王朝交代が人々を海へ押し出した?ジェームズ1世からメイフラワー、江戸禁教まで

17世紀初頭の港で移住者が帆船の出航を見送る様子の想像図 大学受験歴史

問1(ジェームズ1世の専制とピューリタンの弾圧)
1603年、独身を通したエリザベス1世が死去してテューダー朝が断絶すると、スコットランド王であった人物がイングランド国王( ① )として即位し、( ② )朝を開きました。

(1) ①と②に入る国王名、および王朝名を答えなさい。
(2) 彼は「国王の権力は神から直接授かったものである」という( ③ )説を掲げ、イギリス国教会を重視して、カルヴァン派の新教徒である( ④ )(ピューリタン)を厳しく弾圧しました。③と④に入る語句を答えなさい。

問2(ピルグリム・ファーザーズの渡航)
1620年、上記の国王(問1の①)の時代に宗教的な圧迫を受けた分離派の人々が、( ⑤ )号と呼ばれる船に乗って北アメリカへ渡り、プリマスに入植しました。( ⑤ )に入る船名と、この人々を一般に何と呼ぶか答えなさい。

問3(江戸幕府の禁教令)
日本でも17世紀初頭、江戸幕府はキリスト教への禁制を強めました。1612年に幕府直轄領で始まり、1614年には全国へ広がったキリスト教禁止政策を表す法令を何といいますか。

答えから確認しておきましょう。問1は①ジェームズ1世、②ステュアート朝、③王権神授説、④清教徒(ピューリタン)。問2はメイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ、問3は禁教令です。

解答を確かめたら、それぞれの出来事の背景を見ていきましょう。1603年前後の世界では、「誰が人々を統治するのか」「信仰を国家がどこまで統一するのか」という問題が、イングランド、日本、中国、ドイツ語圏でほぼ同時に表面化していました。

この時代をつなぐ鍵は、17世紀初頭に各地で「権力と信仰、共同体の関係」が問い直されていたことです。以下では同時代の事例として比較します。同じ年代に並べると、王権、移住者の共同体、知識人の活動、宗教統制が、それぞれの社会でどのように展開したかが見えてきます。

1603年、エリザベス1世の死でイングランドの王朝が交代した

1603年3月24日、イングランド女王エリザベス1世が死去しました。生涯結婚せず、子もいなかったため、ヘンリー7世につながる血統を持つスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王位を継承します。イングランドではジェームズ1世です。

ここでテューダー朝からステュアート朝へ王家が交代しました。同時にジェームズは、スコットランドではジェームズ6世、イングランドではジェームズ1世という二つの王号を持つことになります。

イングランドとスコットランドは、それぞれ議会・法制度・教会制度を維持したまま、同じ君主をいただく「同君連合」となりました。君主を共有する一方、二つの王国の制度は引き続き別々でした。
1603年の王朝交代と英蘇の同君連合を題材にした想像図

1603年の王朝交代と英蘇の同君連合を題材にした想像図。創作したイメージとして掲載しています。

王権神授説は、王の権威を神に由来すると考える

ジェームズ1世を理解する重要語が王権神授説です。王の権威は神に由来するという君主権の考え方を指します。英国王室も、ジェームズが「Divine Right of Kings」を強く信奉していたと説明しています。

英国王室の解説によれば、ジェームズは自らの行為も法に従うと認めていました。王権の思想と、実際の統治を支える法や議会との関係を、合わせて見ることが大切です。

そのうえで議会とは財政や権限をめぐって衝突しました。ここで積み残された王権と議会の緊張は、息子チャールズ1世の時代にさらに深まり、17世紀イングランドの政治的激動へつながっていきます。

なお、16世紀末のイングランドがスペインとの対決を経てどのように浮上したかは、関連記事「スペインはなぜ揺らぎ、オランダとイングランドが浮上したのか|16世紀末を動かした反乱とアルマダ」から読むと、1603年の王朝交代まで流れがつながります。

ジェームズ1世の宗教政策は、なぜピューリタンを圧迫したのか

ジェームズ1世の統治では、政治と宗教を切り離して考えにくい点が重要です。国王はイングランド国教会の体制を維持し、教会組織と王権を結びつけていました。

1604年のハンプトン・コート会議では、国教会のさらなる改革を求めるピューリタン側の要求が議論されました。ジェームズは主教制を維持し、採用する改革を限定します。新たな英訳聖書の編纂は認め、1611年に欽定訳聖書が刊行されました。その後、国教会への服従を求める圧力が強まり、従わない聖職者が職を失う例も生じます。

ピューリタンは、国教会をさらに改革しようとしたプロテスタントの人々を指します。その中で国教会から離れ、独自の教会を築く道を選んだ人々が分離派(Separatists)です。1620年にプリマスへ向かった中心集団は、この分離派でした。教材ではピューリタンの流れの中で扱われることもあります。

ピルグリムたちは、いったんオランダへ渡っていた

分離派の一団は、ジェームズ1世のもとで独自の教会を認められず、まずイングランドを離れてオランダへ移住しました。アメリカ国立公園局の解説も、彼らが宗教的自由を求めてオランダへ移った経緯を説明しています。

オランダでの生活では、仕事や収入の問題に加え、子どもたちがオランダ語や現地の生活習慣に親しんでいくことへの懸念もありました。一団は信仰と共同体を維持するため、新しい居住地を探します。

北米への移住は、宗教政策による圧迫、オランダでの生活、航海費用を支える出資者との交渉を経て実現しました。イングランドからオランダへ、さらにイングランドの港から大西洋へという経路をたどったのです。
オランダを経て移住を準備する分離派を題材にした想像図

オランダを経て移住を準備する分離派を題材にした想像図。創作したイメージとして掲載しています。

1620年、メイフラワー号はプリマス植民地へつながった

1620年9月、メイフラワー号はイングランドを出航しました。プリマスの歴史を扱うPlimoth Patuxet Museumsは、102人の乗客が乗っていたとしています。荒れた大西洋を横断し、11月にケープコッドへ到達しました。

乗客には分離派のほか、出資者が集めた移住者もいました。宗教的な目的と、植民事業の資金や労働を確保する必要が結びついていたのです。

その後、人々は定住地を探し、現在のマサチューセッツ州にあたるプリマスへ入植します。一般に、この移住者集団の中心となった分離派は、後世ピルグリム・ファーザーズと呼ばれるようになりました。

ジェームズタウンとプリマスを、地域と目的から比べる

イングランド人による北米の恒久的植民地としては、1607年のヴァージニア植民地ジェームズタウンが先行しています。北米には、スペインなど他のヨーロッパ勢力による植民も進んでいました。

ジェームズタウンの植民事業では経済的利益が重視され、プリマスの中心集団は自分たちの信仰と共同体を保つ居住地を求めました。1620年のプリマス入植は、ニューイングランド植民地社会を理解するうえで重要な起点です。地域と目的を組み合わせると、二つの入植を区別しやすくなります。
メイフラワー号の大西洋横断とケープコッド・プリマスの関係を示す模式図

メイフラワー号の大西洋横断とケープコッド・プリマスの関係を示す模式図。航路と地形・位置は概略です。

メイフラワー契約は何を意味したのか

メイフラワー号が到達したケープコッドは、当初許可されていた入植予定地域から外れていました。そこで男性乗客たちは、共同体を秩序立てるための合意としてメイフラワー契約を結びます。

この文書では、自分たちを一つの政治的共同体として結び、共同の利益のために法や役職を設け、それに従うことが確認されました。後世のアメリカ政治史では自治の伝統と結びつけて語られます。

後の記録が伝える署名者は男性乗客41人です。原本は現存せず、本文と署名者の情報は刊行物などを通して伝わっています。文書にはジェームズ王への忠誠とキリスト教信仰を広める目的も記されていました。参加者の範囲や宗教的な目的を踏まえて、この自治の合意を理解する必要があります。

同じ1603年、アルトジウスは「主権は王だけのものか」と問い直した

ジェームズ1世がイングランド王となった1603年、神聖ローマ帝国圏ではドイツの法学者・政治思想家ヨハネス・アルトジウスの『政治学(Politica)』初版が刊行されました。Cambridge University Pressの研究でも、初版が1603年であったことが確認できます。

この同時性は興味深いものです。一方では王の権威を神に由来すると考えるジェームズが王位につき、もう一方ではアルトジウスが、政治共同体を家族・都市・地域など複数の共同体の結びつきから考えようとしていました。

アルトジウスは、主権にかかわる権利を共同体全体に位置づけ、君主をその権利の管理者と考えました。後世の研究では、人民主権や連邦主義の前史を考える重要な思想家として論じられています。

二人を同時代の思想として比べると、ジェームズは君主の権威の由来を神に求め、アルトジウスは共同体全体に主権の権利を置いたことが分かります。統治する権利と、その権利を行使する者の関係について、異なる考え方が示されていました。
家族・都市・広い共同体の関係を論じる政治思想を題材にした想像図

家族・都市・広い共同体の関係を論じる政治思想を題材にした想像図。創作したイメージとして掲載しています。

1604年の中国では、東林書院が政治批判の拠点へ育ち始めた

その翌年の1604年、明の中国では顧憲成らが江南の無錫で東林書院を再興しました。現在の無錫市梁渓区政府の解説でも、明の万暦32年、すなわち1604年に顧憲成らが東林書院を再興して講学を始めたとされています。

東林書院はしだいに政治や官僚社会を批判する知識人たちの拠点となり、そこから東林派と呼ばれる人々のネットワークが生まれました。講学とともに、政治や社会のあり方を論じる場として発展したのです。

宦官魏忠賢が強大な権力を握り、東林派への大規模な弾圧を進めるのは、1620年代の天啓帝期です。1625年には楊漣ら、1626年には周順昌らが捕らえられ、獄死しました。

1604年は書院再興、1620年代は魏忠賢による弾圧と、運動の形成と後の政治対立の段階を分けて押さえましょう。
東林書院での講学と政治の議論を題材にした想像図

東林書院での講学と政治の議論を題材にした想像図。創作したイメージとして掲載しています。
三つを1603〜1604年の同時代の事例として並べると、「統治する者の権威はどこまで認められるのか」という問いが、地域ごとに異なる形で立ち上がっていたことが見えます。

日本では1612年からキリスト教禁制が強まり、1614年に全国へ広がった

17世紀初頭の日本では、徳川政権が海外貿易を進める中で、キリスト教への統制を強めていきました。
観光庁の「地域観光資源の多言語解説文データベース」に掲載された長崎のキリスト教史では、1612年に二代将軍徳川秀忠が江戸・京都など幕府直轄領でキリスト教を禁じ、1614年には全国で信仰を禁止したと説明されています。

金地院崇伝が起草した禁令は「伴天連追放之文」または「排吉利支丹文」と呼ばれ、慶長18年の文書として伝わります。国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、その文献が紹介されています。

ここは暦の違いにも注意が必要です。慶長18年末の文書は、西暦では1614年初頭に当たります。したがって、慶長18年を一律に1613年へ置き換えると、年末の出来事の日付がずれます。

問3の答えは「禁教令」です。1612年の幕府直轄領での禁制から、崇伝による禁令の起草を経て、1614年の全国的な禁止と宣教師追放へ進んだ経過を押さえましょう。

禁教には対外的な警戒と国内統治の問題が重なった

キリスト教禁止の背景には、宣教とヨーロッパ勢力の軍事的進出が結びつくのではないかという警戒がありました。豊臣秀吉の時代には、1596年のスペイン船サン・フェリペ号漂着をきっかけに、布教が軍事征服の前段階ではないかという疑念も強まっています。

徳川政権の禁教には、貿易政策、国内統治、キリシタン大名をめぐる事件、宗教的権威と幕府支配との関係が重なっていました。1610年の有馬晴信によるポルトガル船への攻撃と、その後の岡本大八事件も、政権の警戒を強めた背景です。

秀吉の時代から日本におけるキリスト教政策の流れをたどるなら、関連記事「海を渡った対抗宗教改革は日本をどう変えた?天正遣欧使節から秀吉の禁教まで」を先に読むと、1587年のバテレン追放令から徳川期への連続と変化をつかみやすくなります。

1600年前後の権力・信仰・共同体を年表で比べる

年 地域 出来事 見えてくる問い
1603 イングランド ジェームズ1世即位、ステュアート朝へ 王権はどこから来るのか
1603 ドイツ語圏 アルトジウス『政治学』初版刊行 主権は君主だけのものか
1604 明 顧憲成らが東林書院を再興 知識人は政治へどう関わるのか
1612〜14 日本 徳川政権がキリスト教禁制を強化 国家は信仰をどこまで統制するのか
1620 北アメリカ メイフラワー号、プリマス入植 移住者は新しい共同体をどう統治するのか

17世紀初頭には、信仰と政治共同体の関係が、さまざまな場で問われていました。王権を強めようとする動きがある一方、共同体や知識人から政治を考え直す動きもあり、宗教政策によって移動を選ぶ人々も現れました。

各地域の動きは、異なる方向へ展開しました。イングランドでは王権と議会の対立が深まり、北米では移民による共同体形成が始まり、中国では知識人政治が激しい党争へ入り、日本では徳川政権による宗教統制が強まります。

1590年代ヨーロッパで宗教対立への別の答えを見たい場合は、関連記事「王権は「共存」を選び、宇宙は無限へ開いた|1590年代ヨーロッパの宗教と科学」も参考になります。フランスのナントの勅令とイングランドの宗教政策を比べると、同じ時代の王権が、宗教対立に異なる対応をとったことが分かります。

まとめ|王権・信仰・共同体から17世紀初頭を学ぶ

1603年、エリザベス1世の死によってジェームズ1世が即位し、イングランドではステュアート朝が始まりました。ジェームズは王権神授の考えを持ち、国教会体制を維持したため、改革を求めるピューリタン、とりわけ国教会から分離した人々との緊張が強まります。

その分離派の一部はオランダを経て、1620年にメイフラワー号で北米へ渡り、プリマスへ入植しました。ニューイングランド社会を理解する重要な起点となる出来事です。

一方、同じ時代の日本では徳川政権がキリスト教禁制を強め、中国では東林書院が政治を論じる知識人の場として再興されました。さらに1603年に『政治学』初版を刊行したアルトジウスは、共同体全体に主権の権利を置く考え方を示しています。

ジェームズ1世、メイフラワー号、禁教令を、権力・信仰・共同体との関係から考えましょう。国ごとの経過を確認し、それぞれの統治の仕組みや人々の選択を比較すると、同時代の特徴が見えてきます。

復習するときは、表を閉じて「1603年→1604年→1612〜14年→1620年」の順に、誰が何をし、「何を統治しようとしたのか」を自分の言葉で説明してみてください。そこまで言えれば、この範囲はかなり強くなっています。

参考資料

情報確認日:2026年10月12日