帝国が崩れ、知識が国境を越える|13世紀に世界を結び直した戦争と学問

大学受験歴史

問題1:イスラーム世界の転換とマムルーク朝

13世紀半ば、イスラーム世界はモンゴルの侵攻により大きな転換点を迎えました。

(1)1258年、フラグ率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、約500年続いたバグダードのカリフ政権が終わった王朝は何ですか。

(2)1260年にモンゴル軍を退け、1291年には十字軍最後の主要拠点アッコンを陥落させた、カイロを首都とする王朝は何ですか。

(3)同じ時代、イベリア半島では「賢王」と呼ばれるアルフォンソ10世が、アラビア語で伝えられた天文学などの翻訳事業を奨励しました。

問題2:元朝の成立と東西交流

(1)1271年、国号を中国風に「元」と定め、大都、現在の北京を中心に中国支配を進めたモンゴル帝国の第5代大ハンは誰ですか。

(2)元代、郭守敬らが精密な天体観測に基づいて作り、のちに日本の貞享暦にも影響を与えた暦の名称は何ですか。

(3)地中海では、1284年のメロリアの戦いなどを経てジェノヴァが勢力を伸ばし、東方貿易への関与を深めました。

問題3:西欧の学問とスコラ哲学の体系化

(1)13世紀、パリ大学などで神学を学び、『神学大全』を著してキリスト教神学とアリストテレス哲学を調和させ、スコラ学を大成させた人物は誰ですか。

(2)同時期のイングランドでは、ロバート・グロステストが数学や観察を重視する自然研究を進め、ロジャー・ベーコンらに影響を与えました。

13世紀、バグダードでは王朝が滅び、カイロでは新しい軍事政権が台頭し、中国ではモンゴルの君主が中国王朝を名乗りました。

その一方で、イベリア半島ではアラビア語の学術書が翻訳され、パリやオックスフォードでは、信仰と理性、観察と論証をどのように結びつけるかが考えられていました。

13世紀には、各地の政治秩序が変わり、人・物・知識が広い地域を移動しました。戦争と交流の両面から、同時代の出来事を見ていきます。

三つの問題の答え

設問 答え 覚える手がかり
問題1(1) アッバース朝 1258年、フラグ軍がバグダードを攻略
問題1(2) マムルーク朝 アイン・ジャールートの戦いとアッコン陥落
問題2(1) クビライ 1271年に国号を「大元」と定める
問題2(2) 授時暦 郭守敬らが完成し、1281年から施行
問題3(1) トマス・アクィナス 『神学大全』とアリストテレス哲学
バグダード・カイロ・大都と西欧の交流を模式的に描いた概念地図
13世紀の交流を考える概念図。経路や都市景観を正確に復元した地図ではありません。

問題1|バグダード陥落がイスラーム世界の政治地図を変えた

答え(1)はアッバース朝

1258年、フラグが率いるモンゴル軍によって首都バグダードを攻略された王朝は、アッバース朝です。フラグはチンギス・ハンの孫で、当時のモンゴル帝国の大ハン、モンケの弟でした。

アッバース朝は750年にウマイヤ朝を倒して成立し、762年に建設されたバグダードを中心に発展しました。1258年まで数えれば、およそ500年にわたって続いた王朝です。

時代が下ると地方政権が自立し、カリフの軍事的・政治的な実権はしだいに弱まりました。バグダードのカリフは、イスラーム共同体の歴史的権威を象徴する存在でもあり、その陥落は伝統的な政治秩序を大きく揺るがす事件となります。

なぜモンゴル軍はバグダードへ向かったのか

モンゴル帝国は13世紀前半までに、東アジアから中央アジア、ロシア方面へ勢力を広げていました。大ハンのモンケは、西アジアの征服を進めるため、弟フラグに大軍を預けます。

フラグ軍はまず、イラン方面に拠点を持っていたニザール派を制圧しました。その後、アッバース朝のカリフに服従と軍事協力を要求し、交渉がまとまらないままバグダードを包囲します。

バグダード側には、広大なモンゴル帝国から動員された軍勢を正面から退けるだけの戦力がありませんでした。都市は1258年2月に陥落し、バグダードの最後のカリフ、ムスタアスィムも処刑されました。

王朝の政治力の低下に、モンゴル帝国の大規模な西方遠征が重なりました。侵攻の規模と、迎え撃つ側の状況を合わせて押さえましょう。

バグダードの政権が終わり、カイロに象徴的なカリフが置かれた

1258年に終わったのは、バグダードを中心としたアッバース朝カリフの支配です。マムルーク朝は1261年、アッバース家の一族をカリフとして擁立しました。

カイロのカリフは象徴的な権威を担い、実際の軍事・行政権はマムルーク朝のスルタンが握りました。バグダードの政権の終焉と、カリフの称号が別の形で存続したことを区別して覚えましょう。

答え(2)はマムルーク朝

1260年にモンゴル軍を退け、1291年にアッコンを陥落させたカイロの王朝は、マムルーク朝です。マムルーク朝は1250年にエジプトで成立し、1517年にオスマン帝国に征服されるまで続きました。

「マムルーク」とは、もともと購入された軍事奴隷を指す言葉です。主としてテュルク系やチェルケス系などの若者が軍事訓練を受け、君主を支える精鋭騎兵として登用されました。

王の兵営では、アラビア語、イスラームの教え、戦闘技術を学び、教育を終えると解放されて軍や支配組織の職務に就きました。その中から指揮官や有力者、さらにスルタンとなる人物も現れます。購入・教育・解放を経て、軍事エリートに組み込まれる制度でした。

1260年のアイン・ジャールートの戦い

バグダードを攻略したモンゴル軍は、さらにシリア方面へ進み、アレッポやダマスクスを支配下に置きました。次に脅威へさらされたのが、エジプトを本拠とするマムルーク朝です。

1259年、大ハンのモンケが死去しました。1260年春、フラグは主力の多くを率いてシリアからアゼルバイジャン方面へ戻ります。撤退の理由には、モンケの死去に伴う政治情勢と、夏のシリアで大軍を維持するための牧草や水の不足を重視する説があり、研究上も見解が分かれています。

シリア方面に残されたモンゴル軍に対し、マムルーク朝のスルタン、クトゥズと将軍バイバルスが出撃します。両軍は1260年、パレスチナ北部、現在のイスラエル北部にあたるアイン・ジャールートで戦い、マムルーク軍が勝利しました。

1260年の勝利は、エジプト征服を阻み、マムルーク朝がシリア支配を確立する転機でした。エジプトとシリアを結ぶ強国へ成長する足がかりとなります。その後もイル・ハン国とマムルーク朝の戦争は続き、シリアをめぐる対立が長く残ります。

アイン・ジャールートでの戦闘を表した騎兵のイメージ
1260年の戦いを表すイメージ。人物・旗・装備を実史料に基づいて復元した図ではありません。

1291年のアッコン陥落

マムルーク朝はモンゴル軍と戦う一方、地中海東岸に残っていた十字軍国家の拠点も次々に攻略しました。バイバルスの時代には、カエサリアやアンティオキアなどがマムルーク朝の支配下に入ります。

そして1291年、スルタンのアシュラフ・ハリールがアッコンを攻略しました。アッコンは地中海に面した港湾都市で、エルサレムを失った後の十字軍勢力にとって、政治・軍事・交易の中心となっていました。

1291年には、アッコンに続いて、十字軍国家がシリア・パレスチナ沿岸に維持していた主要な拠点も失われます。このため、アッコン陥落は「十字軍時代の終結を象徴する出来事」として重視されています。東地中海の島々にはキリスト教勢力が残り、以後も遠征計画は立てられました。拠点の喪失と、十字軍運動・構想の存続は分けて押さえましょう。

試験では、1258年のバグダード陥落、1260年のアイン・ジャールートの戦い、1291年のアッコン陥落を一続きの時系列として押さえるとよいでしょう。

同時代のイベリア半島では知識の翻訳が進んだ

西アジアで戦争が続いていたころ、イベリア半島ではカスティリャ王アルフォンソ10世が学術事業を支援していました。「賢王」と呼ばれる人物です。

アルフォンソ10世の宮廷では、アラビア語で書かれた天文学・占星術などの文献が、主としてカスティリャ語へ翻訳されました。ユダヤ教徒、キリスト教徒など、異なる文化的背景を持つ知識人が事業に関わっています。

この翻訳活動は、古代ギリシア以来の学問やイスラーム世界で発展した知識が、西ヨーロッパで利用される経路の一つとなりました。

アラビア語文献の翻訳は12世紀以前から続いていました。アルフォンソ10世は、その蓄積を背景に、13世紀の新たな翻訳・編纂事業を王権によって支えました。

問題2|クビライはモンゴルの支配を中国王朝へ組み替えた

答え(1)はクビライ

1271年に中国風の国号「大元」を定めた君主は、クビライです。チンギス・ハンの孫で、モンケやフラグの兄弟にあたります。

クビライは1259年にモンケが死去した後、弟アリクブケとの後継者争いを経て、モンゴル帝国の大ハンとしての地位を確立しました。一般的な数え方では、チンギス・ハンから数えて第5代の大ハンとされます。

クビライの時代、西方のジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、フラグが築いたイル・ハン国などは、独自に行動する傾向を強めていました。大ハンの権威と、各地域の実際の支配関係には隔たりがあります。

したがってクビライは、モンゴル帝国全体の第5代大ハンであると同時に、中国を支配した元の初代皇帝でもある人物です。この二つの肩書きを区別すると理解しやすくなります。

なぜ国号を「元」としたのか

クビライは北中国を支配する過程で、漢人の官僚や学者を登用し、中国王朝の統治制度を取り入れました。1271年には、中国古典の『易経』に由来する「大元」という国号を採用します。

国号には、中国歴代王朝の正統を継ぐ皇帝として統治する意思が込められていました。遊牧世界の大ハンとしての地位に、中国王朝の皇帝という立場を重ねたのです。

都となった大都は、現在の北京にあたります。クビライは旧来の燕京の近くに新しい都城を建設し、ここを広大な交通網と行政組織の中心にしました。

1271年は国号を大元と定めた年、1279年は南宋を滅ぼした年です。元の国号制定と、中国全土の統一をほぼ完成した時期には、8年の隔たりがあります。

大都を中心に人と技術が移動した

元の支配領域には、モンゴル人、漢人、中央アジアや西アジアから来た人々など、異なる出自を持つ人々が暮らしていました。主要道路には駅伝制の宿駅が整えられ、命令や使節の移動を支えました。広域の交易路では、商人や技術者も往来しています。

元の宮廷では、イスラーム圏出身の天文学者や医療関係者も活動しています。大都にはイスラーム天文学に関係する施設が置かれ、西アジア由来の知識が利用されました。

交流の成果は、個々の技術や計算法に即して見る必要があります。授時暦についても、元の宮廷で使われた学問全体と、暦の具体的な成立過程を確かめていきましょう。

答え(2)は授時暦

郭守敬らが作った暦は、授時暦です。王恂、許衡、郭守敬らによって編纂され、1280年に完成し、1281年から元で施行されました。

郭守敬は、天体の位置や太陽の動きを精密に測るため、新しい観測器具の製作や改良を進めました。また、各地で観測を行い、暦の計算に必要な基礎データを集めています。

授時暦が定めた1年の長さは365.2425日でした。数値は後世のグレゴリオ暦と一致します。授時暦は太陰太陽暦であり、暦の仕組みや計算法には違いがあります。

暦は祭祀や農作業の時期を定め、皇帝の統治を支えました。正しい時を民に授けることは、中国王朝が天命に基づいて秩序を保つという政治理念とも結びついています。

天体観測器具で空を測る元代の学者のイメージ
授時暦の精密な観測を表すイメージ。郭守敬の肖像や器具そのものの史料図版ではありません。

中国暦学の蓄積と、元代の東西交流

元の宮廷にはイスラーム天文学が導入され、回々司天台が設けられました。国立天文台の「中国の暦」は、郭守敬の観測器具を除くと、イスラーム天文学が授時暦に与えた影響はほとんど見られないようだと説明しています。

授時暦は、中国の暦学・数学・天体観測の伝統に、郭守敬らの精密な観測を加えて作られました。イスラーム天文学の受容は、元代の幅広い学術交流の一つとして押さえましょう。

試験では答えを授時暦としつつ、背景を説明するときには、元代の東西交流と授時暦の具体的な成立過程を分けて述べると正確です。

授時暦は日本の貞享暦にどう影響したのか

江戸時代の日本では、渋川春海が中国の授時暦を詳しく研究しました。春海は当初、授時暦の採用を提案しましたが、その暦法で日食を予測できなかったことから研究を重ねます。やがて、13世紀からの近日点の移動と、中国と日本の経度差を考慮して修正を加えました。こうして作られ、1685年から施行されたのが貞享暦です。

貞享暦は、授時暦の研究に春海自身の観測と検討を重ねて生まれた、日本独自の暦法です。伝わった知識を、それを使う土地や時代の条件に合わせた事例といえます。

同時代の地中海ではジェノヴァが勢力を伸ばした

元がユーラシア東部の陸上交通を整えていたころ、地中海ではヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの海港都市が商業上の主導権を争っていました。

1284年のメロリアの戦いでは、ジェノヴァ海軍がピサ海軍に大勝しました。この敗北はピサの海上勢力を大きく後退させ、ジェノヴァが西地中海で優位を築く契機となります。

東地中海ではヴェネツィアとの競争が続き、両都市は黒海やビザンツ帝国方面の交易路をめぐって争いました。

モンゴル支配下の陸路と、イタリア商業都市が活動した海路は、黒海沿岸などで接続し、絹、香辛料、貴金属、工芸品、情報を運ぶ広域交易を形づくっていました。

問題3|トマス・アクィナスは信仰と理性の関係を体系化した

答えはトマス・アクィナス

『神学大全』を著し、スコラ学を大成した人物は、トマス・アクィナスです。13世紀のイタリアに生まれ、ドミニコ会へ入り、パリやナポリなどで学び、教えました。

スコラ学は、聖書、教父の著作、古代哲学などの権威ある文献を読み、問いを立て、賛否の議論を整理し、論理によって答えを導く中世の学問方法です。

中世西ヨーロッパでは大学が発展し、教師と学生が一定の手順で問題を討論するようになりました。トマスの『神学大全』にも、この討論形式が反映されています。

なぜアリストテレス哲学が問題になったのか

12世紀から13世紀にかけて、アリストテレスの著作やその注釈が、ギリシア語やアラビア語などからラテン語へ翻訳され、西ヨーロッパで広く読まれるようになりました。

アリストテレスは、自然、運動、原因、魂、倫理、政治などを、理性的な観察と論証によって体系的に説明しました。その学問体系は大学の知識人に大きな刺激を与えます。

ところが、アリストテレスの考えの中には、キリスト教の天地創造、魂、神の働きに関する教えと、簡単には両立しないように見える部分がありました。

トマスは、アリストテレスの哲学を吟味し、キリスト教信仰と調和する部分を取り入れました。必要な点を修正しながら、自らの神学体系に位置づけていきます。

信仰と理性をどのように調和させたのか

トマスは、人間の理性によって理解できる真理と、神の啓示によって知られる真理を区別しました。たとえば、自然界を観察し、原因を考える営みには理性を用いることができます。

三位一体のように理性の力を超える教義は、啓示によって知られると考えます。

どちらも真理である以上、正しく理解された信仰と正しく働く理性は、最終的には矛盾しないとされました。

トマスは、信仰と理性がそれぞれ何を扱えるのかを整理し、両者を一つの体系に組み込みました。

『神学大全』の討論形式と未完の部分

『神学大全』は、神、創造、人間の行為、徳、キリスト、秘跡などを体系的に論じたトマスの代表作です。神学を学び始める人のための教科書として構想されました。

各項目では、まず一つの問いが示され、それに反対する議論が並びます。その後、権威ある文献を引用し、トマス自身の答えを述べ、最後に反対意見へ一つずつ応答します。

この構成により、結論だけでなく、なぜ別の考え方が成り立つように見えるのかまで検討できます。これはスコラ学の討論方法をよく表しています。

トマスは晩年に執筆を中止し、『神学大全』は未完となりました。現在伝わる書物には、未完の部分を後世に補ったものも含まれます。

神学と哲学の書物を読みながら執筆する修道士のイメージ
信仰と理性を論じる学問を表すイメージ。トマス本人の肖像や当時の書物の写真ではありません。

アンセルムスからトマスへ、数世代にわたる学問の発展

トマス・アクィナスは、教科書で「スコラ学の大成者」と呼ばれます。

一般に「スコラ学の父」と呼ばれることが多いのは、11世紀から12世紀に活動したアンセルムスです。アンセルムスは、信仰を前提としながら、その内容を理性によって理解しようとしました。

その後、大学の成立や翻訳活動を背景にスコラ学が発展し、13世紀のトマスがアリストテレス哲学を取り入れて大規模な神学体系を築きます。

  • アンセルムス:スコラ学の父と呼ばれる
  • トマス・アクィナス:スコラ学を大成した

スコラ学は数世代をかけて発展しました。「父」と「大成者」を、それぞれの活動した時期や学問の背景と結びつけると、人物を区別しやすくなります。

ロバート・グロステストは観察と数学を重視した

同じ13世紀のイングランドでは、ロバート・グロステストが自然研究と教育に大きな影響を与えました。オックスフォードで教えた後、リンカン司教となった人物です。

グロステストは光学や天文学を論じ、自然現象を理解するうえで数学、特に幾何学を重視しました。日常的な観察、古典の権威、思考実験、自然についての前提を組み合わせて説明を考えています。個々の観察から説明を組み立てる方法も研究史で注目されてきましたが、統制された実験による検証を科学の基本方法として確立したという評価には、議論があります。

その影響を受けた人物の一人が、フランシスコ会士のロジャー・ベーコンです。ベーコンも数学、言語、観察、経験の役割を重く見ました。

彼らの自然研究は、中世キリスト教世界の思想的枠組みの中で進められました。観察や経験の意味も現代の実験科学と異なります。論理的な説明に数学や観察を結びつけた営みは、その後のヨーロッパの自然研究を知る手がかりです。

六つの地域を比べる|政治秩序と知識の移動

13世紀のユーラシアでは、戦争による破壊と、交通圏の拡大による交流が同時に進んでいました。

地域 主な出来事 起きた変化
西アジア 1258年、バグダード陥落 アッバース朝を中心とした政治秩序が崩れる
エジプト・シリア 1260年、アイン・ジャールートの戦い マムルーク朝が地域の防衛者として台頭する
中国 1271年、大元の国号を制定 モンゴルの支配が中国王朝の形へ組み替えられる
地中海 1284年、メロリアの戦い ジェノヴァが海上交易で勢力を伸ばす
イベリア半島 アルフォンソ10世の翻訳・編纂事業 アラビア語圏の学術知識が翻訳される
西ヨーロッパ 大学とスコラ学の発展 古代哲学とキリスト教神学の体系化が進む

モンゴルの征服は、多くの都市と人命を失わせました。その一方で、広い地域が同じ政治圏や交通網によって結ばれ、商人、使節、職人、学者が移動しやすくなった面もあります。

人々の移動には、交易や招聘による往来と、征服者が職人を別の地域へ移す強制的な移住も含まれました。都市の破壊、交通の整備、技術の伝播が、同じ時代に重なっています。

港で荷を運ぶ商人と隊商のイメージ
陸路と海路がつながる港のイメージ。特定の港や交易の場面を復元した図ではありません。

復習|五つの年を年代順に並べる

主要な出来事を年代順に並べると、次のようになります。

  1. 1258年:フラグ軍がバグダードを攻略し、アッバース朝が滅亡
  2. 1260年:マムルーク朝がアイン・ジャールートでモンゴル軍に勝利
  3. 1271年:クビライが国号を大元と定める
  4. 1281年:元で授時暦が施行される
  5. 1291年:マムルーク朝がアッコンを攻略

西アジアではバグダードの旧秩序が崩れ、エジプト・シリアでマムルーク朝が勢力を確立しました。同じ時代、中国ではクビライが元の統治を整えています。この年表は、西アジアと中国の政治秩序の変化を比較しています。

同じころ、西ヨーロッパでは翻訳された古代・イスラーム圏の知識が大学で読まれ、トマス・アクィナスらが信仰と理性の関係を考えていました。

13世紀には、古い中心が崩れ、新しい中心が生まれ、その間を商人・学者・技術者・書物が行き交いました。

問題を解き直す際は、五つの答えに「どの秩序が変わり、誰が統治を担い、どの知識が移動したのか」という説明を添えてみてください。年号・人物・学問の関係が、地域ごとに整理できます。

参考資料