1970年代に何が変わった?鄧小平・オイルショック・田中角栄を一本の流れで読む

大学受験歴史

問題1|中国の政策転換

1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)を大きな転機として、四つの現代化と改革・対外開放を進める路線を主導した人物は誰ですか。

問題2|世界の石油危機

1973年の第四次中東戦争を背景に、石油の供給制限や価格高騰が起こり、日本を含む世界経済に大きな打撃を与えた出来事は何ですか。

問題3|日本の外交

1972年に北京を訪れ、周恩来首相との協議を経て日中共同声明に署名し、中華人民共和国との国交正常化を実現した日本の首相は誰ですか。

答えは、鄧小平、第一次オイルショック(第一次石油危機)、田中角栄です。時系列では、1972年の国交正常化、1973年の石油危機、1978年の中国の政策転換という順になります。

1970年代には、東アジアの外交関係、成長を支える資源の条件、中国の経済政策が大きく変わりました。三つの出来事を並べ、何が背景にあり、どのような変化が生まれたのかを追ってみましょう。

田中角栄と1972年の日中国交正常化

田中角栄首相は、1972年9月25日から30日まで中華人民共和国を訪問しました。周恩来国務院総理らと協議し、9月29日、北京で日中共同声明が発出されます。

共同声明の署名者は、日本側の田中角栄首相と大平正芳外相、中国側の周恩来国務院総理と姫鵬飛外交部長の四人です。設問は日本の首相を尋ねているため、答えが田中角栄になります。

米中接近と、中国の国連代表権

1949年に中華人民共和国が成立した後も、東アジアには冷戦の対立構造があり、日本は台湾の中華民国政府との外交関係を維持していました。その国際環境が、1970年代初めに動きます。

時期 外交上の変化
1971年10月 国連総会決議2758が採択され、中華人民共和国政府の代表が国連で中国を代表する
1972年2月 ニクソン米大統領が中国を訪問し、米中接近が進む
1972年9月 田中首相が訪中し、日中共同声明によって国交正常化が実現する

田中内閣の外交を理解する際には、首相の判断とともに、米中接近や国連代表権の変化を背景として押さえます。冷戦下の外交秩序が変わるなかで、日本も中国との関係を見直したのです。

1972年の日中共同声明と国交正常化を考える学習用概念画像
日中共同声明を題材にした学習用の概念画像。署名者の肖像や実際の会場を再現したものではありません。

共同声明が変えた外交関係

日中共同声明は、両国間のそれまでの不正常な状態を終わらせ、日本政府が中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認することを示しました。両国は1972年9月29日から外交関係を樹立することを決めます。

正常化に伴い、日本と台湾の中華民国政府との外交関係は終了しました。日本と中華人民共和国の関係が成立するとともに、従来の外交関係も組み替えられた点が、この出来事の重要な意味です。

1978年には日中平和友好条約が締結されます。同じ年の中国では、経済建設と改革を重視する政策転換が進みました。外交関係の整備と、その後の対外開放は、日中の経済関係を考える土台となります。

第一次オイルショック|石油の価格が企業と家計に及ぶ

第一次オイルショックは、1973年10月の第四次中東戦争を背景として起きた世界的な石油危機です。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の産油国が減産や一部の国への禁輸を進め、産油国による価格引き上げも重なり、原油価格が急騰しました。

第四次中東戦争は戦争、第一次オイルショックは石油供給や価格の変化による経済危機です。戦争を背景に、産油国の政策が世界の企業活動や暮らしへ波及した、と順に捉えると区別できます。

輸入石油に依存した日本への影響

高度経済成長期の日本では、鉄鋼、石油化学、自動車、電機などの産業が拡大し、その生産を海外から輸入する石油が支えていました。石油は燃料に加え、化学製品の原料としても使われます。

価格上昇が伝わる経路 企業や家計への影響
工場の燃料費、化学製品の原料費が上がる 生産費が増え、企業の利益や投資に響く
輸送費が上がる 商品を届ける費用が増える
商品や生活用品の価格に波及する 家計が物価上昇に直面する

当時は、トイレットペーパーの買い占め騒動も起きました。供給への不安が人々の行動に表れた具体例であり、背景には石油価格の高騰が生産や生活全体を揺らす問題がありました。

高度成長から低成長へ

1974年の日本経済は、戦後初のマイナス成長を記録しました。第一次オイルショックは、高度経済成長から低成長へ移る大きな直接的契機となります。資源を大量に輸入して生産を拡大する仕組みの弱さが表面化したのです。

日本経済は石油危機の前から、為替制度の変化や物価上昇にも直面していました。高度成長の終わりは、石油危機を大きな要因としながら、複数の変化が重なった結果として理解します。

危機を経て、企業や政府は省エネルギーと効率の向上を重視しました。その後も経済成長は続きますが、それまでの高い成長率を前提とする時代から、資源を効率よく使う取り組みがいっそう求められる時代へ移ります。

輸入への依存と、エネルギー安全保障

国際エネルギー機関(IEA)は、1973~1974年の石油危機で工業国の輸入石油への依存による弱さが明らかになったと振り返っています。IEAは1974年、石油供給の途絶に共同で対応する仕組みを整えるために設立されました。

特定の資源や輸入経路に大きく依存すると、国外の紛争や供給障害が国内の生産費や物価へ伝わりやすくなります。石油危機の経験は、資源をどこから調達するか、供給が途絶えた際にどう備えるかを考える手がかりにもなります。

鄧小平と1978年の政策転換

鄧小平は、文化大革命期に失脚を経験し、1977年7月に主要な党・国家・軍の指導職へ復帰しました。翌1978年12月の三中全会は、改革と経済建設を重視する路線の大きな転機です。

1977年は鄧小平の主要職復帰、1978年は三中全会を節目とする政策転換。人物が職務に戻る時期と、政策の方向が前面に出る時期を分けると、近い年号を整理できます。

四つの現代化とは何か

四つの現代化は、農業・工業・国防・科学技術の近代化を進める国家目標です。以前から提起されていた目標が、1978年の三中全会で改革の主要目標として確認されました。

文化大革命後の立て直しのなかで、経済建設と現代化を重視する方向が強まりました。設問では、「中国―鄧小平―三中全会―四つの現代化―改革開放」を組み合わせて押さえます。

中国の四つの現代化と経済建設を考える学習用概念画像
四つの現代化と経済建設を表した学習用の概念画像。特定の地域の1978年当時の景観を示すものではありません。

改革・対外開放は段階的に進む

改革開放では、中国共産党による政治体制を維持しながら、市場の働きや海外の資本・技術を利用する方向が取られました。経済の仕組みを、段階的な改革と実験によって変えていきます。

世界銀行の改革年表では、1979年に対外開放、貿易・投資の改革が始まり、1980年に最初の四つの経済特区が設置されたと整理されています。深圳などの経済特区は、外国との貿易や投資を受け入れる仕組みの一つでした。

1978年を政策転換の重要な起点として、その後に制度が整えられ、中国と世界経済の結びつきが深まっていきます。この変化は、周辺国の貿易や投資にも関わり、すでに国交を正常化していた日本にも新たな経済関係を考える機会をもたらしました。

外交・資源・経済政策をつなげて読む

年 出来事 変わった条件
1972年 田中内閣による日中国交正常化 米中接近などを背景に、東アジアの外交関係が動く
1973年 第一次オイルショック 輸入石油に依存した生産と、高度成長の前提が揺らぐ
1978年 中国の三中全会 改革と経済建設を重視し、その後の対外開放へ進む

三つにはそれぞれ固有の経緯があります。比較の軸は、1970年代に政治と経済の条件がどう変わったかです。

外交関係の変化は貿易や投資の条件に関わり、海外の戦争や資源政策は国内の企業活動と家計に影響します。国際的な結びつきが深まるほど、海外の政治や供給網の変化にも目を向ける必要が生まれます。

復習|人物・出来事・背景・結果を組み合わせる

  • 田中角栄:米中接近などの背景→1972年の訪中→日中共同声明→国交正常化。周恩来、大平正芳、姫鵬飛も署名者。
  • 第一次オイルショック:第四次中東戦争→供給制限や価格高騰→物価上昇と景気悪化→低成長への移行と省エネルギーの重視。
  • 鄧小平:1977年の主要職復帰→1978年の三中全会→四つの現代化と改革→その後の対外開放。

答えを隠して、1977年と1978年の違い、戦争と石油危機の関係、共同声明の署名者と外交上の背景を説明してみましょう。用語を背景と結果に結びつけると、選択肢の判断や短い記述にも役立ちます。

参考資料

情報確認日:2026年10月11日