問1(マゼランの世界周航とハプスブルク家)
1519年、ポルトガル人の航海者( ① )は、自国で受け入れられなかった西回りでのアジア航路開拓計画を、スペイン国王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)に提案してその支援を得ることに成功しました。彼は遠征途上のフィリピンで戦死したものの、その船団は1522年に世界で初めて世界周航(世界一周)を成し遂げました。
(1) ①に入る航海者の名前を答えなさい。
(2) この周航を契機に、1494年にスペイン・ポルトガル間で結ばれた、世界支配領域の境界線(植民地分界線)を決定づけた条約の名称は何ですか。
問2(新大陸の征服と天然痘の流行)
大航海時代の進展に伴い、スペイン人征服者(コンキスタドール)たちはアメリカ新大陸に侵入し、高度な先住民文明を武力で征服していきました。
(1) 1521年、メキシコ高原においてアステカ帝国を征服・滅亡させたスペインの征服者は誰ですか。
(2) スペイン人の侵入は、武力だけでなく、西欧から持ち込まれた猛烈な感染症が引き金となって先住民(インディオ)の人口を激減させました。彼らに免疫がなかったため、新大陸で狂気のように吹き荒れ、アステカやインカの滅亡を加速させたとされる代表的な感染症の名称は何ですか。
(3) 【発展】この時期、東西の地理的知識が合流し、1524年にはドイツの天文学者ペトルス・アピアヌスによって、精密な世界地図や天体・測量の知見を網羅した『( ② )』(宇宙誌)が著され、近代地理学のバイブルとなりました。②に入る書名を答えなさい。
問3(サファヴィー朝の成立と東アジア海域)
(1) イラン高原においては1501年、シーア派神秘主義教団の教主イスマーイール1世によって( ③ )朝が建国され、シーア派最大の宗派である( ④ )派を国教と定めてイランのアイデンティティの基礎を築きました。③と④に入る語句を答えなさい。
(2) 同時期の東アジア海域(中国・朝鮮・日本)では、明朝の厳格な「海禁政策」にもかかわらず、密貿易や海賊行為が活発化していました。15世紀から16世紀にかけて、明朝を悩ませた北方のモンゴル勢力(北虜)と、沿岸部を襲撃した日本人や中国人らを含む海上勢力(南倭)を総称して、何と呼びますか。
(3) 1510年、朝鮮半島において、貿易利潤の縮小や統制強化に反発した対馬の商人や現地の日朝貿易関係者らが暴動を起こし、日朝間の公的な通交が一時断絶する大きな契機となった事件を何の乱といいますか。
今回は、答えを覚えるだけでは少々もったいない問題です。1510年代から1520年代前半を見ると、ヨーロッパでは船が大西洋と太平洋をつなぎ、メキシコでは一つの帝国が崩れ、イランでは新王朝が成立し、東アジアでは国家が管理したい交易と、管理されない海上交易がぶつかっていました。
この一連の問題は、「16世紀前半に世界の遠く離れた地域が、交易・戦争・宗教・病原体を通じて急速につながり始めた」と見ると、一気に整理しやすくなります。
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| 設問 | 答え | 覚える出来事 |
|---|---|---|
| 問1(1)① | フェルディナンド・マゼラン(マガリャンイス) | 1519年にスペインから出航 |
| 問1(2) | トルデシリャス条約 | 1494年、スペインとポルトガルの分界 |
| 問2(1) | エルナン・コルテス | 1521年、テノチティトラン陥落 |
| 問2(2) | 天然痘 | 1520年ごろメキシコで大流行 |
| 問2(3)② | 『コスモグラフィクス・リベル』(Cosmographicus liber) | 1524年初版 |
| 問3(1)③ | サファヴィー朝 | 1501年成立 |
| 問3(1)④ | 十二イマーム派 | シーア派の主要宗派 |
| 問3(2) | 北虜南倭 | 明、とくに16世紀中葉の北と南の危機 |
| 問3(3) | 三浦の乱(三浦倭乱) | 1510年、朝鮮南部の三港で発生 |
この表だけでも答案は作れます。ただし、問1(2)と問3(2)には年代上の注意があります。ここを曖昧にすると、語句は合っているのに歴史の流れが逆転するという、なかなか器用な間違いが起きます。
問1|マゼランの航海は「一人で世界一周した話」ではない
①はフェルディナンド・マゼラン
①はフェルディナンド・マゼランです。ポルトガル語ではフェルナン・デ・マガリャンイスなどと表記されます。
マゼランはポルトガル人でしたが、西回りでモルッカ諸島、いわゆる香料諸島へ向かう構想についてポルトガル王室の支持を得られず、スペイン王カルロス1世のもとへ移りました。カルロス1世はハプスブルク家の君主で、1519年には神聖ローマ皇帝に選出され、一般にカール5世として知られるようになります。
ここで航海とハプスブルク家がつながります。スペイン王権にとって重要だったのは、ポルトガルが先行していたアフリカ回りのインド洋航路とは別に、西へ向かって香料諸島へ達する道を確保できるかどうかでした。地球規模の地理探検が、そのまま王朝間・国家間の交易競争でもあったわけです。

1519年に始まった遠征隊は南米大陸南端の海峡を抜け、太平洋を横断しました。しかしマゼラン本人は1521年、フィリピンのマクタン島で現地勢力との戦闘に加わり死亡します。
その後、残った船員たちが航海を続け、フアン・セバスティアン・エルカーノが指揮するビクトリア号が1522年にスペインへ帰還しました。したがって、「マゼランが世界一周した」という教科書的表現は簡略形です。より正確には、マゼランが率いて出発した遠征隊を、彼の死後エルカーノらが完遂したと覚えるのがよいでしょう。
関連記事として、15世紀にポルトガルが大西洋へ進出していった前段階は「海を越える船、動きを変える機構、記録に残る蒸留酒|15世紀ヨーロッパの転換点」で確認できます。マゼランだけを突然登場させず、15世紀の航海技術と海洋進出からつなぐと理解しやすくなります。
問1(2)の答えはトルデシリャス条約。ただし問題文の因果関係には注意
問1(2)の答えはトルデシリャス条約です。1494年6月7日にカスティーリャ側とポルトガルとの間で締結され、カーボベルデ諸島の西方370レグアを基準とする分界線を定めました。
ただし、「マゼランの周航を契機に1494年のトルデシリャス条約が結ばれた」と読むと年代が逆です。 条約はマゼラン出航の25年前にすでに存在していました。
マゼラン遠征によってむしろ問題になったのは、「地球の反対側では分界線をどこに置くのか」という点です。香料諸島をスペインとポルトガルのどちらの領域とするかが争われ、最終的には1529年のサラゴサ条約へつながりました。
したがって答案では「トルデシリャス条約」と書けばよいのですが、学習上は「1494年トルデシリャス条約→1519〜1522年マゼラン=エルカーノ遠征→1529年サラゴサ条約」という順番で置いてください。年号は三つ並べると、かなり素直になります。
問2|アステカ帝国を倒したのはコルテスだけだったのか
問2(1)の答えはエルナン・コルテス
1521年にアステカ帝国の中心都市テノチティトランを陥落させたスペイン側の指導者はエルナン・コルテスです。
ただし、「数百人のスペイン人が巨大帝国を武器だけで倒した」という説明では足りません。コルテスはアステカ支配に反発していたトラスカラなどの先住民勢力と同盟を結び、多数の現地同盟軍とともに戦いました。米国議会図書館が紹介する先住民側の記録にも、馬や火器だけでなく、こうした政治的な同盟関係が征服の重要な条件として示されています。
つまり、1521年の出来事は「ヨーロッパ対アメリカ」という二者だけの戦争ではありません。メソアメリカ内部にすでにあった対立へスペイン勢力が入り込み、それを利用した面がありました。

アステカの首都テノチティトランは湖上に築かれ、堤道で周囲と結ばれた巨大都市でした。1521年の包囲戦では食料や水の不足、戦闘、感染症が重なり、8月に都市が陥落します。
アステカがどのような都市文明だったのかを先に確認したい場合は、関連記事「都の混乱を記し、湖上に都市を築き、海を越えて寺を造る|14世紀を動かした三つの出来事」もつながります。14世紀のテノチティトラン建設から1521年の陥落までを一本にすると、文明が突然現れて突然消えたようには見えなくなります。
問2(2)の天然痘は、滅亡の唯一の原因ではない
代表的な感染症は天然痘です。米国国立医学図書館の資料は、1520年に新大陸へ持ち込まれた天然痘がメキシコ本土へ広がり、アステカ側の抵抗を大きく弱めた経緯をたどっています。
アメリカ大陸の人々はそれまで天然痘への集団的な免疫を持っていなかったため、被害は戦闘能力にとどまらず、政治や共同体そのものへ深刻な打撃を与えました。
ただし、アステカ帝国の滅亡を天然痘だけで説明するのも正確ではありません。スペイン側の軍事行動、先住民同盟軍、アステカ支配下の政治的対立、包囲による飢餓や水不足が重なった結果です。
感染症を「スペイン人が意図的に天然痘を使ってアステカを倒した」と一般化するのも避けてください。 問題で求められているのは、旧世界から持ち込まれた病原体が征服を加速させたという歴史的影響です。
問2(3)②は『コスモグラフィクス・リベル』
②は、ペトルス・アピアヌスの『コスモグラフィクス・リベル』(Cosmographicus liber)です。米国議会図書館の書誌資料でも、1524年にランツフートで「Cosmographicus liber Petri Apiani」が刊行されたことを確認できます。
後世の版では『Cosmographia』などの書名も用いられ、増補を重ねながら広く流通しました。したがって、設問の空欄には「コスモグラフィクス・リベル」と答えるのが年代まで含めて明確です。

この書物が面白いのは、単なる「世界地図帳」ではない点です。宇宙と地球の関係、緯度・経度、測量、天体観測などを扱い、16世紀の人々が世界を数学的・図形的に把握しようとした知識をまとめています。
一方、問題文の「近代地理学のバイブル」という表現は、試験答案でそのまま書く必要はありません。評価的な呼び名だからです。「1524年に初版が刊行されたアピアヌスの宇宙誌で、後に増補版が広く普及した」と押さえておけば十分でしょう。
問3(1)|1501年のサファヴィー朝成立は何を変えたのか
③サファヴィー朝、④十二イマーム派
③はサファヴィー朝、④は十二イマーム派です。
イスマーイール1世はサファヴィー教団を背景として勢力を拡大し、1501年にタブリーズへ入り、シャーを称しました。これがサファヴィー朝成立の重要な画期です。
さらにサファヴィー国家はシーア派の十二イマーム派を国家の宗教として押し出しました。当時のイランにはスンナ派住民も多かったため、これは単に「昔からシーア派だったイランで王朝が交代した」という話ではありません。

長い時間をかけて宗教制度や学者層も整えられ、イランで十二イマーム派が強く根づいていきます。その結果、周辺のスンナ派国家、とくにオスマン帝国との政治的・宗教的な対立も世界史の大きな軸となりました。
1501年は「サファヴィー朝ができた年」とだけ覚えるより、「イランの政治的統合とシーア派国家化が結びつき始めた年」と置くと意味が残ります。
北虜南倭とは何か|明は北と南で別々の交易問題に直面した
問3(2)の答えは北虜南倭
答えは北虜南倭(ほくりょなんわ)で、北方から圧力をかけたモンゴル勢力を「北虜」、中国東南沿岸で活動した倭寇を「南倭」と呼び分けています。
ただし、この言葉を15世紀全体へ広げてしまうと、時期の説明がぼやけます。北海道大学の入試問題も、「北虜南倭」を16世紀半ばごろに活動を活発化させたモンゴル勢力と倭寇を指す言葉として出題しています。
北方では16世紀中葉、アルタン=ハンなどモンゴル勢力との関係が大きな問題となりました。一方の南方では、明の海禁政策と現実の交易需要とのずれを背景に、密貿易や武装した海上勢力が拡大します。
しかも後期倭寇は、日本人だけの集団ではありません。中国人海商をはじめ多様な人々が参加していました。歴史用語は、ときどき看板と店内の商品が少し違います。「倭」という一字だけで中身まで決めないことが大切です。
明の北方問題については、関連記事「権威はどう立て直され、どう揺らいだか|1428〜1449年のフランス・明・室町日本」で1449年の土木の変まで戻るとつながりが見えます。モンゴルとの緊張は16世紀になって突然始まったものではありません。
1510年の三浦の乱|海上交易をめぐる日朝関係の転換点
問3(3)の答えは三浦の乱
1510年に起きた事件が三浦の乱で、朝鮮側の呼称では「三浦倭乱」ともいいます。ここでいう「三浦」は、現在の日本の三浦半島ではありません。
「三浦」とは、朝鮮王朝が日本人の居留と交易を認めていた釜山浦・乃而浦(薺浦)・塩浦という朝鮮南部の三つの港を指します。名前だけ見ると神奈川県へ飛んでいきそうですが、地図では朝鮮半島南岸です。

15世紀の日朝関係では、対馬の宗氏が重要な仲介役となり、朝鮮側は倭寇を抑えながら一定の交易を認めていました。しかし日本人居留者の増加や貿易をめぐる統制、対馬側の政治事情などが絡み、1510年に三港の居留倭人らが蜂起し、対馬からも軍勢が加わりました。
朝鮮側がこれを鎮圧した後、日朝間の通交はいったん途絶えます。のちに1512年の壬申約条によって関係は再開されますが、従来より厳しい制限が設けられました。
この事件は「日本が朝鮮へ侵略した」という一行だけでは背景を捉えにくく、朝鮮南岸に定住した倭人、対馬宗氏、朝鮮王朝の交易統制という三者の関係を見る必要があります。学習院大学大学院人文科学研究科の紀要に掲載された大矢野範義の研究は、三浦の乱を対馬宗氏内部の権力関係も含めて検討しています。
1501〜1524年を年表にすると、三つの地域史が一本につながる
設問の中心は1510年代からですが、東アジアとイランの動きを理解する前提として、1501年のサファヴィー朝成立から並べます。
| 年 | 地域 | 出来事 | 何が動いたか |
|---|---|---|---|
| 1501年 | イラン | イスマーイール1世がサファヴィー朝を成立させる | 王朝と宗教秩序 |
| 1510年 | 朝鮮半島 | 三浦の乱 | 日朝交易と海上秩序 |
| 1519年 | スペイン〜大西洋 | マゼラン遠征出航 | 西回りの香料航路探索 |
| 1520年ごろ | メキシコ | 天然痘が流行 | 人口・軍事・社会 |
| 1521年 | メキシコ | コルテスらがテノチティトランを攻略 | アステカ帝国の崩壊 |
| 1521年 | フィリピン | マゼラン戦死 | 遠征の指揮系統 |
| 1522年 | スペイン | エルカーノらが世界周航を完遂 | 世界規模の航路認識 |
| 1524年 | 神聖ローマ帝国圏 | アピアヌス『コスモグラフィクス・リベル』刊行 | 地理・天文知識の体系化 |
こうして並べると、この問題群がばらばらの暗記問題ではないことが分かります。サファヴィー朝では国家と宗教の関係が再編され、東アジアでは交易統制が揺れ、大西洋と太平洋では航路がつながり、アメリカ大陸では人間とともに病原体まで移動しました。
「世界が一つになった」と言い切ると少々大きすぎますが、16世紀前半には、遠く離れた地域の出来事が海上交通を通じて以前より強く結びつき始めます。近世世界史の面白さは、このあたりから急に地図が狭く感じられるところにあります。
間違えやすいポイントを答案の形で整理する
どれも語句自体は書けているのに、年代や因果関係の説明で差がつきやすい箇所です。答案でどう書き分けるかという形で並べます。
マゼラン本人は世界一周を完遂していない
答案が「①マゼラン」だけなら正解です。ただし説明問題では、1521年にフィリピンで死亡し、1522年の帰還を実現したビクトリア号をエルカーノが指揮したことを区別しましょう。
トルデシリャス条約はマゼラン航海より前
1494年のトルデシリャス条約が先にあり、その枠組みでは地球の反対側の境界が問題として残りました。マゼラン遠征後の香料諸島をめぐる争いは1529年のサラゴサ条約につながります。
アステカ征服を「武器の性能差だけ」で説明しない
コルテス側には先住民同盟勢力が加わり、天然痘、包囲、飢餓、水不足、アステカ内部の政治関係も結果に影響しました。一つの原因だけで巨大な社会変動を説明しないことが大切です。
北虜南倭は、とくに16世紀中葉の明の危機として押さえる
15世紀にも明とモンゴル、倭寇をめぐる問題は存在しますが、「北虜南倭」という組み合わせを代表的に使うのは16世紀中葉です。年代幅の広い設問では、言葉が最もよく当てはまる時期を意識してください。
三浦の乱の「三浦」は朝鮮半島の三港
釜山浦・乃而浦・塩浦を指します。「三浦」という漢字だけで日本国内の地名を連想しないように、対馬と朝鮮南岸を地図上で結んで覚えると確実です。
FAQ|試験でどこまで書けばよい?
問1(1)は「マゼラン」だけで大丈夫ですか?
人名のみを求める問題なら「マゼラン」で十分です。説明問題では、ポルトガル人でありながらスペイン王カルロス1世の支援を受けた点まで書けると背景が伝わります。
問1(2)はサラゴサ条約ではないのですか?
設問が「1494年」と指定しているため答えはトルデシリャス条約です。ただしマゼラン遠征後の香料諸島をめぐる分界問題まで問われれば、1529年のサラゴサ条約を考えます。
天然痘がアステカ帝国滅亡の唯一の原因ですか?
唯一の原因ではありません。記述問題では、天然痘を重要な要因として挙げたうえで、軍事行動や先住民同盟軍にも触れると、単一原因にしない答案になります。さらに説明する余地があれば、包囲による食料・水不足などを加えるとよいでしょう。
②は『コスモグラフィア』でもよいですか?
後の版では『Cosmographia』という名称が使われますが、1524年初版を問うなら『Cosmographicus liber(コスモグラフィクス・リベル)』と答えるのが最も明確です。採点基準がある試験では教材の表記も確認してください。
④は「シーア派」だけでは足りませんか?
設問が「シーア派最大の宗派」を尋ねているため、十二イマーム派まで答えます。「シーア派」だけでは範囲が広すぎます。
三浦の乱と倭寇は同じ出来事ですか?
同じではありません。三浦の乱は1510年に朝鮮南岸の三港を舞台に起きた具体的な事件です。倭寇は、より長い期間に東アジア海域で活動した多様な海上勢力を指します。
まとめ|1510〜1524年は「海が世界史を動かす」と覚える
最後に答えだけを戻しておきましょう。
- 問1(1)①:フェルディナンド・マゼラン
- 問1(2):トルデシリャス条約
- 問2(1):エルナン・コルテス
- 問2(2):天然痘
- 問2(3)②:『コスモグラフィクス・リベル』
- 問3(1)③:サファヴィー朝
- 問3(1)④:十二イマーム派
- 問3(2):北虜南倭
- 問3(3):三浦の乱
復習するときは「1501サファヴィー朝→1510三浦の乱→1519マゼラン出航→1520天然痘→1521アステカ帝国崩壊・マゼラン戦死→1522世界周航完遂→1524アピアヌス」と、まず出来事を時系列へ置いてください。
そのうえで地図を開き、イラン、朝鮮南岸、スペイン、南米南端、フィリピン、メキシコを指してみます。名前を見ずに「何が起きた場所か」を説明できれば、語句暗記から一段進んだ世界史になっています。
参考資料
- UNESCO Memory of the World「Treaty of Tordesillas」(2026年8月22日確認)
- Bibliothèque nationale de France「Tour du monde de Magellan」(2026年8月22日確認)
- Library of Congress「General History of the Things of New Spain, Book XII」(2026年8月22日確認)
- U.S. National Library of Medicine「Spread, Control, and Eradication of Smallpox」(2026年8月22日確認)
- Library of Congress所蔵書誌資料「Petrus Apianus」(2026年8月22日確認)
- University of Edinburgh Research Explorer「Sufism and the Safavids in Iran」(2026年8月22日確認)
- 北海道大学 2025年度一般選抜 世界史(北虜南倭に関する設問)(2026年8月22日確認)
- CiNii Research「一六世紀前半対馬宗氏の権力抗争からみる三浦の乱」(2026年8月22日確認)
- 学習院大学『人文科学論集』第24号 大矢野範義「一六世紀前半対馬宗氏の権力抗争からみる三浦の乱」(2026年8月22日確認)

