問1(チャールズ1世と「権利の請願」)
イングランドでは1625年にジェームズ1世が死去し、息子のチャールズ1世が即位しました。国王と議会は課税や臣民の権利をめぐって激しく対立します。
(1)1628年、コークら議会側が国王に提出し、議会の同意のない課税や不当な逮捕の禁止を求めた重要な文書は何ですか。
(2)この文書を承認した後、1629年に議会を解散し、1640年まで議会を召集しなかった国王の名を答えなさい。
問2(ヴァレンシュタインの活躍)
三十年戦争のデンマーク介入期(1625〜1629年)には、新教側を支援してデンマーク国王クリスチャン4世が参戦しました。これに対し、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世のために大軍を組織し、皇帝軍司令官として活躍したボヘミア出身の軍人は誰ですか。
問3(ピルグリム・ファーザーズのプリマス入植)
1620年、イングランド国教会から分離しようとした人々を中心とする一団がメイフラワー号で北アメリカへ渡り、ニューイングランドに築いた入植地は何ですか。
答えを先に確認しましょう。問1(1)は権利の請願、(2)はチャールズ1世。問2はヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン)、問3はプリマスです。
これだけなら、暗記カード4枚で終わります。しかし1620年代を少し離れて眺めると、三つの問題には共通した空気が見えてきます。「誰が人を支配し、税を集め、信仰を決め、共同体を動かすのか」が各地で問われていた時代だったのです。
もちろん、イングランド議会と三十年戦争、プリマス入植が一つの原因から起きたわけではありません。別々の地域の出来事です。ただ、同じ年代に並べることで、王権、宗教、軍隊、移住という17世紀の大きなテーマが一度に見えてきます。
まず答えを一覧で確認|4語を1620年代の流れに置く
| 設問 | 答え | 覚える意味 |
|---|---|---|
| 問1(1) | 権利の請願 | 国王の課税・逮捕などに法的な制限を求めた |
| 問1(2) | チャールズ1世 | 1629〜1640年、議会を召集しない「Personal Rule」を行った |
| 問2 | ヴァレンシュタイン | 皇帝軍の大軍を組織し、デンマーク介入期の皇帝側を支えた |
| 問3 | プリマス | 1620年、メイフラワー号の乗客らがニューイングランドに築いた入植地 |
時間順では、1620年のプリマス入植、1624年のチェルベリーのハーバートによる思想書刊行、1625年のチャールズ1世即位とデンマークの三十年戦争介入、1628年の権利の請願、1629年のイングランド議会解散とリューベックの和約、と続きます。
年号だけが横一列に並ぶと少々にぎやかですが、「国家の権威」「宗教」「人の移動」という札を付けると、だいぶ席順が見えてきます。

問1|1628年の「権利の請願」は、なぜ必要になったのか
答えは(1)権利の請願、(2)チャールズ1世
1625年3月、ジェームズ1世の死後にチャールズ1世が即位しました。問題の中心は、「王様が強かった」という一言ではありません。もっと具体的に見ると、国王は議会の承認なしに、どこまでお金を集められるのかという争いでした。
当時の国王には戦争のために多額の資金が必要でした。しかし議会は、国王が求める資金を何でも認めたわけではありません。チャールズ1世は1626年に議会の承認を経ない強制借款を行い、支払いを拒んだ人々の一部を裁判なしで拘禁しました。
ここで議会側が問題にしたのが、単なる「税金が高い、困った」という話ではありません。「国王だからといって、法や議会を飛び越えて徴税や拘禁をしてよいのか」という統治の原則だったのです。
コークらが求めたのは、昔からある権利の確認だった
1628年、議会は国王に権利の請願(Petition of Right)への同意を求めました。中心となった議員の一人が、著名な法律家サー・エドワード・コークです。
権利の請願では、議会の同意を経ない課税、不当な拘禁、兵士の強制的な宿泊、平時における恣意的な軍法の使用などが問題にされました。コークらは、国王へまったく新しい制度を贈ろうとしたというより、マグナ・カルタなど過去の法的伝統を使い、臣民の自由を確認しようとしました。
試験では「権利の請願=議会の同意なしの課税と不当な逮捕に反対」と押さえると軸がぶれません。

チャールズ1世は同意したのに、なぜ対立が終わらなかったのか
チャールズ1世は1628年に権利の請願へ同意しました。ところが、それで国王と議会が仲直りしたわけではありません。課税や宗教政策をめぐる対立は続き、1629年3月、国王は議会を解散します。
その後、1640年4月まで議会を召集しなかった期間は、英語でPersonal Rule、日本では「無議会政治」「親政」などと呼ばれます。約11年間です。
チャールズ1世は、この間も統治と財源確保を続けました。よく知られるのが船舶税(Ship Money)の拡大です。本来は沿岸部と関係の深かった負担を内陸部にも広げたため、議会を通さない徴税への反発が強まりました。
「権利の請願を承認した=国王が議会主権を全面的に受け入れた」と覚えるのは早すぎます。1628年は対立の終点ではなく、長い政治危機の途中でした。
この対立はイングランド内戦へ続いていく
1630年代末になると、スコットランドの宗教政策をめぐる対立から主教戦争が起こり、国王は戦費を必要とします。そこで1640年、チャールズ1世は再び議会を召集しました。
しかし、11年間の不満は消えていません。税、宗教、国王大権、議会の権限をめぐる対立はさらに深まり、1642年には国王派と議会派の武力衝突へ進みます。
そのため権利の請願は、単独で「近代民主主義を完成させた文書」と見るより、マグナ・カルタから17世紀の内戦、さらに1689年の権利章典へ至る長い立憲政治史の重要な一地点として見るほうが分かりやすいでしょう。
問2|ヴァレンシュタインは何をした人物なのか
答えはヴァレンシュタイン|皇帝のために巨大な軍を組織した
問2の答えはアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインです。表記は「ワレンシュタイン」とされる場合もあります。ボヘミア出身の貴族で、三十年戦争では神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の軍を率いました。
三十年戦争は1618年にボヘミアで始まりましたが、1625年になると戦争の範囲が北へ広がります。ルター派のデンマーク国王クリスチャン4世が、プロテスタント勢力を支える側として北ドイツへ介入したためです。
皇帝側にはカトリック連盟の名将ティリーがいました。それに加えて皇帝自身の大軍を用意するため、フェルディナント2世が頼ったのがヴァレンシュタインでした。
「自費で軍隊を作った」は半分正しく、半分は補足が必要
ヴァレンシュタインは莫大な財産と信用力を背景に兵を集め、皇帝の国庫へ最初から全面的に頼らず、大軍を組織する力を持っていました。この点から「自費で軍隊を組織した」と説明されることがあります。
ただし、兵士の給料も食料も、ずっと本人の財布だけから出ていたわけではありません。軍隊は占領地や駐屯地域から軍税・供出・徴発を受けて維持されました。
「ヴァレンシュタインが自分のお金だけで何万人もの兵士を最後まで養った」と理解すると実態から離れます。彼の強みは、財産、信用、徴兵、地域からの軍事負担を組み合わせて巨大な軍事組織を動かしたことにありました。
現代の会社にたとえるなら、社長が全社員の給料を自分の貯金から払い続けたというより、最初の信用と資金調達力を使って巨大な組織を立ち上げ、その組織が活動先から資源を集める仕組みを作った、と考えるほうが近いでしょう。もちろん、17世紀の軍隊は会社よりずっと物騒ですが。
1626年の勝利|ティリーとヴァレンシュタインを混同しない
ここは試験で混乱しやすいところです。1626年、ヴァレンシュタインはデッサウ橋の戦いでプロテスタント側の傭兵隊長エルンスト・フォン・マンスフェルトを破りました。
一方、同じ1626年にデンマーク王クリスチャン4世をルッターの戦いで大敗させた中心人物は、ティリーです。教科書で二人が同じページに登場するため、名前が仲よく混ざりやすいのですね。
その後ヴァレンシュタインは北ドイツへ進み、デンマーク側を圧迫しました。1628年にはヴォルガストでクリスチャン4世を破り、1629年のリューベックの和約によってデンマークは三十年戦争から後退します。

皇帝が強くなれば、それで終わりではなかった
デンマークを退けた皇帝フェルディナント2世は、1629年に復旧令を発し、プロテスタント側が世俗化していた教会領の返還を要求しました。皇帝権が強くなったことを示す政策です。
ところが、ヴァレンシュタインの巨大な軍隊を維持する負担は、敵側だけでなく皇帝側の諸侯にも重くのしかかりました。さらに皇帝が一人の軍人へ大きな力を与えることにも、帝国内の諸侯は警戒します。
その結果、ヴァレンシュタインは1630年にいったん解任されました。つまり、彼の成功は皇帝の力を強める一方、その強さ自体が諸侯の反発を生むという矛盾を抱えていたのです。
この構図を覚えると、三十年戦争を「カトリック対プロテスタント」という一色だけで見なくなります。同じカトリック陣営の中にも、皇帝が強くなりすぎることを警戒する諸侯がいたからです。
問3|1620年の答えはプリマス。ただし「最初」の意味に注意
ピルグリムは、単純に「すべてのピューリタン」ではない
問3の答えはプリマスです。1620年、メイフラワー号で大西洋を渡った人々のうち、宗教的な中心集団はイングランド国教会から分離しようとした分離派(Separatists)でした。
広い意味では清教徒運動と関係しますが、「国教会を内部から改革したいピューリタン」と「国教会そのものから離れたい分離派」は同じではありません。ピルグリムは後者に当たります。
ジェームズ1世治世下で宗教的圧力を受けた彼らは、すぐ北米へ向かったのではなく、先に信仰の自由を求めてオランダへ移住しました。ライデンなどで暮らした後、1620年に新たな共同体を求めて大西洋横断へ向かいます。
メイフラワー号はまずケープ・コッドへ着いた
メイフラワー号は1620年秋にニューイングランド沿岸へ到達し、まずケープ・コッドを確認しました。もともとの渡航計画とは異なる場所でしたが、季節や航海条件などから、この地域で入植地を探すことになります。
探検の後、一行が選んだのが現在のマサチューセッツ州プリマス周辺でした。1620年12月にはプリマス港へ入り、集落の建設を始めています。
したがって答案は「プリマス」で大丈夫です。ただし、歴史を深く理解するなら二つ補足しておきましょう。
第一に、プリマスは「北アメリカ最初のイングランド植民地」ではありません。ヴァージニアのジェームズタウンは1607年に成立しています。プリマスは、ニューイングランドにおける初期の恒久的なイングランド植民地として重要です。
第二に、ピルグリムが到着した土地は、人間が暮らしたことのない「空白の大地」ではありませんでした。

プリマス以前にはワンパノアグの共同体パタクセットがあった
プリマス周辺には、ワンパノアグの人々が暮らしていました。入植者が町を築いた場所には、以前パタクセット(Patuxet)と呼ばれる共同体がありました。
ヨーロッパ人との接触後、1610年代後半の疫病でニューイングランドの先住民社会は深刻な被害を受け、パタクセットも大きく人口を失っていました。入植者は、水、港、すでに開かれていた土地などを見て、この場所を選びます。
「誰もいなかった土地へピルグリムが初めて文明を作った」という物語にしてしまうと、そこに以前からあったワンパノアグ社会が見えなくなります。
一方、到着した入植者自身も厳しい冬を経験し、最初の冬には多くが病気などで亡くなりました。翌1621年以降、ワンパノアグとの外交や交易、食料生産をめぐる関係の中で、プリマス植民地は存続していきます。
メイフラワー誓約は「近代民主主義の完成」ではない
予定とは異なる地域へ到達したため、成人男性の乗客の多くは上陸前にメイフラワー誓約へ署名し、共同体の秩序を維持するため政治団体を作ることに合意しました。
後世のアメリカ史では自治の伝統と結びつけて高く評価されます。ただし、現代の普通選挙や民主政治と同じ制度が1620年に完成したわけではありません。女性、奉公人、先住民などを含むすべての住民が対等に政治参加した制度ではなかった点も区別しておきましょう。
同じ時代をもう一歩深掘り|宗教では「恩寵」と「理性」が問い直された
1620年代には、王権や軍事だけでなく「宗教上の真理を、何を根拠に考えるのか」という議論も動いていました。ここでヤンセニウスとチェルベリーのハーバートを並べると、同時代の知的な緊張が見えてきます。
ヤンセニウス|人は自分の力だけで救われるのか
コルネリウス・ヤンセニウスは1585年に生まれ、1638年に亡くなった神学者です。彼の大著は死後の1640年、ルーヴェンで刊行されました。
ヤンセニウスは古代の神学者アウグスティヌスを重視し、人間が自分の自由意志の力だけで救済へ至れるという考えを退け、神の恩寵の必要性を強く主張しました。
ここでは表現に注意が必要です。「人間の自由意志を完全に否定した」と一言で済ませると強すぎます。彼が批判した核心は、人が神の恩寵とは独立して、自力だけで救済を獲得できるという考えでした。
彼の思想をめぐる論争はフランスのポール・ロワイヤル周辺へ広がり、アントワーヌ・アルノーや後のブレーズ・パスカルとも結びつきます。イエズス会との対立も激しくなり、17世紀カトリック世界の大きな神学論争となりました。
チェルベリーのハーバート|宗派が争っても共通する宗教的真理はないか
一方、イングランドの外交官・思想家エドワード・ハーバートは、1624年にパリで哲学書を刊行しました。彼は、人間が理性によって認識できる「共通概念」を重視します。
宗教についても、最高神の存在、神を敬うこと、徳ある生活、過ちへの悔い改め、行為への報いと罰など、人類に共通すると彼が考えた基本項目を挙げました。
後世、ハーバートはしばしばイギリス理神論の先駆者、あるいは「父」と位置づけられます。ただし、18世紀の理神論者すべてが彼と同じ思想だったわけではありません。

二人は反対方向に見えるが、背景には宗教対立の時代がある
ヤンセニウスはアウグスティヌスへ戻り、恩寵の力を強く見ました。ハーバートは宗派を越えて共有できる理性的な宗教原理を探します。方向はかなり違います。
それでも、宗教改革後のヨーロッパで「教会や宗派が対立する中、信仰の根拠をどこに置くのか」という問いに向き合っていた点では、同じ時代の課題を映しています。
ここから「三十年戦争がハーバートの思想を生み、権利の請願がヤンセン主義を生んだ」とつなぐことはできません。直接の因果関係は別問題です。同時代の人々が、政治でも宗教でも「権威の根拠」を繰り返し問い直していたと見る程度にとどめるのが安全です。
1620年代を一枚の時間軸にすると見えやすい
| 年 | 地域 | 出来事 | 理解の軸 |
|---|---|---|---|
| 1620 | 北アメリカ | メイフラワー号の一行がプリマスへ入植 | 信仰・移住・植民 |
| 1624 | 西ヨーロッパ | ハーバートが理性と共通概念を論じる著作を刊行 | 宗教と理性 |
| 1625 | イングランド | チャールズ1世即位 | 王権と議会 |
| 1625 | 中央ヨーロッパ | デンマークが三十年戦争へ本格介入 | 宗派・国際政治 |
| 1626 | 中央ヨーロッパ | ヴァレンシュタインがデッサウ橋でマンスフェルトを破る | 皇帝軍の拡大 |
| 1628 | イングランド | 権利の請願 | 課税・拘禁・法 |
| 1629 | イングランド | チャールズ1世が議会を解散 | 無議会政治へ |
| 1629 | 中央ヨーロッパ | リューベックの和約、復旧令 | 皇帝権の一時的伸長 |
| 1640 | ネーデルラント | ヤンセニウスの神学書が死後刊行 | 恩寵をめぐる論争 |
こうして並べると、同じ十数年間に「国王はどこまで勝手に課税できるのか」「皇帝はどれほど巨大な軍事力を持てるのか」「信仰のために共同体を離れる人々はどこへ行くのか」「宗教の確かさは何によって支えられるのか」という問いが各地に現れていたことが分かります。
世界史は、章ごとに国が替わるため、ページをめくるたび前の国が消えたような気になります。しかし実際の1628年には、イングランドで議員が国王と争っている最中にも、ドイツ北部では兵士が動き、大西洋の向こうではプリマスの植民地が生き残ろうとしていました。
試験で混同しやすい6つのポイント
1.権利の請願は1628年
議会の同意のない課税、不当な拘禁などを問題にした文書です。中心人物の一人としてコークを押さえます。
2.無議会政治を行ったのはチャールズ1世
1629年に議会を解散し、1640年まで召集しませんでした。権利の請願への同意と無議会政治が同じ人物の治世にある点が重要です。
3.ルッターでクリスチャン4世を破ったのはティリー
ヴァレンシュタインは同年、デッサウ橋でマンスフェルトを破っています。二人とも皇帝・カトリック側で活躍するため混同に注意しましょう。
4.ヴァレンシュタインの軍は「全額自腹」ではない
個人資産と信用力は重要でしたが、軍隊は占領地などからの軍事負担によっても維持されました。
5.ピルグリムは北米へ直行したわけではない
イングランドを離れた分離派の人々は、北米渡航の前にオランダで生活しています。
6.プリマスは北米最初のイングランド植民地ではない
ジェームズタウンは1607年です。プリマスは1620年にニューイングランドで形成された重要な入植地として押さえます。
FAQ|答案ではどこまで書けばよい?
「権利の請願」だけでなく「権利請願」と書いてもよいですか
教材によって表記差がありますが、日本の世界史では「権利の請願」が一般的です。試験では使用している教科書・用語集の表記へ合わせると安全です。
問1(2)はジェームズ1世ではありませんか
違います。ジェームズ1世は1625年に死去しています。1628年の権利の請願を受け入れ、翌1629年に議会を解散したのは息子のチャールズ1世です。
ヴァレンシュタインとティリーはどちらも皇帝軍ですか
厳密には立場を分けて覚えたほうがよいでしょう。ティリーはカトリック連盟軍の中心的司令官で、ヴァレンシュタインは皇帝フェルディナント2世のために皇帝軍を組織しました。両者は同じ陣営で協力しましたが、軍の基盤は同一ではありません。
ピルグリム・ファーザーズはピューリタンですか
広い宗教改革の流れでは関係しますが、より正確には国教会から離れようとした分離派です。後のマサチューセッツ湾植民地へ渡った国教会改革派のピューリタンとは区別しておくと混乱しません。
ヤンセン主義は1620年代の出来事ですか
ヤンセニウス本人は1620年代にも活動していましたが、後世「ヤンセン主義」と呼ばれる論争が大きくなるのは、彼の死後に著作が刊行された1640年以降です。1620年代とまったく同じ年の事件としてではなく、同時代から少し後へ続く宗教思想の流れとして見てください。
まとめ|1620年代は「権威を誰が支えるのか」が揺れた時代
今回の答案は、問1(1)が権利の請願、(2)がチャールズ1世。問2がヴァレンシュタイン、問3がプリマスです。
ただし、四つの答えをばらばらに覚えるより、次のように一文ずつ説明できる状態を目指すと記憶が崩れにくくなります。
- 権利の請願:国王による議会外課税や不当な拘禁へ議会が制限を求めた。
- チャールズ1世:議会との対立後、1629年から約11年間議会を召集しなかった。
- ヴァレンシュタイン:皇帝のため大軍を組織し、デンマーク介入期の皇帝側を軍事的に支えた。
- プリマス:宗教的分離派を含むメイフラワー号の一行が1620年に築いたニューイングランドの入植地。
さらに余裕があれば、「王と議会」「皇帝と諸侯」「国教会と分離派」「恩寵と自由意志」「宗派の教理と人間の理性」という対立軸を横に置いてください。人物名を覚える勉強から、17世紀の人々が何を争っていたのかを理解する勉強へ変わります。
復習では答えを隠し、「なぜ権利の請願が必要だったのか」「ヴァレンシュタインの軍はどう維持されたのか」「なぜプリマスを『無人の土地への入植』と説明してはいけないのか」を、それぞれ一文で説明してみてください。
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参考資料
- UK Parliament「Charles I and the Petition of Right」
- UK Parliament「The Petition of Right」
- UK Parliament「The Personal Rule of Charles I」
- UK Parliament「Magna Carta and Parliament」
- Encyclopedia.com「Wallenstein, A. W. E. von」
- U.S. National Park Service「Pilgrims」
- U.S. National Park Service「The Wampanoag」
- Plimoth Patuxet Museums「Who Were the Pilgrims?」
- Cambridge University Press「Jansenism」
- Universitätsbibliothek Paderborn「Cornelii Iansenii Episcopi Iprensis Avgvstinvs」
- Routledge Encyclopedia of Philosophy「Herbert, Edward」
- Stanford Encyclopedia of Philosophy「The Concept of Religion」
