疫病で農村が揺れ、倭寇が海を荒らす|14世紀の西欧と東アジアで支配が組み替わった時代

大学受験歴史

問題1(西欧の農村・都市の変容)
14世紀、ヨーロッパ全土を襲ったペスト(黒死病)の大流行は、深刻な労働力不足を招き、結果として農民(農奴)の地位向上をもたらしました。
(1) 1381年、イングランドにおいて、領主層による再支配(封建反動)に抵抗し、ワット・タイラーが率いた大規模な農民一揆を何といいますか。
(2) 同時期、イングランドの神学者で、聖書主義の立場からカトリック教会の富や教皇権を否定し、聖書の英訳を行って後の宗教改革の先駆者となった人物は誰ですか。
(3) この時代、都市の経済構造も変容しました。中世都市の自治を担った同業者組合( ① )は、手工業者の新規参入を制限する排他的な組織へと変質していきました。これに対し、遠隔地貿易などで巨万の富を築いた( ② )資本が台頭し、都市の市政実権を握るようになりました。①と②に入る語句を答えなさい。

問題2(東アジアの動乱と足利義満の政治)
14世紀後半、東アジアの海域では大規模な武力衝突と政権交代が連続しました。
(1) 朝鮮半島や中国の沿岸を襲撃し、東アジアを震撼させた、対馬・壱岐・肥前松浦などを根拠地とする日本人主体の海賊集団を何といいますか。
(2) 1368年に明を建国した洪武帝は、上記の海賊集団を取り締まるよう、日本の( ③ )将軍懐良親王に要求しましたが拒否されました。③に入る南朝の将軍職の名称を答えなさい。
(3) 1392年に南北朝の合一を成し遂げた室町幕府3代将軍足利義満は、1378年に京都の室町に、朝廷の権限をも吸収する政治拠点となる豪奢な邸宅を造営しました。この邸宅は当時何と呼ばれましたか。

14世紀という時代を眺めていると、西のヨーロッパと東の日本・朝鮮・中国では、まったく別の出来事が起きているように見えます。

ところが少し離れて眺めてみると、共通するものがあります。これまで人々を支配していた仕組みが揺らぎ、新しい力関係が生まれていたことです。

イングランドでは、黒死病による人口減少が農民と領主の関係を変えました。都市ではギルドの仕組みと商人の力関係が変わり、教会の権威に疑問を投げかけるウィクリフが現れます。

そのころ東アジアでは、海を倭寇が行き交い、明の洪武帝が九州の懐良親王へ働きかけていました。さらに京都では足利義満が「花の御所」を政治の中心に据え、南北朝の分裂を終わらせる方向へ歩みます。

この二つの問題は、固有名詞を別々に暗記するより、「14世紀には従来の支配秩序が各地で揺れ、新しい政治・社会・経済の力関係が生まれた」と捉えるとつながります。

  1. まず答えを確認|6つの解答を時代の流れに置く
  2. 黒死病のあと、農民と領主の力関係が変わった
    1. 農民の地位向上に、支配する側も抵抗した
  3. 1381年、積み重なった不満がワット・タイラーの乱へ
    1. 反乱は「農奴の不満」だけでは説明できない
    2. 反乱そのものは鎮圧されたが、社会は元には戻らなかった
  4. 同じ時代、教会の権威にも疑問を投げたウィクリフ
    1. なぜ聖書を英語で読むことが重要だったのか
    2. 「ウィクリフが一人で聖書全巻を英訳した」は単純化しすぎ
  5. 都市ではギルドが力を持ち、その閉鎖性も問題になった
    1. ギルドは最初から「悪い独占組織」だったわけではない
    2. ②の商業資本は「組織名」ではない
  6. 西欧から東アジアへ|14世紀後半、今度は海が揺れ始める
  7. 倭寇とは何者だったのか|海賊という一語では見えにくい実像
    1. 地図を見ると、なぜ対馬と壱岐が重要なのか分かる
    2. 「倭寇=日本という国家が派遣した海賊」ではない
  8. 明の洪武帝が向き合った「日本側の相手」は懐良親王だった
    1. ③は「征西将軍」
    2. なぜ中国皇帝が懐良親王に話を持っていったのか
  9. 1378年、足利義満は京都・室町に「花の御所」を築いた
    1. 「室町幕府」という名前にもつながる場所
    2. 豪華な邸宅だっただけではない
  10. 1392年、南北朝合一へ|義満が進めた政治秩序の再統合
  11. 二つの問題を結ぶもの|14世紀は「古い秩序がそのままでは続かなくなった時代」
  12. 誤解しやすいポイントを最後に整理
    1. ワット・タイラーの乱は黒死病だけが原因ではない
    2. 反乱の直後に農奴制が廃止されたわけではない
    3. ウィクリフが一人で英語聖書全巻を翻訳したとは限らない
    4. ギルドと商業資本は同じ種類の言葉ではない
    5. 倭寇を近代的な「日本国の海賊軍」と考えない
    6. 「征西将軍」と「征西大将軍」は資料によって表記がある
    7. 花の御所は金閣ではない
  13. まとめ|答えを「事件の前後」で覚えると忘れにくい
  14. 参考資料

まず答えを確認|6つの解答を時代の流れに置く

問題 答え 押さえるポイント
問題1(1) ワット・タイラーの乱(1381年農民反乱、Peasants’ Revolt) 黒死病後の労働力不足と農民への統制、課税への反発
問題1(2) ジョン・ウィクリフ 聖書を重視し、教会の富・権力を批判。英語聖書運動にも大きな影響
問題1(3)① ギルド 商人・手工業者などが組織した同業者団体
問題1(3)② 商業資本 遠隔地交易などを通じ、商品売買から利益を得る資本
問題2(1) 倭寇(この時期は一般に前期倭寇) 14世紀を中心に朝鮮半島などを襲った海上勢力
問題2(2) 征西将軍(征西大将軍とも表記) 南朝側が九州へ派遣した懐良親王の地位
問題2(3) 花の御所(室町殿・室町第) 1378年に足利義満が京都・室町に造営した政治拠点

ここからは、この答えがなぜ出てくるのかを、出来事の順番に追っていきましょう。

黒死病のあと、農民と領主の力関係が変わった

話は14世紀半ばのヨーロッパから始まります。

1340年代後半、黒死病と呼ばれるペストの大流行がヨーロッパを襲いました。イングランドでも人口が大幅に減少したと考えられており、農村と都市の双方で働き手が不足します。

人が余っている時代なら、領主や雇い主は「代わりはいくらでもいる」と考えられます。しかし働ける人そのものが少なくなると、事情は逆転します。

労働を提供できる農民や職人の交渉力が上がり、賃金や土地をめぐる条件にも変化が生まれたのです。

農民の地位向上に、支配する側も抵抗した

ただし、「ペストで農民が自由になりました」と一直線に覚えるのは危険です。

領主や政府の側から見れば、従来より高い賃金を要求されたり、農民が条件のよい土地へ移動したりすることは、自分たちの収入や支配力を揺るがします。

そこで賃金や労働移動を抑えようとする政策、従来の負担を維持しようとする動きが現れました。問題文でいう「封建反動」は、そのような支配側の巻き返しを表す教科書的な整理です。

ただし、黒死病から農奴制の衰退までを一つの原因だけで説明することはできません。地域差が大きく、農民の地位変化も長い時間をかけて進みました。

1381年、積み重なった不満がワット・タイラーの乱へ

黒死病から約30年。1381年のイングランドで、大規模な反乱が起こります。

答えはワット・タイラーの乱です。英語では一般に「Peasants’ Revolt」と呼ばれます。

反乱は「農奴の不満」だけでは説明できない

農民たちが不満を持っていた背景には、労働条件や領主支配だけでなく、戦費を支えるための課税問題がありました。

とくに人頭税の徴収をめぐる緊張が直接的なきっかけとなり、エセックスやケントなどで反乱が拡大します。ワット・タイラーらの集団はロンドンへ進み、若い国王リチャード2世と向き合うところまで進みました。

つまり、覚え方としては、

  • 黒死病による人口減少
  • 労働力不足による農民側の交渉力上昇
  • それを抑えようとする支配側の動き
  • 戦費負担と人頭税への反発
  • 1381年の大反乱

という順番にすると理解しやすくなります。

「黒死病が直接ワット・タイラーの乱を起こした」のではなく、黒死病後に変わった社会関係と課税問題などが重なったと考えるのが大切です。

反乱そのものは鎮圧されたが、社会は元には戻らなかった

ワット・タイラーは国王との会談の最中に殺害され、反乱は最終的に鎮圧されます。

ですから「農民反乱が成功して、その日に農奴制が廃止された」と考えるのは誤りです。

それでも人口減少によって生じた労働力不足という現実は消えませんでした。その後のイングランドで農奴制的な束縛が弱まっていく流れを考えるうえで、黒死病後の社会変化と1381年の反乱は重要な出来事になります。

同じ時代、教会の権威にも疑問を投げたウィクリフ

農村で領主の支配が揺れていたころ、宗教の世界でも従来の権威に疑問を投げかける人物がいました。

問題1(2)の答え、ジョン・ウィクリフです。

ウィクリフはオックスフォードに関係した神学者・思想家で、教会が巨大な富と権力を持つことを批判し、信仰の根拠として聖書を重視しました。

なぜ聖書を英語で読むことが重要だったのか

ここで注目したいのは「英訳」という出来事です。

中世西欧の教会世界ではラテン語が重要な宗教言語でした。一方、一般のイングランド人の日常語は英語です。

もし信仰の最終的な拠り所が聖書そのものだと考えるなら、人々が自分たちの言葉で聖書へ近づけることには大きな意味があります。

ウィクリフの思想と結び付いた英語聖書は、こうした意味で後世の宗教改革を考える際の重要な先駆となりました。

「ウィクリフが一人で聖書全巻を英訳した」は単純化しすぎ

歴史問題では「聖書を英訳したウィクリフ」と覚えることが多く、解答としてはそれで問題ありません。

ただし研究上は、ウィクリフ本人が一人で旧約・新約の全巻を翻訳した、と断定しない方が正確です。

ケンブリッジ大学図書館の解説でも、ウィクリフは初期の英語聖書翻訳を「鼓舞した人物」として説明されています。一方、オックスフォード大学系の解説では、ウィクリフとその支持者たちによる翻訳運動として紹介されています。

試験では「人物名=ジョン・ウィクリフ」を答えつつ、歴史を深く理解するなら「ウィクリフ派による英語聖書成立」と捉えておくとよいでしょう。

都市ではギルドが力を持ち、その閉鎖性も問題になった

農村や教会だけではありません。中世都市でも社会の仕組みは変化していました。

問題1(3)の①はギルドです。

ギルドは、商人や手工業者が職業上の利益や秩序を守るためにつくった団体です。都市によって形は異なりますが、商品の品質、取引、徒弟制度、職業への参入などに関わりました。

ギルドは最初から「悪い独占組織」だったわけではない

ギルドには、品質を一定に保つ、職人を養成する、構成員を相互扶助するなどの機能もありました。

しかし、既存の親方や有力者の利益を守る力が強くなれば、新規参入者にとっては壁にもなります。

加入資格や営業条件を厳しくすれば、「秩序を守る制度」は同時に「外から入る者を排除する制度」にもなり得るわけです。

したがって、問題文の「排他的な組織へと変質した」という説明は、ギルドが持っていた規制機能の閉鎖的な側面に注目した表現と考えるとよいでしょう。

②の商業資本は「組織名」ではない

②は商業資本です。

ここはギルドと並べて覚えるため、同じ種類の団体名のように感じるかもしれません。しかし性格が違います。

ギルドは組織・制度を示す語で、商業資本は商品を売買し、その差益などによって富を増やしていく資本のあり方を示す語です。

遠隔地との交易が盛んになれば、大量の商品や資金を動かせる商人が大きな力を持つようになります。そうした富裕商人が都市政治で影響力を強めることもありました。

ただし、中世ヨーロッパのすべての都市で「ギルドが衰え、その代わりに商業資本家が市政を奪った」という同一の順序が起きたわけではありません。都市・地域・時代による違いがあります。

西欧から東アジアへ|14世紀後半、今度は海が揺れ始める

ここで舞台を大きく東へ移します。

14世紀後半の東アジアでは、中国では元が衰えて明が成立し、朝鮮半島では高麗末期から朝鮮王朝成立へ向かい、日本では南朝と北朝が争っていました。

つまり、日本・朝鮮半島・中国のいずれも政治秩序が動いていた時期です。

その不安定な海域で存在感を強めたのが、問題2(1)の答えである倭寇です。

倭寇とは何者だったのか|海賊という一語では見えにくい実像

14世紀を中心とする倭寇は、一般に前期倭寇と呼ばれます。

朝鮮半島沿岸などを襲い、人や物資を奪う行動を繰り返したため、高麗や明にとって深刻な外交・軍事問題になりました。

日本側では対馬・壱岐や北部九州など、朝鮮半島と海を隔てて向き合う地域が深く関係しました。

地図を見ると、なぜ対馬と壱岐が重要なのか分かる

日本列島だけを見ていると、対馬や壱岐は「西の端にある島」に見えるかもしれません。

ところが朝鮮半島まで含む地図にすると印象は変わります。九州北部から壱岐・対馬を経て朝鮮半島南岸へ至る海域は、人や商品が古くから行き交った交通空間でした。

交易が行われる海は、政治秩序が弱くなれば略奪の舞台にもなります。

「倭寇=日本という国家が派遣した海賊」ではない

ここは現代の国境感覚をそのまま中世へ持ち込まないことが大切です。

国立歴史民俗博物館では、中世の日朝交流を国家や民族だけで捉えるのではなく、実際に海を渡った人々の活動から捉え直す研究が進められています。

したがって問題文にある「日本人主体」という学校学習上の整理を押さえながらも、倭寇を現代的な意味で一枚岩の「日本人海賊団」と考えないことが重要です。

海上交易、密貿易、地域勢力、武力行動が複雑に重なっていた世界として見た方が、当時の東アジア海域に近づけます。

明の洪武帝が向き合った「日本側の相手」は懐良親王だった

1368年、朱元璋が明を建国し、洪武帝となります。

新しい王朝にとって、沿岸を荒らす倭寇への対応は重要な問題でした。そこで明は日本側へ倭寇の取り締まりなどを求めます。

ところが当時の日本は南北朝時代です。京都の室町幕府だけを見ても、日本全土を完全に統一していたわけではありません。

九州で大きな勢力を持っていたのが、南朝側の懐良親王でした。

③は「征西将軍」

問題2(2)の答えは征西将軍です。史料や文献では「征西将軍宮」「征西大将軍」などの表記も見られます。

国立国会図書館の資料にも「征西将軍宮懐良親王令旨」と題された史料が確認できます。

懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、南朝勢力を九州に広げる役割を担いました。菊池氏などの支援を受け、一時期には九州で非常に大きな政治的影響力を持っています。

なぜ中国皇帝が懐良親王に話を持っていったのか

ここは問題の面白いところです。

現代の感覚なら、中国から日本政府へ外交文書を送るなら「中央政府の代表者」に届けると思うでしょう。

ところが14世紀の日本には南朝と北朝があり、九州には懐良親王を中心とする独自の政治勢力が存在していました。

明から見れば、倭寇との関係が深い北部九州に強い影響を持つ人物と交渉することには現実的な意味があります。

実際、懐良親王と明の関係は最初から単純な服従関係だったわけではありません。強硬な応酬を経ながら外交関係が変化し、のちには明側から「日本国王良懐」と扱われる局面も生じました。

この出来事は、「誰が日本を代表するのか」が外国から見ても定まっていなかった南北朝期の複雑さをよく表しています。

1378年、足利義満は京都・室町に「花の御所」を築いた

東アジアの海で倭寇と明の外交問題が続く一方、京都では室町幕府3代将軍足利義満が力を伸ばしていました。

1378年、義満は京都の北小路室町付近に新しい邸宅を完成させます。

問題2(3)の答えは花の御所です。

正式には室町殿・室町第などと呼ばれ、花の多い美しい庭園を備えていたことから「花の御所」と呼ばれるようになりました。

「室町幕府」という名前にもつながる場所

京都市の解説によれば、義満の新邸宅は北小路室町に置かれ、その場所が政治の中心となりました。

そして、この「室町」という地名が、後世の「室町幕府」「室町時代」という呼び名につながります。

私たちは「室町幕府」を最初から決まった政権名のように覚えますが、もとをたどれば京都の具体的な場所の名なのです。

豪華な邸宅だっただけではない

花の御所を単なる「義満の豪邸」として覚えると、本質を半分しか捉えられません。

義満は武家の棟梁であると同時に、朝廷の官位を上昇して公家社会にも深く入り込んでいきました。

花の御所は、武家政権の政治を行う場であるだけでなく、公家・寺社・有力武士との関係を結ぶ中心でもあります。

「花の御所=きれいな邸宅」ではなく、「義満が京都の政治秩序の中心へ近づいていく象徴的な政治空間」と捉えると意味が見えてきます。

1392年、南北朝合一へ|義満が進めた政治秩序の再統合

義満が花の御所を造営した1378年の時点では、日本の南北朝分裂はまだ続いていました。

その後、幕府内の有力守護を統制しながら義満は権力を強め、1392年には南朝と北朝の合一が実現します。

ここで問題2の三つの答えが一本につながります。

  • 東アジア海域では倭寇が活動していた
  • 九州では南朝の征西将軍・懐良親王が大きな勢力を持った
  • 京都では足利義満が花の御所を拠点に権力を集中した
  • やがて1392年の南北朝合一へ進んだ

つまり、倭寇、懐良親王、花の御所はバラバラの暗記事項ではありません。

「分裂していた日本の政治権力が、義満の時代に再び一つの秩序へまとめられていく途中の出来事」として読むことができます。

二つの問題を結ぶもの|14世紀は「古い秩序がそのままでは続かなくなった時代」

西欧と東アジアをもう一度並べてみましょう。

地域 従来の秩序を揺らしたもの 起きた変化
イングランド農村 黒死病による人口減少・労働力不足 農民と領主の力関係が変化し、1381年の反乱へ
イングランド宗教界 教会の富・権威への批判 ウィクリフが聖書を重視する改革思想を展開
西欧都市 交易と富裕商人の成長 ギルドの規制と商業資本の力がせめぎ合う
東アジア海域 元末・高麗末、日本の南北朝分裂など 倭寇が活発化し、各政権が対応を迫られる
九州 南朝と北朝の争い 征西将軍懐良親王が大きな勢力を形成
京都 南北朝分裂と幕府内の権力競争 義満が花の御所を中心に権力を集中し、南北朝合一へ

もちろん、西欧と東アジアで同じ原因から同じ変化が起きたわけではありません。

それでも14世紀を「危機と再編の時代」と見ると、問題文に並んでいた固有名詞が出来事として立ち上がってきます。

誤解しやすいポイントを最後に整理

ワット・タイラーの乱は黒死病だけが原因ではない

黒死病後の社会変化は重要な背景ですが、人頭税、戦費、労働統制、領主への不満など複数の要因が重なっています。

反乱の直後に農奴制が廃止されたわけではない

反乱は鎮圧されています。農奴制的な束縛の後退は、その後も長い社会経済変化のなかで進みました。

ウィクリフが一人で英語聖書全巻を翻訳したとは限らない

試験問題ではウィクリフが正答ですが、実際の翻訳事業には彼の思想を受けた協力者・後継者が関わりました。「ウィクリフ派の英語聖書」と理解すると正確です。

ギルドと商業資本は同じ種類の言葉ではない

ギルドは組織、商業資本は資本の運動・あり方を示します。また、ギルドが一斉に消滅して商業資本に置き換わったわけでもありません。

倭寇を近代的な「日本国の海賊軍」と考えない

中世の海域では、国家の境界と人々の活動が現代ほど一致していません。学校学習では前期倭寇を日本人主体と整理しますが、海上勢力の実態はより複雑です。

「征西将軍」と「征西大将軍」は資料によって表記がある

今回の空欄は「(③)将軍懐良親王」という形式なので、③に入る答えは征西です。人物の職名としては「征西将軍」「征西大将軍」「征西将軍宮」といった表記が確認できます。

花の御所は金閣ではない

花の御所は1378年に造営された室町殿です。義満がのちに造営した北山第、現在の金閣寺で知られる鹿苑寺とは別の場所です。

まとめ|答えを「事件の前後」で覚えると忘れにくい

今回の問題で覚えたい答えは、ワット・タイラーの乱、ジョン・ウィクリフ、ギルド、商業資本、倭寇、征西将軍、花の御所です。

しかし答えだけを横に並べると、しばらくすれば記憶から抜けてしまいます。

まず西欧では、黒死病→労働力不足→農民と領主の力関係の変化→支配側の統制→1381年ワット・タイラーの乱という流れをつかみましょう。その横で、ウィクリフによる教会権威への批判と、都市におけるギルド・商業資本の変化を置きます。

東アジアでは、元・高麗末期と日本の南北朝の動乱→前期倭寇の活動→洪武帝と征西将軍懐良親王の交渉→足利義満の権力集中→1378年花の御所→1392年南北朝合一という順番です。

人物名や用語を覚える前に、「その直前に何が起き、その人物や制度が何を変えたのか」を一つずつ結ぶ。それが今回の問題を最も整理しやすい方法です。

参考資料