1620年代、なぜ「信仰」と「戦争」が統治を揺らしたのか|グロティウス・踏絵・不受不施派

大学受験歴史

問1(グロティウスと『戦争と平和の法』)
三十年戦争の惨状に心を痛めたオランダの法学者・政治家で、国家間の紛争を規律する普遍的な自然法の存在を唱え、「国際法の父」と称される人物は誰ですか。また、彼が1625年に著した代表的な主著の名称を答えなさい。

問2(長崎での踏み絵の開始)
江戸幕府は禁教政策を徹底するため、1628年頃から長崎などで、キリストや聖母マリアなどの像を踏ませ、キリシタンを調べる方法を導入しました。この行為、または使われた板・金属製の像を何といいますか。

問3(日奥と不受不施派の弾圧)
日蓮宗(法華宗)の中で、日奥らが主張した、法華経の信仰に反する者から布施を受けず、そのような者へ布施をしないという厳格な立場を取った一派を何といいますか。

三つの問題は、ヨーロッパの国際法、日本のキリシタン政策、日蓮宗内部の宗教問題と、ずいぶん離れて見えます。

ところが年代を横に並べると、面白い共通点が見えてきます。17世紀前半は、「誰が人を従わせるのか」「宗教や国家の違いを越えて守るべき決まりはあるのか」という問題が、ヨーロッパでも日本でも鋭く問われた時代でした。

答えだけなら数十秒で覚えられます。しかし、グロティウスがなぜ戦争のルールを考え、幕府がなぜ人の信仰を調べ、日奥らがなぜ政治権力と衝突したのかまで分かると、三つの用語が一つの時代として記憶に残ります。

  1. 3問の答えを先に確認する
  2. 1620年代を横に見ると、世界で「信仰と権力」の関係が揺れていた
  3. 問1|グロティウスは、戦争にも「してよいこと・悪いこと」があると考えた
    1. 答えはグロティウスと『戦争と平和の法』
    2. 三十年戦争だけが執筆の出発点だったわけではない
    3. 「国際法の父」だが、国際法を一人で発明したわけではない
    4. 現代の国際法と同じものではないが、問いは現在にも残っている
  4. 問2|踏絵と絵踏は何が違う?1628~1629年の長崎で制度化が進んだ
    1. 物が「踏絵」、行為が「絵踏」
    2. 1628年導入と1629年の板踏絵は分けて覚える
    3. 踏ませた理由は、信仰が外から見えないから
    4. 後には毎年の確認行事として形式化した
    5. 現代とのつながりは「信教の自由」を逆側から考えさせるところにある
  5. 問3|不受不施派は「布施をしない宗派」というだけではない
    1. 答えは不受不施派、中心人物が日奥
    2. 1595年、豊臣秀吉の千僧供養が大きな対立点になった
    3. 1599年の日奥配流から1630年の身池対論へ
    4. 幕府はなぜ宗派内部の教義争いに介入したのか
  6. 三つの問題を一本につなぐと「権力の限界」が見えてくる
  7. 同時代を深掘り|イエズス会は中国と南米でも活動を広げていた
    1. 1629年の北京では、宣教師が暦の改革にかかわった
    2. 南米ではグアラニーの人々とのレドゥクシオンが広がった
  8. 同じオランダでは、ユトレヒトの画家たちが「光」を持ち帰った
  9. 1620年代を年表で整理する
  10. 試験で混同しやすい三つのポイント
    1. グロティウスはウェストファリア条約を書いた人物ではない
    2. 踏絵と絵踏は物と行為を入れ替えない
    3. 不受不施派はキリシタンではない
  11. よくある質問
    1. 「国際法の父」はグロティウスだけと覚えてよいですか?
    2. 踏絵は1628年と1629年のどちらで始まったのですか?
    3. 不受不施派は「幕府に反対する政治運動」だったのですか?
    4. 三十年戦争・踏絵・不受不施派には直接の関係がありますか?
  12. まとめ|1620年代は「誰が誰を従わせるのか」を考えると見えてくる
  13. 関連記事
  14. 参考資料

3問の答えを先に確認する

問題 答え 覚える中心
問1 グロティウス/『戦争と平和の法』 1625年。自然法を基礎に、戦争にも守るべき法があると論じた
問2 踏絵(ふみえ)/絵踏(えぶみ) 厳密には、踏ませる物が「踏絵」、踏ませる行為が「絵踏」
問3 不受不施派(ふじゅふせは) 日奥らが主張。宗教上の布施をめぐる厳格な原則を守った

ここで問2だけ、答案上の小さな注意があります。「踏絵」と「絵踏」は似ていますが、本来は同じものではありません。踏絵は踏ませる聖画像などの物、絵踏はそれを踏ませる行為です。

学校の問題では広く「踏み絵」と答えて通じることもありますが、歴史用語として区別できれば一段深い理解になります。名前が一文字ひっくり返るだけなので、試験問題を作る側にはなかなか便利な二語です。

1620年代を横に見ると、世界で「信仰と権力」の関係が揺れていた

問1から問3を結びつける鍵は、1620年代です。

ヨーロッパでは1618年に三十年戦争が始まりました。出発点には神聖ローマ帝国内の宗派対立や政治問題があり、その後デンマーク、スウェーデン、フランスなども関与して、単純な「カトリック対プロテスタント」では説明できない国際的な戦争へ広がります。

一方、日本では1612年に幕府直轄領、1614年には全国へキリスト教禁止が広げられました。1620年代には長崎をはじめ各地で取り締まりが厳しくなり、信仰しているかどうかを権力側が確認する制度も整えられていきます。

さらに同じ日本社会で、日蓮宗内部の「不受不施」をめぐる争いも政治問題になりました。宗教上の信念を優先するのか、それとも公権力の命令に従うのか。幕府にとっては、教義だけでなく統治にかかわる問題になったのです。

ここで大事なのは、三つの出来事に直接の因果関係があると考えないことです。グロティウスが日本の踏絵を見て国際法を考えたわけでも、江戸幕府が三十年戦争を参考に宗教政策を決めたわけでもありません。

それでも同じ時代を横に見る意味はあります。国家や宗教組織が力を強めるほど、「どこまで人を従わせられるのか」という問題が表面に出てくるからです。

問1|グロティウスは、戦争にも「してよいこと・悪いこと」があると考えた

答えはグロティウスと『戦争と平和の法』

問1の人物は、オランダ出身のフーゴー・グロティウス(1583~1645)です。オランダ語名のフーゴー・デ・フロートでも知られます。

代表作は1625年にパリで刊行された『戦争と平和の法』です。ラテン語の原題は『De iure belli ac pacis』で、戦争の正当性だけでなく、戦争が始まった後に守るべき規則や、国家どうしの関係を広く論じました。

グロティウスが考えた中心の一つが自然法です。これは、ある国の王が命令したから正しい、ある宗派が命じたから正しい、というだけではなく、人間の理性や社会的性質から導かれる普遍的な正しさがある、という考え方です。

国ごとに法律が違っても、何をしてもよいわけではない。敵国との戦争になったからといって、法そのものが消えるわけでもない。ここに彼の問題意識がありました。

三十年戦争だけが執筆の出発点だったわけではない

問題文では、三十年戦争の惨状とグロティウスが結びつけられています。この理解には大筋で意味があります。『戦争と平和の法』が刊行された1625年には、1618年に始まった三十年戦争が続いており、グロティウス自身も著作の序文で、キリスト教世界の戦争に節度が失われていることを問題にしていました。

ただし、「三十年戦争を見て初めて国際法を思いついた」と理解するのは単純すぎます。

グロティウスは三十年戦争より前の1604年ごろから、海上交易、戦争、国家間の権利に関する法的問題を研究していました。つまり1625年の著作は、それまで約20年にわたって考えてきた問題を、同時代の大戦争のさなかに大きく組み直した仕事と見るほうが正確です。

「国際法の父」だが、国際法を一人で発明したわけではない

グロティウスは伝統的に「国際法の父」と呼ばれます。『戦争と平和の法』が後世の国際法思想に大きな影響を与えたためです。

ただし、父という呼び名は「それ以前には何もなかった」という意味ではありません。スペインのビトリアやスアレス、イタリア出身のアルベリコ・ジェンティーリなど、戦争や国家間の法について考えた先行者がいました。グロティウス自身も、それ以前の神学、ローマ法、自然法論などを広く利用しています。

ですから試験では「グロティウス=国際法の父」でよいのですが、歴史としては先行する議論を大規模にまとめ、国家を越える法の体系として強く提示した人物と捉えると実像に近づきます。

現代の国際法と同じものではないが、問いは現在にも残っている

現在の国際法は、国際連合憲章、条約、国際慣習法などによって成り立っており、17世紀のグロティウスの議論をそのまま使っているわけではありません。

それでも、「戦争になったら法律は終わりなのか」「国家より上の絶対的な世界政府がなくても、国家を拘束するルールは成立するのか」という問いは、今も国際法の重要な問題です。

グロティウスの価値は、現代国際法を完成させたことではなく、国家が武力を持っていても「力があること」と「何をしてもよいこと」は同じではない、と体系的に考えようとした点にあります。

問2|踏絵と絵踏は何が違う?1628~1629年の長崎で制度化が進んだ

物が「踏絵」、行為が「絵踏」

問2の基本的な答えは踏絵です。ただし用語を厳密に分けると、キリストや聖母マリアなどの聖画像を描いた板・金属板などが「踏絵」、それを人に踏ませる行為が「絵踏」です。

「踏み絵をする」という言い方が現代では広く使われるため混ざりやすいのですが、物と行為を分けておくと資料を読むときに迷いません。

1628年導入と1629年の板踏絵は分けて覚える

長崎歴史文化博物館に関する公的な解説では、1628年(寛永5年)にキリスト教由来の絵を踏ませる方法が導入されたと整理されています。

翌1629年には長崎奉行となった竹中重義のもとで取り締まりが強化されました。長崎県の公式観光資料では、1629年にキリシタンから没収した金属製の聖像などを板にはめた「板踏絵」が作られたと説明されています。

そのため、「踏絵は1628年か1629年か」と数字だけで争うより、1628年ごろに導入され、1629年の長崎で板踏絵の整備と取り締まり強化が進んだと時系列で理解するほうが分かりやすいでしょう。

踏ませた理由は、信仰が外から見えないから

キリスト教を禁止する法令を出しても、人の心の中までは見えません。教会を壊し、宣教師を追放しても、家庭や地域の中でひそかに信仰を続ける人はいました。

そこで権力側は、聖なるものを踏ませることで信仰の有無を確かめようとします。

信者にとってキリストや聖母の像は、ただの板や金属ではありません。それを足で踏む行為そのものに宗教的な意味を持たせ、棄教したことを外から確認しようとしたわけです。

現在の感覚で「踏めば終わりなのだから簡単では」と考えると、この制度の本質を見落とします。信仰とは本人にとって、物理的な動作だけで切り離せるものとは限らないからです。

後には毎年の確認行事として形式化した

絵踏は初期にはキリシタン摘発と棄教を迫る厳しい取り締まりの中で行われました。その後、長崎では毎年行う宗教確認の仕組みとして定例化していきます。

この変化も重要です。制度は同じ名前でも、最初から最後まで同じ意味で運用されたとは限りません。初期の激しい迫害の段階と、後に年中行事のように定例化した段階を分けて見る必要があります。

なお、東京国立博物館に伝わる長崎奉行所関係の踏絵には、後世に作られた真鍮製のものもあります。したがって、博物館で見る現存品をそのまま「1628年に使われた最初の踏絵」と考えるのも注意が必要です。

現代とのつながりは「信教の自由」を逆側から考えさせるところにある

踏絵制度から現代の信教の自由が直接生まれた、という因果関係はありません。

しかし、国家が個人に対して「何を信じているか証明せよ」と迫り、特定の宗教行為を強制した歴史を見ると、信仰や良心を公権力がどこまで扱えるのかという問題がはっきり見えてきます。

歴史を学ぶ価値の一つは、現在ある制度を「昔から当然にあったもの」と思わずに済むことです。

問3|不受不施派は「布施をしない宗派」というだけではない

答えは不受不施派、中心人物が日奥

問3の答えは不受不施派です。中心人物として知られるのが、京都妙覚寺の日奥(1565~1630)でした。

言葉を分けると理解しやすくなります。

「不受」は、法華経の信仰に反する者から僧侶が布施・供養を受けないこと。「不施」は、そのような宗教者などに信徒側から布施・供養をしないことを基本とします。

ですから、単純に「貧しい人への寄付を全部禁止する宗派」という意味ではありません。ここで問題となった布施は、宗教的な関係を認める行為でもありました。

1595年、豊臣秀吉の千僧供養が大きな対立点になった

日奥の立場が政治問題として大きく表面化したのは、江戸幕府成立より前です。

1595年、豊臣秀吉が京都の方広寺大仏殿で千僧供養を行う際、諸宗派の僧に出仕を求めました。日蓮宗内では、秀吉の命令に応じるべきかどうかが問題になります。

日奥は、法華経を信じない者から供養を受けることになるとして出仕を拒みました。ここで宗教上の原則と政治権力の命令が正面からぶつかります。

これは「礼儀として式典へ出るかどうか」という程度の話ではありません。日奥側から見れば教義そのものの問題であり、権力側から見れば公的な命令に従うかどうかという統治問題でした。

1599年の日奥配流から1630年の身池対論へ

1599年、徳川家康のもとで不受不施をめぐる対論が行われ、日奥は公命に反したとして対馬へ流されました。その後1612年に赦免され、1623年には不受不施の立場がいったん公認されます。

ところが宗門内部の対立は終わりませんでした。

1630年には江戸城で、身延山側の受不施派と、池上本門寺などの不受不施側による身池対論が行われます。幕府の裁定によって不受不施側は敗れ、関係する僧たちが処罰されました。

日奥自身は裁定直前に亡くなっていましたが、再び対馬流罪を命じられたため、「死後の流罪」とも説明されます。

幕府はなぜ宗派内部の教義争いに介入したのか

不受不施派を「幕府が嫌った異端宗派」とだけ説明すると、少し足りません。

江戸幕府は寺院や宗派を統治の枠内へ組み込み、宗教集団が独自の政治勢力になることを警戒していました。その状況で、宗教上の理由から公権力の命令を拒む集団が存在すれば、幕府側には単なる教義論争では済まない問題に見えます。

一方、不受不施派にとっては、「幕府が命じたから教義上許されないことまで行う」という選択はできません。

不受不施派の弾圧を「幕府対宗教」という単純な一対一の構図にしないことが大切です。日蓮宗内部の受不施派との論争、寺院統制、公命への服従という複数の問題が重なっていました。

三つの問題を一本につなぐと「権力の限界」が見えてくる

ここまで来ると、三問の共通点が見えてきます。

グロティウスが考えたのは、戦争を行う国家にも従うべき法があるのではないか、という問題でした。

踏絵では反対に、国家権力が人の信仰へどこまで入り込み、外から証明を求めるのかが問題になります。

不受不施派の場合は、宗教上の原則と公権力の命令が衝突したとき、どちらを優先するのかが争点になりました。

出来事 中心となる問い 権力との関係
グロティウス 戦争中の国家にも法は及ぶのか 国家権力にも規範上の限界があると考える
絵踏・踏絵 国家は個人の信仰をどこまで調べられるのか 権力が信仰の確認へ深く介入する
不受不施派 教義と公命が衝突したらどうするのか 宗教的原則を守る集団と政治権力が衝突する

三者の立場はまったく同じではありません。それでも、17世紀前半を「国家や宗教組織の力が強まる一方、その力の限界も問われた時代」として眺めると、丸暗記だった三問がつながります。

同時代を深掘り|イエズス会は中国と南米でも活動を広げていた

1629年の北京では、宣教師が暦の改革にかかわった

日本でキリスト教徒への取り締まりが厳しくなっていたころ、中国の明では別の展開が起きていました。

イエズス会士たちは、宗教だけでなく天文学、数学、暦法などの西洋知識を伝え、明朝の知識人と協力します。1629年には徐光啓の働きかけもあり、イエズス会士の天文学知識が暦改革に利用されることになりました。

ヨハン・シュレックやアダム・シャールらが、この事業にかかわります。

同じ1629年前後でも、長崎ではキリスト教が摘発の対象となり、北京ではイエズス会士の科学知識が国家事業に利用されていたわけです。

「アジアではキリスト教が弾圧された」と一括するだけでは、この違いを説明できません。宗教と国家の関係は、地域の政治事情や宣教師が担った役割によって大きく変わりました。

南米ではグアラニーの人々とのレドゥクシオンが広がった

さらに南米へ目を移すと、イエズス会はパラグアイ管区でグアラニーの人々を中心とした宣教村を形成していました。一般にレドゥクシオンと呼ばれる集住型の宣教共同体です。

パラグアイ管区が設置された1609年以降、現在のパラグアイだけでなく、アルゼンチン、ブラジルなどにまたがる広い地域へ宣教村のネットワークが形成されていきました。

ここで「アスンシオンに巨大な一つの宣教村があった」と理解するのは避けたいところです。アスンシオンを含むスペイン植民地社会と関係しながら、宣教村そのものは広いグアラニー居住地域へ分布しました。

また、レドゥクシオンを「宣教師が先住民を一方的に救った理想郷」とする説明にも注意が必要です。グアラニー側にも、スペイン人入植者による労働徴発やポルトガル系の奴隷狩りから身を守る事情がありました。一方で、宣教村ではキリスト教への改宗や生活の再編も進められています。

歴史は「善い側と悪い側」に二色で塗ると簡単ですが、人間社会はだいたい、もう少し色数の多い絵の具箱を使っています。

同じオランダでは、ユトレヒトの画家たちが「光」を持ち帰った

グロティウスが『戦争と平和の法』を書いていたころ、オランダでは絵画にも新しい流れが生まれていました。

ローマで活動したヘラルト・ファン・ホントホルスト、ヘンドリック・テル・ブルッヘン、ディルク・ファン・バビューレンらの画家は、強い明暗対比や人物を画面近くに置く表現を学び、ネーデルラントへ戻りました。こうした画家たちは一般にユトレヒト・カラヴァッジスティ、日本語ではユトレヒト派などと呼ばれます。

ホントホルストは1620年にユトレヒトへ戻り、ろうそくや灯火を使った夜景、音楽を楽しむ人々などを描いて高い評価を得ました。

この流れは、後のオランダ絵画の豊かな明暗表現を考えるうえでも重要です。アムステルダムで活躍したレンブラントはイタリアへ行っていませんが、オランダ国内へ入った新しい明暗表現から影響を受けました。

フェルメールについても、ユトレヒト派との関係を単純な師弟関係として説明することはできませんが、バビューレンの作品がフェルメールの絵の室内背景に描き込まれるなど、実際の作品を通じた接点が確認できます。

つまり1620年代のオランダでは、戦争と法を考える知識人がいる一方、ローマから新しい光の表現を持ち帰る画家もいました。政治史の教科書と美術史の教科書を閉じた瞬間に、彼らの世界が分裂したわけではありません。

1620年代を年表で整理する

出来事 理解のポイント
1618 三十年戦争が始まる 宗派・帝国政治・王朝間対立が重なった長期戦争へ
1620 ホントホルストがローマからユトレヒトへ帰る イタリアで学んだ劇的な明暗表現が北方へ広がる
1623 不受不施がいったん公許される 宗門内対立はその後も続く
1625 グロティウス『戦争と平和の法』刊行 国家間の戦争を法によって規律する構想
1628 長崎で絵踏の導入 禁教下で信仰を確認する手段が強化される
1629 長崎で取り締まり強化/北京で暦改革が進む 同じキリスト教でも国家との関係が地域で異なる
1630 身池対論、不受不施派に幕府の厳しい裁定 宗派内部の教義問題が政治的統制と結びつく

試験で混同しやすい三つのポイント

グロティウスはウェストファリア条約を書いた人物ではない

グロティウスの主著は1625年、三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約は1648年です。

グロティウスを「ウェストファリア条約を作った国際法学者」と覚えるのは避けましょう。彼は後にスウェーデンの外交官として活動しましたが、『戦争と平和の法』と1648年の講和条約は別のものです。

踏絵と絵踏は物と行為を入れ替えない

踏絵=物、絵踏=行為。この一組です。

答案で「絵踏」と答えるべき設問か、「踏絵」という器物名を聞いているのかは問題文を確認してください。ただし一般的な高校日本史では「踏絵」の語が広く使われるため、両方をセットで覚えておくのが安全です。

不受不施派はキリシタンではない

踏絵と不受不施派は、どちらも江戸幕府の宗教政策と関係するため混同しやすいのですが、宗教そのものが違います。

キリシタンはキリスト教徒です。不受不施派は日蓮宗の内部から生まれた宗教運動でした。

共通するのは「幕府の宗教統制と衝突した」という点であって、同じ宗派だったわけではありません。

よくある質問

「国際法の父」はグロティウスだけと覚えてよいですか?

試験答案では「グロティウス」で問題ありません。ただし学問の歴史では、ビトリア、スアレス、ジェンティーリなど多くの先行者がいます。「一人で国際法を発明した」という意味ではない、と理解しておきましょう。

踏絵は1628年と1629年のどちらで始まったのですか?

今回確認した公的資料では1628年に導入、1629年に長崎奉行竹中重義のもとで取り締まりが強化され、板踏絵が作られたと整理できます。教材によって「1629年ごろ」とまとめる場合もあるため、年だけでなく制度化の過程として覚えるのが安全です。

不受不施派は「幕府に反対する政治運動」だったのですか?

それだけではありません。出発点は布施をめぐる宗教上の教義です。ただし、その教義を理由に公権力の命令へ従わない場面が生じたため、幕府側からは政治的な統治問題としても扱われるようになりました。

三十年戦争・踏絵・不受不施派には直接の関係がありますか?

直接の因果関係は確認できません。三つを結ぶのは「1620年代前後に、宗教・戦争・国家権力の関係が各地で問い直された」という比較の視点です。因果関係ではなく、同時代を横断して理解するための軸と考えてください。

まとめ|1620年代は「誰が誰を従わせるのか」を考えると見えてくる

問1の答えはグロティウスと『戦争と平和の法』です。1625年、三十年戦争が続くヨーロッパで、戦争にも法と節度が必要だという議論を体系化しました。

問2は踏絵・絵踏です。1628年ごろから長崎で導入が進み、1629年には板踏絵の整備とキリシタン取り締まりの強化が確認できます。「踏絵=物、絵踏=行為」と分けると混同しません。

問3は不受不施派です。日奥らは宗教上の原則を守ろうとし、その姿勢が公権力への服従を求める政治秩序と衝突しました。1595年の千僧供養問題から1599年の配流、1630年の身池対論までを一本につなげると流れが分かります。

その同じ時期、中国ではイエズス会士が天文学を通じて明朝の暦改革に参加し、南米ではグアラニーの人々との宣教村が広がり、オランダではローマ帰りの画家たちが新しい明暗表現を持ち帰っていました。

年号を一つずつ覚えるだけでは、世界史と日本史は別々の箱に入ってしまいます。次にこの三問を見るときは、「1620年代」という横線を一本引き、国家・宗教・個人の間で、何をルールにするのかが争われた時代として思い出してみてください。

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参考資料