問題1(足利尊氏と南北朝の争乱):1333年、鎌倉幕府を滅ぼす立役者の一人となった下野国の御家人は誰ですか。また、彼は後に後醍醐天皇の建武の新政から離反し、持明院統の光明天皇を擁立して京都に幕府を開きましたが、この時期に始まった約60年にわたる動乱時代を何と呼びますか。
問題2(禅宗文化と南禅寺):室町幕府の保護下で、禅宗、特に臨済宗は大きく発展しました。足利義満が中国の制度に倣って整備した「五山・十刹」制度において、京都五山の上に置かれた別格の寺院は何ですか。
問題3(鎌倉末期の随筆文学):鎌倉時代末期から南北朝期にかけて、兼好法師によって記された、自然や人生を鋭い感性でつづった随筆は何ですか。
答えは、問題1が「足利尊氏」と「南北朝時代」、問題2が「南禅寺」、問題3が『徒然草』です。
ただし、この三つを別々の暗記項目として覚えるだけでは、14世紀の日本で何が起きていたのかは見えてきません。鎌倉幕府を倒した足利尊氏が、なぜ後醍醐天皇と対立したのか。争乱が続く一方で、なぜ禅宗文化や随筆文学が育ったのか。そこには、武士の政治、朝廷の分裂、寺院の組織化、そして不安定な社会を見つめる人々の心がつながっています。
鎌倉幕府が滅びた1333年、誰もが新しい安定した時代の到来を予想したわけではありません。むしろ、その後に待っていたのは、二つの朝廷が正統性を争い、武士たちも敵味方を変えながら戦う長い動乱でした。
その動乱のなかから室町幕府が形を整え、禅宗寺院を政治と文化の両面で支える仕組みが生まれます。同じ時代、兼好法師は人の欲、世間の評判、老い、死、自然の移ろいを静かに見つめ、『徒然草』に書き留めました。

最初に三つの答えと時代の流れを整理する
| 問題 | 答え | 押さえるべき出来事 | 誤解しやすい点 |
|---|---|---|---|
| 問題1 | 足利尊氏/南北朝時代 | 尊氏が鎌倉幕府打倒に加わった後、建武政権と対立し、京都の北朝を支えた | 1333年にただちに室町幕府と南北朝時代が始まったわけではない |
| 問題2 | 南禅寺 | 足利義満の時代に「五山之上」という別格の寺格に置かれた | 京都五山の第一位ではなく、五山全体の上に置かれた |
| 問題3 | 『徒然草』 | 兼好法師が鎌倉時代末期ごろに書いたとされる随筆集 | 自然を美しく描くだけの作品ではなく、人間観察や人生論も多い |
時系列で見ると、まず鎌倉幕府末期に兼好法師が生き、同じころに後醍醐天皇の倒幕運動が進みます。1333年には足利尊氏らの攻撃によって幕府が滅び、後醍醐天皇の建武の新政が始まりました。
ところが、尊氏と後醍醐天皇の関係はほどなく崩れます。1336年には京都の朝廷と吉野の朝廷が並び立つ状態となり、南北朝の争乱が本格化しました。その後、室町幕府の基盤が整えられ、3代将軍足利義満の時代になると、禅宗寺院を序列化する五山・十刹制度も整備されます。
つまり三問を貫く大きな流れは、鎌倉幕府の滅亡によって政治秩序が組み替えられ、その混乱のなかで室町幕府の政治と文化が形成されたことです。
問題1の答え|足利尊氏と南北朝時代
鎌倉幕府を滅ぼす立役者の一人となった御家人は足利尊氏で、二つの朝廷が並立した動乱期は南北朝時代と呼ばれます。
足利氏は清和源氏の流れをくむ有力御家人で、名字の由来となった本拠は下野国足利荘、現在の栃木県足利市周辺にありました。ただし、「下野国の御家人」という表現は足利氏の本拠や系統を示すものであり、尊氏の出生地を下野国と断定する言葉ではありません。
1333年、尊氏は鎌倉幕府の命令で西へ向かった
鎌倉幕府末期、後醍醐天皇は幕府を倒して天皇中心の政治を取り戻そうとしました。元弘の乱が起こると、幕府は後醍醐天皇方を討つため、足利尊氏を西国へ派遣します。
この時点の尊氏は、幕府を支える有力御家人の一人でした。しかし尊氏は、丹波国の篠村八幡宮付近で幕府に反旗を翻し、京都の幕府機関である六波羅探題を攻撃します。
六波羅探題は、朝廷の監視や西国の御家人の統率を担う、鎌倉幕府の重要拠点でした。その六波羅探題が陥落したことで、幕府は京都方面の支配力を失います。
同じころ、関東では新田義貞が鎌倉を攻めました。1333年、北条氏の鎌倉幕府は滅亡します。したがって、幕府を倒した人物を一人だけに絞るのではなく、尊氏は京都の六波羅探題を、新田義貞は鎌倉を攻略したと役割を分けて理解することが大切です。
建武の新政は何を目指したのか
幕府滅亡後、後醍醐天皇は天皇が政治を直接行う建武の新政を始めました。鎌倉幕府のような武家政権を再建するのではなく、天皇と朝廷を中心に全国を統治しようとしたのです。
尊氏は倒幕の功労者として高い地位を与えられました。「高氏」と名乗っていた尊氏が、後醍醐天皇の実名「尊治」から一字を与えられ、「尊氏」と改名したことも、当初の両者が単純な敵対関係ではなかったことを示します。
しかし、新政には多くの難題がありました。鎌倉幕府を倒すために戦った武士は、所領や恩賞を期待していました。一方、朝廷には公家や寺社の権利を回復し、天皇中心の秩序を築き直す目的があります。
土地の権利関係は複雑で、誰の主張を認めるかによって、別の誰かが不利益を受けました。新政への不満は、単に「公家ばかりが優遇され、武士が全員反発した」という一言では説明できません。地域、身分、所領の事情によって、武士たちの立場は異なっていたからです。
中先代の乱が尊氏の離反を決定的にした
1335年、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の子である北条時行が、信濃から鎌倉へ進軍しました。これが中先代の乱です。
尊氏は後醍醐天皇の許可を十分に得ないまま東国へ向かい、北条時行を破って鎌倉を奪回しました。その後、尊氏は鎌倉にとどまり、従った武士に恩賞を与え始めます。
これは、中央政府の命令を待たずに、尊氏が独自の政治的・軍事的判断を行ったことを意味します。後醍醐天皇は新田義貞らを尊氏追討へ向かわせ、両者の対立は武力衝突へ発展しました。
尊氏が離反した理由を「武士の味方だったから」「後醍醐天皇が嫌いだったから」と一つに決めつけるのは正確ではありません。恩賞や所領をめぐる問題、東国支配の必要、尊氏のもとへ集まった武士との関係、朝廷内部の対立など、複数の事情が重なっていました。

光明天皇の擁立と二つの朝廷
尊氏は一度京都へ進みましたが、後醍醐天皇方に敗れて九州へ退きます。九州で勢力を立て直した尊氏は再び東上し、1336年の湊川の戦いで楠木正成・新田義貞らの軍を破りました。
尊氏は京都へ入り、持明院統の光明天皇を擁立します。一方、後醍醐天皇は京都を離れ、吉野へ移って自らの朝廷を開きました。
こうして、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つことになります。この二つの朝廷の対立を軸に、各地の武士や寺社勢力が争った時代が南北朝時代です。
一般には1336年から、南北朝が合一した1392年までを南北朝時代とします。その期間は56年ほどです。そのため、教科書や問題文では「約60年」「半世紀余り」と表現されます。
「京都に幕府を開いた」の正確な順序
問題文では、尊氏が光明天皇を擁立して京都に幕府を開いたとまとめられています。大きな流れとしては正しいのですが、出来事の順序は少し分けて覚えた方がよいでしょう。
- 1336年、尊氏が京都へ入り、光明天皇を擁立する
- 同年、尊氏が政治方針を示す「建武式目」を制定する
- 後醍醐天皇が吉野に南朝を開き、二朝並立が明確になる
- 1338年、尊氏が北朝から征夷大将軍に任命される
室町幕府の開始年については、1336年の建武式目制定を重視する説明と、尊氏が征夷大将軍となった1338年を重視する説明があります。学校の問題では、使用している教科書や授業の整理に合わせる必要があります。
ただし、光明天皇を擁立した瞬間に、完成した幕府組織が一度に誕生したわけではありません。尊氏の政権は、戦いながら守護や奉行などの仕組みを整え、徐々に幕府として形を固めていきました。
なぜ南北朝の争乱は長引いたのか
南朝と北朝の争いは、単に二人の天皇が戦っただけではありません。武士にとっては、どちらの朝廷やどの武将に従えば、自分の所領を守れるかという現実的な問題でもありました。
さらに、北朝を支えた足利政権の内部でも対立が起こります。尊氏の弟・足利直義と、尊氏の執事・高師直の争いから発展した観応の擾乱では、幕府内部の武将が南朝と結ぶこともありました。
敵と味方の区別が固定されず、昨日まで北朝方だった武将が南朝方へ移る場合もあります。中央の争いは地方の所領争いと結びつき、全国へ広がりました。
最終的には、3代将軍足利義満の時代である1392年、南朝の後亀山天皇が京都へ入り、北朝の後小松天皇へ三種の神器を渡しました。これによって南北朝の合一が実現します。
問題2の答え|京都五山の上に置かれた南禅寺
五山・十刹制度で京都五山の上に置かれた別格の寺院は、南禅寺です。
南禅寺は京都市左京区にある臨済宗の寺院です。もとは亀山上皇の離宮であった禅林寺殿を寺に改めたもので、鎌倉時代末期に成立しました。
足利義満の時代、南禅寺は京都五山の第一位ではなく、五山全体を超える「五山之上」に位置づけられます。この「五山の上」という言葉が、問題を解くうえで最も重要な手がかりです。
五山・十刹制度とは寺院の序列と統制の仕組み
五山とは、幕府から特に高い寺格を認められた臨済宗寺院です。その下に十刹、さらにその下に諸山と呼ばれる寺院群が置かれました。
この仕組みの原型は、中国・南宋の官寺制度にあります。日本では鎌倉時代から取り入れられ、鎌倉と京都の有力禅寺が政治権力との関係のなかで序列化されました。
ただし、五山の顔ぶれや順位は初めから固定されていたわけではありません。天皇、鎌倉幕府、室町幕府の政治方針によって、選ばれる寺院や順位は何度も変化しています。
足利義満は1386年、至徳3年に五山制度を整理し、南禅寺を「五山之上」としました。その下に京都五山と鎌倉五山を置く構成が整えられます。

なぜ室町幕府は禅宗を保護したのか
禅宗寺院は祈りや修行の場であるだけでなく、中国の学問や文化、外交に通じた僧侶が集まる知識の拠点でした。禅僧の多くは漢文を読み書きし、詩文、儒学、書画などを学んでいます。
室町幕府が中国の明と外交や貿易を行う際にも、漢文能力を持つ禅僧は重要な役割を果たしました。外交文書の作成、使節への同行、情報の伝達には、高度な中国語・漢文の知識が必要だったからです。
また、幕府にとって五山制度は、各地の有力禅寺を組織のなかへ位置づける統制策でもありました。寺院の格式を幕府が認めることで、宗教界に対する政治的な影響力を強められます。
したがって、室町幕府による禅宗保護を「将軍が禅を好んだから」だけで説明するのは十分ではありません。信仰、政治、外交、学問、文化が重なった政策だったのです。
南禅寺が「五山之上」とされた意味
五山制度において、南禅寺は「京都五山の一つ」ではありません。京都五山と鎌倉五山の双方を超える別格として扱われました。
足利義満が創建した相国寺を京都五山へ加える過程も、五山制度の再編と深く関わります。寺院の順位は宗教的評価だけでなく、将軍の保護や政治的意図によっても動かされました。
当時の京都五山は、一般に天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と整理されます。ただし、時期によって天龍寺と相国寺の順位が入れ替わるなど、序列には変化がありました。
「南禅寺は京都五山の第一位」と覚えると、問題によっては不正解になります。正確には「京都五山の上にある五山之上」です。
五山文化は武家政権の文化でもあった
五山の禅僧たちは、漢詩文を中心とする五山文学を発展させました。寺院では書物の収集や教育も行われ、禅僧は将軍や守護大名の文化的助言者となります。
絵画では、禅の思想や中国文化の影響を受けた水墨画が広がりました。庭園、建築、書、茶の文化にも、禅宗寺院を通して伝えられた中国文化の影響が見られます。
しかし、五山文化を庶民全体に同じように広がった文化と考えるのは慎重であるべきです。五山文学の中心は漢文を扱える禅僧や上層武士、公家などであり、高度な教養文化という側面を持っていました。
南北朝の争乱を経て成立した室町幕府は、武力だけで全国をまとめたわけではありません。寺院の序列、外交知識、儀礼、文学、美術を利用しながら、政権の権威を形にしていったのです。
問題3の答え|兼好法師が記した『徒然草』
鎌倉時代末期ごろに兼好法師が記した随筆は、『徒然草』です。
『徒然草』は、序段と243段からなる随筆集です。自然の美しさ、人間関係、礼儀、芸能、信仰、欲望、老い、死など、扱う題材は実に幅広く、一つの筋を追う物語ではありません。
有名な冒頭は「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて」です。することもなく物思いにふけりながら、心に浮かぶことを書きつけている、という形で始まります。
成立時期は鎌倉時代末期と考えるのが基本
『徒然草』は一般に、鎌倉時代末期、14世紀前半に書かれたとされます。京都大学の所蔵資料解説でも、兼好が鎌倉時代末期に書いた随筆集として紹介されています。
ただし、すべての段が同じ時期に、一気に書かれたと断定できるわけではありません。各段の内容や登場人物の年代から、一定の期間をかけて書きためられた可能性があります。
また、現在知られる形に、誰がいつまとめたのかという成立過程には不明な点が残ります。教科書問題では「兼好法師が鎌倉時代末期に書いた『徒然草』」と答えれば十分ですが、研究上は成立年を一点に固定しにくい作品です。
「吉田兼好」「卜部兼好」は同じ人物か
作者は教科書や一般書で、兼好法師、吉田兼好、卜部兼好などと記されます。
「兼好法師」は出家後の呼び方です。「卜部」は兼好の家系に関わる姓として使われ、「吉田兼好」という名称も長く定着してきました。
一方、近年の研究では、兼好が生前に「吉田」を名字として名乗っていたと確実に言えるかについて慎重な見方があります。試験では問題文や教科書の表記に合わせつつ、歴史上の呼称には後世に定着したものが含まれると理解しておくとよいでしょう。
名前の表記に議論があっても、『徒然草』の作者を問う基本問題の答えは「兼好法師」です。
『徒然草』は自然を描いただけの作品ではない
『徒然草』には、季節の移り変わりや、満開になる前の花、欠けた月などを味わう美意識が記されています。そのため「自然を鋭い感性で描いた随筆」と説明されることがあります。
しかし、作品の魅力は自然描写だけではありません。兼好は、人が見栄を張る姿、知ったかぶりをする姿、酒で失敗する姿、身分の高い人に近づこうとする姿などを、時におかしく、時に厳しく描いています。
たとえば「仁和寺にある法師」の段では、石清水八幡宮へ参詣した法師が、麓の寺社だけを見て本来の目的地へ行かずに帰ってしまいます。案内役を持たず、思い込みで行動した失敗を通して、経験者に尋ねる大切さが語られました。
「高名の木登り」の段では、木登りの名人が、弟子が高い場所にいる間には声をかけず、地面近くまで下りてきたところで注意します。人は危険なときには自ら警戒しますが、安心したときに気が緩むという人間心理を見抜いた話です。
これらは700年近く前の文章でありながら、現代の仕事や生活にも通じます。慣れた作業の終盤で確認を怠ることや、十分に調べず分かったつもりになることは、今も変わらない失敗だからです。

移ろいを受け入れる無常観
『徒然草』の根底には、世の中のものは変化し、永遠には続かないという無常観があります。兼好は、若さ、地位、財産、名声、命が失われていくことを繰り返し語りました。
しかし、すべてを諦めるよう勧めているわけではありません。限りがあるからこそ、今をどう生きるか、何を大切にするかを考えています。
兼好は、完全に咲ききった花や、雲一つない満月だけを美しいとはしません。散りかけた花、雲に隠れた月、これから咲こうとする枝にも心を動かします。
完成や成功だけに価値を置かず、変化の途中や失われていくものにも美を見いだす感覚です。この美意識は、のちの日本文化を説明するときにも重要な考え方となりました。
三つの問題は「政治の混乱と新しい文化」でつながる
足利尊氏、南禅寺、『徒然草』は、それぞれ政治家、寺院、文学作品であり、一見すると別の分野に見えます。しかし時代の流れに置くと、三者は14世紀の社会変化によってつながります。
鎌倉幕府の滅亡で権威の形が揺らいだ
鎌倉幕府が滅びると、天皇、公家、武士、寺社がどのような関係で国を統治するのかが、あらためて問われました。建武の新政は天皇中心の再編を目指しましたが、尊氏を中心に集まった武士との対立を深めます。
南北朝時代には、京都と吉野に二つの朝廷が並び、双方が自らの正統性を主張しました。朝廷が二つあるという事実は、当時の人々にとって政治の根本が揺らぐ出来事です。
室町幕府は寺院と文化を通じて権威を整えた
室町幕府は、南北朝の争いを続けながら政治組織を整えました。足利義満の時代には南北朝の合一が実現し、将軍の権力は大きく高まります。
義満が五山制度を整理したことも、幕府が宗教界や文化界に秩序を与える動きの一つです。南禅寺を頂点に禅宗寺院を序列化することで、幕府は自らが秩序を定める権力であることを示しました。
『徒然草』は不安定な世を生きる人間を見つめた
『徒然草』は政治史を記録した歴史書ではありません。南北朝の合戦を順番に描いた作品でもありません。
それでも、兼好が生きたのは鎌倉幕府の終わりから政治的混乱が深まる時代でした。身分や地位があっても安泰とは限らず、人の命や世間の評価も移ろいます。
そのなかで兼好が見つめたのは、変化を避けられない人間の姿でした。政治の混乱がそのまま各段へ記されたと断定することはできませんが、移ろいや死への鋭い意識は、時代の不安定さと無関係ではなかったと考えられます。

出来事を時系列で覚えるための確認表
| 年代 | 主な出来事 | 問題とのつながり |
|---|---|---|
| 13世紀末 | 南禅寺が亀山上皇の離宮をもとに禅寺として成立 | 後に五山之上となる寺院の出発点 |
| 14世紀前半 | 兼好法師が『徒然草』を書いたとされる | 鎌倉末期の随筆文学 |
| 1333年 | 足利尊氏が六波羅探題を攻め、新田義貞が鎌倉を攻める | 鎌倉幕府が滅亡 |
| 1333年以後 | 後醍醐天皇が建武の新政を始める | 尊氏が当初参加した新政 |
| 1335年 | 中先代の乱を機に尊氏と建武政権の対立が決定的になる | 尊氏の離反 |
| 1336年 | 尊氏が光明天皇を擁立し、後醍醐天皇が吉野へ移る | 南北朝時代の始まり |
| 1338年 | 尊氏が征夷大将軍となる | 室町幕府の成立過程 |
| 1386年 | 足利義満が五山制度を整理し、南禅寺を五山之上に置く | 問題2の直接的な背景 |
| 1392年 | 南朝と北朝が合一する | 約60年に及ぶ南北朝時代の区切り |
誤解しやすい点をまとめて確認する
尊氏一人が鎌倉幕府を直接滅ぼしたわけではない
尊氏は京都の六波羅探題を攻略しました。一方、鎌倉の北条氏政権を攻めた中心人物は新田義貞です。
後醍醐天皇の倒幕運動、楠木正成らの抵抗、尊氏の離反、新田義貞の鎌倉攻撃などが結びつき、幕府は滅びました。
南北朝時代と室町時代は完全に別々ではない
南北朝時代は、広い意味では室町時代の前半に含められます。南北朝時代が終わった後に、初めて室町時代が始まるわけではありません。
政治史では、1336年または1338年ごろから室町幕府の時代が始まり、その初期に南北朝の争乱が重なっていたと整理します。
南禅寺は京都五山の一寺ではない
南禅寺の位置は「五山之上」です。京都五山の第一位というより、五山全体の上に置かれた別格の寺院と覚えます。
五山制度は義満が一から作ったわけではない
五山制度の原型は中国にあり、日本では鎌倉時代から導入されていました。足利義満の重要な役割は、既存の制度を政治的に再編し、京都五山と鎌倉五山の序列を整えたことです。
『徒然草』は戦乱を記録した軍記物語ではない
南北朝の戦乱を描く代表的な軍記物語は『太平記』です。『徒然草』は、兼好法師が日常、人間、自然、人生について記した随筆であり、作品の種類が異なります。
よくある質問
足利尊氏は最初から鎌倉幕府を倒すつもりだったのですか
1333年に西国へ向かった時点では、尊氏は幕府の命令を受けた討伐軍の将でした。その後、後醍醐天皇方へ転じ、六波羅探題を攻撃しています。
いつ、どの段階で幕府への反逆を最終決断したかについて、尊氏の内心を一つの史料だけで確定することはできません。政治状況や御家人としての立場を見ながら決断したと考えるのが適切です。
南朝と北朝では、どちらが正統な朝廷だったのですか
当時は両朝がそれぞれ正統性を主張しました。その後も正統論は長く議論され、時代によって評価の枠組みが変化しています。
歴史学習では、まず一方を善、他方を悪と決めるより、皇位継承をめぐる大覚寺統と持明院統の対立、幕府との関係、三種の神器をめぐる主張を整理することが大切です。
「五山・十刹」は何と読みますか
一般に「ござん・じっせつ」と読みます。「十刹」は「じっさつ」と読まれる場合もありますが、日本史用語としては「じっせつ」がよく使われます。
『徒然草』と『方丈記』の違いは何ですか
『方丈記』は鴨長明が記した随筆で、災害や社会の混乱、隠遁生活を通じて無常を描きます。『徒然草』は兼好法師の随筆で、人間観察、礼儀、趣味、自然、人生訓など、多様な短い話を集めています。
どちらにも無常観がありますが、『徒然草』の方が題材の幅が広く、皮肉やユーモアを含む人間観察が多いことが特徴です。
まとめ|答えを出来事のつながりで覚える
三問の答えは、足利尊氏、南北朝時代、南禅寺、『徒然草』です。
覚える順番は、まず1333年に尊氏らが鎌倉幕府を倒したこと、次に尊氏が建武の新政から離れて光明天皇を擁立し、南北朝の争乱が始まったことです。
その動乱から成長した室町幕府は、足利義満の時代に南北朝の合一を実現し、禅宗寺院を五山制度のなかへ組み込みました。その頂点に置かれた別格の寺院が南禅寺です。
一方、鎌倉時代末期を生きた兼好法師は、『徒然草』のなかで、移ろう自然と変わりやすい人間の心を見つめました。政治制度が揺れた時代に、人はどのように生きるべきかを考えた作品として読むこともできます。
「幕府の滅亡と朝廷の分裂」「室町幕府による禅寺の組織化」「不安定な世を見つめる随筆」という三段階で整理すると、答えだけでなく時代全体の流れを説明できるようになります。
復習するときは、1333年、1336年、1338年、1386年、1392年の五つを年表に書き、それぞれに「幕府滅亡」「南北朝の始まり」「尊氏の将軍就任」「南禅寺が五山之上」「南北朝合一」を対応させてください。人物名や寺院名を単独で覚えるより、出来事の因果関係が残りやすくなります。
参考資料
- ジャパンサーチ「足利尊氏」(2026年7月28日確認)
- 奈良県観光公式サイト あをによし なら旅ネット「足利尊氏」(2026年7月28日確認)
- ジャパンナレッジ「南北朝時代」(2026年7月28日確認)
- 公益財団法人日本交通公社「南禅寺」全国観光資源台帳(2026年7月28日確認)
- 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ「京都大学所蔵資料でたどる文学史年表:徒然草」(2026年7月28日確認)
- 国立国会図書館サーチ「足利尊氏 改稿版」(2026年7月28日確認)

