聖地へ向かうはずの十字軍はなぜ帝都を占領したのか|ラテン帝国の成立とビザンツ・イスラーム世界の変動

大学受験歴史

問題1(第4回十字軍):教皇( ④ )の提唱で決定した第4回十字軍は、当初の目的であった聖地奪還ではなく、商圏拡大を狙うヴェネツィアの支援でビザンツ帝国の首都を占領しました。このとき、十字軍が占領地に建国した国家は何ですか。

問題2(ビザンツ帝国の亡命政権):第4回十字軍によってコンスタンティノープルを追われたビザンツ帝国の亡命政権のうち、小アジアに拠点を置き、のちに首都を奪還することになる帝国を何といいますか。

問題3(イスラーム世界):1187年にイェルサレムを奪還したサラーフ=アッディーン(サラディン)が創始したスンナ派の王朝は何ですか。この王朝は1250年、軍人奴隷(マムルーク)のクーデターによって滅亡しました。

  1. 最初に答えを確認する
  2. 3つの答えをつなぐ時系列
  3. 問題1の答えはラテン帝国
    1. 第4回十字軍を提唱したのはインノケンティウス3世
    2. 遠征軍はヴェネツィアへの輸送費を支払えなかった
    3. なぜコンスタンティノープルへ向かったのか
    4. 占領地に成立したラテン帝国
    5. 社会への影響
    6. 問題1で誤解しやすい点
  4. 問題2の答えはニカイア帝国
    1. ビザンツ帝国の亡命政権は一つではない
    2. ニカイア帝国はどのように成立したのか
    3. ニカイア帝国が有力になった理由
    4. 1261年のコンスタンティノープル奪還
    5. 首都奪還後も以前の国力には戻らなかった
    6. 問題2で誤解しやすい点
  5. 問題3の答えはアイユーブ朝
    1. サラディンがエジプトで始めたスンナ派王朝
    2. 1187年にイェルサレムを奪還
    3. アイユーブ朝は一枚岩の中央集権国家ではなかった
    4. 軍人奴隷マムルークが力を持った理由
    5. 「1250年にアイユーブ朝が完全消滅」は正確ではない
    6. 問題3で誤解しやすい点
  6. 3問を「首都・正統性・軍事基盤」で整理する
  7. 同時代の東地中海では何が起きていたのか
    1. 十字軍同士でも目的は一致していなかった
    2. 東ローマ帝国は「1204年に滅亡した」とも「存続した」とも表現できる
    3. イスラーム側も統一国家ではなかった
  8. 現代につながる見方
  9. よくある質問
    1. ラテン帝国の「ラテン」は、古代ローマ帝国という意味ですか
    2. ニカイア帝国とニケーア公会議のニケーアは同じ場所ですか
    3. ラテン帝国を滅ぼした皇帝は誰ですか
    4. アイユーブ朝の次がマムルーク朝ですか
  10. まとめ

最初に答えを確認する

3問の答えは、次のとおりです。

問題答え覚えるポイント
問題1ラテン帝国1204年、十字軍がコンスタンティノープルを占領して建国
問題2ニカイア帝国小アジアに成立し、1261年にコンスタンティノープルを奪還
問題3アイユーブ朝サラディンが創始し、1187年にイェルサレムを奪還

また、問題1の空欄④に入る教皇はインノケンティウス3世です。

第4回十字軍による1204年のコンスタンティノープル占領を軸にすると、「ラテン帝国の成立」と「ニカイア帝国へのビザンツ国家の継承」を一続きの出来事として理解できます。

一方、アイユーブ朝はこれより少し前から続いていたイスラーム側の王朝です。サラディンによるイェルサレム奘回、十字軍国家との戦い、1250年のエジプトにおける政権交代までを同じ時間軸に置くと、東地中海世界全体の変化が見えてきます。

 

3つの答えをつなぐ時系列

個別の用語を暗記する前に、出来事の順番を確認しておきましょう。

主な出来事関係する答え
1171年サラディンがエジプトのファーティマ朝を終わらせ、アイユーブ朝の支配を始めるアイユーブ朝
1187年サラディンがハッティンの戦いで十字軍側を破り、イェルサレムを奪還アイユーブ朝
1198年教皇インノケンティウス3世が新たな十字軍を呼びかける第4回十字軍
1202年第4回十字軍が出発し、ヴェネツィアへの輸送費不足からザラ攻撃に加わる第4回十字軍
1204年十字軍とヴェネツィア軍がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建国ラテン帝国
1204年前後ビザンツ側の勢力が小アジアにニカイア帝国を形成ニカイア帝国
1250年エジプトでマムルークが政権を掌握し、アイユーブ朝のエジプト支配が終わるアイユーブ朝
1261年ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪還し、ラテン帝国が滅亡ニカイア帝国・ラテン帝国

この表で重要なのは、ラテン帝国とニカイア帝国が別々の時代の国家ではないことです。両国は1204年以降、コンスタンティノープルとビザンツ皇帝の正統性をめぐって並存しました。

アイユーブ朝も同じ時期にエジプトやシリアを支配しています。つまり13世紀前半の東地中海では、ラテン系十字軍国家、ビザンツ系亡命政権、イスラーム諸政権が複雑に向き合っていました。

問題1の答えはラテン帝国

第4回十字軍を提唱したのはインノケンティウス3世

問題文の空欄④に入るのは、ローマ教皇インノケンティウス3世です。在位期間は1198年から1216年で、教皇権が大きな政治的影響力を持った時代の代表的な教皇として知られています。

インノケンティウス3世は即位した1198年、新たな十字軍を呼びかけました。背景には、1187年にサラディンがイェルサレムを奪還した後も、聖地の中心都市をキリスト教側が取り戻せていなかった事情があります。

第4回十字軍の本来の目的は、エジプト方面を攻めてイスラーム勢力の基盤を崩し、そこから聖地奪還につなげることでした。しかし、遠征軍は当初の計画どおりには動きませんでした。

遠征軍はヴェネツィアへの輸送費を支払えなかった

十字軍の指導者たちは、地中海を渡る船団の建造と輸送を海洋都市ヴェネツィアに依頼しました。ところが、実際にヴェネツィアへ集合した兵士の数が見込みを下回り、十字軍側は契約した輸送費を全額支払えなくなります。

そこでヴェネツィアは、支払いを猶予する代わりに、アドリア海沿岸の都市ザラへの攻撃に十字軍が協力するよう求めました。ザラはキリスト教都市であり、当時はハンガリー王の支配下にありました。

教皇が「キリスト教国の首都コンスタンティノープルを占領せよ」と命じたわけではありません。インノケンティウス3世はキリスト教徒への攻撃を禁じており、ザラ攻撃に参加した者たちは破門の対象となりました。

なぜコンスタンティノープルへ向かったのか

ザラに滞在していた十字軍のもとへ、ビザンツ帝国の皇位を追われた一族に属するアレクシオスが接触しました。彼は父イサキオス2世を復位させてもらう代わりに、十字軍への巨額の資金提供、軍事支援、東西教会の統合などを約束します。

資金難に陥っていた十字軍指導者とヴェネツィアは、この提案を受け入れました。こうして遠征軍は聖地やエジプトではなく、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへ向かいます。

1203年、十字軍はアレクシオスをアレクシオス4世として即位させました。しかし、新皇帝は約束した資金を十分に用意できませんでした。重い徴税や西欧軍の滞在に対する市民の反発も強まり、政変によってアレクシオス4世は失脚します。

報酬を失った十字軍とヴェネツィア軍は、1204年4月にコンスタンティノープルを攻撃しました。堅固な城壁で知られた都市は陥落し、大規模な略奪を受けます。

占領地に成立したラテン帝国

コンスタンティノープル占領後、十字軍は旧ビザンツ帝国領を分割しました。その中心として成立した国家が、問題1の答えであるラテン帝国です。

初代皇帝には、フランドル伯ボードゥアン9世が皇帝ボードゥアン1世として選ばれました。「ラテン」とは、ローマ教会に属し、主としてラテン語文化圏に属する西欧人側を指す名称です。

これに対してビザンツ帝国の住民の多くは、ギリシア語を用い、東方正教会を信仰していました。そのためラテン帝国は、旧ビザンツ領全体から広く支持された国家ではありません。

ヴェネツィアは島々や港湾、交易上の重要地点を獲得し、東地中海における商業上の影響力を拡大しました。ただし、第4回十字軍の進路変更を「ヴェネツィアが最初からすべて計画していた」と単純化するのは適切ではありません。

輸送費の不足、ヴェネツィアの利害、十字軍指導者の判断、ビザンツ帝国内の皇位争い、約束された報酬の不履行など、複数の要因が重なって首都占領に至りました。

社会への影響

1204年の占領は、ビザンツ帝国に深刻な打撃を与えました。財宝や聖遺物、美術品が略奪され、一部は西ヨーロッパへ運ばれました。都市の経済力と政治的権威も大きく損なわれます。

さらに、西方のローマ・カトリック教会と東方正教会の対立は、一層深まりました。東西教会は1054年の相互破門以前から距離を広げていましたが、キリスト教徒である十字軍が正教会世界の中心都市を略奪した記憶は、長く残りました。

ラテン帝国は1261年まで存続します。しかし、旧ビザンツ領の全域を安定して支配したわけではなく、成立直後から周辺のビザンツ系政権やブルガリアなどの圧力を受けました。

問題1で誤解しやすい点

  • 教皇がコンスタンティノープル攻撃を提唱したのではありません。教皇が提唱したのは聖地奪還を目指す十字軍です。
  • 「ヴェネツィアの商業目的だけ」で進路が変わったわけではありません。輸送費不足とビザンツの皇位継承争いも重要です。
  • ラテン帝国はビザンツ帝国の別名ではありません。西欧の十字軍勢力がコンスタンティノープルに建てた国家です。
  • 1204年にビザンツ系の国家が完全消滅したわけではありません。複数の亡命政権が成立しました。

問題2の答えはニカイア帝国

ビザンツ帝国の亡命政権は一つではない

コンスタンティノープルが占領されると、ビザンツ帝国の皇族や有力者は各地へ逃れ、いくつかの政権を築きました。その代表がニカイア帝国トレビゾンド帝国エピロス専制侯国です。

政権主な拠点特徴
ニカイア帝国小アジア西部のニカイア1261年にコンスタンティノープルを奪還
トレビゾンド帝国黒海南岸のトレビゾンドコムネノス家の一族が成立させ、15世紀まで存続
エピロス専制侯国バルカン半島西部のエピロス一時はテッサロニキを支配し、帝都奪還を争った

問題文の「小アジアに拠点を置き、のちに首都を奪還する」という条件に当てはまるのがニカイア帝国です。

ニカイア帝国はどのように成立したのか

ニカイア帝国の基礎を築いたのは、ビザンツ帝国の貴族テオドロス1世ラスカリスです。彼は1204年の首都陥落後、小アジア西部へ逃れ、ニカイアを中心に支配を固めました。

ニカイアは現在のトルコ北西部に位置する都市で、現在はイズニクと呼ばれています。コンスタンティノープルとは海峡を隔てた小アジア側にあり、旧首都の奪還を目指すうえで重要な位置にありました。

テオドロス1世は周辺のラテン勢力やセルジューク朝と戦いながら政権を維持します。また、コンスタンティノープルから避難した正教会の聖職者や官僚を受け入れ、ビザンツ国家の制度を継承しました。

ニカイア側の君主は、自らを単なる地方君主ではなく、正統なローマ皇帝の後継者と位置づけました。ここでいう「ローマ」とは、西ローマ帝国ではなく、後世にビザンツ帝国と呼ばれる東ローマ帝国の伝統を指します。

ニカイア帝国が有力になった理由

亡命政権のなかでニカイア帝国が優位に立った理由の一つは、小アジア西部に比較的まとまった領土と農業基盤を確保できたことです。首都を失った後も、徴税や軍事動員を行う国家機構を再建できました。

また、ニカイアにはコンスタンティノープル総主教座が移されました。皇帝と正教会の総主教がそろったことで、ビザンツ国家を継承する政権としての正統性を主張しやすくなります。

13世紀半ばの皇帝ヨハネス3世ヴァタツェスは領土を拡大し、バルカン半島にも勢力を伸ばしました。ラテン帝国の支配範囲は次第に縮小し、最終的にはコンスタンティノープル周辺を中心とする小規模な国家となっていきます。

1261年のコンスタンティノープル奪還

1261年、ニカイア皇帝ミカエル8世パレオロゴスの将軍アレクシオス・ストラテゴプロスが、少数の兵を率いてコンスタンティノープルへ接近しました。

当時、ラテン帝国の主要部隊とヴェネツィア艦隊の多くは別の作戦で都市を離れていました。守備が手薄であることを知ったニカイア軍は、市内への侵入に成功します。

ラテン皇帝ボードゥアン2世は逃亡し、ラテン帝国は滅亡しました。ミカエル8世はコンスタンティノープルへ入城し、ビザンツ帝国の復興を宣言します。

首都を奪還したのは「ニカイア帝国」であり、奪還後は一般に「復興ビザンツ帝国」またはパレオロゴス朝のビザンツ帝国として扱われます。

首都奪還後も以前の国力には戻らなかった

1261年の奪還によってビザンツ帝国は復活しました。しかし、1204年以前の領土や経済力がそのまま戻ったわけではありません。

旧領には独立した勢力や外国勢力が残り、エーゲ海の交易ではヴェネツィアやジェノヴァなどイタリア商業都市の影響力が強くなっていました。首都の人口や財政基盤も大きな打撃を受けています。

復興したビザンツ帝国は、その後約2世紀にわたって存続しました。ただし領土は徐々に縮小し、1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルを占領されます。

問題2で誤解しやすい点

  • ニカイア帝国はラテン帝国の一部ではありません。ラテン帝国に対抗したビザンツ系政権です。
  • 亡命政権はニカイア帝国だけではありません。トレビゾンド帝国やエピロス政権も存在しました。
  • 奪還を実行した時点の皇帝はミカエル8世です。ニカイア政権の創始者テオドロス1世と混同しないようにします。
  • 1261年の復興で国力が完全に回復したわけではありません。第4回十字軍による損害と領土分裂は長く影響しました。

問題3の答えはアイユーブ朝

サラディンがエジプトで始めたスンナ派王朝

問題3の答えはアイユーブ朝です。王朝名は、サラディンの父ナジュムッディーン・アイユーブの名に由来します。

サラディンはクルド系の軍人・政治家で、もとはシリアのザンギー朝に仕えた将軍シールクーフとともにエジプトへ入りました。シールクーフの死後、サラディンはエジプトの宰相となります。

当時のエジプトを支配していたファーティマ朝は、イスラーム教シーア派の一派であるイスマーイール派を国家の宗派としていました。一方、サラディンと彼を支えた勢力はスンナ派です。

1171年、サラディンはファーティマ朝のカリフが死去したのを機に、エジプトでアッバース朝カリフの名を礼拝時に唱えさせました。これによってファーティマ朝の支配は終わり、エジプトはスンナ派の政治秩序へ組み込まれます。

その後、サラディンはエジプトとシリアを中心に勢力を広げました。彼が築いた支配体制がアイユーブ朝です。

1187年にイェルサレムを奪還

12世紀後半のイスラーム世界では、エジプトとシリアの政治的分裂が、十字軍国家に対抗するうえで大きな問題となっていました。サラディンは両地域をまとめ、十字軍国家を包囲できる体制を整えます。

1187年7月、サラディン軍はハッティンの戦いでイェルサレム王国軍を破りました。十字軍側の主力が壊滅したことで、沿岸部の一部を除く多くの都市がアイユーブ朝側へ移ります。

同年10月、サラディンはイェルサレムを降伏させました。1099年の第1回十字軍以来、ラテン系キリスト教勢力が支配してきた都市が、約88年ぶりにイスラーム勢力の統治下へ戻ったことになります。

イェルサレム奪還を受けて、西ヨーロッパでは第3回十字軍が組織されました。イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世などが参加します。

第3回十字軍は沿岸部のアッコンなどを奪回しましたが、イェルサレムそのものは奪還できませんでした。1192年、サラディンとリチャード1世の間で休戦が成立し、キリスト教徒の巡礼者がイェルサレムを訪れることは認められました。

アイユーブ朝は一枚岩の中央集権国家ではなかった

サラディンは1193年に死去しました。その後、領土は息子や弟など一族の間で分割されます。

アイユーブ朝は、カイロの一人の君主が全領土を常に直接統治する国家というより、アイユーブ家の諸君主がエジプト、ダマスクス、アレッポなどを分担して支配する連合的な性格を持っていました。

一族間では協力だけでなく、主導権をめぐる対立も起こります。そのため、サラディンの死後も王朝は続いたものの、政治状況はたびたび変化しました。

軍人奴隷マムルークが力を持った理由

マムルークとは、主としてトルコ系やカフカス系などの出身者を購入し、イスラーム教徒として軍事訓練を施した軍人奴隷を指します。一般的な家内奴隷とは異なり、高度な軍事技能を持つ支配者直属の兵力として重用されました。

アイユーブ朝後期のエジプトでは、スルターンのサーリフがマムルーク軍団を強化しました。彼らは第7回十字軍との戦いでも重要な役割を果たします。

1249年、フランス王ルイ9世が率いる第7回十字軍がエジプトへ侵攻しました。同年にサーリフが死去すると、妻のシャジャル・アッ=ドゥッルらは一時その死を伏せ、軍の動揺を抑えたとされます。

1250年、アイユーブ家の後継者トゥーラーン・シャーは十字軍を撃退した後、マムルーク軍人たちと対立し、殺害されました。エジプトではマムルークを中心とする政権が成立します。

「1250年にアイユーブ朝が完全消滅」は正確ではない

学校教材では、アイユーブ朝の滅亡年を1250年とすることが一般的です。これは、王朝の中心であったエジプトのアイユーブ朝政権がマムルークによって倒された年を意味します。

ただし、アイユーブ家の支配が1250年に全地域で一斉に消滅したわけではありません。

シリアではアイユーブ家の諸政権がしばらく残りました。ダマスクスなどの主要地域は、モンゴル軍の西進やマムルーク朝の勢力拡大を経て、1260年までにアイユーブ家の支配を離れます。

さらに地方の小政権としては、その後もアイユーブ家の支配が続いた地域があります。そのため、詳しく表現するなら「1250年、エジプトにおけるアイユーブ朝の支配が終わり、マムルーク朝へ交代した」となります。

問題3で誤解しやすい点

  • サラディンがアイユーブ朝を始めたのは1187年ではありません。王朝の成立は一般に1171年とされ、1187年はイェルサレム奪還の年です。
  • サラディンが倒したエジプトの王朝はファーティマ朝です。セルジューク朝やアッバース朝ではありません。
  • マムルークは民族名や一つの家系名ではありません。軍人奴隷として編成された人々を示す名称です。
  • 1250年に終わったのは、厳密にはアイユーブ朝のエジプト支配です。シリアなどでは一族の政権がしばらく残りました。

3問を「首都・正統性・軍事基盤」で整理する

3つの答えを区別するには、単に国家名を覚えるよりも、それぞれが何を基盤としていたかを見ると分かりやすくなります。

国家成立の契機主な基盤転機
ラテン帝国第4回十字軍による1204年の首都占領十字軍勢力とヴェネツィアの軍事・海上輸送力1261年、ニカイア帝国に首都を奪還され滅亡
ニカイア帝国ビザンツ帝国の皇族・官僚・聖職者の避難小アジアの領土、正教会、ビザンツの国家制度1261年、首都を奪還してビザンツ帝国を復興
アイユーブ朝サラディンによるエジプト支配とスンナ派体制の再建エジプトの経済力、シリアとの連携、軍事力1250年、エジプトでマムルーク政権へ交代

ラテン帝国は、首都を占領した外来の十字軍勢力が築いた国家です。ニカイア帝国は、首都を失ったビザンツ側が国家と教会の継承を主張した政権でした。

アイユーブ朝はビザンツ帝国の後継を争った国家ではありません。エジプトとシリアを基盤に十字軍国家と対峙した、イスラーム世界のスンナ派王朝です。

同時代の東地中海では何が起きていたのか

十字軍同士でも目的は一致していなかった

「十字軍」と聞くと、教皇の命令のもとで全参加者が一つの目標へ進んだように見えるかもしれません。しかし、実際には教皇、諸侯、騎士、商業都市の利害は必ずしも一致していませんでした。

教皇は宗教的目的から聖地奪還を掲げました。遠征を率いる諸侯には名誉や領土獲得への期待があり、ヴェネツィアには輸送契約の履行と東地中海交易に関する利害がありました。

第4回十字軍は、こうした目的の違いと資金不足、ビザンツ帝国の内紛が結びつき、本来の目的地から外れていった事例です。

東ローマ帝国は「1204年に滅亡した」とも「存続した」とも表現できる

国家の首都と中央政府に注目すれば、ビザンツ帝国は1204年にいったん崩壊しました。コンスタンティノープルにはラテン帝国が成立したためです。

一方、皇帝権、官僚制度、正教会、住民社会の継続に注目すれば、ビザンツ国家の伝統はニカイア帝国などへ受け継がれました。そして1261年に首都を取り戻しています。

したがって、「1204年にビザンツ帝国は滅亡し、1261年に復活した」という説明と、「ニカイア帝国を通じて国家の伝統が継承された」という説明は、着目点が異なるだけで、必ずしも矛盾しません。

イスラーム側も統一国家ではなかった

十字軍側だけでなく、イスラーム世界も常に一つの国家へ統一されていたわけではありません。サラディンが登場する以前には、エジプトのファーティマ朝、シリアのザンギー朝、バグダードのアッバース朝など、複数の政治勢力が並立していました。

サラディンの重要性は、エジプトとシリアの主要地域を一つの勢力圏へまとめ、十字軍国家に対抗できる軍事・財政基盤を作った点にあります。

しかし、サラディンの死後はアイユーブ家内部で領土が分割されました。イスラーム側を一枚岩と見るのではなく、協力と対立を繰り返す複数政権として理解する必要があります。

現代につながる見方

第4回十字軍の歴史は、宗教的な大義だけで大規模な遠征の進路を説明できないことを示しています。軍隊を動かすには船、食料、資金、港湾、契約が必要であり、その供給者が政治的な影響力を持つためです。

また、国家の「正統な後継者」が誰かという問題は、首都を支配しているだけでは決まりません。ニカイア帝国は領土、皇帝号、官僚制度、教会組織を保持することで、ビザンツ帝国の継承者を名乗りました。

さらに、王朝の滅亡年は、どの地域を基準にするかによって表現が変わります。アイユーブ朝の1250年という年も、エジプトの政権交代としては明確ですが、アイユーブ家の地方支配まで同時に消えた年ではありません。

歴史上の出来事を理解するときは、「誰が勝ったか」だけでなく、資金を出した勢力、制度を引き継いだ勢力、地域ごとの変化を分けて見ると、単純な暗記から一歩進めます。

よくある質問

ラテン帝国の「ラテン」は、古代ローマ帝国という意味ですか

ここでの「ラテン」は、ローマ教会に属する西ヨーロッパ系のキリスト教徒を示します。古代の西ローマ帝国が復活したという意味ではありません。

ラテン帝国の支配者は、コンスタンティノープルのローマ皇帝を継承したと主張しましたが、東方正教会側の住民から広く正統な皇帝と認められたわけではありません。

ニカイア帝国とニケーア公会議のニケーアは同じ場所ですか

同じ都市です。日本語では「ニカイア」「ニケーア」などの表記があります。古代には325年の第1ニカイア公会議などが開かれ、中世にはビザンツ亡命政権の中心となりました。

現在の都市名は、トルコのイズニクです。

ラテン帝国を滅ぼした皇帝は誰ですか

ニカイア皇帝ミカエル8世パレオロゴスです。ただし、実際にコンスタンティノープルへ入った軍を指揮したのは、将軍アレクシオス・ストラテゴプロスでした。

創始者のテオドロス1世ラスカリスと、首都奪還時の皇帝ミカエル8世を区別して覚えることが大切です。

アイユーブ朝の次がマムルーク朝ですか

エジプト史の王朝順では、アイユーブ朝の次がマムルーク朝です。1250年にマムルーク軍人がエジプトの政権を掌握しました。

ただし、マムルーク朝成立直後の支配体制や君主の交代には複雑な過程があります。試験では、まず「1250年、アイユーブ朝からマムルーク朝へ」という流れを押さえるとよいでしょう。

まとめ

問題1の答えはラテン帝国です。教皇インノケンティウス3世が呼びかけた第4回十字軍は、資金不足、ヴェネツィアとの契約、ビザンツ帝国の皇位争いなどが重なり、1204年にコンスタンティノープルを占領しました。

問題2の答えはニカイア帝国です。小アジアに成立したビザンツ系亡命政権で、1261年にコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国を復興させました。

問題3の答えはアイユーブ朝です。サラディンが1171年にエジプトで支配を始め、1187年にイェルサレムを奪還しました。1250年にはエジプトの政権がマムルークへ移りましたが、アイユーブ家の地方政権はその後もしばらく残っています。

復習するときは、次の順番で整理すると混同しにくくなります。

  1. 1187年、アイユーブ朝のサラディンがイェルサレムを奪還する。
  2. 1198年、インノケンティウス3世が新たな十字軍を呼びかける。
  3. 1204年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てる。
  4. ビザンツ側はニカイア帝国などの亡命政権を築く。
  5. 1250年、エジプトでアイユーブ朝からマムルーク政権へ交代する。
  6. 1261年、ニカイア帝国が首都を奪還し、ラテン帝国が滅亡する。

「ラテン帝国は占領した側」「ニカイア帝国はビザンツを継承して首都を取り戻した側」「アイユーブ朝はサラディンが築いたイスラーム側の王朝」と区別することが、3問を解く基本です。