サラエボ事件から国際連盟へ、戦争の6年で日本政治はどう変わった?

大学受験歴史

問題1|大戦の直接のきっかけ

1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者夫妻がサラエボでセルビア系の青年に暗殺された事件は何ですか。

問題2|戦後の国際組織

第一次世界大戦後、国際平和と安全保障を目指して発足した国際組織は何ですか。

問題3|日本の政党政治

1918年、米騒動の後に組閣し、「平民宰相」と呼ばれ、日本初の本格的な政党内閣を組織した首相は誰ですか。

答えは、サラエボ事件、国際連盟、原敬です。1914年に始まった大戦は、日本の経済や社会にも影響を及ぼしました。1918年には米騒動と原内閣の成立があり、戦後の1920年には国際連盟が発足します。

「開戦―日本の社会と政治の変化―戦後秩序づくり」を、1914〜1920年の六年間で見渡すと、世界史と日本史を年代順に整理できます。大戦の戦闘期間は1914〜1918年で、1920年は戦後の国際組織が動き始めた年です。

三問の答えを、年代順に並べる

設問 答え 手がかり
問題1 サラエボ事件 1914年、帝位継承者夫妻、直接のきっかけ
問題3 原敬 1918年、平民宰相、本格的な政党内閣
問題2 国際連盟 第一次世界大戦後、1920年発足

サラエボ事件|1914年6月28日の暗殺

サラエボ事件は、1914年6月28日、ボスニアのサラエボで起きました。オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナントと妻ゾフィーが、ボスニアのセルビア系青年ガヴリロ・プリンツィプに暗殺された事件です。

事件は第一次世界大戦の直接のきっかけとなりました。当時のヨーロッパには、列強の勢力争い、軍備拡張、民族問題、同盟関係をめぐる緊張がありました。暗殺事件という引き金と、以前からの対立という背景を合わせて理解すると、開戦に至る過程が見えます。

1914年のサラエボ事件を考える学習用概念画像
学習用の概念画像。実際の人物、会議、街並みを史料どおりに再現したものではありません。

局地的な危機が、各国の判断で広がる

事件後、オーストリア=ハンガリーはセルビアに強硬な要求を出し、7月28日に宣戦しました。セルビアを支えるロシア、オーストリア=ハンガリーを支援するドイツ、さらにフランスやイギリスへと対立が広がります。

帝国戦争博物館の解説は、各国の政治・外交・軍事上の判断によって、局地的な危機が世界規模の戦争に発展したことを示しています。同盟関係に加え、動員や宣戦の判断をたどると、戦争が拡大した経緯を説明できます。

設問では、「直接のきっかけ」ならサラエボ事件、「1914〜1918年の大戦」なら第一次世界大戦と、事件と戦争を区別して答えましょう。

日本の参戦|輸出の拡大と、物価上昇

日本は1914年8月23日にドイツへ宣戦し、連合国側で参戦しました。大戦の主戦場となったヨーロッパからアジア市場への商品供給が減る一方、日本の輸出は拡大し、戦争景気と呼ばれる好況が生まれます。

貿易と産業が活発になるなかで物価も上がり、生活費の増大が人々の暮らしを圧迫しました。国立公文書館の米騒動の解説も、輸出の激増に伴う物価上昇を背景として挙げています。好況と、家計が直面した負担を合わせて見ることが大切です。

大戦期の日本の貿易と産業を考える学習用概念画像
学習用の概念画像。実際の人物、会議、街並みを史料どおりに再現したものではありません。

米騒動|1918年、米価高騰への抗議が全国へ

1918年の米騒動は、米価が急上昇するなかで広がった抗議や騒動です。富山県で女性たちが米の県外移出の停止や安売りを求めた動きなどから、各地へ波及しました。

米価上昇には、戦時期の経済変化と物価上昇に加え、シベリア出兵を見越した地主や米穀商の投機的な買い占めなどが関わりました。国立国会図書館と国立公文書館の解説は、こうした複数の要因を示しています。

騒動は寺内正毅内閣に大きな打撃を与えました。寺内首相は健康問題も抱えており、1918年9月に退陣します。その後、9月29日に原敬内閣が成立しました。米騒動の影響と、退陣に関わるほかの事情を合わせて捉えましょう。

原敬|平民宰相と、本格的な政党内閣

原敬は立憲政友会総裁で、1918年9月29日に首相となりました。国立国会図書館は、原内閣が外務・陸軍・海軍大臣を除く閣僚を政友会員で組織し、初の本格的な政党内閣と評されたと説明しています。

原は爵位を持たない最初の首相として「平民宰相」と呼ばれました。また、衆議院に議席を持つ首相としても最初です。「平民宰相」という呼び名と、政党を基盤とする内閣の構成を一緒に押さえると、日本政治史での位置づけを説明できます。

1918年の原内閣と政党政治を考える学習用概念画像
学習用の概念画像。実際の人物、会議、街並みを史料どおりに再現したものではありません。

1898年の隈板内閣との違い

原敬以前の1898年には、大隈重信を首相とする第一次大隈内閣(隈板内閣)が成立しています。これは日本初の政党内閣として学ぶ内閣です。

「1898年―隈板内閣―初の政党内閣」「1918年―原内閣―初の本格的な政党内閣」と、名称・年代・表現を対応させます。設問に「平民宰相」「米騒動の後」「本格的な政党内閣」があれば、原敬へ結びつけましょう。

国際連盟|1919年の規約と、1920年の発足

国際連盟は、第一次世界大戦後、国家間の紛争を平和的に解決し、国際平和と安全保障を目指した組織です。アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、1918年の十四か条で国際組織の設立を提唱しました。

1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約には、国際連盟規約が組み込まれました。そして条約と規約が発効した1920年1月10日に、国際連盟が正式に発足します。

資料で設立の年が異なって見えるときは、1919年の規約成立と、1920年の正式発足を区別して確認します。発足年を尋ねる問題では1920年を押さえましょう。

1920年に発足した国際連盟を考える学習用概念画像
学習用の概念画像。実際の人物、会議、街並みを史料どおりに再現したものではありません。

集団安全保障の試みと、実行上の限界

国際連盟は、ある加盟国への侵略をほかの加盟国にも関わる問題と考える、集団安全保障を制度化しようとしました。しかし、成立を後押ししたアメリカでは上院が条約の批准に同意せず、アメリカは加盟しませんでした。

制裁の実行も、加盟国の協力に依存しました。連盟規約第16条は経済・金融関係の断絶を定め、各国が提供する軍事力について理事会が勧告する仕組みを示しています。連盟が国家のように軍事力を直接指揮する仕組みには限界がありました。

その後、日本やドイツなどの離脱が続き、連盟は1930年代の国際秩序の悪化を止められませんでした。一方、紛争を国際機関で扱う経験や各分野の協力は、第二次世界大戦後の国際連合につながりました。限界と、国際協調の経験の双方を学ぶ必要があります。

年表|戦争・社会・戦後秩序の変化

年代 出来事 確認する流れ
1914年6月28日 サラエボ事件 大戦の直接のきっかけ
1914年7月28日 オーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦 各国の判断を経て戦争が拡大
1914年8月23日 日本がドイツへ宣戦 日本の参戦、貿易・産業への影響
1918年 米騒動 米価高騰と生活への負担
1918年9月29日 原敬内閣成立 本格的な政党内閣
1918年11月11日 ドイツとの休戦 西部戦線の戦闘終結と、戦後への移行
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印 国際連盟規約を含む戦後秩序
1920年1月10日 国際連盟発足 国際協調の組織が動き始める

似た用語・人物を見分ける

組み合わせ 見分ける手がかり
国際連盟と国際連合 連盟は第一次世界大戦後、1920年発足。連合は第二次世界大戦後、1945年10月24日発足
原敬と加藤高明 原敬は1918年、平民宰相、本格的な政党内閣。加藤高明は1920年代の護憲運動や1925年の普通選挙法

復習|三問を一文ずつ説明する

  • サラエボ事件:1914年6月28日の帝位継承者夫妻の暗殺で、列強の緊張が重なるなか、大戦の直接のきっかけとなった。
  • 原敬:米騒動後の1918年、初の本格的な政党内閣を組織し、爵位を持たない首相として平民宰相と呼ばれた。
  • 国際連盟:大戦後の紛争の平和的解決と安全保障を目指し、1920年1月10日に発足した。

年号とともに「なぜ重要か」を言えると、正誤問題、並べ替え、短い記述に使えます。答えを隠し、事件・人物・組織の役割をそれぞれ説明してみましょう。

その後の世界恐慌や日本政治の変化は、関連記事「世界恐慌から世界人権宣言へ|二・二六事件をつなぐと近現代史が見える」で、1929年以降の流れにつなげて確認できます。

参考資料

情報確認日:2026年10月11日