時代前期の宮廷文化とは異なる人間関係が形成され、民間で歌われていた歌謡や芸能が貴族社会へ入り込みます。

その代表が今様白拍子です。また、浄土信仰を分かりやすい日本語で伝える歌として和讃も発展しました。

問題3(1)の答え|歌謡は「今様」、歌集は『梁塵秘抄』

「今様」は当時の新しい流行歌

問題3(1)で問われている流行歌謡の名称は今様です。空欄①に入る歌集名は『梁塵秘抄』です。

「今様」は文字どおり「今の様式」「当世風」を意味します。平安時代中期から末期にかけて流行した新しい歌謡で、宮廷に古くから伝わる雅楽や催馬楽とは異なる、当時の人々にとっての流行歌でした。

今様を歌ったのは貴族だけではありません。遊女、傀儡女、巫女、芸能民など、各地を移動しながら歌や舞を披露する女性たちが重要な担い手となりました。その歌が都市や交通路を通じて広まり、院や貴族の文化にも受け入れられます。

後白河上皇は今様を熱心に学んだ

後白河天皇は1155年に即位し、1158年に譲位した後は上皇として院政を行いました。政治活動だけでなく、今様に熱中した人物としても知られています。

後白河上皇は、今様を単に鑑賞しただけではありません。専門的な歌い手から長年にわたって歌い方を学び、自らも歌いました。美濃国青墓の芸能者として知られる乙前から教えを受けたことも、『梁塵秘抄口伝集』に記されています。

後白河上皇が今様の歌詞を集成したものが『梁塵秘抄』です。成立時期は治承年間、1177〜1181年ごろと考えられています。

書名の「梁塵」は、優れた歌声が建物の梁に積もった塵を動かすという中国の故事に由来します。優れた歌謡を集めた秘伝の書という意味を含む名称です。

『梁塵秘抄』は今様だけの別名ではない

最も多い混同は、「今様」と『梁塵秘抄』を同じ種類の言葉として覚えてしまうことです。

今様は歌謡の形式・ジャンルの名称です。それに対して『梁塵秘抄』は、後白河上皇が今様を中心に集めた書物の名称です。

現代に置き換えれば、「流行歌」と「流行歌を集めた歌集」の違いに近いでしょう。ただし『梁塵秘抄』は歌詞を保存しただけでなく、今様の伝承や歌い方に関する口伝も含んでいたと考えられています。

もとは複数巻から成る大部の編纂物でしたが、多くが失われ、現在確認できる部分は限られています。それでも、平安末期の人々の信仰、生活感覚、遊び、諸国への関心を伝える貴重な史料です。

問題3(2)の答え|芸能と演者を「白拍子」と呼ぶ

白拍子は歌舞と演者の両方を表す

問題3(2)の答えは白拍子です。白拍子という語は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞を指すと同時に、それを演じる女性を指します。

白拍子は、立烏帽子、水干、袴、太刀など、当時の男性装束に近い姿で舞ったとされます。一般に「男装の女性芸能者」と説明されるのは、この装束によるものです。

ただし、現代的な意味で男性になりきる演劇だったと考えるのは適切ではありません。当時の舞楽や装束の伝統を取り入れた芸能上の衣装であり、現代の服装感覚をそのまま当てはめないようにします。

今様を歌ったが、今様と白拍子は同義ではない

白拍子は今様などの歌謡を歌いながら舞いました。そのため、問題では今様と白拍子が続けて問われることが多くなります。

しかし、両者は同義ではありません。今様は歌謡白拍子は歌舞および演者です。

白拍子が歌ったものをすべて今様と断定することもできません。芸能の内容や伝承は一様ではなく、朗詠、歌謡、舞など複数の要素を含んでいたと考えられます。

白拍子は政治社会とも無関係ではなかった

白拍子は貴族、上皇、武士などの前で芸能を披露し、有力者との関係を持つことがありました。『平家物語』で知られる祇王、仏御前、静御前なども、白拍子として語られる人物です。

ただし、軍記物語や後世の伝承には文学的脚色が含まれています。物語に描かれた人物像を、そのまま同時代の全白拍子の実態と考えることはできません。

白拍子の活動は、貴族文化と民間文化、都と地方、芸能と政治権力を結ぶものでした。社会の周縁に置かれることがある一方、高い芸能技術によって権力者の文化圏へ入り込んだ存在でもあります。

補足|和讃は仏教の教えを日本語でたたえる歌

和讃の基本的な意味

和讃とは、仏や菩薩、祖師の徳、仏教の教えなどを日本語の韻文でたたえる歌です。「和」は日本語、「讃」はたたえることを意味します。

漢文で書かれた経典や漢詩形式の讃に対し、一般の人々にも理解しやすい日本語で歌われた点が大きな特徴です。平安時代中期以降に作られ、浄土信仰の広まりとともに発達しました。

代表的な早期の作品としては、千観の作と伝えられる『極楽国弥陀和讃』などが挙げられます。鎌倉時代には親鸞が『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を作り、和讃の伝統を大きく発展させました。

今様・白拍子・和讃の違い

用語何を指すか主な内容・特徴誤解しやすい点
今様流行歌謡の一種宗教、生活、恋愛、遊びなど題材は幅広い歌集名ではない
梁塵秘抄後白河上皇が編纂した歌謡集今様を中心とする歌詞や伝承を保存今様そのものの名称ではない
白拍子歌舞および演者男性装束に近い姿で歌い舞う女性芸能者今様の別名ではない
和讃仏教を日本語でたたえる歌教えや仏・菩薩の徳を伝える宗教歌すべての和讃が今様として歌われたわけではない

今様には仏教を題材とする歌が多く含まれます。そのため、和讃と内容が重なる場合があります。しかし、分類の基準が違います。

今様は当時の流行歌謡としての性格を示す名称です。和讃は、仏教の教えや徳を日本語でたたえる内容・用途に基づく名称です。宗教的な今様が和讃に近い表現を持つことはあっても、両者を完全な同義語にはできません。

三つの問題をつなぐ11〜12世紀の変化

従来の権力の外側に新しい共同体が現れた

都市コミューン、宗教騎士団、今様や白拍子は、同じ制度ではありません。それでも三つの問題には、「人々の移動と交流が活発になり、新しい共同体や文化が成立した」という共通点があります。

コムーネでは、商人、貴族、法律家などが都市の自治を担う共同体を作りました。宗教騎士団では、複数地域から集まった構成員が国境を越え、共通の規則と任務の下で活動しました。

院政期の日本では、地方を移動する芸能者や宗教者が歌を広め、それを院や貴族が受け入れました。文化の流れは宮廷から民衆への一方向だけでなく、民間から宮廷へも向かっていたのです。

移動を支える場所と組織が重要になった

中世の変化を理解する鍵は、人々が単に移動したことではなく、その移動を支える場所や組織が成長したことです。

  • 都市には、市場、街道、港、同業者組織、自治制度がありました。
  • 十字軍世界には、巡礼路、港、城塞、病院、騎士団の支部がありました。
  • 院政期の日本には、院、寺社、宿場、交通路、芸能者の人的ネットワークがありました。

こうした基盤があったからこそ、商品、資金、軍事力、信仰、歌謡が広い地域を移動できました。

新しい集団にも排除と支配があった

新しい共同体の成立を、単純な「自由の拡大」だけで説明しないことも重要です。

コムーネでは有力者が都市政治を独占し、周辺農村を支配することがありました。十字軍と宗教騎士団の活動は、キリスト教側から見た聖地防衛である一方、現地のイスラーム教徒、ユダヤ教徒、東方キリスト教徒などに暴力と支配をもたらしました。

今様や白拍子の担い手も、高い技能によって有力者へ接近できた反面、身分的に不安定な立場に置かれました。文化が広がったことと、担い手が社会的に平等だったことは別問題です。

誤解しやすい点をまとめて確認

コムーネは都市内の全員が平等な民主政だった?

そうとは限りません。自治権を獲得した都市でも、政治の中心を担ったのは貴族、大商人、有力な同業組合などでした。都市内部では階層対立が続きました。

帝国都市は神聖ローマ皇帝から完全に独立した?

完全に独立したわけではありません。地域の諸侯から離れて皇帝直属となり、帝国の構成員として大きな自治権を持った都市です。皇帝や帝国に対する税、軍事、政治上の義務が残る場合もありました。

聖ヨハネ騎士団は第1回十字軍で創設された軍事団体?

救護施設の起源は第1回十字軍以前にあります。十字軍後に宗教団体として制度化され、その後、十字軍国家の防衛を担う軍事的性格を強めました。

フィリップ4世がテンプル騎士団を正式に解散させた?

フィリップ4世はフランス国内で団員の逮捕、尋問、財産の差し押さえを進めました。騎士団を教会法上正式に解散させたのは、1312年の教皇クレメンス5世です。

今様と『梁塵秘抄』は同じもの?

今様は歌謡の名称、『梁塵秘抄』は今様を中心に集めた歌謡集の名称です。「和歌」と「和歌集」の関係に近い違いがあります。

白拍子は女性芸能者だけを指す?

白拍子は演者を指すだけでなく、その歌舞自体の名称としても使われます。問題文が人物を尋ねているのか、芸能を尋ねているのかを確認しましょう。

今様・白拍子・和讃はすべて同じ歌?

同じではありません。今様は流行歌謡、白拍子は歌舞と演者、和讃は仏教を日本語でたたえる歌です。一部で内容や演唱の場が重なるため、関連づけて学ぶ必要があります。

まとめ|答えを「成立した理由」と結びつける

問題1(1)の答えはコムーネです。北イタリアで貴族や大商人などが自治を進め、周辺農村まで支配する都市国家へ発展しました。

問題1(2)は諸侯と同じ地位です。ドイツの帝国都市は皇帝直属となることで領邦諸侯から自立し、都市そのものが帝国を構成する政治単位として扱われました。

問題2(1)は聖ヨハネ騎士団です。イェルサレムの病院と救護共同体を起源とし、のちに軍事的役割も担い、ロードス騎士団、マルタ騎士団へとつながりました。

問題2(2)はテンプル騎士団です。1119年ごろに巡礼者保護を目的として結成され、広域的な所領と補給網を築きました。1307年にフィリップ4世が団員を逮捕し、1312年に教皇クレメンス5世が正式に解散させました。

問題3(1)の歌謡は今様、空欄①は『梁塵秘抄』です。問題3(2)は白拍子で、歌舞と演者の両方を指します。和讃は仏教の教えを日本語でたたえる歌であり、宗教的な今様と重なる部分はあっても同義ではありません。

覚える順序は「用語→誰が担ったか→なぜ成立したか→何と区別するか」です。答えだけでなく、都市の経済力、巡礼者を守る常設組織の必要、民間歌謡が院へ入った文化の流れまで結びつけると、類似問題にも対応しやすくなります。

参考資料