東アジア10世紀の転換点を解く|かな文字、平将門、念仏浄土信仰

大学受験歴史

問題1:東アジアの印刷文化
(1)唐代から用いられ、宋代の出版を支えた、同じ文章を多数複製する技術を(①)といいます。特に木の版を使う方式が広まりました。
(2)高麗では11世紀から仏教経典を集成した(②)を木版で刊行しました。13世紀には再刊のための版木制作や、金属活字の利用が進みました。
(3)8世紀の日本で、称徳天皇が戦没者供養などのために作らせ、印刷した陀羅尼を納めた小塔を(③)といいます。

問題2:かな文字と念仏信仰
(1)9〜10世紀に発達した、漢字の草書体を簡略化した文字が(④)、漢字の一部分を用いた文字が(⑤)です。905年、紀貫之らが編纂した最初の勅撰和歌集は(⑥)です。
(2)10世紀、京の市中で阿弥陀信仰を広め、「市聖」と呼ばれた僧が(⑦)です。「南無阿弥陀仏」と声に出して唱える実践を(⑧)といいます。
(3)985年に『往生要集』を著し、極楽浄土への往生について教えをまとめた僧が(⑨)です。

問題3:地方の武力と朝廷
(1)939年、常陸・下野・上野の国府を攻め、(⑪)を自称した下総国に拠点を持つ人物が(⑩)です。
(2)瀬戸内海で活動した(⑫)の反乱と合わせて、二つの元号を取って(⑬)の乱と呼びます。
(3)940年、藤原秀郷とともに将門を討った人物が(⑭)です。

問題4:中国と日本の絵画
(1)唐の玄宗に仕え、力強く変化に富む線描で知られ、人物画・宗教画や山水の表現をめぐる伝承を残した画家が(⑮)です。呉道子とも呼ばれます。
(2)宋代の宮廷画家による絵画は(⑯)、士大夫らの教養や思想を表す絵画は(⑰)と呼ばれます。
(3)中国の技法も取り入れ、日本の四季、名所、行事、物語などを描く絵画が(⑱)です。

答えと解説:18個の空欄を年代と結びつける

番号 答え 覚える要点
① 印刷術、特に木版印刷 宋代の出版の発達
② 高麗版大蔵経 仏教経典の集成と刊行
③ 百万塔 中に印刷した陀羅尼を納める
④ 平仮名 万葉仮名の草書体から発達
⑤ 片仮名 漢字の一部分を使う
⑥ 古今和歌集 905年、最初の勅撰和歌集
⑦ 空也 市聖・阿弥陀聖
⑧ 称名念仏 阿弥陀仏の名を声に出して唱える
⑨ 源信 985年、『往生要集』
⑩ 平将門 東国で国府を攻める
⑪ 新皇 将門が自称した君主の称号
⑫ 藤原純友 瀬戸内海の武装勢力
⑬ 承平・天慶 将門・純友の乱の総称
⑭ 平貞盛 藤原秀郷とともに将門を討つ
⑮ 呉道玄(呉道子) 唐代の画家、線描で知られる
⑯ 院体画 宮廷の絵画制作と結びつく
⑰ 文人画 士大夫の教養・思想を表す
⑱ 大和絵 日本の風物や物語を題材にする

10世紀前後の東アジアでは、書物を作る技術、日本語を記す文字、念仏の実践、地方の武力、風景を描く絵画がそれぞれ発達しました。宋の出版を支えた都市や教育、かな文学を育てた宮廷、念仏を広めた僧など、変化を担った人々と活動の場を合わせて見ると、名称と背景が結びつきます。

設問には、8世紀の百万塔から13〜14世紀の高麗の印刷までが含まれます。10世紀を中心に、先行する技術と後の展開を年代順に整理していきましょう。

深掘り1:木版印刷が書物の制作を変えた

宋の出版を支えた読者と版木

木版印刷は、文字や絵を左右反転した形で木の板に彫り、墨をつけて紙に写す技術です。一度版木を作ると、同じ内容を繰り返し刷れます。写本を一冊ずつ書き写す仕事に比べ、多数の本を作る際の負担が軽くなりました。

中国では唐代から木版印刷が用いられ、宋代に官府、寺院、民間の出版が発達しました。科挙の学習に使う儒教の経典や注釈書、仏教経典、歴史書などが刊行されます。都市の成長と学習需要が、書物を作り売る仕事を支えました。

版木には彫る手間がかかりますが、保存して再版できる利点があります。本文を整え、誤字を点検してから彫る校訂も大切でした。同じ版から刷れば、誤りも同じ形で複製されるためです。

11世紀には、畢昇が文字ごとの粘土製活字を用いたことが、沈括の『夢溪筆談』に記されます。活字は文字を組み替えて別の文章を作れます。一方、漢字は種類が多く、活字の用意や組版に手間がかかりました。多数の部数を繰り返し刷る用途では、木版も長く使われ続けます。

木版印刷の作業を題材にした創作イメージ
木版印刷を題材にした創作イラスト。工房や人物は一般化しています。

高麗版大蔵経と金属活字

大蔵経は、経・律・論などの仏教典籍を集めたものです。高麗では11世紀、契丹の侵入を受けた時代に、大蔵経の刊行が進められました。仏教を保護する王朝にとって、経典を整備する事業は信仰と国家の安泰への祈願を結びつけるものでした。

最初の版木は1232年、モンゴルの侵入による火災で失われました。その後、1237〜1248年に再び大規模な版木制作が行われます。現在、海印寺に保存される8万枚以上の版木は、この再刊事業に由来します。「八万大蔵経」という呼び名も、版木の規模を表しています。

高麗では13世紀前半に金属活字を使った印刷が行われた記録があります。その時期の印刷本は現存していません。現存する最古の金属活字印刷本として知られる『直指』は、1377年に刊行されました。初期の使用記録と、実物が残る年代を分けると正確です。

高麗版大蔵経の版木制作を題材にした創作イメージ
大蔵経の版木制作を題材にした創作イラスト。海印寺の実景を再現したものではありません。

日本の百万塔と、西方への技術の広がり

日本では764年の恵美押勝の乱の後、称徳天皇が戦没者の供養などを目的として、百万基の小塔を作らせました。770年までに完成し、印刷した陀羅尼を内部に納め、寺院に分置しました。塔が百万塔、その中の印刷物が百万塔陀羅尼です。

法隆寺などに伝わる陀羅尼は、制作年代を確認できる世界最古級の印刷物として重要です。印刷方法には木版説と銅の凸版説があり、用いた版の材質は確定していません。宋代の出版に先立つ、国家による大規模な印刷事業でした。

西方への広がりでは、製紙と印刷の経路を分けて見る必要があります。中国の製紙法は、中央アジア、イスラーム世界を経て西欧へ広がりました。ヨーロッパでも木版印刷が行われ、15世紀半ばにはグーテンベルクの活版印刷が発達します。東アジアの印刷術がムスリム商人を通じて直接ヨーロッパへ伝わったという経路は、史料上確定していません。

深掘り2:かな文字が日本語の表現を豊かにした

万葉仮名から平仮名・片仮名へ

万葉仮名は、漢字の音や訓を利用して日本語の音を記す方法です。その字形を草書体で書き、さらに簡略化した形から平仮名が発達しました。片仮名は、漢字の一部分を取り出す方式で、経典や漢文を読むための注記にも使われました。

かなは9〜10世紀にかけて発達し、日本語の語順や助詞、細かな語感を表しやすくします。和歌、手紙、日記、物語などで用いられ、書き手の思いや場面の描写を伝える表現が豊かになりました。漢文による政治や学問の記録も続き、用途に応じて複数の書き方が使われます。

『古今和歌集』と国風文化

905年、醍醐天皇の命で編纂が進められた『古今和歌集』は、最初の勅撰和歌集です。撰者は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人。紀貫之は仮名序を書き、和歌の意義を日本語で論じました。

歌は四季、恋、別れ、旅などの題材に沿って配列されます。勅撰という形式は、宮廷が和歌を重視し、選んだ歌を後に伝える仕組みにもなりました。かな文字の発達と、宮廷で歌を評価する文化が結びついた例です。

紀貫之の『土佐日記』も、かなによる表現を示します。男性の作者が女性の語り手を設定して記した作品です。続く11世紀初頭には、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』などが生まれます。国風文化は、大陸から受け継いだ知識や技法を、日本語と宮廷生活に即して発展させた文化として捉えられます。

深掘り3:空也と源信が広めた阿弥陀信仰

阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを願う信仰が、浄土信仰です。空也は10世紀に各地を歩き、京の市中でも阿弥陀信仰を広めました。道や橋を整えるなどの社会活動も伝わり、人々から市聖、阿弥陀聖と呼ばれます。

「南無阿弥陀仏」と声に出して唱える行が称名念仏です。仏の名を唱える実践は、僧の布教とともに寺院の外にも伝わりました。空也に関する設問では、「誰が」「どこで」「どの実践を広めたか」を組にして覚えると、⑦と⑧が結びつきます。

天台僧の源信は、985年に『往生要集』を著しました。仏教の経典や論書を引用し、地獄などの苦しみと極楽の安らぎを描き、往生を願う修行についてまとめています。阿弥陀仏や浄土を心に思い描く観想も重要な行でした。

この書は、貴族社会の浄土信仰や、阿弥陀仏が臨終に迎えに来る様子を描いた来迎図などにも影響を与えます。声による念仏、書物による教え、仏像や絵による表現が、信仰を支えました。

日本では1052年を末法の始まりとする考えが広く受け入れられました。『往生要集』の成立はその67年前です。浄土信仰の発達には、先行する経典・修行の伝統と、社会不安や後の末法意識が重なっています。

深掘り4:将門の乱と地方武士の力

10世紀、地方では、所領や国司・在地勢力の関係をめぐる紛争に、武装した人々が関わるようになりました。平将門も、下総国に拠点を持ち、935年から一族などとの争いを重ねています。

939年には、常陸、下野、上野の国府を攻めました。国府は国司の行政拠点です。将門は新皇を自称し、国司を置くなど、朝廷の任命による地方支配に対抗する動きを進めます。私的な紛争から、朝廷の統治に関わる反乱へと拡大したことが重要です。

940年、平貞盛と藤原秀郷らが将門を討ちました。朝廷は追討を命じ、討伐の働きに官位や恩賞を与えます。地方に基盤を持つ武装者の実力と、それを公的に位置づける朝廷の権威が、反乱の鎮圧を支えました。

同じころ、瀬戸内海では藤原純友が率いる武装勢力が活動し、941年には大宰府を攻めました。小野好古らの追討軍に敗れ、乱は終わります。将門・純友の反乱を合わせた名称が、承平・天慶の乱です。両者の具体的な連携を示す確実な史料はありません。

これらの反乱と鎮圧は、東国や瀬戸内海の武力が、朝廷の政治にとって大きな問題となったことを示します。武士が地方で力を蓄え、朝廷や貴族との関係を通じて地位を得ていく過程に位置づけられます。

深掘り5:山水画と大和絵の発達

唐の画家と、五代・宋の山水画

唐の呉道玄、別名呉道子は、玄宗の宮廷に仕えた画家です。人物画や仏教・道教の壁画、勢いと変化に富む線描で知られ、山水の表現に関する記録も残ります。確実な真筆が確認されていないため、その評価は文献や後世の伝承によって考える必要があります。

唐では、李思訓らの青や緑を用いた山水と、後世に水墨山水の祖とされた王維も重要です。五代には、北方の荊浩・関仝、江南の董源・巨然などが、地域の山や川を描く表現を発達させました。宋の范寛、郭熙、李唐らは、山の構成や遠近、樹木や岩の描写を深めます。

宮廷の画家が制作した絵画は、院体画と呼ばれます。山水、花鳥、人物などを描き、自然の観察や精緻な描写、詩に結びつく主題が重視されました。文人画は、士大夫らの教養、思想、筆を使う個性を表す絵画です。宋の蘇軾らの議論は、後の文人画にも影響しました。

両者を覚える際は、画家が活動した場と、制作で重視した点に注目します。宮廷画家にも水墨の作品があり、文人の作品にも彩色が用いられます。南宗・北宗という系譜の分類は、16〜17世紀の董其昌らが論じた、後世の絵画観です。

山水を描く画家の創作イメージ
山水を描く場面の創作イラスト。画家や作品は一般化しています。

日本の風物を描く大和絵

日本の宮廷では、中国の故事や風景を描く唐絵と、日本の四季、名所、年中行事などを描く大和絵が制作されました。大和絵は、中国から伝わった構図や筆の技法を取り入れながら、日本の題材を表現していきます。

9世紀後半に活躍した巨勢金岡は、宮廷の絵画に関わった重要な画家です。確実に本人作と認められる絵が残っていないため、具体的な画風は慎重に考える必要があります。続く時代の屏風、障壁画、物語を描く絵巻などに、日本の風景や生活を表す技法が展開しました。

11世紀の国宝『山水屏風』には、中国の故事を題材にした唐絵でありながら、穏やかな山や身近な情景を感じさせる表現があります。題材と技法の受け継がれ方を見ると、中国絵画と日本の宮廷絵画の交流を具体的に捉えられます。

年代を押さえて四つの問題をつなぐ

  • 8世紀:百万塔陀羅尼の制作。唐では呉道玄らが活動。
  • 9〜10世紀:かな文字の発達。905年の『古今和歌集』、将門・純友の乱、空也の活動、985年の『往生要集』。
  • 五代〜宋:山水画と出版文化が発達。11世紀の畢昇の活字、高麗での大蔵経刊行。
  • 13〜14世紀:高麗版大蔵経の再刊、金属活字の使用記録、1377年の『直指』。

書物の制作には読者と技術、かな文学には宮廷の交流、念仏信仰には僧の実践と経典、地方の武力には所領と公的な権威が関わりました。絵画は、画家の活動の場と、受け継いだ題材・技法によって発達します。答えの名称に、年代、担い手、発達した理由を添えると、18個の空欄が歴史の中で位置づきます。

参考資料