第6回:アジア各地の初期農耕と青銅器文化の動向(BC4000〜BC2800)
問1:中国の長江流域では、アワ・キビと異なり、早くから栽培された作物は何ですか?
答えは、米(稲)です。田で育つ植物が稲、その実を食料として呼ぶときの言葉が米。ここでは「長江流域の稲作」と覚えると、作物と農業の姿がつながります。
黄河流域で重要だったアワやキビと、長江流域の米。この南北の作物の違いは、前の仰韶文化の記事でも触れました。今回は一歩先へ進み、米を育てる仕事が、水田や住まい、人々の協力関係をどう変えたのかを考えてみます。
手掛かりは、地中に残った稲の実、骨の農具、小さな水田、そして大きな堤防や墓です。一つずつ結びつけていくと、作物名だけでは見えなかった社会の姿が現れます。BC4000〜BC2800を扱うこの時代の最終回は、長江を主な舞台に、インダスの村々まで視野を広げて締めくくります。
- 地図と年表で、長江とインダスの位置をつかむ
- 河姆渡の稲と骨の農具から、米づくりの暮らしが見える
- 稲を育てるうちに、稲そのものも変わっていった
- 太湖周辺では、馬家浜から崧沢、良渚へと文化が続く
- 小さな水田が教える、水を入れる仕事と抜く仕事
- 良渚では、水管理が都市を支える大工事になった
- 玉器と墓の違いに、良渚社会の階層が表れる
- 同じころのインダスでは、村の暮らしに何が育っていたか
- アムリの土器と住居に、地域ごとの歩みが見える
- 小さなビーズが語る、遠い土地との交易
- BC2800ごろから、ハラッパの都市的な姿が明瞭になる
- 青銅器文化は地域ごとに時期が違う――バンチェンは後世の比較
- まとめ:米づくりから、水と人を組織する社会へ
- 関連記事
- 参考資料
地図と年表で、長江とインダスの位置をつかむ
長江は、中国を西から東へ流れて東シナ海へ注ぐ大河です。「長江文明」という言葉は、その流域で育った複数の先史文化や社会をまとめて語るときに使われます。本記事で詳しく見るのは、長江下流の太湖(たいこ)周辺と、杭州湾(こうしゅうわん)の南側です。
河姆渡(かぼと)は杭州湾の南側、現在の浙江省(せっこうしょう)余姚(よよう)にあります。良渚(りょうしょ)の都市遺跡は湾の北西側、現在の杭州市の北西部。両遺跡は、湖、支流、湿地、湾岸の平野を含む、長江下流域の広い稲作地域に位置します。
一方、インダス川は南アジアの北西部を流れ、アラビア海へ注ぎます。ハラッパは現在のパキスタンのパンジャーブ地方にあり、インダス水系のラヴィ川に近い遺跡です。アムリは南方のシンド地方、インダス川西岸に近い場所にあります。同じ流域でも、支流の平野と下流の集落では、使える土地や材料、交流する相手が異なりました。

長江下流域とインダス流域の遺跡を示した概略図。位置と河道は模式化しています。バンチェンは後世の比較例です。
年代はおおよその目安です。表の「今回の中心」を追い、先行する文化と、その後の展開を前後に置くと見通しがよくなります。BCは紀元前を表し、数字が小さくなるほど現在へ近づきます。
| 時期の目安 | 長江下流域 | インダス流域など |
|---|---|---|
| BC5000ごろから | 河姆渡文化の稲作集落。太湖周辺では馬家浜文化が展開 | 今回に先立つ農耕・牧畜の蓄積が続く |
| BC4000〜BC3300ごろ 今回の中心 |
太湖周辺で崧沢文化。稲作と工芸が発達 | アムリなどで先ハラッパ段階の集落が育つ |
| BC3300〜BC2800ごろ 今回の中心 |
良渚文化が始まり、水利施設や都市形成が進む | ハラッパのラヴィ期。村の工芸と広域の交流が確認される |
| BC2800〜BC2600ごろ | 良渚文化が引き続き展開 | ハラッパのコトディジ期。都市的な集落構成が明瞭になる |
| BC2600ごろから | 良渚文化はBC2300ごろまで続く | 成熟インダス文明の大都市が発達 |
| さらに後世 | タイ東北部のバンチェンは、後の農耕・金属器文化の比較例として扱う | |
良渚文化全体の年代は、おおむねBC3300〜BC2300です。今回の区切りであるBC2800は、良渚の発展の途中に当たります。ハラッパについても、同じ地名の下に、初期の村から後の大都市まで長い歴史が重なっています。
河姆渡の稲と骨の農具から、米づくりの暮らしが見える
稲の実だけでなく、殻や茎まで残った
まず、今回の時代に先立つ河姆渡の暮らしへ少しさかのぼります。河姆渡文化は、おおむねBC5000〜BC3000ごろに展開した文化です。河姆渡遺跡からは稲の実に加えて、籾殻(もみがら)、茎、葉などがまとまって見つかりました。食べ物の残りだけでなく、収穫した稲を運び、処理した活動まで考えられる資料です。
こうした植物が残った背景には、水分の多い地中の環境があります。空気に触れにくい場所では、通常は腐ってしまう植物や木材が保存されることがあります。遺跡で見える暮らしは、当時あったものと、その土地で残りやすかったものとの両方に左右されるのです。
河姆渡では、柱を立て、その上に木の床を設ける干欄式(かんらんしき)の建物も見つかっています。湿った地面から床を離す住まいと、豊富な稲の遺存体。同じ場所から出た資料を合わせると、水辺に住み、米を生活に取り込んでいた人々の輪郭が見えてきます。
肩甲骨に柄をつけた「骨耜」
農作業を具体的に伝えるのが、骨耜(こつし)と呼ばれる道具です。「耜」は土を掘り起こす、すき状の道具を指します。河姆渡では、ウシ類など大型動物の肩甲骨(けんこうこつ)の平たい部分を加工し、木の柄を取りつけたものが使われました。
中国国家博物館の所蔵品を見ると、骨の中央には柄を添える溝があり、ひもを通すための穴も開いています。骨をそのまま握って使うより、長い柄をつけた方が立った姿勢で力を加えられます。材料の形を生かし、柔らかな土を動かす道具へ作り替えたわけです。
刃先の摩耗や出土状況から、水田をならす、溝を掘るといった用途が考えられています。建物の柱穴や穴を掘る仕事にも使われた可能性があります。米づくりと家づくりは、土、木、骨を扱う技術を共有していたのですね。
農具が伝えるのは、畑や田へ出ていたという一場面だけではありません。道具を作る、柄をつけ直す、使った後に手入れをする。そのような仕事が、食料を得る活動の前後に加わります。稲作が生活に深く入るにつれ、収穫までの準備にも時間をかける暮らしが育っていきました。
稲を育てるうちに、稲そのものも変わっていった
「米が出土した」という事実から、さらに細かく調べられることがあります。どのような稲だったのか、どの程度人の手が加わっていたのかという問題です。
野生の稲にとって、熟した実が地面に落ちることは、次の世代を残す仕組みです。人間にとっては、収穫する前に実が落ちると集めにくくなります。栽培を繰り返すなかで、実が落ちにくい性質の稲が増えていくことは、栽培化を知る重要な手掛かりになります。
河姆渡に近い田螺山(でんらさん)遺跡では、実のつけ根に残る小さな痕跡が研究されました。自然に外れた実と、人が脱穀して外した実では、つけ根の形が違います。その違いを数え、時期を比べると、人間が収穫しやすい性質の稲が増えていく過程を追えるのです。
2009年の研究では、BC4900〜BC4600ごろに当たる約300年間で、調べた稲の実のつけ根のうち、栽培型と判定されたものの割合が約27%から約39%へ増えていました。これは標本の中での割合です。同じ研究では稲とともに、ドングリ、ヒシなどの植物も確認されており、複数の食料を利用しながら稲への依存を強めていた様子がうかがえます。
人が種をまき、世話をする「栽培」と、植物の性質が人の栽培に適した方向へ変わる「栽培化」は、重なりながら進みます。遺跡の種子を調べると、農業の歴史を、人間側の工夫と植物側の変化の両面から読むことができます。
この変化を毎年の仕事に戻して考えてみましょう。収穫した米の一部は食料になり、一部は次の栽培に回ります。耕作する場所を整え、収穫の時期を判断し、翌年へ種をつなぐ。その繰り返しが、人と稲の関係を長く続くものにしました。
太湖周辺では、馬家浜から崧沢、良渚へと文化が続く
文化名は、土器や墓に見えるまとまりを表す
長江下流域の話には、少し読みづらい文化名が並びます。ここで太湖周辺の流れを一度整理しておきます。
- 馬家浜(ばかほう)文化:おおむねBC5000〜BC4000。太湖周辺で稲作が営まれ、水田の遺構も見つかる時期
- 崧沢(すうたく)文化:おおむねBC4000〜BC3300。稲作を受け継ぎ、土器、石器、玉器、墓のあり方に変化が見える時期
- 良渚文化:おおむねBC3300〜BC2300。大規模な水利施設、都市、身分差を示す墓や精巧な玉器が特徴となる時期
ここでいう「文化」は、考古学者が、土器の形や作り方、道具、墓の特徴などをまとめてつけた名前です。文化の切り替わりは、暮らしに現れた変化を整理するための区切り。福泉山(ふくせんざん)などの遺跡では、崧沢文化の層の上に良渚文化の層が重なり、前後関係を確認できます。
河姆渡は、杭州湾の南側を中心とする別の地域的なまとまりです。太湖側の文化と時期が重なり、長江下流域の稲作社会をともに形づくりました。河姆渡の生活資料と、馬家浜・崧沢・良渚の系列を地図の両側に置くと、同じ米づくりの地域にも複数の文化があったことが分かります。
崧沢の土器には、作り手の手間が見える
崧沢を、馬家浜と良渚の間にある名前として通り過ぎるのは惜しいところです。上海博物館には、崧沢文化の、胴体が二重になった壺が収められています。内側は物を入れる容器、外側には丸や三角の透かし模様があり、口縁や足も花びらのような形に整えられています。
容器としての働きを内側に持たせながら、外側に別の造形を加える。粘土の扱い方や、焼く前の組み立てに工夫が要る品です。稲作の話と並べて眺めると、農耕社会で発達した技術の幅がよく見えます。食料を作る仕事と同時に、器物の形や見せ方にも労力が注がれていました。
太湖周辺では、稲作を続けながら、こうした道具や器、埋葬の習慣が変化していきます。土器の形が変わることと、社会の仕組みが変わることを、遺跡ごとに重ねて追えるのが、この地域の資料の豊かさです。
小さな水田が教える、水を入れる仕事と抜く仕事
稲作の発達を知るには、作物に加えて、作物を育てた場所を見る必要があります。太湖の東側にある草鞋山(そうあいざん)や綽墩(しゃくとん)では、初期の水田が調べられています。
草鞋山のBC4000ごろの水田には、小さく掘りくぼめられた区画がありました。研究で紹介される区画の多くは10平方メートル未満で、浅いくぼみとして残っています。現代の広く整然とした田に比べると、かなり小さな耕作単位です。
田だったことを確かめる際には、区画の形だけでなく、土の中の植物の痕跡が役立ちます。稲が体内に作るケイ酸の微粒子や、湿った耕作地に生える草の残りを調べ、周囲の土と比較します。植物が目に見える姿で残っていなくても、土そのものが農作業の記録を抱えているのです。
綽墩などでは、小さな耕作区画と溝、水をためたと考えられる深い穴とのつながりも確認されています。水をためる場所と、稲を育てる場所を組み合わせることで、区画ごとの水位を調整しやすくなります。
水田の管理には、水を入れる仕事と、余分な水を抜く仕事の両方があります。雨の量や地面の高さに応じて、水をどこにとどめ、どこへ流すかを変える。初期の小区画は、その調整を細かく行なえる作りだったと考えられています。
ここで稲作が暮らしに加えた仕事が見えてきます。区画を掘り、周囲を整え、溝を保つ。翌年も同じ場所を使うなら、前年の作業が次の収穫へつながります。土地に手間をかけた分だけ、そこを維持する意味も大きくなるわけです。
小さな田の段階では、住居と耕作区画が近接する配置から、家や小集団を単位にした管理が想定されています。その後、広い水系を扱う段階へ進むと、作業を調整する範囲も広がります。田の大きさ、溝のつながり、住まいとの距離は、誰が誰と協力したのかを考える材料になります。
良渚では、水管理が都市を支える大工事になった
湿地と丘の間に、暮らす場所を造る
良渚の中心地は、丘陵と低い平野が接する場所にあります。水に恵まれる一方、雨や川の増水の影響を受けやすい土地です。稲を育て、人が集まって暮らすには、使える水を確保し、流れ込む水を調整する必要がありました。
そこで残されたのが、谷間をせき止めるダム、平野側の堤防、都市内外の水路などを組み合わせた仕組みです。2017年の発掘研究では、ダムの土を包んだ草などの年代を測り、主要な工事が良渚文化の早い段階から進んでいたことが示されました。おおむねBC3200〜BC2800ごろに関わる年代が得られています。
特に目を引くのは、草で泥を包んだものを積む工法です。柔らかな材料をまとめ、運び、所定の位置に重ねていく。現代の土のうを連想させますが、残っているのは、当時の植物と土を使った具体的な施工の痕跡です。
その後も調査範囲は広がっています。2025年の研究は、衛星画像や地形の分析と現地調査を組み合わせ、良渚周辺の水管理施設を探す方法を検討しました。初期に知られた主要な施設群に加え、周辺のより広い範囲でも多くのダムが確認されています。良渚の水管理は、一つの大きな堤防から、地域全体に広がる工事として姿を現しつつあります。
田へ送る水、都市を守る水、物を運ぶ水
この水利施設には、洪水への備え、水の貯留、農地への水の供給、交通など、複数の役割がありました。水をためる場所、流す場所、居住地を設ける場所を組み合わせることで、低湿地を暮らしと生産の場へ変えていったのです。
水路は運搬路にもなります。米、木材、石など、量が増えると陸上で運ぶ負担が大きくなるものも、水運に支えられます。都市の周囲に水路と船着き場の遺構があることは、農地と居住地、ものづくりの場をつなぐ仕組みを考えるうえで重要です。
良渚の都市には、土を盛って造った大きな基壇、居住の場、墓地、手工業に関わる場所がありました。こうした空間を支える稲作地や水利施設まで含めて見ると、都市の働きが分かります。食料を作る場所と、多くの人が集まり、工芸や儀礼、管理を担う場所とが、広い範囲で結びついていたのです。
一軒の家の水路なら、家族で手直しする場面も考えられます。谷をせき止める工事になると、土を掘る人、運ぶ人、積む人をそろえ、作業の順序を決めなければなりません。食料の手配や、農作業との時期の調整も要ります。大きな水利施設は、土木技術と、人をまとめる仕組みが一緒に働いた証拠です。
地中から会議の議事録は出てきませんが、積み上げられた土は、共同作業の議題が相当大きかったことを教えてくれます。
良渚で人々を動かした具体的な役職や命令の仕組みは、現在の資料では復元できていません。その一方、施設の規模と配置、居住地や墓の差から、計画と労働を調整する力が社会の中にあったことは読み取れます。
玉器と墓の違いに、良渚社会の階層が表れる
良渚では、米づくりと水利の発達に加えて、精巧な玉器(ぎょっき)が大きな特徴になります。「玉」は、磨くことで美しいつやを出す石材などを指す言葉です。良渚の玉器は、装飾や儀礼、埋葬に関わる品として残されています。
丸い穴のある筒と円盤
代表的なのが、琮(そう)と璧(へき)です。琮は外側が角ばり、中央に丸い穴の通る筒状の器物。璧は中央に穴を開けた平たい円盤です。形の違いを押さえるだけでも、博物館の展示がずっと見やすくなります。
琮には、目や顔を思わせる文様が刻まれたものがあります。上海の福泉山遺跡から出た例にも、こうした像が表されています。同じ種類の形や文様が繰り返されることは、それを作る技術に加えて、受け取る側にも共通の意味や価値があったことを考えさせます。
硬い石に穴を開け、形を整え、表面を磨くには、技術と時間が必要です。完成品だけを見ると滑らかな輪郭に目が向きますが、その前には材料を選び、削り、研ぐ長い工程があります。こうした品を多く用意する社会には、材料を集め、作り手の仕事を支える関係も必要でした。
玉器の細かな用途や、文様に託された意味は、なお研究が続いています。当時の人が残した説明文はなく、形、出土した位置、組み合わせから解釈されています。後世の中国には天地と結びつけた説明がありますが、良渚当時の意味は、出土状況に基づいて検討されています。
何が、誰の墓に納められたのか
社会の違いを考える際に重要なのは、玉器の美しさだけでなく、どの墓から、どれほどの品が、どのような組み合わせで出たかです。良渚では、副葬品の豊かな大きな墓と、品の少ない墓があり、墓地の配置にも差が見られます。
良渚の反山(はんざん)や瑶山(ようざん)などの墓地は、有力者の埋葬を考えるうえで重要です。玉器を豊富に持つ人々、特別な場所に葬られる人々が存在し、死者の扱いにも社会的な差が表れていました。
ユネスコが良渚を評価する際には、稲作を経済的な基盤とし、共通の信仰や明瞭な階層を持つ地域国家の姿が重視されています。その判断は、水利施設、都市の構成、墓地、玉器などを合わせたものです。
ここまで来ると、冒頭の「米」という答えの先に、かなり広い世界が見えてきます。食料を作る人々の仕事が、都市に集まる人々を支える。大きな工事を調整する力と、儀礼や特別な品に表れる権威が、同じ社会の中で働く。良渚の特徴は、この組み合わせにあります。
同じころのインダスでは、村の暮らしに何が育っていたか
ハラッパの始まりを、地中の村から見る
今度は西へ移り、インダス流域を見てみます。教科書でよく知られるハラッパやモヘンジョダロの大都市が発達するのは、おおむねBC2600以降です。今回のBC4000〜BC2800では、その前の村と地域間交流に注目します。
ハラッパの初期段階はラヴィ期と呼ばれ、年代の目安はBC3300〜BC2800です。初期の住まいには、木の柱を立て、葦(あし)などを組んだ壁に土を塗ったものがありました。柱の痕跡や、植物の跡がついた土のかけらから、建物の作りを復元できます。
地面に掘られた、下の方が広がる穴も見つかっています。内側には細かな粘土が塗られ、穀物などの貯蔵に使われたと考えられています。穴の断面には埋まり方や塗り直しの跡が重なり、繰り返し使い、手を加えた時間が残っています。
このラヴィ期の穴から採取した土を調べると、コムギやオオムギの種子が見つかりました。小さな植物片を水で分けて回収する方法が使われ、住まいの近くにあった食料の具体像が得られています。長江で稲の痕跡をたどったように、ここでも「何を食べたか」は、土の中に残された粒から確かめられます。
調理用の土器には、底の重心を低くした丸い形や、熱による割れを抑えるため外面に粗い粘土を加えた工夫が見られます。住む、蓄える、煮炊きする。そのための道具と施設が、都市以前の村の段階ですでに組み合わされていました。
小麦・大麦と家畜が支える農業
インダス地域では、コムギやオオムギなどの農耕と、ウシ、ヒツジ、ヤギなどの飼育が生活を支えていました。長江の低湿地の稲作と比べると、使う作物も、水との付き合い方も異なります。
ハラッパ周辺には、冬の雨と夏の季節風による雨という、異なる季節の水があります。川の流れや増水で潤う平野を利用し、季節に応じて作物を組み合わせる農業が発達しました。コムギやオオムギは冬の栽培を中心とする作物として重要でした。
住居や工芸品が集まる場所も、周辺で食料を生産する土地とのつながりの中にあります。ハラッパとその周囲の集落を調べると、中心となる場所と、農耕・牧畜を営む小さな集落が組み合わさる地域の姿を追えます。都市の前史は、村の暮らしを丁寧に見るところから始まるのです。
アムリの土器と住居に、地域ごとの歩みが見える
インダス川を下ったシンド地方には、アムリ遺跡があります。初期の居住はBC3600〜BC3300ごろにさかのぼるとされ、成熟インダス文明以前の文化を知る場所の一つです。
アムリの土器には、赤みや淡い黄褐色の地に、黒、褐色、赤などで幾何学文様を描いたものがあります。帯状の区画に模様を配したり、格子状の文様を描いたりする作風が特徴です。同じ「彩文土器」でも、地域によって器の形と模様の組み合わせが違い、交流や変化を追う目印になります。
住居については、文化の途中の段階で、小部屋に分かれた日干しれんがの建物が確認されています。日干しれんがは、土を形にして乾かした建材です。平らな面を積み重ね、部屋や壁を作るのに向いています。家の構造を追うと、集落で空間をどう区切り、使っていたかが見えてきます。
アムリでは、土器、石の道具、貝の腕輪、銅の刃などが知られています。周辺に豊富でない石材や金属を含む品は、ほかの地域との接触を考える材料です。農耕と家畜飼育に加え、野生動物の骨や貝の集積もあり、周囲の環境から得られる食料が暮らしに組み込まれていました。
ハラッパの村とアムリの集落を並べると、素材の使い方や土器の作風にはそれぞれの特徴があります。そこへ材料や製品が行き来し、関係が広がっていく。インダスの都市形成は、こうした地域ごとの蓄積を背景に進みました。
小さなビーズが語る、遠い土地との交易
完成品のほかに、作りかけと削りくずがある
初期ハラッパの交流をよく伝えるのが、装身具のビーズです。赤いカーネリアン、緑色のアマゾナイト、青いラピスラズリなど、色も硬さも違う石が使われました。産地から離れた村へ、こうした材料が運ばれていたのです。
注目したいのは、完成したビーズに加えて、加工途中の品や削りくず、穴を開ける道具が出ていることです。完成品だけなら、よそで作ったものを受け取った可能性を考えます。加工の途中で出るものがまとまれば、その場所でものづくりをしていたことが分かります。
ラヴィ期のビーズづくりでは、材料の硬さや求める形に応じて、異なる穴あけの方法が使われました。硬い石を細く削り、途中で割らずに穴を通すには、道具の選択と作業の経験が要ります。村には、遠方から材料を得る関係と、それを価値ある品へ仕上げる技術が一緒に存在していました。
貝の腕輪にも、完成品と未完成品があります。内陸のハラッパで海の貝を加工していたことは、海岸と内陸をつなぐ交換の手掛かりです。原材料が移動し、途中の集落で加工され、さらに品物として動く。そのような流れを、作りかけの品から読み取れます。
土器の印と、情報を伝える工夫
ラヴィ期の土器には、焼く前や焼いた後につけられた記号があります。一つだけの記号や、複数の形を並べたものがあり、後のインダス文字に似た要素も見られます。
これらの印が具体的に誰の何を表したかは、まだ明らかになっていません。それでも、器に形を刻んで情報を持たせる習慣が、初期の村の時代からあったことは重要です。物を作り、渡し、保管する社会の中で、目に見える印が使われていました。
土器製作にも変化があります。初期には手づくりの器が中心で、ラヴィ期の後半にはろくろの利用が現れます。器の形、作り方、印のつけ方を順に追うと、ものづくりの技術と、人や物のつながりが、ともに変化していたことが分かります。
良渚の玉器とインダスのビーズには、形も社会での使われ方も違いがあります。それでも、食料を得る活動の周囲に、材料を取り寄せ、熟練した手で加工し、特別な品を共有する世界が育っていたという点で、比較ができます。
BC2800ごろから、ハラッパの都市的な姿が明瞭になる
今回の終点に近づくBC2800ごろ、ハラッパではコトディジ期と呼ばれる段階へ移ります。この時期はBC2600ごろまで続き、村から都市へ向かう変化を追える重要な局面です。
ハラッパのこの段階では、南北・東西を意識した道や家の配置、日干しれんがの建物、囲壁(いへき)などが確認されています。れんがには厚さ・幅・長さをおよそ1対2対4にそろえる傾向があり、多くの部材を組み合わせて建物を造るうえで役立ちました。
物を作る技術に加え、場所を区切り、道を通し、建物の向きを合わせる仕事が広がると、個々の家を超えた調整が必要になります。集落の規模や配置は、その調整がどこまで及んだかを知る資料です。
「コトディジ」は、シンド地方にある遺跡の名前でもあります。コトディジ遺跡の先ハラッパ段階では、石の基礎の上に日干しれんがを積んだ大きな壁が発掘されました。この遺跡をもとにした文化の呼び名が、ハラッパなどの段階名にも使われています。
壁を造るには、材料を集め、土を整え、積む人手が要ります。壁の内外で空間が区切られるため、出入りや使い方にも影響します。壁の役割をさらに知るには、門の位置、地形、水の流れ、周囲の建物、改修の跡を合わせて調べます。
その後、BC2600ごろから成熟インダス文明の時代となり、ハラッパやモヘンジョダロなどの大都市が発達します。今回見てきた村の工芸、原材料の交換、れんがづくり、空間の整備は、その大都市を準備した具体的な蓄積です。
青銅器文化は地域ごとに時期が違う――バンチェンは後世の比較
この記事で取り扱っている年代の最も遅い時期には「青銅器文化」も入っています。ここで、道具の材料と時期を整理しておきます。銅を主な材料とする道具の中でも、スズなどを加えた合金が青銅です。銅製品の存在、合金を作る技術、その製品が社会に広く使われる段階は、それぞれ資料を確かめて扱います。
今回の良渚は、稲作、石器、玉器、大規模な土木工事を特徴とする新石器時代の社会です。一方、先ハラッパ段階では銅の品が使われています。石や骨の道具も含め、用途に応じてさまざまな材料を使う暮らしが続いていました。
東南アジアの比較例となるのが、現在のタイ東北部にあるバンチェンです。農耕、埋葬、土器、金属器の発達を知る重要な遺跡ですが、今回のBC4000〜BC2800より後の時代に置きます。
バンチェンの金属器年代には、試料や測定方法の違いによる議論があります。2015年の人骨などの再測定による編年では、初期の居住・埋葬はBC1600〜BC1450ごろ、青銅器段階への移行はBC1050〜BC955ごろと推定されました。より古く置く編年でも、今回扱う時代の後になります。
長江の水田社会、インダスの銅を使う村々、後世のバンチェン。それぞれを地図上に置き、年代を添えると、アジア各地で農耕や金属器の利用が進んだ時間差が見えてきます。
まとめ:米づくりから、水と人を組織する社会へ
問1の答えは米(稲)です。長江流域の稲作は、植物の実や農具に加え、水田、溝、住居など、いくつもの資料によって確かめられます。
河姆渡や田螺山では、稲を育て、ほかの食料も利用する暮らしがありました。太湖周辺では馬家浜、崧沢、良渚と文化が続き、小さな田の水管理から、都市と農地を支える大規模な水利へと、仕事の範囲が広がります。良渚の墓と玉器には、人々の間の地位や役割の違いも表れました。
同じころのインダスでは、農耕を営む村で、土器やビーズ、貝の腕輪が作られ、遠い土地から材料が届いていました。ハラッパのラヴィ期からコトディジ期へ進むと、こうした交流と技術の蓄積に、集落全体の配置や建設を調整する仕組みが重なっていきます。
この時代の最終回で見えてきたのは、食料を作ること、土地と水に手を加えること、物を作って交換することが、人々の結びつきを広げていく姿です。一粒の米、小さなビーズ、土を積んだ壁。それぞれの背後にある仕事をたどると、都市が育つ前後の歴史が、人の暮らしとしてつながってきます。
関連記事
- 仰韶文化とは?彩陶と半地穴式住居から学ぶ暮らし、華北の粟・江南の米:黄河流域の集落と土器、長江流域との作物や住まいの違いを振り返れます。
参考資料
- 中国国家博物館「炭化稻谷」:河姆渡の稲と建物の資料。
- 中国国家博物館「骨耜」:肩甲骨製の道具と用途。
- フラーほか(2009)「稲の栽培化の過程と速度」:田螺山の稲の実のつけ根を調べた原著研究。
- チャオほか(2023)「長江下流・杭嘉湖平原における約7000年間の環境変化」:地域の環境と馬家浜・崧沢・良渚の文化系列。
- 上海博物館「双层镂孔花瓣足陶壶」:崧沢文化の二重構造の壺。
- 上海市青浦区「崧沢文化概況」:土器・道具・墓と文化の前後関係。
- フラー・チン(2009)「アジアの稲作の起源と拡散における水管理と労働」:小区画の水田と水位調整。
- ワイスコプフほか「湿田と乾田の稲作を植物の微化石から探る研究」:草鞋山などの水田と植物珪酸体。
- リウほか(2017)「約5100年前の中国の大規模水利事業」:良渚のダム、堤防、水路と共同作業。2018年の訂正も参照。
- 「機械学習を用いた良渚の古代水管理施設の特定」(2025):地形分析と周辺の水利施設調査。
- 良渚都市遺跡の土構造物と水分環境に関する研究(2021):水利施設の構成と機能。
- ユネスコ世界遺産センター「良渚古城遺跡」:年代、稲作、都市、水利、階層と墓地。
- 上海博物館「神人獣面文を持つ玉琮」:福泉山出土の玉器。
- スミソニアン国立アジア美術館「良渚文化」:玉器の製作と解釈。
- メトロポリタン美術館「璧」:良渚文化の円盤形玉器。
- メドウ・ケノイヤー「ハラッパ発掘1998〜2000年の主な成果」:ラヴィ期、コトディジ期、成熟ハラッパ期の編年。
- 同「ラヴィ期とコトディジ期の居住」:住居、土器、記号、れんがと集落計画。
- ハラッパ考古学研究プロジェクト「ラヴィ期の貯蔵穴」、「穴の断面と植物遺存体」、「ラヴィ期の調理用土器」:発掘資料の解説。
- ライトほか(2008)「水供給と歴史:ハラッパとビアース川地域の調査」:環境、作物、農耕・牧畜と集落。
- ハラッパ「アムリ:シンドの先ハラッパ遺跡」:発掘報告などに基づく土器、建物、食料と交流の解説。
- ケノイヤー・メドウ(2000)「ハラッパのラヴィ期」:貝の腕輪、石製品、銅製品と地域間交流。
- ケノイヤー「ハラッパにおけるビーズ技術の研究」:材料、加工、穴あけの技術と生産。
- パキスタン考古局『パキスタン考古学』第1号(1964):コトディジの発掘概要と壁の構造。
- ハイアムほか(2015)「タイ東北部の青銅器時代の新編年」:バンチェンなどの年代測定。訂正記事を併記。

