15世紀末の日本は、応仁の乱(1467〜77年)による中央権力の衰退と社会の無秩序化が進み、実力のある者が上位の者を打倒する風潮が席巻しました。
問1 1485年、山城国において、守護大名である畠山氏の度重なる内紛と戦乱に激怒した国人や地侍、農民らが大規模な団結(一揆)を起こしました。
(1) この事件の名称を答えなさい。
(2) この一揆において、人々は畠山両軍(政長・義就)の撤退のほかにどのような要求を掲げましたか、2つ挙げなさい。また、この一揆の結果、国人たちの「月行事(36人衆)」を中心とするどのような統治が何年間続きましたか。
問2 1488年、加賀国において、浄土真宗(一向宗)の門徒や国人たちが一味同心の同盟を結んで守護の富樫政親を滅ぼし、約1世紀に及ぶ自治支配を確立しました。
(1) この大規模な宗教一揆の名称を答えなさい。
(2) この一揆の精神的支柱となり、越前国の吉崎(吉崎御坊)を拠点に平易な『御文(おふみ)』を用いて布教を進め、日本最大の宗教団結を育て上げた本願寺第8世の門主は誰ですか。
(3) この門主は、後に畿内へと戻り、摂津国の淀川河口部にある要衝に独自の寺内町を築きました。のちに織田信長との間で11年間にわたる死闘(石山戦争)を繰り広げることとなる、この強大な宗教拠点の名称は何ですか。
問3 室町時代後期、このように伝統的な家柄や権威、身分秩序を否定し、実力によって上の者を追い落としてのし上がる社会的な風潮を何と呼びますか。また、この風潮が一般化し、全国の守護大名や守護代、国人らが覇権を争い始めた、15世紀末から16世紀末までの日本の激動の時代を何と呼びますか。
答えを先に整理すると、問1は山城国一揆、要求は「寺社本所領の返還」と「新関の停止」で、南山城では36人衆を中心とした自治的な支配が約8年間続きました。
問2は加賀の一向一揆、本願寺第8世の門主は蓮如、のちの大拠点は石山本願寺(大坂本願寺)です。問3は下剋上、そしてその風潮が広がった時代を戦国時代と呼びます。
この3問は別々の暗記事項ではなく、「中央の権威が弱まる→地域社会が自ら動く→新しい地域権力が生まれる」という一つの流れとして理解すると覚えやすくなります。
応仁の乱のあと、なぜ「国」が自分たちで動き始めたのか
出発点は、1467年に始まった応仁の乱です。京都を中心に約11年間続いた戦乱によって、室町幕府の統制力は大きく揺らぎました。
ただし、「幕府が弱くなったので、翌日から全国が無政府状態になった」というほど単純ではありません。守護、守護代、国人、寺社、村落など、それまで存在していた複数の勢力が、地域ごとに自分たちの利益と安全を守ろうと動き始めます。
そこで力を持ったのが国人です。国人とは、その土地に根を張った武士・領主層を指します。中央から任命された守護とは違い、現地に土地、人間関係、軍事力を持っている点が強みでした。
中央の権威という大きな傘に穴が開けば、雨にぬれる地域は自分で屋根を直さなければなりません。少々乱暴なたとえですが、15世紀末の政治状況は、なかなか立派な傘の修理大会になっていました。

問1の答え|1485年の山城国一揆
山城国一揆は畠山氏の戦争を地域から追い出した
1485年、現在の京都府南部にあたる南山城で起きたのが山城国一揆です。背景には、畠山政長と畠山義就が続けていた争いがありました。
もともと畠山氏内部の家督争いは応仁の乱とも深く関係していましたが、京都で大乱が終わったからといって、地方の戦闘まできれいに終わったわけではありません。南山城では両軍の戦いが続き、地域社会は戦場にされました。
そこで国人や地侍、農民らが集まり、両軍に対して山城から退くよう求めます。ここが山城国一揆の大きな特徴です。
単に「農民が年貢に怒って蜂起した」という一揆ではありません。地域の戦争そのものを終わらせ、自分たちで地域秩序を立て直そうとした動きとして見る必要があります。
要求されたのは「寺社本所領の返還」と「新関の停止」
問題では、畠山両軍の撤退以外に二つの要求を答えるよう求めています。受験では、次の組み合わせで押さえてください。
- 寺社本所領の返還……寺社や本所が持っていた所領を本来の状態へ戻すこと
- 新関の停止……新しく設けられた関所をなくすこと
「関所くらい小さな話では?」と思うかもしれませんが、中世社会では話が違います。関所を通るたびに負担が増えれば、人や物資の移動に直接響きます。
山城国一揆を「偉い武将を農民が追い出した事件」とだけ覚えると、問題の核心を外します。戦争の停止に加えて、土地支配と交通・経済の秩序を立て直そうとした点まで見ておきたいところです。
36人衆を中心に約8年間の自治的支配が続いた
畠山両軍が撤退すると、南山城では国人たちによる自治的な政治が行われました。その中心として知られるのが36人衆です。
彼らは「月行事」などの役割を担いながら地域の運営にあたり、一揆の自治体制は約8年間続きました。1485年に始まり、1493年に終わったと整理すると年代関係もつかみやすくなります。
ここには、後の戦国社会を理解する重要な変化があります。守護という「上から与えられた支配者」だけが政治を行うのではなく、地域に基盤を持つ人々が連合して秩序をつくったのです。

問2の答え|1488年の加賀一向一揆
富樫政親を倒した加賀の一向一揆
山城国一揆から3年後の1488年、今度は加賀国で大きな政治変動が起こります。これが加賀の一向一揆です。
加賀では浄土真宗本願寺の門徒と地域の国人らが結びつき、守護富樫政親と対立しました。1488年、富樫政親は高尾城で敗死し、以後の加賀では本願寺門徒を含む地域勢力が政治に大きな力を持つようになります。
教科書では「百姓の持ちたる国」「約100年間の自治」と表現されることがあります。ただし、現代の民主自治体のような制度が約100年間そのまま続いた、と考えるのは正確ではありません。
富樫氏の一族が守護として擁立された時期もあり、本願寺系寺院、国人、門徒など複数の勢力が関わっていました。受験では「1488年に守護富樫政親を倒し、加賀で一向一揆勢力が長期にわたって支配的な力を持った」と理解するのが安全です。
精神的な結びつきを広げた本願寺第8世・蓮如
この時代の本願寺教団を語るうえで欠かせない人物が蓮如(1415〜1499年)です。本願寺第8世で、衰えていた本願寺教団を大きく発展させた人物として知られています。
蓮如は越前国の吉崎を重要な布教拠点とし、門徒へ分かりやすく教えを伝える『御文(おふみ)』を用いました。難しい教義を専門家の言葉だけに閉じ込めず、多くの人へ伝えたことが教団拡大につながります。
ただし、ここで一つ区別しておきたい点があります。蓮如を「1488年の加賀一向一揆を直接指揮して富樫政親を倒した軍事指導者」と捉えるのは適切ではありません。
蓮如は一向一揆の単純な軍事司令官ではなく、急速に拡大した本願寺門徒の宗教的結集を支えた人物として理解してください。

吉崎から大坂へ|蓮如と石山本願寺の成立
蓮如は吉崎を退去したのち畿内へ戻り、山科本願寺などを拠点として教団を発展させました。そして1496年、大坂に坊舎を建てます。
この大坂の拠点が発展して、のちに石山本願寺(大坂本願寺)と呼ばれる本願寺教団の強大な拠点になりました。大阪市の資料でも、1496年に蓮如が現在の大阪城付近に坊舎建立を始めたことが確認できます。
大坂は淀川水系や瀬戸内方面との交通に結びつく要地でした。宗教拠点であると同時に、多くの人々が集まる寺内町が形成されていきます。
ただし、問題文の時間関係には少し注意が必要です。蓮如自身が織田信長と戦ったわけではありません。蓮如は1499年に亡くなっており、信長との石山戦争が始まるのは1570年です。
石山本願寺は蓮如の後継者たちの時代にさらに発展し、第11世顕如の時代に織田信長と戦いました。石山戦争は1570年から1580年まで続いたため、一般に「11年間の戦い」と数えられます。
歴史は人物名がずらりと並ぶので、ときどき全員が同じ会議室にいたような錯覚を起こします。しかし、蓮如と信長の間には世代差があります。ここを分けると、年代問題にも強くなります。

山城・加賀・大坂を地図でつなぐと流れが見える
この単元は、地名を地図で見ると理解が急に楽になります。
山城国は現在の京都府南部を中心とする地域、加賀国は現在の石川県南部を中心とする地域です。蓮如が布教拠点とした吉崎は越前国北部に位置し、加賀にも近い場所でした。
その後の本願寺の中心を追うと、吉崎から畿内へ戻り、京都の山科本願寺を経て、最終的に大坂の石山本願寺が大拠点になります。
つまり地図上では、「南山城で地域自治が生まれる動き」と「北陸で本願寺門徒が巨大な政治勢力になる動き」が同時代に進み、やがて畿内の戦国政治へつながっていく姿が見えてきます。
問3の答え|下剋上と戦国時代
下剋上とは「下の者が上の者を押しのける」だけではない
問3の最初の答えは下剋上です。文字どおり考えれば、下位の者が上位の者をしのいで実権を握る動きを指します。
しかし、受験日本史で下剋上を理解するときは、単なる「成り上がり武将」の話に限定しないほうがよいでしょう。
守護代が守護をしのぐこともあれば、国人が守護から自立することもあります。山城国一揆や加賀一向一揆のように、従来の支配関係そのものが地域社会から揺さぶられる動きも、同じ時代背景の中で理解できます。
15世紀末から16世紀末へ続く戦国時代
こうした動きが各地で進み、守護、守護代、国人などが独自の地域権力を形成して争う時代が戦国時代です。
戦国時代の始まりと終わりをどこに置くかには学説上の幅があります。受験では、15世紀後半から末に社会秩序の変化が鮮明になり、16世紀を通じて戦国大名が領国支配を進め、全国統一へ向かっていく大きな流れを押さえてください。
「応仁の乱→山城国一揆・加賀一向一揆→下剋上→戦国大名の台頭」という因果の流れをつかめば、単語を一個ずつ暗記するより忘れにくくなります。
山城国一揆と加賀一向一揆の違い
| 比較 | 山城国一揆 | 加賀一向一揆 |
|---|---|---|
| 年 | 1485年 | 1488年 |
| 地域 | 南山城 | 加賀国 |
| 主な勢力 | 国人・地侍・農民など | 本願寺門徒・国人など |
| 大きな結果 | 畠山両軍を撤退させ、約8年間の自治的支配 | 守護富樫政親を倒し、一向一揆勢力が長期にわたり政治力を持つ |
| 覚える人物・組織 | 36人衆 | 蓮如・本願寺門徒 |
両者には「地域社会が従来の支配者へ抵抗した」という共通点があります。一方、山城国一揆は地域の国人を中心とした自治的な政治、加賀一向一揆は本願寺門徒という宗教的結びつきを持つ勢力が大きな役割を果たした点に違いがあります。
社会人の学び直しなら「誰が勝ったか」より「権力がどこへ移ったか」を見る
学生時代には、「1485年=山城国一揆」「1488年=加賀一向一揆」と年号カードのように覚えた方もいるでしょう。それでも試験には対応できますが、少々もったいない覚え方です。
この二つの事件が教えてくれるのは、政治権力の重心が中央から地域へ動きつつあったことです。
室町幕府や守護の権威が弱まると、地域社会がただ混乱しただけではありません。国人同士が結びつき、村落が組織され、宗教的なネットワークも政治的な力を持ち始めます。
そして、その競争の中から地域をより強く統合する戦国大名も登場しました。つまり一揆と戦国大名は、まったく別々の話ではなく、古い秩序が揺らいだ同じ社会から生まれた二つの動きとして見ることができます。
よくある疑問
山城国一揆は農民だけの一揆ですか?
いいえ。国人や地侍が重要な役割を果たし、農民も加わった地域的な連合として理解するのが適切です。「農民一揆」と一言で片づけると、36人衆による自治という特徴が見えなくなります。
加賀一向一揆は蓮如が命令して起こしたのですか?
そのように単純化するのは適切ではありません。蓮如は本願寺教団の拡大に大きな役割を果たしましたが、1488年の武力蜂起を蓮如個人が直接指揮した、と整理するのは避けたほうが安全です。
蓮如が織田信長と石山戦争を戦ったのですか?
いいえ。蓮如は1499年に亡くなっています。石山戦争は1570〜1580年で、本願寺側の中心人物は第11世の顕如です。蓮如が築いた大坂の拠点が、後世に石山本願寺として強大化した、と時間を分けて覚えましょう。
戦国時代は応仁の乱から始まるのですか?
戦国時代の開始時期には複数の見方があります。大学受験では、応仁の乱後に幕府・守護の支配が揺らぎ、15世紀後半から末に下剋上や地域権力の自立が進んだ流れを理解しておくことが大切です。
まとめ|1485・1488を「戦国時代への階段」として覚える
問1の答えは山城国一揆です。畠山両軍の撤退に加え、「寺社本所領の返還」「新関の停止」を要求し、36人衆を中心とした自治的な支配が約8年間続きました。
問2は加賀の一向一揆で、1488年に守護富樫政親が敗死します。本願寺第8世蓮如が発展させた教団は大きな社会的勢力となり、大坂の拠点は後世の石山本願寺へ発展しました。
問3は下剋上と戦国時代です。
暗記の軸は「応仁の乱で中央の統制が弱まる→地域の国人・門徒らが自立する→下剋上が広がる→戦国社会へ」です。
年代だけを見ると1485と1488はわずか3年違いですが、その3年間に近畿と北陸で、従来の守護支配を揺さぶる大事件が続きました。ここまでつながれば、戦国時代は「有名武将が突然たくさん現れた時代」ではなく、その前段階から社会そのものが組み替わっていった時代として見えてきます。
参考資料
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「山城国一揆(1485)のときに定められた『国中掟法』」(2026年8月19日確認)
- 国立国会図書館サーチ『山城国一揆―自治と平和を求めて』(2026年8月19日確認)
- 石川県立図書館(加賀一向一揆・富樫政親関係資料、2026年8月19日確認)
- 浄土真宗本願寺派「蓮如上人五百回遠忌法要についての消息」(2026年8月19日確認)
- 大阪市「津村別院・難波別院」(石山本願寺の起源、2026年8月19日確認)
- 大阪市「大阪市の歴史―タイムトリップ20,000年」(大坂本願寺・石山本願寺、2026年8月19日確認)

