問題1:日本・院政の開始と軍事力の掌握
11世紀後半、日本では摂関政治が終焉を迎え、上皇が政治の実権を握る独自の統治形態が始まりました。
(1)1086年、白河天皇は実子である8歳の堀河天皇に譲位し、上皇(院)として政務を後見し始めました。このように、皇室の家長たる上皇が実権を掌握する政治形態を何といいますか。
(2)白河上皇は、自らの警備や寺社の強訴を防ぐために、平正盛などの武士を登用して(①)を設置しました。①に入る言葉を答えなさい。
(3)院政期の上皇は、仏教を篤く保護し、自ら法皇となって大規模な寺院建立や参詣を行いました。白河天皇が平安京外の白河殿周辺に建立した、六勝寺の筆頭とされる寺院は何ですか。
問題2:中国・北宋の党争と司馬光の編纂事業
11世紀後半の北宋では、国家財政の再建をめぐって官僚たちが激しく対立しました。
(1)第6代皇帝神宗に宰相として登用され、富国強兵のための「新法」を断行した人物は誰ですか。
(2)神宗の死後、幼少の哲宗が即位すると、新法に反対する(②)が政権を握り、新法を廃止しました。②に入る党派名を答えなさい。
(3)上記②の党派の中心人物であり、歴史を年代順に記述する「編年体」の歴史書『資治通鑑』を編纂した政治家・学者は誰ですか。
問題3:西アジア・トルコ系民族の台頭と十字軍の遠因
11世紀、イスラーム世界では中央アジアから進出したトルコ系民族が強力な帝国を築きました。
(1)11世紀前半に成立したトルコ系王朝である(③)は、1055年にバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を授けられました。③に入る王朝名を答えなさい。
(2)この王朝は、11世紀後半にビザンツ帝国を破って小アジア(アナトリア)を奪いました。また、(④)を占領してキリスト教徒の巡礼を妨げたことが、西欧による十字軍派遣の直接的なきっかけとなりました。④に入る聖地の名称を答えなさい。
問題4:西欧・教皇権の伸長と皇帝の屈服
11世紀の西ヨーロッパでは、教会の腐敗を正す改革運動が高まり、教皇と神聖ローマ皇帝の間で聖職者の任命権をめぐる争いが起きました。
(1)教皇(⑤)は、世俗権力による聖職叙任を禁じ、時のドイツ王(のちの神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世と激しく対立しました。⑤の人物名を答えなさい。
(2)1077年、教皇から破門されたハインリヒ4世が、イタリア北部の城で雪の中に立ち尽くして教皇に謝罪し、破門を解かれた事件を「(⑥)の屈辱」といいます。⑥に入る地名を答えなさい。
11世紀後半の歴史を地域別に見ると、日本では上皇、中国では文官官僚、西アジアではトルコ系軍事勢力、西欧ではローマ教皇が、それぞれ従来とは異なる形で政治的影響力を強めています。
各問題の答えは、問題1が「院政・北面の武士・法勝寺」、問題2が「王安石・旧法党・司馬光」、問題3が「セルジューク朝・エルサレム」、問題4が「グレゴリウス7世・カノッサ」です。
ただし、用語だけを覚えると、地域ごとの出来事がばらばらに見えてしまいます。この記事では、誰が、どの権力を、何によって動かそうとしたのかという視点から、四つの問題をつなげて考えます。
問題1の答え|白河上皇の院政と北面の武士
(1)の答えは「院政」
皇位を退いた上皇が、天皇の父や祖父にあたる皇室の家長として政治を主導する形を院政といいます。「院」は上皇の御所や上皇自身を指す言葉です。
1086年、白河天皇は8歳の堀河天皇に譲位し、白河上皇となりました。幼い堀河天皇を後見する立場から政務に関与したため、この年が白河上皇による院政の開始とされています。
院政以前にも、退位した天皇が政治に影響した例はありました。しかし、白河上皇以後は、上皇の御所である院を中心に独自の政務組織が整えられ、上皇が継続的に国政を動かす仕組みが発達しました。

院政は摂関政治と何が違ったのか
摂関政治では、藤原北家が天皇の外戚、つまり母方の親族となり、摂政や関白として政務を主導しました。これに対し院政では、天皇家内部の父子関係や祖父と孫の関係を利用し、上皇が皇位継承と政治の主導権を握りました。
| 比較項目 | 摂関政治 | 院政 |
|---|---|---|
| 政治の中心人物 | 摂政・関白 | 上皇・法皇 |
| 権力の基盤 | 天皇の母方の外戚関係 | 天皇家の家長としての立場 |
| 政務の場 | 朝廷の官職と太政官 | 院御所と院庁 |
| 軍事力との関係 | 朝廷の警備組織などを利用 | 院に直属する武士を登用 |
院政が始まったからといって、摂政・関白が直ちに廃止されたわけではありません。天皇の朝廷と上皇の院が並存し、その間で権限や人事を調整する複雑な政治になった点が重要です。
(2)の答えは「北面の武士」
①に入る言葉は北面の武士です。院御所の北側に詰め、上皇の身辺警護や外出時の護衛などを担ったことから、この名で呼ばれました。
白河上皇は、源氏や平氏などの武士を院の近くに置きました。平正盛はその代表的な人物で、院との結びつきを足がかりに勢力を伸ばし、その子孫から平忠盛や平清盛が登場します。
北面の武士は、単なる門番ではありません。上皇が朝廷の外にも独自の実力組織を持つことを意味し、武士が中央政治へ進出する経路の一つになりました。
「北面の武士が寺社の強訴をすべて鎮圧した」と単純化しないよう注意が必要です。大寺社の僧兵や神人による強訴は、神仏の威光を背景にした政治行動でもあり、武力だけで容易に処理できる問題ではありませんでした。
(3)の答えは「法勝寺」
白河天皇が平安京の東側に広がる白河の地に建立した寺院は法勝寺です。読み方は「ほっしょうじ」です。
法勝寺は、のちに建立された尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺とともに六勝寺と総称されました。その中でも法勝寺は最初に造営された大規模な寺院で、六勝寺の中心的存在とされています。
境内には金堂や講堂などの堂宇が建ち並び、八角九重塔も造られました。寺院建立は白河天皇・上皇の信仰の表れであると同時に、王権の威信を視覚的に示す大事業でもありました。
院政・武士・寺院は一つの政治構造だった
院政、北面の武士、法勝寺は別々の暗記事項ではありません。白河上皇が政治・軍事・宗教の三つの面で独自の基盤を築いたことを示しています。
- 政治:院庁や院近臣を通じて政務を動かす
- 軍事:北面の武士を置き、院に直属する実力を確保する
- 宗教:御願寺の建立や参詣によって権威を高める
この三点を一組として理解すると、院政が単なる「引退した天皇の政治」ではなく、新しい権力運営の仕組みだったことが見えてきます。
問題2の答え|王安石の新法と旧法党の反発
(1)の答えは「王安石」
北宋の神宗に登用され、富国強兵を目指す新法を進めた人物は王安石です。読み方は「おうあんせき」です。
11世紀後半の北宋は、官僚や軍隊を維持するための支出が膨らみ、北方の遼や西夏への対応にも費用を必要としていました。科挙によって選ばれる文官官僚が増えたことも、財政負担の一因になりました。
王安石は、既存の税収を管理するだけでは国力を立て直せないと考えました。そこで、農民への融資、市場取引への関与、兵役制度の再編などを通じて、国家が経済と社会へ積極的に介入する政策を進めました。

新法は何を変えようとしたのか
王安石の政策は総称して新法と呼ばれます。代表的な政策には、青苗法、募役法、市易法、保甲法などがあります。
| 政策 | 主な内容 | 狙い | 問題になった点 |
|---|---|---|---|
| 青苗法 | 農民へ資金や穀物を貸し付ける | 高利貸しへの依存を減らし、国家収入も確保する | 現場で貸し付けが事実上強制される場合があった |
| 募役法 | 労役の代わりに免役銭を納めさせ、人を雇う | 労役負担を均等化する | 新たな金銭負担と受け取られる場合があった |
| 市易法 | 国家が商品を買い上げ、商人へ資金を融通する | 大商人の独占を抑え、市場を安定させる | 官僚の介入が市場を圧迫する危険があった |
| 保甲法 | 住民を組織し、治安維持や軍事訓練を担わせる | 治安維持と軍事力を強化する | 地域住民の負担が増える可能性があった |
新法は、理念だけを見れば農民や中小商人を救済する面を持っていました。一方で、中央政府が定めた制度を地方官が実施する過程で、融資や徴収が強制的になるなどの弊害も生じました。
したがって、王安石を「民衆の味方」、反対派を「改革を妨げた保守派」とだけ評価するのは適切ではありません。争点は、改革の必要性だけでなく、政策の速度、国家介入の範囲、地方での運用方法にもありました。
(2)の答えは「旧法党」
②に入る党派名は旧法党です。王安石の新法を支持した官僚は新法党、それに反対した官僚は旧法党と呼ばれます。
神宗が1085年に死去すると、幼い哲宗が即位しました。哲宗の祖母にあたる宣仁太后が政治を補佐し、新法に反対していた司馬光らを登用したため、旧法党が政権の中心へ戻りました。
旧法党は新法を廃止または縮小し、従来の制度へ戻そうとしました。この政策転換は元祐更化とも呼ばれます。
しかし、哲宗が成長して親政を始めると、今度は新法党が復権しました。北宋後期には、皇帝の交代や宮廷内の力関係に応じて新法党と旧法党が相手側の政策を覆す状況が続き、党争が深まりました。
(3)の答えは「司馬光」
旧法党の中心人物で、『資治通鑑』を編纂した政治家・学者は司馬光です。読み方は「しばこう」です。
司馬光は、急激な制度改革が社会の秩序を乱し、民衆の負担をかえって増やすと考え、王安石の政策に反対しました。反対の理由は、改革そのものを全面的に否定したからではなく、国家が経済活動へ深く介入することへの警戒にありました。
『資治通鑑』は、戦国時代から五代までの中国史を、出来事が起きた年の順に記述した歴史書です。この形式を編年体といいます。
書名には「政治を行うための助けとなる、歴史の鏡」という意味が込められています。司馬光にとって歴史研究は過去の記録を保存するだけでなく、統治者が成功と失敗を学ぶための実用的な政治活動でもありました。
王安石と司馬光の対立は「改革対保守」だけではない
両者の違いは、国を立て直す必要があるかどうかではありません。北宋が財政・軍事上の課題を抱えているという認識は、ある程度共有されていました。
王安石は、国家が制度を作り替え、経済へ介入することで問題を解決しようとしました。司馬光は、急速な介入が官僚の権限を肥大化させ、地域社会へ無理を生じさせると考えました。
新法党と旧法党の対立は、「改革するか、何もしないか」ではなく、「国家がどこまで、どの速度で社会へ介入するか」をめぐる対立として理解すると正確です。
問題3の答え|セルジューク朝の台頭と十字軍への道
(1)の答えは「セルジューク朝」
③に入る王朝名はセルジューク朝です。中央アジア方面から西へ進出したトルコ系の王朝で、11世紀にイラン、イラク、シリア、小アジアへ勢力を広げました。
セルジューク朝のトゥグリル・ベグは1055年にバグダードへ入りました。当時、アッバース朝のカリフは宗教的権威を保っていたものの、実際の軍事・政治力は弱まっていました。
セルジューク朝はカリフを廃位せず、その宗教的権威を利用しました。カリフからスルタンとして認められることで、軍事と政治を担う支配者としての正統性を得たのです。
カリフとスルタンの関係は、宗教と政治が完全に分離したという意味ではありません。カリフの宗教的権威と、セルジューク朝の軍事的実力が補い合う統治構造が作られたと考えると分かりやすいでしょう。
マンジケルトの戦いで小アジアへの進出が加速した
1071年、セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンはマンジケルトの戦いでビザンツ皇帝ロマノス4世の軍を破りました。皇帝自身が捕虜となったことで、ビザンツ帝国の威信は大きく傷つきました。
この一戦だけで小アジア全域が直ちにセルジューク朝領になったわけではありません。しかし、敗戦後のビザンツ帝国内で皇位争いが続いたため、防衛体制が崩れ、トルコ系集団が小アジアへ定住する動きが加速しました。

小アジアは、ビザンツ帝国にとって兵士、穀物、税収を得る重要な地域でした。この地域を失うことは、単なる領土の縮小ではなく、帝国の軍事力と財政基盤が弱まることを意味しました。
(2)の答えは「エルサレム」
④に入る聖地はエルサレムです。エルサレムはキリスト教、イスラーム教、ユダヤ教にとって重要な宗教都市でした。
セルジューク系勢力は11世紀後半にエルサレムをファーティマ朝から奪いました。その後、十字軍が到着する直前の1098年には、ファーティマ朝がエルサレムを奪回しています。
そのため、1099年に第1回十字軍がエルサレムを攻撃した時点で、同市を支配していたのはセルジューク朝ではなく、エジプトを本拠とするファーティマ朝でした。
十字軍の「直接的なきっかけ」は慎重に理解する必要がある
問題文では、セルジューク朝がエルサレムを占領し、キリスト教徒の巡礼を妨げたことが十字軍派遣の直接的なきっかけとされています。学校史ではよく使われる説明ですが、実際の経緯はもう少し複雑です。
「セルジューク朝が巡礼を全面的に禁止したため、ただちに十字軍が始まった」と断定するのは正確ではありません。
巡礼者や東方のキリスト教徒が被害を受けたという情報は、西欧で十字軍への参加を呼びかける材料になりました。ただし、被害の伝承には誇張が含まれていた可能性も指摘されています。
より直接的な政治上の契機は、小アジアでトルコ系勢力に圧迫されたビザンツ皇帝アレクシオス1世が西欧へ軍事支援を求めたことでした。教皇ウルバヌス2世はこの要請を受け、1095年のクレルモン宗教会議で東方支援とエルサレム回復を訴えました。
第1回十字軍が実際に出発したのは1096年です。したがって、十字軍成立の背景は次の要因を重ねて理解する必要があります。
- セルジューク系勢力の小アジア進出
- ビザンツ帝国から西欧への軍事支援要請
- エルサレムと聖地巡礼を重視する西欧の信仰
- 教皇ウルバヌス2世による遠征の呼びかけ
- 西欧の騎士層が持っていた宗教的・社会的・政治的動機
問題の空欄に対する答えはエルサレムで間違いありません。ただし、因果関係を理解するときは、占領と巡礼問題だけを唯一の原因にしないことが大切です。
問題4の答え|グレゴリウス7世とカノッサの屈辱
(1)の答えは「グレゴリウス7世」
⑤に入る人物は教皇グレゴリウス7世です。教会改革を推進し、国王や諸侯などの世俗権力が司教や修道院長を任命する慣行に反対しました。
中世西欧の司教は宗教指導者であるだけでなく、広い土地や収入を持ち、領主として国王を支える存在でもありました。国王にとって司教の任命権を失うことは、有力な統治協力者を選ぶ権利を失うことに等しかったのです。
一方、改革派の聖職者は、聖職売買や聖職者の世俗化を正すためには、教会人事を世俗権力から切り離す必要があると考えました。この聖職者任命をめぐる争いが叙任権闘争です。
【記事内イラスト4:ここに画像を挿入】
ハインリヒ4世との対立が激化した理由
ドイツ王ハインリヒ4世は、自らの支配を安定させるため、司教や修道院長を任命する権限を手放そうとしませんでした。これに対しグレゴリウス7世は、世俗権力による聖職叙任を禁じました。
ハインリヒ4世が教皇の廃位を主張すると、教皇はハインリヒ4世を破門しました。破門は教会共同体から排除する宗教的処分ですが、国王に対して行われた場合は政治的にも重大な意味を持ちます。
ドイツの諸侯は、破門された国王への服従義務に疑問を示し、ハインリヒ4世へ圧力をかけました。国王は教皇との対立だけでなく、国内の反対勢力が結集する危険にも直面したのです。
(2)の答えは「カノッサ」
⑥に入る地名はカノッサです。1077年、ハインリヒ4世はイタリア北部のカノッサ城を訪れ、グレゴリウス7世へ赦しを求めました。
この出来事はカノッサの屈辱と呼ばれます。伝承では、ハインリヒ4世が雪の中で粗末な衣をまとい、数日間にわたり城門の外で許しを待ったとされます。
教皇は悔悛を示すキリスト教徒に赦しを与える宗教的義務を負っていたため、最終的に破門を解除しました。表面上は、国王が教皇の前に屈服した出来事に見えます。
カノッサは教皇の最終勝利ではなかった
カノッサの屈辱は、教皇権が皇帝権を圧倒した象徴として語られます。しかし、事件後の展開まで見ると、教皇の一方的な勝利とはいえません。
破門解除によって国内での立場を立て直したハインリヒ4世は、再びグレゴリウス7世と対立しました。その後、軍を率いてローマへ進み、対立教皇を擁立しています。
グレゴリウス7世はローマを離れ、亡命先で死去しました。つまり、1077年の謝罪はハインリヒ4世が政治的危機を乗り切るために選んだ、一時的な戦術でもあったのです。
カノッサの屈辱は「教皇が永久に皇帝を支配した事件」ではなく、宗教的な破門が国王の国内統治を揺るがすほど、教皇権が強まっていたことを示す事件です。
叙任権闘争は1122年まで続いた
グレゴリウス7世とハインリヒ4世が亡くなっても、教皇と皇帝の争いは終わりませんでした。対立は次の世代まで続き、1122年のヴォルムス協約によって一定の妥協が成立しました。
協約では、司教の宗教的権能と世俗的権利を区別し、教会と皇帝の双方が関与する形が整えられました。完全な政教分離ではありませんが、皇帝が聖職者の宗教的権威を自由に授ける仕組みには制限が加えられました。
11世紀後半の四地域に共通する変化
日本、北宋、西アジア、西欧の出来事は、直接連動していたわけではありません。しかし、各地域で従来の政治秩序が揺らぎ、新しい権力主体が台頭したという共通点があります。
| 地域 | 中心的な出来事 | 台頭した主体 | 権力を支えたもの |
|---|---|---|---|
| 日本 | 白河上皇による院政 | 上皇と院近臣 | 皇位継承への影響力、院庁、武士、寺院 |
| 北宋 | 新法党と旧法党の対立 | 科挙官僚 | 政策立案、皇帝の信任、歴史と儒学の知識 |
| 西アジア | セルジューク朝の拡大 | トルコ系軍事勢力 | 騎馬軍事力とカリフの宗教的承認 |
| 西欧 | 叙任権闘争 | 改革教皇 | 聖職任命権、破門、教会組織 |
日本では、上皇が天皇の背後から政治を動かしました。北宋では、官僚が政策の内容をめぐって政権を争いました。西アジアでは、カリフの権威を利用したスルタンが軍事と政治を担いました。西欧では、教皇が聖職者人事と破門を通じて国王へ圧力をかけました。
共通するのは、名目上の最高権威と、実際に政治を動かす権力が必ずしも一致しなくなったことです。
- 日本では、在位中の天皇とは別に上皇が実権を握る
- 北宋では、皇帝のもとで官僚集団が政策の方向を争う
- イスラーム世界では、カリフとは別にスルタンが軍事・政治を担う
- 西欧では、皇帝・国王と教皇が異なる権威を主張する

11世紀後半は、単純な中央集権化の時代ではありません。宗教的権威、王家の家長権、官僚制、軍事力といった複数の力が組み合わされ、誰が政治を動かすのかが各地で再編された時代でした。
各問題の時系列を整理
四地域の出来事を年代順に並べると、ほぼ同じ半世紀の中で起きていることが分かります。
| 年代 | 地域 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1055年 | 西アジア | トゥグリル・ベグがバグダードへ入り、セルジューク朝の政治的優位が確立する |
| 1069年以後 | 北宋 | 神宗のもとで王安石が新法を本格的に進める |
| 1071年 | 小アジア | マンジケルトの戦いでセルジューク朝がビザンツ帝国を破る |
| 1070年代 | 西欧 | グレゴリウス7世とハインリヒ4世の叙任権をめぐる対立が激化する |
| 1077年 | 西欧 | カノッサの屈辱 |
| 1085年 | 北宋 | 神宗の死後、司馬光ら旧法党が復帰する |
| 1086年 | 日本 | 白河天皇が譲位し、白河上皇の院政が始まる |
| 1095年 | 西欧・西アジア | 教皇ウルバヌス2世がクレルモン宗教会議で十字軍を呼びかける |
年代を横に並べることで、院政の開始とカノッサの屈辱が遠く離れた時代の話ではなく、わずか9年差の出来事だったことも分かります。
誤解しやすいポイント
院政が始まると摂関政治は完全に消えたのか
摂政・関白の官職は院政開始後も残りました。変わったのは、摂関家だけで政治の主導権を独占しにくくなり、上皇と院近臣が大きな影響力を持つようになったことです。
北面の武士は日本最初の武士組織なのか
北面の武士以前にも、朝廷や貴族に仕える武士は存在しました。天皇の内裏を警護する滝口の武士も知られています。北面の武士の特徴は、上皇の院に直属した点です。
旧法党はすべての改革に反対したのか
旧法党は国家の問題を無視していたわけではありません。王安石の新法が地方で強制的に運用されることや、官僚による経済介入が拡大することを問題視しました。
マンジケルトの一戦でビザンツ帝国は小アジアを失ったのか
マンジケルトの敗北は大きな転機ですが、領土喪失は一日で完了したものではありません。敗戦後の内乱と政治的混乱が、トルコ系勢力の進出を容易にしました。
エルサレム巡礼の妨害だけが十字軍の原因なのか
十字軍には、ビザンツ帝国の援軍要請、教皇権の強化、西欧の宗教運動、騎士層の事情など複数の背景がありました。巡礼者への危害に関する情報は重要でしたが、唯一の原因ではありません。
カノッサで皇帝は教皇に完全敗北したのか
カノッサではハインリヒ4世が謝罪し、教皇が優位に立ったように見えます。しかし、ハインリヒ4世は破門解除後に勢力を回復し、後にはグレゴリウス7世をローマから追い出しました。
FAQ
「院政」と「親政」の違いは何ですか
親政は、天皇や君主が自ら政務を行うことです。院政は、退位した上皇が在位中の天皇を後見しながら政治を主導する形を指します。
法皇とはどのような立場ですか
出家した上皇を法皇といいます。出家しても政治的影響力を失うとは限らず、白河上皇も出家後に白河法皇として院政を続けました。
『資治通鑑』は正史ですか
『資治通鑑』は司馬光らが皇帝の命を受けて編纂した重要な歴史書ですが、各王朝が前王朝についてまとめた紀伝体の正史とは構成が異なります。年代順に歴史を追う編年体で書かれています。
セルジューク朝とオスマン帝国は同じですか
どちらもトルコ系のイスラーム王朝ですが、成立した時期も王家も異なります。セルジューク朝は11世紀に台頭し、オスマン朝は13世紀末ごろに小アジアで成立しました。
ハインリヒ4世は1077年当時、神聖ローマ皇帝だったのですか
1077年時点のハインリヒ4世はドイツ王であり、皇帝として戴冠したのは1084年です。一般向けの説明では「神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世」と書かれることがありますが、カノッサ事件時点の称号を厳密に示すなら「ドイツ王」が適切です。
まとめ|人物名と出来事を「権力の基盤」で結び付ける
問題1の答えは、(1)院政、(2)北面の武士、(3)法勝寺です。白河上皇は、院を中心とする政治、直属の武士、寺院建立によって権力基盤を整えました。
問題2の答えは、(1)王安石、(2)旧法党、(3)司馬光です。北宋の党争は、改革の必要性だけでなく、国家介入の範囲と政策運用をめぐる対立でした。
問題3の答えは、(1)セルジューク朝、(2)エルサレムです。セルジューク朝の拡大はビザンツ帝国を圧迫しましたが、十字軍の開始には皇帝の援軍要請や教皇の呼びかけなど複数の要因がありました。
問題4の答えは、(1)グレゴリウス7世、(2)カノッサです。カノッサの屈辱は教皇権の伸長を示しますが、叙任権闘争そのものは事件後も続きました。
復習するときは、空欄の語句だけでなく、次の順番で確認すると理解が安定します。
- 従来、誰が政治を動かしていたのか
- どの人物・集団が新たに台頭したのか
- その人物は何を権力の基盤にしたのか
- 対立する側は何を守ろうとしたのか
- 一つの事件の後、政治がどう変化したのか
11世紀後半は、上皇、官僚、スルタン、教皇という異なる主体が、血縁、制度、軍事力、宗教的権威を使って政治秩序を組み替えた時代です。この共通点を軸にすれば、四地域の出来事を一つの時代像として把握できます。

