問1(ルターの宗教改革とレオ10世)
(1) 1517年、ドイツのヴィッテンベルク大学教授であったマルティン・( ① )が『( ② )』を発表し、贖宥をめぐる教会のあり方に異議を唱えました。①と②に入る人名・語句を答えなさい。
(2) この宗教改革の直接のきっかけとなったのは、メディチ家出身のローマ教皇( ③ )が、教会の総本山サン・ピエトロ大聖堂の改築資金を集めるために、ある証明書の販売を許可したことでした。この罪が許されるとされた証明書の名称を答えなさい(※カトリック側の呼称「贖宥状」または「免罪符」)。
(3) ルターは「人は信仰によってのみ義とされる」とする( ④ )説や、特権的身分の聖職者を不要とする万人司祭主義を説きました。④に入る教義の名称を答えなさい。
問2(ヴォルムス帝国議会と聖書の翻訳)
(1) 1521年、神聖ローマ皇帝カール5世はルターに自説の撤回を要求しましたが、ルターはこれを拒否したため、帝国から追放処分(国外追放)を受けました。この帝国議会が開催されたドイツの都市はどこですか。
(2) 追放処分を受けたルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒの保護を受けてワルトブルク城に隠れ、信仰の唯一の拠り所とするために( ⑤ )のドイツ語訳を完成させ、これが活版印刷によって大量に普及しました。⑤に入る聖典の書名を答えなさい。
問3(急進的宗教改革と明代の思想・文芸)
(1) 【補足問題】ルターの宗教改革が各地に広まる中、外面的な教会制度や儀礼よりも、信仰者の内面に働く霊を重視した急進的・神秘主義的な改革者が現れました。シレジア出身の宗教改革者は誰ですか。
(2) 中国(明代)においては、外面的な知識や形式主義の朱子学を批判し、「心即理」や、生まれながらの善悪の判断力である「良知」を重んじる( ⑥ )学が( ⑦ )(王陽明)によって創始されました。⑥と⑦に入る語句・人名を答えなさい。
(3) 【補足問題】明代の1500年代初頭、李夢陽や何景明ら前七子は、古典を規範とする文学復古運動を展開しました。この文学派を( ⑧ )派と呼びます。⑧に入る名称を答えなさい。
1517年のルター、1521年のカール5世、そして同じ16世紀初頭の王陽明や明代の文人たち。一見すると、ヨーロッパ史と中国史のカードを無理に一つの机へ並べたようにも見えます。
ところが出来事を追うと、共通する問いが浮かびます。16世紀初頭は「誰の権威を通して真理を知るのか」が、宗教・思想・文学の各地で問い直された時代でした。もちろん、ルターと王陽明が互いに影響したという意味ではありません。同時代の別々の地域で、既存の権威や形式との緊張が表面化していた、と比較すると理解しやすくなります。
最初に答えを整理|①〜⑧と各設問の答え
| 設問 | 答え | 覚える軸 |
|---|---|---|
| 問1(1)① | ルター | マルティン・ルター |
| 問1(1)② | 95か条の論題 | 贖宥をめぐる討論の提題 |
| 問1(2)③ | レオ10世 | メディチ家出身の教皇 |
| 問1(2) | 贖宥状(免罪符) | 罪そのものを金銭で消す紙、と単純化しない |
| 問1(3)④ | 信仰義認 | 信仰によって義とされる |
| 問2(1) | ヴォルムス | 1521年の帝国議会 |
| 問2(2)⑤ | 新約聖書 | ワルトブルク城でドイツ語訳 |
| 問3(1) | カスパー・シュヴェンクフェルト | シレジアの宗教改革者 |
| 問3(2)⑥ | 陽明 | 陽明学 |
| 問3(2)⑦ | 王守仁 | 号が陽明、一般に王陽明 |
| 問3(3)⑧ | 古文辞 | 古文辞派。前七子・後七子が代表 |
設問文には、歴史的に少し補足したほうが正確な箇所があります。どれも教材や参考書でよく使われている言い方なので、そのまま覚えていた方が多いはずです。とくに「贖宥状=罪を金銭で許してもらう紙」「ヴォルムス勅令=国外追放」「ワルトブルクで聖書全巻を完成」という理解は、少し丁寧に直しておきましょう。
問1|1517年、ルターは何に異議を唱えたのか
①はルター、②は「95か条の論題」
①はマルティン・ルター、②は「95か条の論題」です。「95か条の提題」「九十五か条の論題」などの表記もあります。
1517年10月31日、ルターは贖宥をめぐる問題について討論を求め、95の論題を示しました。同じ日付のマインツ大司教アルブレヒト宛書簡も伝わっており、95か条を添えて送ったことを示す資料があります。
ただし、有名な「ヴィッテンベルク城教会の扉へハンマーで打ちつけた」という場面は、史実として確実とはいえません。歴史は絵になる場面ほど覚えやすいのですが、覚えやすさと史料の確かさは別問題です。ハンマー一振りで宗教改革開始、というほど歴史は映画の予告編のようには進みません。

③レオ10世と贖宥状|「罪を買って消す紙」ではない
③はレオ10世です。本名はジョヴァンニ・デ・メディチで、1513年に教皇となり、1521年まで在位しました。
1515年には、マインツ大司教アルブレヒトが発行した贖宥状の現物が残っています。エモリー大学ピッツ神学図書館の資料では、この贖宥状はローマのサン・ピエトロ大聖堂建設費をまかなうための贖宥と説明されています。こうした贖宥の宣伝と運用が、1517年の論争を考える重要な背景になります。
ただし、贖宥状を「お金を払えば罪そのものが帳消しになる証明書」と理解すると、カトリック側の教義を正確に表せません。贖宥とは本来、罪の赦しそのものではなく、赦された罪に伴う有限の罰の免除に関係する制度です。
問題になったのは、この制度の宣伝・運用が金銭と強く結びつき、人々に「これを得れば救いが保証される」と受け取られかねない状況が生まれたことでした。ルターの95か条にも、贖宥へ過度の確信を置くことへの批判が見られます。
レオ10世のメディチ家という背景を前の時代からつなぎたい場合は、関連記事「ルネサンス黄金期と1494年の転換点」を読むと、フィレンツェとメディチ家を宗教改革前夜から整理できます。
④は信仰義認説|万人司祭主義も「牧師不要論」ではない
④は信仰義認説です。簡潔にいえば、人間が自らの功績を積み上げて救いを獲得するのではなく、神の恵みを信仰によって受け、義と認められるという考え方です。
ここからルターは、聖書を信仰の重要な基準とする姿勢を強めました。もう一つの柱が万人司祭主義で、洗礼を受けた信徒すべてが神の前で霊的な身分を共有すると考えます。
万人司祭主義を「聖職者という役割が完全に不要になった」と覚えるのは正確ではありません。ルター派でも説教や牧会を担う職務は残ります。否定されたのは、聖職者だけが一般信徒とは別種の特権的な霊的身分を持つ、という理解でした。
問2|1521年ヴォルムス帝国議会で宗教論争が政治問題になった
開催都市はヴォルムス|カール5世の前で撤回を拒否
問2(1)の答えはヴォルムス(Worms)です。1521年、ルターは神聖ローマ皇帝カール5世が出席する帝国議会へ召喚され、自著や主張を撤回するか問われました。
ルターは撤回を拒否し、その後のヴォルムス勅令によって帝国内で法的保護を失う「帝国追放」の状態に置かれ、著作の流布も禁止されます。
ここで設問文の「国外追放」という表現には注意が必要です。当時の神聖ローマ帝国は現代の国民国家とは仕組みが違うため、ヴォルムス勅令は、現代的な意味で国境の外へ追い出す処分というより、ルターを帝国法の保護外に置く措置と理解するほうが正確です。
この帝国議会を開いたカール5世が帝国政治の中心へ出てきたのは1519年でした。関連記事「1519年前後の世界史をつなぐ|カール5世・フッガー家・郵便・時計・コーヒー」と続けて読むと、宗教改革が政治・金融・帝国統治の世界と接続して見えてきます。

⑤は新約聖書|ワルトブルク城で翻訳したのは聖書全巻ではない
⑤の答案は新約聖書です。帝国追放となったルターを保護したのが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢明公)でした。ルターは身を隠す形でワルトブルク城へ移り、「ユンカー・イェルク」と名乗って生活します。
ルターはワルトブルク城で、ギリシア語本文をもとに新約聖書をドイツ語へ訳しました。この翻訳は1522年に刊行され、印刷によって広く読まれるようになります。
1521〜1522年のワルトブルク城で「聖書全巻のドイツ語訳を完成した」とするのは年代がずれます。旧約を含むドイツ語聖書全体の刊行は1534年で、ルターは協力者たちと翻訳・校訂を進めました。
この違いは試験でも大切です。「ワルトブルク城=新約聖書」「聖書全体=1534年」と二段階で覚えると混同しません。
活版印刷が宗教改革の速度を変えた
ルターの思想が広がった背景には印刷があります。活版印刷そのものはルターが発明したわけではなく、15世紀半ばのグーテンベルク以後、ヨーロッパ各地に印刷所と書籍市場が広がっていました。
その基盤の上へ、短いパンフレット、説教、論争文書、聖書翻訳が乗ります。思想が説教壇や大学の講義室だけでなく、複製された紙として都市から都市へ移動できるようになったのです。
印刷革命の前史については「15世紀末の知識革命と社会不安|印刷・時計・魔女狩りからインドと東南アジアの思想まで」もあわせて読むと、ルター以前に「情報が大量複製される世界」が準備されていたことが分かります。

問3(1)|シュヴェンクフェルトは「内面」を重視した宗教改革者
答えはカスパー・シュヴェンクフェルトです。シレジア出身で、宗教改革期のスピリチュアリスト、つまり外的な制度や儀礼だけでなく、信仰者の内面に働く霊を強く重視した宗教改革者として知られています。
当初は宗教改革運動の影響を受けましたが、やがて聖餐理解などをめぐってルターと距離を取り、独自の立場へ進みました。「ルターをさらに過激にした人物」と一本線で覚えるより、宗教改革の中から複数の改革像が分かれていった例として見るほうが理解しやすいでしょう。
なお、「シュヴェンクラフト」という別表記は今回確認した公開資料では裏づけを取れなかったため、本稿ではシュヴェンクフェルトを採用しています。試験教材に独自の表記が指定されている場合は、その教材の表記も確認してください。
問3(2)|同じ16世紀初頭の中国では王陽明が「心」を問い直した
⑥は陽明、⑦は王守仁
⑥は陽明で「陽明学」、⑦は王守仁です。王守仁は号の「陽明」によって、一般には王陽明と呼ばれています。
王陽明の思想で、この問題と直接つながる語が「心即理」と「良知」です。心即理は、人の心と世界を成り立たせる理を切り離して外側だけに探すのではなく、心そのものに理を見いだす考え方。良知は、人間に本来的に備わる善悪・是非を判断する道徳的な知を指します。
ただし「朱子学は外面だけ、陽明学は内面だけ」と二色に塗り分けるのも粗すぎます。王陽明は朱子学的な学問方法を批判的に捉え直しましたが、儒学そのものを捨てたのではなく、儒学の内部で「知るとは何か」「善を実行するとは何か」を組み替えました。

ルターと王陽明を「同じ思想」と結びつけない
宗教改革と陽明学を並べると、「どちらも心を重視したのだから同じ思想では」と考えたくなります。しかし、ここには線を引かなければなりません。
ルターはキリスト教における救済、信仰、聖書、教会の権威をめぐって議論しました。王陽明は儒学の枠組みで道徳認識、実践、心と理の関係を考えています。思想的な内容も成立した社会も違い、両者の直接的な影響関係を示すものではありません。
比較してよいのは、「16世紀初頭に既存の学問や権威の受け止め方が問い直されていた」という時代を見るための視点です。似ている言葉から因果関係まで作らない。この一線を守ると、世界史の横断比較がぐっと面白くなります。
問3(3)|李夢陽・何景明ら前七子は古文辞派
⑧に入れるなら古文辞で、名称は古文辞派です。李夢陽・何景明ら前七子、さらに後の李攀竜・王世貞ら後七子が代表とされます。
彼らは当時の文壇に対し、古典へ立ち返ることを唱えました。李夢陽らは古い散文や盛唐の詩を規範として、明代文学を立て直そうとしたのです。
研究文献では、この運動を広く「復古運動」「復古派」と表現することもあります。したがって「⑧派」という空欄なら「古文辞派」が最も収まりよく、運動の性格を説明するときには「文学復古運動」と添えると整理できます。
ここでも面白いのは、「新しくするために古くへ戻る」という構図です。新しい文学を作りたいのに古典を模範にする。少々遠回りに見えますが、文化史ではこの遠回りが案外よく登場します。

1515〜1522年を一本の出来事として並べる
| 年代 | ヨーロッパ・中国の出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1515年 | マインツ大司教アルブレヒト発行のサン・ピエトロ大聖堂建設費に関係する贖宥状が現存 | 1517年の論争を考える背景 |
| 1517年 | ルターが95か条の論題を提示 | 贖宥をめぐる論争が拡大 |
| 1519年 | カール5世がローマ王に選出 | 宗教問題が帝国政治と接続 |
| 1521年 | ヴォルムス帝国議会 | ルターが撤回を拒否 |
| 1521年 | ヴォルムス勅令 | ルターが帝国法の保護外へ |
| 1521〜1522年 | ルターがワルトブルク城に滞在 | 新約聖書をドイツ語へ翻訳 |
| 1522年 | ドイツ語訳新約聖書刊行 | 印刷による広い読者層への流通 |
| 16世紀初頭 | 王陽明の思想形成、前七子の文学復古運動 | 明代でも思想・文学の再検討が進む |
こう並べると、宗教改革は「1517年にルターが何かを言った事件」では終わりません。贖宥をめぐる神学論争が印刷で広がり、教皇権との対立になり、皇帝を巻き込む帝国政治の問題へ移り、さらに聖書翻訳によって「誰が聖書を読むのか」という問題へも広がりました。
一方、中国では王陽明が「心と理」を問い直し、文学では李夢陽らが古典へ戻ることで同時代の文芸を立て直そうとしていました。人物を暗記するより、「権威・言葉・内面をどう捉え直したか」という動詞で覚えると、ばらばらだった知識が一つの時代像になります。
間違えやすいポイント
答え合わせが終わったら、次の項目を上から順に確認してみてください。正解した問題ほど、言葉の意味まで確認すると知識が崩れにくくなります。
- 95か条の論題は、当初から新教会設立の宣言文として書かれたわけではありません。
- 城教会の扉へ論題を「釘で打ちつけた」場面は有名ですが、史実として確実とはいえません。
- 贖宥状を「金銭で罪そのものを消す紙」と説明すると、制度の意味を単純化しすぎます。
- 万人司祭主義は、牧師や教会の職務をすべて否定する考えではありません。
- ヴォルムス勅令は、現代の意味での単純な「国外追放」とは異なります。
- ワルトブルク城でルターが訳したのは新約聖書。聖書全体の刊行は1534年です。
- シュヴェンクフェルトは、独自の宗教改革思想へ進んだ人物です。
- 陽明学とルターの宗教改革を、直接の影響関係で結ぶことはできません。
- 李夢陽・何景明らは前七子で、日本語では古文辞派と呼ばれます。
FAQ|答案ではどう書けばいい?
②は「95か条の論題」と書けば十分ですか?
通常の世界史答案なら「95か条の論題」で十分です。「95か条の提題」など、教材による訳語差があります。
贖宥状と免罪符はどちらを書けばいいですか?
設問が両方を認めているなら、どちらでも答案になります。ただし歴史を説明する本文では、教義上の意味を誤解しにくい贖宥状を使うほうが適しています。
ヴォルムス帝国議会の答えは「ヴォルムス」でよいですか?
都市名を問われているので「ヴォルムス」です。1521年、カール5世、ヴォルムス勅令まで一緒に覚えると前後がつながります。
⑤は「聖書」ではなく「新約聖書」ですか?
新約聖書と答えるのが正確です。ワルトブルク城での翻訳を問われた場合は、ここを分けて覚えてください。
⑧は「復古派」でもよいですか?
広い説明として「復古派」と表現する研究もありますが、李夢陽や何景明の一派を「(⑧)派」と問う形なら、古文辞と入れて「古文辞派」にするのが明確です。
まとめ|宗教改革を「権威・印刷・内面」の三つで覚える
この一連の問題で軸になるのは、1517年の95か条だけではありません。レオ10世と贖宥をめぐる対立が、1521年のヴォルムス帝国議会で帝国政治の問題となり、ワルトブルク城での新約聖書翻訳によって「誰が聖書を読むのか」という問題へも広がりました。
さらに同時代へ視野を広げれば、宗教改革内部ではシュヴェンクフェルトが内的な霊を重視し、中国では王陽明が心即理・良知を説き、李夢陽や何景明らは古典を規範として文学を再建しようとします。
復習するときは答えだけを隠すのではなく、「1517年から1522年まで何が次の出来事を呼んだか」を自分の言葉で説明してみてください。人物名の暗記が、出来事の歴史へ変わります。
参考資料
- Evangelical Church in Germany「The 95 Theses」(95か条の論題と1517年10月31日の日付を確認、2026年8月23日閲覧)
- The Annotated Luther, Volume 1: The Roots of Reform(1517年10月31日のアルブレヒト宛書簡を確認、2026年8月23日閲覧)
- EKD「Die 95 Thesen」(95か条の公開と扉への掲示をめぐる史料上の注意を確認、2026年8月23日閲覧)
- Vatican「Leo X」(レオ10世の本名、在位期間を確認、2026年8月23日閲覧)
- Pitts Theology Library / Emory University「Archdiocese of Mainz Indulgence」(1515年の贖宥状現物とサン・ピエトロ大聖堂建設費との関係を確認、2026年8月23日閲覧)
- Wartburg Stiftung「Luther übersetzt. Von der Macht der Worte」(1521〜1522年のワルトブルクでの新約聖書翻訳を確認、2026年8月23日閲覧)
- Stanford Encyclopedia of Philosophy「Epistemology in Chinese Philosophy」(王陽明の心学・良知を確認、2026年8月23日閲覧)
