一つの航海と一つの征服が世界地図を塗り替えた|1510〜1524年の転換

大学受験歴史

問1|マゼランの世界周航とハプスブルク家

1519年、ポルトガル人の航海者(①)は、スペイン王カルロス1世の支援を受け、西回りで香料諸島へ向かう遠征を始めました。本人はフィリピンで戦死し、その船団は1522年に初の世界周航を成し遂げます。

(1)①に入る航海者を答えなさい。

(2)この遠征に先立つ1494年、スペイン・ポルトガル間で、海外進出の分界線を定めた条約の名称を答えなさい。

問2|アメリカ大陸の征服と地理的知識

(1)1521年、先住民同盟軍とともにテノチティトランを攻略したスペイン側の指導者は誰ですか。

(2)旧世界から持ち込まれ、先住民人口と社会に大きな打撃を与え、アステカやインカの征服にも影響した代表的な感染症を答えなさい。

(3)【発展】1524年、ペトルス・アピアヌスが刊行した、天文・地理・測量などの知識を扱う宇宙誌『②』の書名を答えなさい。

問3|サファヴィー朝と東アジア海域

(1)1501年、イスマーイール1世が建国した(③)朝と、国家の宗教としたシーア派の宗派(④)を答えなさい。

(2)16世紀中葉、明を悩ませた北方のモンゴル勢力と、中国東南沿岸の倭寇の活動をあわせて表す語句は何ですか。

(3)1510年、朝鮮南部の三港の居留倭人らが、対馬からの援軍とともに蜂起し、日朝通交がいったん途絶える契機となった事件を何の乱といいますか。

1519年、スペインの支援を受けた船団が、西回りで香料諸島を目指しました。1521年にはメキシコでテノチティトランが陥落し、翌1522年、遠征船ビクトリア号がスペインへ帰還します。

イランでは1501年にサファヴィー朝が成立し、東アジアでは交易を管理する国家と海上で活動する人々の利害がぶつかっていました。航路、戦争、宗教、感染症、交易の統制を結びつけると、16世紀前半の変化を地域ごとに理解できます。

三問の答え

設問 答え 覚える出来事
問1(1)① フェルディナンド・マゼラン(マガリャンイス) 1519年にスペインから出航
問1(2) トルデシリャス条約 1494年、スペインとポルトガルの分界
問2(1) エルナン・コルテス 1521年、テノチティトラン陥落
問2(2) 天然痘 1520年ごろメキシコで大流行
問2(3)② 『コスモグラフィクス・リベル』(Cosmographicus liber) 1524年初版
問3(1)③ サファヴィー朝 1501年成立
問3(1)④ 十二イマーム派 シーア派の主要宗派
問3(2) 北虜南倭 明、とくに16世紀中葉の北と南の危機
問3(3) 三浦の乱(三浦倭乱) 1510年、朝鮮南部の三港で発生

問1|マゼランが出発し、エルカーノらが完遂した周航

①マゼラン|スペイン王の支援で香料諸島を目指す

①はフェルディナンド・マゼランです。ポルトガル語の名に基づき、マガリャンイスとも表記されます。

ポルトガル人のマゼランは、西回りでモルッカ諸島(香料諸島)へ達する構想について自国の王室の支持を得られず、スペイン王カルロス1世のもとへ移りました。カルロス1世はハプスブルク家の君主で、1519年に神聖ローマ皇帝に選出され、カール5世としても知られます。

スペイン王権にとって、西回り航路は、ポルトガルが先行するアフリカ回りのインド洋航路と競う手段でした。遠征は、地理の探究と香料交易をめぐる王権の競争が結びついた事業です。

1519年にスペインを出た遠征隊は、南米南端の海峡を通り、太平洋を横断しました。マゼランは1521年、フィリピンのマクタン島で現地勢力との戦闘に加わって死亡します。

その後も航海は続き、フアン・セバスティアン・エルカーノが指揮するビクトリア号が、インド洋と喜望峰を経て、1522年にスペインへ帰還しました。初の世界周航は、マゼランが率いて出発した遠征を、彼の死後にエルカーノらが完遂したものです。

人名だけを問う答案は「マゼラン」。説明問題では、出発時の指導者と帰還時の指導者を分けて記します。航海の前段階は、関連記事「海を越える船、動きを変える機構、記録に残る蒸留酒|15世紀ヨーロッパの転換点」で確認できます。

トルデシリャス条約|1494年の分界を先に置く

問1(2)の答えはトルデシリャス条約です。1494年6月7日、カスティーリャ側とポルトガルの間で結ばれ、カーボベルデ諸島の西方370レグアを基準に、両王権の海外進出の分界線を定めました。

1494年の条約が先にあり、1519~1522年の遠征は、その枠組みの中で香料諸島への航路を探りました。マゼランは、モルッカ諸島がスペイン側の領域にあると考えて計画を示しました。

遠征後には、地球の反対側で分界線をどう定め、香料諸島をどちらの領域とするかが争われます。この問題は、1529年のサラゴサ条約へつながりました。

学習では「1494年トルデシリャス条約 → 1519~1522年マゼラン=エルカーノ遠征 → 1529年サラゴサ条約」の順に置きます。設問の「1494年」という指定が、条約名を答える手掛かりです。

問2|征服、先住民同盟軍、天然痘

コルテス|同盟軍とともにテノチティトランを攻略

問2(1)の答えはエルナン・コルテスです。1521年、アステカ帝国の中心都市テノチティトランを攻略したスペイン側の指導者でした。

コルテスは、アステカの支配に反発するトラスカラなどの先住民勢力と同盟を結び、多数の現地同盟軍とともに戦いました。征服には、メソアメリカ内部の政治的対立と、スペイン勢力との同盟関係が大きく関わっています。

テノチティトランは、湖上に築かれ、堤道で周囲とつながる大都市でした。1521年の包囲戦では戦闘、食料や水の不足、感染症の影響が重なり、8月に陥落しました。

湖上都市テノチティトランと1521年の征服を考える概念画像
学習用の概念画像。当時の都市・人物・建築・道具の厳密な再現ではありません。

答案を説明する際は、コルテスの名に、先住民同盟軍と包囲戦を添えると征服の条件が伝わります。都市の成り立ちは、関連記事「都の混乱を記し、湖上に都市を築き、海を越えて寺を造る|14世紀を動かした三つの出来事」からつなげられます。

天然痘|人口と社会に打撃を与えた感染症

問2(2)の答えは天然痘です。旧世界からアメリカ大陸へ持ち込まれ、1520年ごろにはメキシコで大流行しました。それまでの感染経験に基づく免疫を持たない人々に、甚大な被害をもたらします。

被害は戦闘能力に加え、政治や共同体にも及びました。天然痘はアステカの抵抗を弱め、後のインカ征服にも影響した代表的な感染症です。

アステカの崩壊は、感染症、先住民同盟軍、スペイン側の軍事行動、包囲による飢餓と水不足が重なった結果です。病原体の移動が征服に与えた影響と、当時の政治・軍事情勢をあわせて捉えます。

1520~1521年の天然痘は、スペイン側に加わった先住民勢力にも被害を与えました。包囲されていたアステカ側では、食料や援軍を受けにくい条件が重なります。「旧世界から持ち込まれた感染症が征服を加速した」と、確認できる影響を記すことが大切です。意図的な利用を想定する説明は、この出来事を扱う史料から区別して判断する必要があります。

②『コスモグラフィクス・リベル』|世界を測る知識

②は、ペトルス・アピアヌスの『コスモグラフィクス・リベル』(Cosmographicus liber)です。1524年、ランツフートで初版が刊行されました。

宇宙と地球の関係、緯度・経度、地図、測量、天体観測などを扱う宇宙誌です。航海で得られる地理的な知識と、数学的・図形的に世界を把握する方法が結びついていました。

16世紀の地理・天文・測量と印刷の概念画像
学習用の概念画像。当時の都市・人物・建築・道具の厳密な再現ではありません。

後の版では『Cosmographia』などの題名も使われ、増補・改訂を重ねて広く流通します。1524年初版を問う答案では「コスモグラフィクス・リベル」と記すと明確です。表記や採点基準が示されている教材では、それに沿って確認しましょう。

問3|イランの国家と宗教、東アジアの交易秩序

③サファヴィー朝、④十二イマーム派

③はサファヴィー朝、④は十二イマーム派です。イスマーイール1世はサファヴィー教団を背景に勢力を拡大し、1501年にタブリーズでシャーを称しました。

新王朝は、シーア派の十二イマーム派を国家の宗教としました。当時のイランにはスンナ派の住民も多く、王朝の政策を通じて宗教制度や学者層が長い時間をかけて整えられます。

サファヴィー朝成立とイランの政治・宗教を考える概念画像
学習用の概念画像。当時の都市・人物・建築・道具の厳密な再現ではありません。

この変化は、イランで十二イマーム派が根づく基礎となり、周辺のスンナ派国家、とくにオスマン帝国との政治的・宗教的な対立にもつながりました。

1501年は、王朝の成立とシーア派国家化を結びつける画期です。設問でシーア派の宗派まで求められたら、「十二イマーム派」と特定します。

北虜南倭|16世紀中葉の北方と沿岸の危機

問3(2)の答えは北虜南倭(ほくりょなんわ)です。北方のモンゴル勢力を「北虜」、中国東南沿岸の倭寇を「南倭」と呼び、明が両方の圧力を受けた状況を表します。

この語句がとくによく当てはまるのは、16世紀中葉です。北方ではアルタン=ハンらのモンゴル勢力との関係、南方では倭寇の活動が大きな問題となりました。

明は海禁政策で私的な海外交易を統制しました。一方、沿岸社会の交易需要は大きく、密貿易や武装した海上勢力の活動が拡大します。後期倭寇には、中国人海商をはじめ多様な人々が参加していました。

北方のモンゴルとの緊張にも、15世紀以前からの経緯があります。関連記事「権威はどう立て直され、どう揺らいだか|1428~1449年のフランス・明・室町日本」で土木の変を確認すると、その後の問題へつなげられます。

三浦の乱|1510年の日朝交易をめぐる衝突

問3(3)の答えは三浦の乱です。朝鮮側では三浦倭乱とも呼ばれます。「三浦」は、朝鮮王朝が日本人の居留と交易を認めた釜山浦・乃而浦(薺浦)・塩浦の三港です。

対馬の宗氏は、15世紀の日朝通交の重要な仲介役でした。朝鮮側は倭寇を抑えながら一定の交易を認めましたが、居留者の増加や貿易統制をめぐる利害対立が深まります。

1510年、三港の居留倭人らが蜂起し、対馬からも援軍が加わりました。朝鮮側が鎮圧した後、日朝通交はいったん途絶えます。1512年の壬申約条によって再開されましたが、開港や船数などの制限は厳しくなりました。

この事件を理解する軸は、朝鮮南岸の居留倭人、対馬宗氏、朝鮮王朝の交易統制の関係です。宗氏内部の権力関係を含めて検討する研究もあります。三浦の乱という特定の事件と、長い期間にわたる倭寇の活動を、時期と場所に分けて整理しましょう。

1501~1524年の年表

年 地域 出来事 何が動いたか
1501年 イラン イスマーイール1世がサファヴィー朝を成立させる 王朝と宗教秩序
1510年 朝鮮半島 三浦の乱 日朝交易と海上秩序
1519年 スペイン〜大西洋 マゼラン遠征出航 西回りの香料航路探索
1520年ごろ メキシコ 天然痘が流行 人口・軍事・社会
1521年 メキシコ コルテスらがテノチティトランを攻略 アステカ帝国の崩壊
1521年 フィリピン マゼラン戦死 遠征の指揮系統
1522年 スペイン エルカーノらが世界周航を完遂 世界規模の航路認識
1524年 神聖ローマ帝国圏 アピアヌス『コスモグラフィクス・リベル』刊行 地理・天文知識の体系化

まとめ|出来事を年代と地図に置く

マゼラン遠征は海をつなぎ、アステカ征服は先住民社会の政治と人口に大きな変化をもたらしました。サファヴィー朝は国家と宗教の関係を再編し、東アジアでは国家の交易統制と人々の活動が衝突します。アピアヌスの宇宙誌は、世界を測り、記録する知識を広く伝えました。

年表では、1501年のイラン、1510年の朝鮮南岸、1519~1522年の周航、1520~1521年のメキシコ、1524年の宇宙誌を並べます。前提となる1494年の条約と、続く1529年の条約、16世紀中葉の北虜南倭も、それぞれの位置へ置きましょう。

復習では、イラン、朝鮮南岸と対馬、スペイン、南米南端、フィリピン、メキシコを地図で指してみてください。その場所で何が起き、誰が関わったのかを説明すると、語句の暗記が地域を結ぶ歴史の理解になります。

参考資料

情報確認日:2026年10月11日