海峡をまたいだ王国は、なぜ英仏に分かれたのか|百年戦争へ続く王たちの物語

コラム

イギリスとフランスは、ドーバー海峡を挟んだ隣国です。

近い国同士でありながら、歴史を振り返ると、両国は何度も戦い、外交や文化の面でも互いを強く意識してきました。そのため、現在でも「イギリス人とフランス人は、基本的に仲が悪い」と語られることがあります。

しかし、その理解だけでは少し単純すぎます。

現在のイギリスとフランスは、防衛や安全保障で緊密に協力する同盟国です。一方で、長い歴史から生まれた競争意識や、相手をからかう文化が今も残っています。

英仏の関係を理解する鍵は、最初から別々だった二つの国が戦ったと考えないことです。

中世のある時期、イングランド王とフランス諸侯の世界は、海峡を越えて一つにつながっていました。王家は血縁で結ばれ、同じ人物がイングランドでは国王、フランスでは一人の領主として振る舞っていたのです。

やがて、その入り組んだ関係がほどけていきます。領地を奪われた王は取り返そうとし、力を増した王は国内から外国勢力を追い出そうとしました。

その長い物語の果てに起きたのが百年戦争です。

時計の針を、1337年からさらに400年以上巻き戻してみましょう。物語の始まりに現れるのは、イングランド人でもフランス人でもありません。

北の海からセーヌ川へ入ってきた、ヴァイキングたちです。

北から来たヴァイキングが、フランスの領主になった

9世紀末の西ヨーロッパでは、海岸に船影が見えるだけで、人々が不安に包まれました。

細長い船を操るヴァイキングは海岸を襲うだけではありません。川を道のように使い、内陸へ深く入り込みました。西フランク王国では、セーヌ川が彼らの進入路となり、流域の町や修道院が繰り返し脅かされます。

西フランク王シャルル3世は、襲来する集団を武力だけで追い払い続けることは難しいと考えました。

そこで911年ごろ、ヴァイキングの首領ロロに、セーヌ川下流域を中心とする土地の支配を認めます。その代わり、ロロは王との関係を結び、ほかのヴァイキングから地域を守る役割を負いました。

この合意は、一般にサン=クレール=シュル=エプト条約と呼ばれています。ここから、後のノルマンディー公国につながる支配領域が生まれました。

「ノルマンディー」という名前は、「北方の人々」を意味するノルマン人に由来します。

ただし、ロロの子孫たちは、北欧の習慣をそのまま守り続けたわけではありません。キリスト教を受け入れ、現地の人々と婚姻関係を結び、フランス語と西フランク社会の制度を身につけていきました。

数世代が過ぎるころには、彼らは略奪者というより、城を築き、騎士を従え、教会を保護する有力なフランス諸侯になっていました。

ここには、後の歴史を理解するうえで大切な順序があります。

ノルマン人は、イングランドからフランスへ進出した人々ではありません。先にフランス北部へ定住し、フランス語を話す領主となった後で、イングランドを征服したのです。

海峡を渡った公爵が、イングランド王になった

それから約150年後の1066年、イングランド王エドワード証聖王が亡くなりました。

明確な後継者が定まっていなかったため、イングランドでは有力貴族ハロルド・ゴドウィンソンが王に選ばれます。

ところが、海峡の向こう側で、この決定に異議を唱えた人物がいました。ノルマンディー公ウィリアムです。

ウィリアムは、自分にはイングランド王位を継ぐ権利があると主張しました。彼が軍を率いて海峡を渡ったことで、王位継承争いは戦争へ変わります。

1066年10月14日、両軍はイングランド南部のヘースティングズ付近で衝突しました。

激戦の末にハロルドは倒れ、ウィリアムが勝利します。ノルマンディー公ウィリアムは、同年のクリスマスにイングランド王ウィリアム1世として戴冠しました。

これがノルマン・コンクエストです。

新しい王は、ノルマンディーから従ってきた家臣たちにイングランドの土地を与えました。アングロ・サクソン系の有力者に代わり、フランス語を話す貴族が王国の上層を占めるようになります。

各地には城が築かれ、教会や統治組織も再編されました。王侯貴族の社会では、長くフランス語が重要な言語として使われます。

しかし、もっと大きな変化は地図の上に現れました。

ウィリアムはイングランド王になっても、ノルマンディー公であることをやめたわけではありません。

イングランドでは、他国の王に臣従しない国王です。ところがノルマンディーについては、フランス王国内に領地を持つ公爵として、フランス王との封建的な関係に置かれていました。

一人の人物が、海峡の片側では王、もう片側では家臣だったのです。

近代国家の感覚では、不自然に思えるかもしれません。

しかし、中世の政治は国境線だけでは動いていませんでした。重要だったのは、誰がどの土地を相続し、誰と結婚し、どの称号について誰に忠誠を誓っているかという関係です。

そのため当時のイングランド王家を、「フランスと対立するイングランド民族の王家」と決めつけることはできません。

彼らはイングランドを統治すると同時に、フランス語圏の政治社会に深く属する王家でもありました。

沈んだ一隻の船が、王朝の未来を変えた

ウィリアム1世の子孫は、イングランド王位とノルマンディー公位を受け継ぎました。しかし、王家の未来は一隻の船とともに揺らぎます。

1120年、イングランド王ヘンリー1世の嫡男ウィリアムを乗せたホワイトシップが、ノルマンディー沖で沈没しました。

王は正統な男子後継者を失います。

ヘンリー1世は娘マティルダを後継者に定めようとしました。マティルダは、かつて神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の皇后だったことから、「皇后マティルダ」とも呼ばれます。

皇帝の死後、彼女はフランス西部の有力諸侯、アンジュー伯ジョフロワと結婚しました。

ところが1135年にヘンリー1世が亡くなると、王の甥スティーヴンがイングランド王位を獲得します。マティルダはこれを認めず、イングランドは長い内戦へ入りました。

後世に「無政府時代」と呼ばれた争いです。

城主たちは王国の混乱に乗じて勢力を広げ、土地は荒れ、人々は二つの陣営の間で苦しみました。

長い戦いの末、スティーヴンは王位を保つ代わりに、マティルダの息子アンリを後継者とすることで和解します。

1154年、スティーヴンが亡くなると、アンリはイングランド王ヘンリー2世として即位しました。

母からはイングランド王家とノルマンディー公家の血筋を、父からはアンジュー伯領を受け継いだ王です。

こうして海峡の両側に散らばっていた土地は、再び一人の君主のもとへ集まり始めました。

一つの結婚が、フランス西部の地図を塗り替えた

ヘンリー2世の支配領域をさらに大きくしたのは、戦場での勝利ではありません。

一つの結婚でした。

相手は、フランス南西部に広大な領地を持つアキテーヌ女公アリエノールです。

アリエノールは、もともとフランス王ルイ7世の王妃でした。しかし、二人の結婚は1152年に解消されます。

その約2か月後、アリエノールはアンジュー伯アンリと結婚しました。アンリがイングランド王になる2年前のことです。

この婚姻によって、ヘンリー2世の一族はアキテーヌにも強い支配権を持つようになりました。

1154年以降、ヘンリー2世が直接または家族を通じて支配した領域には、イングランド、ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、トゥーレーヌ、ポワトゥー、アキテーヌ、ガスコーニュなどが含まれました。

この広大な領域は、後世の歴史家からアンジュー帝国と呼ばれています。

ただし、「帝国」という言葉から、統一された巨大国家を想像してはいけません。

アンジュー帝国には、共通の首都も、全領域を一律に治める法律も、近代国家のような国境もありませんでした。

ノルマンディーにはノルマンディーの制度があり、アンジューにはアンジューの慣習があります。アキテーヌにも独自の貴族社会がありました。

これらを一つに束ねていたのは、国民意識ではなく、ヘンリー2世という君主と、その家族を中心とする相続・婚姻・忠誠の網でした。

ヘンリー2世は、ロンドンの宮殿に腰を据えたまま統治していたわけではありません。海峡を渡り、ルーアン、アンジェ、ポワティエなどを移動しながら、それぞれの地域の貴族や聖職者と交渉しました。

ここで、ウィリアム1世以来の矛盾が一層大きくなります。

ヘンリー2世は、イングランド王としてはフランス王と並ぶ君主です。ところが、ノルマンディー公やアキテーヌ公としては、形式上フランス王の家臣でした。

しかも、ヘンリー2世の一族が支配するフランス領は、フランス王の直轄領よりはるかに広大でした。

主君より強い家臣が、王国の半分近くに影響を及ぼしている。その状態をフランス王がいつまでも受け入れるはずはありません。

百年戦争へ続く長い緊張は、この地図の中ですでに始まっていました。

フランス王は、海峡をまたぐ帝国を切り崩した

ヘンリー2世の死後、領地を受け継いだのは息子たちでした。

最初に王となったリチャード1世は、「獅子心王」の名で知られています。

彼はイングランド王でしたが、活動の中心は大陸側にありました。十字軍やフランス王との争いに多くの時間を費やし、イングランドに滞在した期間は長くありません。

当時の王にとってイングランドは、唯一の祖国というより、王家が保有する複数の領地の一つだったのです。

1199年にリチャード1世が亡くなると、弟のジョンが王位を継ぎました。

フランス王フィリップ2世は、ジョンと大陸諸侯の対立を巧みに利用します。ジョンをフランス王の家臣として裁く立場を取り、その領地へ攻勢をかけました。

1204年、フランス王軍はノルマンディーの主要部分を征服します。続いてアンジュー、メーヌ、トゥーレーヌなどもフランス王権の支配下へ入りました。

ヘンリー2世が築いた広大な領域は、わずか一世代ほどで大きく崩れます。

ジョンが日本で「失地王」と呼ばれるのは、この大陸領喪失に由来します。

しかし、イングランド王家がフランスに持つ土地を、すべて失ったわけではありませんでした。

南西部のアキテーヌ、とりわけガスコーニュ地方は、その後もイングランド王家との結びつきを保ちます。

この地域の中心都市ボルドーは、ワイン貿易で栄えていました。ボルドーから積み出されたワインは海を渡り、イングランドの都市や宮廷へ運ばれます。

イングランド王にとって、ガスコーニュは過去の栄光を示すだけの土地ではありません。豊かな収入と交易をもたらす、守る価値のある領地でした。

一方、フランス王にとっては、自分の王国内に外国の王が広い領地を持ち続けている状態です。

しかも、その外国王はアキテーヌ公としてフランス王に臣従しながら、海峡の向こうでは独立した国王として振る舞います。

イングランド王は、失った土地への権利を忘れない。フランス王は、国内に残ったイングランド王の領地を取り戻そうとする。

両者の争いは、王が代替わりしても消えませんでした。

王位継承とアキテーヌ問題が、百年戦争を始めた

14世紀になると、領土問題に王位継承問題が重なります。

1328年、フランス王シャルル4世が男子の後継者を残さず亡くなりました。カペー朝の直系男子が途絶えたため、フランスの諸侯は傍系ヴァロワ家のフィリップ6世を国王に選びます。

ところが、イングランド王エドワード3世にも、フランス王家の血が流れていました。

母イザベラは、フランス王フィリップ4世の娘です。エドワード3世は母を通じてカペー家の孫にあたり、フランス王位を要求できると主張しました。

ただし、百年戦争が王位の取り合いだけで始まったと考えるのは正確ではありません。

フランス王とイングランド王の間には、すでにアキテーヌの主従関係をめぐる争いがありました。そこへフランドルとの経済関係、スコットランドを含む同盟関係、反乱者の保護などが重なります。

1337年、フィリップ6世はアキテーヌ公領の没収を宣言しました。これに対抗するなかで、エドワード3世はフランス王位への主張を前面に出していきます。

こうして始まったのが、後に百年戦争と呼ばれる長い戦争です。

実際には、1337年から1453年まで絶え間なく戦い続けたわけではありません。休戦や和平交渉を挟みながら、複数の戦争が連続したものです。

百年戦争は、最初から「二つの国民」の戦争ではなかった

百年戦争と聞けば、イングランド人とフランス人が、それぞれの国旗のもとで戦う姿を想像しやすいでしょう。

しかし、戦争初期の世界は、それほど明確に二つへ分かれてはいませんでした。

エドワード3世の王家はフランス王家と血縁で結ばれ、宮廷文化もフランス語圏の伝統を強く受け継いでいました。イングランドの貴族のなかには、海峡の両側に親族や領地を持つ者もいます。

フランス王国内の諸侯も、常にフランス王へ一枚岩で従っていたわけではありません。地域ごとの利害や王家との関係によって、支持する陣営が変わることもありました。

そのため、百年戦争の初期には、次の二つの性格が重なっています。

  • イングランド王国とフランス王国が軍隊と財政を動員した、王国間の戦争
  • フランス王位とフランス国内の領地をめぐる、血縁関係のある王家・諸侯の内戦的な争い

「百年戦争はフランス国内の内戦だった」とだけ言い切るのも、「最初から近代的な英仏戦争だった」と考えるのも、どちらも十分ではありません。

王朝間の内戦的な争いが、長い戦争を通じて、二つの王国の対立へ変化していったと捉えると分かりやすくなります。

戦争が、イングランド王を「イングランドの王」へ変えた

戦争を始めることと、何十年も続けることは別の問題です。

エドワード3世がフランス王家の血を引いているというだけでは、長期にわたり税金と兵士を集め続けることはできません。

王は議会、貴族、都市、臣民に対し、戦争が王個人の相続問題ではなく、イングランド王国全体の利益につながると説明する必要がありました。

その過程で、戦争の語られ方が変わります。

フランス王位をめぐる一族の権利争いは、次第に「イングランド」と「フランス」の対立として説明されるようになりました。

フランス側では、海峡から来た軍勢を外部の侵入者として捉える意識が強まります。イングランド側でも、フランス人を敵国の人々として見る意識が広がっていきました。

言語にも変化が現れます。

ノルマン・コンクエスト後、イングランドの宮廷や貴族社会、法曹界ではフランス語が大きな役割を果たしていました。

しかし14世紀になると、公的な場で英語の重要性が増します。

1362年の法律では、一般の人々が法廷で使われるフランス語を十分に理解できないことを理由に、口頭での訴訟手続きを英語で行うことが定められました。

もちろん、この法律を境にフランス語が突然消えたわけではありません。記録にはラテン語が使われ、法曹界でもフランス語は残りました。

それでも、王権が臣民に語りかける言葉として、英語の存在感が増したことには大きな意味があります。

フランス語圏の王家がフランスの土地を求めて戦った結果、王はイングランドの人々から税と支持を得る必要に迫られました。

そのため王家は、以前よりも強く、英語を話す臣民の王家として振る舞うようになります。

皮肉なことですが、フランス王になろうとした戦争が、イングランド王を「イングランドの王」へ近づけたのです。

大陸領を失ったことで、二つの王国の輪郭が見えてきた

百年戦争の序盤では、クレシーの戦いやポワティエの戦いなど、イングランド側が大きな勝利を収めました。

15世紀初めには、ヘンリー5世がアジャンクールの戦いでフランス軍を破り、フランス王位に迫ります。

しかし、その優勢は長く続きませんでした。

ジャンヌ・ダルクの登場を象徴とするフランス側の反攻や、フランス王権の軍事・財政基盤の強化により、イングランド軍は大陸の領地を次々に失います。

1453年までに、イングランド王家がフランスに保持していた主要領土は、カレーを除いてほぼ失われました。

ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌ。これらは単なる海外領土ではありません。

かつてイングランド王家を支え、王家自身の故郷ともいえた土地です。

その土地を失ったことで、ノルマン・コンクエスト以来、海峡の両側にまたがっていた王家の政治世界は崩れていきました。

一方のフランス王は、国内の有力諸侯や外国王が支配していた土地を王権のもとへ集めます。もう一方のイングランド王は、大陸諸侯としての立場を失い、イングランドを中心とする統治へ比重を移しました。

つまり、百年戦争は完成した二つの国が衝突しただけの戦争ではありません。

海峡をまたいでつながっていた政治世界が分裂し、その過程でイングランド王国とフランス王国の境界が、以前より明確になっていった戦争です。

この歴史を知ると、現在の英仏関係はどう見えるか

現在の英仏関係を「昔から仲が悪い」の一言で説明することはできません。

両国は百年戦争後も数多くの戦争で敵対しましたが、20世紀には二度の世界大戦をともに戦い、現在は北大西洋条約機構の同盟国として防衛協力を行っています。

2010年にはランカスター・ハウス条約が結ばれ、防衛・安全保障面の協力が制度化されました。2025年には、両国政府がこの協力を現代化する「ランカスター・ハウス2.0」を発表しています。

その一方で、漁業、移民、欧州連合との関係など、利害が衝突する問題もあります。互いを競争相手として意識し、食文化、言語、政治姿勢をからかい合う伝統も残っています。

この複雑さは、中世の歴史とどこか似ています。

英仏は単なる敵ではありません。距離が近く、経済も安全保障も切り離せないからこそ、協力しながら競い、競いながら相手を必要としてきた隣国です。

百年戦争の歴史が教えてくれるのは、「憎み合う二つの国」の物語ではありません。

同じ政治文化と王家の世界を共有していた人々が、長い争いを通じて別々の王国へ分かれ、その後も互いを鏡のように意識し続けた物語なのです。

まとめ|英仏のライバル関係は、近すぎた歴史から生まれた

百年戦争の原因を、1337年のフランス王位継承問題だけで説明することはできません。

物語は、911年ごろにヴァイキングの首領ロロがセーヌ川下流域へ定住したことから始まりました。

1066年には、その子孫であるノルマンディー公ウィリアムがイングランド王となります。ここでイングランド王は、独立国の王であると同時に、フランス王国内の領主という二重の立場を持ちました。

12世紀には、ヘンリー2世とアリエノールの結婚により、海峡の両側へ広がるアンジュー帝国が成立します。

しかし、フランス王はこの広大な領域を切り崩し、イングランド王家はノルマンディーやアンジューを失いました。それでもアキテーヌとガスコーニュを保持したため、主従関係と領有権をめぐる争いが続きます。

そこへフランス王位継承問題が重なり、百年戦争が始まりました。

戦争が長期化すると、王家の相続争いは王国同士の戦争へ変化します。イングランド王は臣民と議会の支持を求め、フランス王は国内からイングランド勢力を追い出し、王国をまとめていきました。

そしてイングランド王家が大陸領を失ったことで、海峡をまたいでいた一つの政治世界は、二つの王国へ分かれます。

英仏が互いを強く意識するのは、遠い外国だからではありません。

同じ王家、同じ言語文化、同じ領地を長く分かち合い、近すぎる関係のなかで境界を作ってきたからです。

現在の英仏は、歴史的な競争意識を残しながらも、欧州の安全保障をともに担う重要な協力国です。

「英仏は仲が悪い」と感じる場面に出会ったときは、それを単純な敵意と決めつけず、深く結びついてきた隣国同士の競争と見ると、ニュースや外交の背景が理解しやすくなるでしょう。

参考資料