聖地へ向かうはずの十字軍はなぜ帝都を占領したのか|ラテン帝国の成立とビザンツ・イスラーム世界の変動

海上輸送の準備をする船員と十字軍兵士を描いた想像図 大学受験歴史

問題1(第4回十字軍):教皇( ① )の呼びかけで始まった第4回十字軍は、輸送費の不足やビザンツ帝国の皇位争いを経て、1204年にヴェネツィア軍とともにコンスタンティノープルを占領しました。このとき、十字軍が占領地に建国した国家は何ですか。

問題2(ビザンツ帝国の亡命政権):第4回十字軍によってコンスタンティノープルを追われたビザンツ帝国の亡命政権のうち、小アジアに拠点を置き、のちに首都を奪還することになる帝国を何といいますか。

問題3(イスラーム世界):1187年にイェルサレムを奪還したサラーフ=アッディーン(サラディン)が創始したスンナ派の王朝は何ですか。この王朝のエジプト支配は1250年、軍人奴隷(マムルーク)による政権掌握で終わりました。

最初に答えを確認する

3問の答えは、次のとおりです。

問題 答え 覚えるポイント
問題1 ラテン帝国 1204年、十字軍がコンスタンティノープルを占領して建国
問題2 ニカイア帝国 小アジアに成立し、1261年にコンスタンティノープルを奪還
問題3 アイユーブ朝 サラディンが創始し、1187年にイェルサレムを奪還

また、問題1の空欄①に入る教皇はインノケンティウス3世です。

第4回十字軍による1204年のコンスタンティノープル占領を軸にすると、「ラテン帝国の成立」と「ニカイア帝国へのビザンツ国家の継承」を一続きの出来事として理解できます。

一方、アイユーブ朝はこれより少し前から続いていたイスラーム側の王朝です。サラディンによるイェルサレム奪還、十字軍国家との戦い、1250年のエジプトにおける政権交代までを同じ時間軸に置くと、東地中海世界全体の変化が見えてきます。

3つの答えをつなぐ時系列

個別の用語を暗記する前に、出来事の順番を確認しておきましょう。

年 主な出来事 関係する答え
1171年 サラディンがエジプトのファーティマ朝を終わらせ、アイユーブ朝の支配を始める アイユーブ朝
1187年 サラディンがハッティンの戦いで十字軍側を破り、イェルサレムを奪還 アイユーブ朝
1198年 教皇インノケンティウス3世が新たな十字軍を呼びかける 第4回十字軍
1202年 第4回十字軍が出発し、ヴェネツィアへの輸送費不足からザラ攻撃に加わる 第4回十字軍
1204年 十字軍とヴェネツィア軍がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建国 ラテン帝国
1204年前後 ビザンツ側の勢力が小アジアにニカイア帝国を形成 ニカイア帝国
1250年 エジプトでマムルークが政権を掌握し、アイユーブ朝のエジプト支配が終わる アイユーブ朝
1261年 ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪還し、ラテン帝国が滅亡 ニカイア帝国・ラテン帝国

ラテン帝国とニカイア帝国は、1204年以降、コンスタンティノープルとビザンツ皇帝の正統性をめぐって並存しました。

アイユーブ朝も同じ時期にエジプトやシリアを支配しています。13世紀前半の東地中海では、ラテン系十字軍国家、ビザンツ系亡命政権、イスラーム諸政権が複雑に向き合っていました。

問題1の答えはラテン帝国

第4回十字軍を提唱したのはインノケンティウス3世

問題文の空欄①に入るのは、ローマ教皇インノケンティウス3世です。在位期間は1198年から1216年で、教皇権が大きな政治的影響力を持った時代の代表的な教皇として知られています。

インノケンティウス3世は即位した1198年、新たな十字軍を呼びかけました。背景には、1187年にサラディンがイェルサレムを奪還した後も、聖地の中心都市をキリスト教側が取り戻せていなかった事情があります。

十字軍指導者は、エジプト方面を攻めてイスラーム勢力の基盤を崩し、聖地奪還につなげる作戦を立てました。その計画には、地中海を渡る輸送船が必要でした。

遠征軍はヴェネツィアへの輸送費を支払えなかった

十字軍の指導者たちは、地中海を渡る船団の建造と輸送を海洋都市ヴェネツィアに依頼しました。ところが、実際にヴェネツィアへ集合した兵士の数が見込みを下回り、十字軍側は契約した輸送費を全額支払えなくなります。

そこでヴェネツィアは、支払いを猶予する代わりに、アドリア海沿岸の都市ザラへの攻撃に十字軍が協力するよう求めました。ザラはキリスト教都市であり、当時はハンガリー王の支配下にありました。

インノケンティウス3世はキリスト教徒への攻撃を禁じており、ザラ攻撃に参加した者たちは破門の対象となりました。教皇の方針と、資金や輸送をめぐる遠征軍の判断は衝突したのです。

海上輸送の準備をする船員と十字軍兵士を描いた想像図

海上輸送の準備をする船員と十字軍兵士を描いた想像図。人物・建物・衣装・船・道具は説明のための表現です。

なぜコンスタンティノープルへ向かったのか

ザラに滞在していた十字軍のもとへ、ビザンツ帝国の皇位を追われた一族に属するアレクシオスが接触しました。彼は父イサキオス2世を復位させてもらう代わりに、十字軍への巨額の資金提供、軍事支援、東西教会の統合などを約束します。

資金難に陥っていた十字軍指導者とヴェネツィアは、この提案を受け入れました。こうして遠征軍は、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへ向かいます。

1203年、十字軍はアレクシオスをアレクシオス4世として即位させました。しかし、新皇帝は約束した資金を十分に用意できませんでした。重い徴税や西欧軍の滞在に対する市民の反発も強まり、政変によってアレクシオス4世は失脚します。

報酬を失った十字軍とヴェネツィア軍は、1204年4月にコンスタンティノープルを攻撃しました。堅固な城壁で知られた都市は陥落し、大規模な略奪を受けます。

占領地に成立したラテン帝国

コンスタンティノープル占領後、十字軍は旧ビザンツ帝国領を分割しました。その中心として成立した国家が、問題1の答えであるラテン帝国です。

初代皇帝には、フランドル伯ボードゥアン9世が皇帝ボードゥアン1世として選ばれました。「ラテン」とは、ローマ教会に属し、主としてラテン語文化圏に属する西欧人側を指す名称です。

これに対してビザンツ帝国の住民の多くは、ギリシア語を用い、東方正教会を信仰していました。ラテン帝国の西欧系支配者と、ギリシア語・正教会の伝統を持つ住民との間には、言語や信仰、政治的な利害の隔たりがありました。

ヴェネツィアは島々や港湾、交易上の重要地点を獲得し、東地中海における商業上の影響力を拡大しました。

輸送費の不足、ヴェネツィアの利害、十字軍指導者の判断、ビザンツ帝国内の皇位争い、約束された報酬の不履行など、複数の要因が重なって首都占領に至りました。

社会への影響

1204年の占領は、ビザンツ帝国に深刻な打撃を与えました。財宝や聖遺物、美術品が略奪され、一部は西ヨーロッパへ運ばれました。都市の経済力と政治的権威も大きく損なわれます。

さらに、西方のローマ・カトリック教会と東方正教会の対立は、一層深まりました。東西教会は1054年の相互破門以前から距離を広げていましたが、キリスト教徒である十字軍が正教会世界の中心都市を略奪した記憶は、長く残りました。

ラテン帝国は1261年まで存続します。成立直後から周辺のビザンツ系政権やブルガリアなどの圧力を受け、支配できる地域は限られていました。

問題2の答えはニカイア帝国

各地に成立したビザンツ系の政権

1204年前後には、ビザンツ帝国の皇族や有力者が各地で政権を築きました。首都から逃れた人々も、それらの政権に加わります。代表的なものがニカイア帝国、トレビゾンド帝国、エピロス専制侯国です。

政権 主な拠点 特徴
ニカイア帝国 小アジア西部のニカイア 1261年にコンスタンティノープルを奪還
トレビゾンド帝国 黒海南岸のトレビゾンド コムネノス家の一族が成立させ、15世紀まで存続
エピロス専制侯国 バルカン半島西部のエピロス 一時はテッサロニキを支配し、帝都奪還を争った

問題文の「小アジアに拠点を置き、のちに首都を奪還する」という条件に当てはまるのがニカイア帝国です。

ビザンツの制度や教会を受け継ぐ人々を描いた想像図

ビザンツの制度や教会を受け継ぐ人々を描いた想像図。人物・建物・衣装・船・道具は説明のための表現です。

ニカイア帝国はどのように成立したのか

ニカイア帝国の基礎を築いたのは、ビザンツ帝国の貴族テオドロス1世ラスカリスです。彼は1204年の首都陥落後、小アジア西部へ逃れ、ニカイアを中心に支配を固めました。

ニカイアは現在のトルコ北西部に位置する都市で、現在はイズニクと呼ばれています。「ニケーア」とも表記され、325年の第1ニカイア公会議が開かれた都市でもあります。コンスタンティノープルとは海峡を隔てた小アジア側にあり、旧首都の奪還を目指すうえで重要な位置にありました。

テオドロス1世は周辺のラテン勢力やセルジューク朝と戦いながら政権を維持します。また、コンスタンティノープルから避難した正教会の聖職者や官僚を受け入れ、ビザンツ国家の制度を継承しました。

ニカイア側の君主は、自らを正統なローマ皇帝の後継者と位置づけました。これは、後世にビザンツ帝国と呼ばれる東ローマ帝国の伝統を継承するという主張です。ラテン帝国の支配者も帝都のローマ皇帝を継承したと主張し、皇帝の正統性をめぐって競い合いました。

ニカイア帝国が有力になった理由

亡命政権のなかでニカイア帝国が優位に立った理由の一つは、小アジア西部に比較的まとまった領土と農業基盤を確保できたことです。首都を失った後も、徴税や軍事動員を行う国家機構を再建できました。

また、ニカイアにはコンスタンティノープル総主教座が移されました。皇帝と正教会の総主教がそろったことで、ビザンツ国家を継承する政権としての正統性を主張しやすくなります。

13世紀半ばの皇帝ヨハネス3世ヴァタツェスは領土を拡大し、バルカン半島にも勢力を伸ばしました。ラテン帝国の支配範囲は次第に縮小し、最終的にはコンスタンティノープル周辺を中心とする小規模な国家となっていきます。

1261年のコンスタンティノープル奪還

1261年、ニカイア皇帝ミカエル8世パレオロゴスの将軍アレクシオス・ストラテゴプロスが、少数の兵を率いてコンスタンティノープルへ接近しました。

当時、ラテン帝国の主要部隊とヴェネツィア艦隊の多くは別の作戦で都市を離れていました。守備が手薄であることを知ったニカイア軍は、市内への侵入に成功します。

ラテン皇帝ボードゥアン2世は逃亡し、ラテン帝国は滅亡しました。ミカエル8世はコンスタンティノープルへ入城し、ビザンツ帝国の復興を宣言します。

首都を奪還したのは「ニカイア帝国」であり、奪還後は一般に「復興ビザンツ帝国」またはパレオロゴス朝のビザンツ帝国として扱われます。
コンスタンティノープルへ入る兵士を描いた1261年の首都奪還の想像図

コンスタンティノープルへ入る兵士を描いた1261年の首都奪還の想像図。人物・建物・衣装・船・道具は説明のための表現です。

復興後も続いた領土の分裂と経済上の制約

1261年の奪還によってビザンツ帝国は復活しました。復興した政権は、旧領の分裂や首都の経済力低下に直面します。

旧領には独立した勢力や外国勢力が残り、エーゲ海の交易ではヴェネツィアやジェノヴァなどイタリア商業都市の影響力が強くなっていました。首都の人口や財政基盤も大きな打撃を受けています。

復興したビザンツ帝国は、その後約2世紀にわたって存続しました。ただし領土は徐々に縮小し、1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルを占領されます。

問題3の答えはアイユーブ朝

サラディンがエジプトで始めたスンナ派王朝

問題3の答えはアイユーブ朝です。王朝名は、サラディンの父ナジュムッディーン・アイユーブの名に由来します。

サラディンはクルド系の軍人・政治家で、もとはシリアのザンギー朝に仕えた将軍シールクーフとともにエジプトへ入りました。シールクーフの死後、サラディンはエジプトの宰相となります。

当時のエジプトを支配していたファーティマ朝は、イスラーム教シーア派の一派であるイスマーイール派を国家の宗派としていました。一方、サラディンと彼を支えた勢力はスンナ派です。

1171年、サラディンはエジプトでアッバース朝カリフの名を金曜礼拝時に唱えさせました。この年にファーティマ朝最後のカリフも死去し、王朝は終わります。エジプトはスンナ派の政治秩序へ組み込まれました。

その後、サラディンはエジプトとシリアを中心に勢力を広げました。彼が築いた支配体制がアイユーブ朝です。

エジプトとシリアを結ぶ軍事・政治の協議を描いた想像図

エジプトとシリアを結ぶ軍事・政治の協議を描いた想像図。人物・建物・衣装・船・道具は説明のための表現です。

1187年にイェルサレムを奪還

12世紀後半のイスラーム世界では、エジプトとシリアの政治的分裂が、十字軍国家に対抗するうえで大きな問題となっていました。サラディンは両地域をまとめ、十字軍国家を包囲できる体制を整えます。

1187年7月、サラディン軍はハッティンの戦いでイェルサレム王国軍を破りました。十字軍側の主力が壊滅したことで、沿岸部の一部を除く多くの都市がアイユーブ朝側へ移ります。

同年10月、サラディンはイェルサレムを降伏させました。1099年の第1回十字軍以来、ラテン系キリスト教勢力が支配してきた都市が、約88年ぶりにイスラーム勢力の統治下へ戻ったことになります。

イェルサレム奪還を受けて、西ヨーロッパでは第3回十字軍が組織されました。イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世などが参加します。

第3回十字軍は沿岸部のアッコンなどを奪回しましたが、イェルサレムそのものは奪還できませんでした。1192年、サラディンとリチャード1世の間で休戦が成立し、キリスト教徒の巡礼者がイェルサレムを訪れることは認められました。

一族の諸君主が分担した地域支配

サラディンは1193年に死去しました。その後、領土は息子や弟など一族の間で分割されます。

アイユーブ朝は、アイユーブ家の諸君主がエジプト、ダマスクス、アレッポなどを分担して支配する連合的な性格を持っていました。

一族間では協力と、主導権をめぐる対立が繰り返されます。そのため、サラディンの死後も王朝は続いたものの、政治状況はたびたび変化しました。

軍人奴隷マムルークが力を持った理由

マムルークとは、主としてトルコ系やカフカス系などの出身者を購入し、イスラーム教徒として軍事訓練を施した軍人奴隷を指します。高度な軍事技能を持つ支配者直属の兵力として重用されました。訓練後に解放され、軍や政治の要職に就く仕組みがあり、主君との結びつきや同僚間の連帯が力の基盤となります。

アイユーブ朝後期のエジプトでは、スルターンのサーリフがマムルーク軍団を強化しました。彼らは第7回十字軍との戦いでも重要な役割を果たします。

1249年、フランス王ルイ9世が率いる第7回十字軍がエジプトへ侵攻しました。同年にサーリフが死去すると、妻のシャジャル・アッ=ドゥッルらは一時その死を伏せ、軍の動揺を抑えたとされます。

1250年、アイユーブ家の後継者トゥーラーン・シャーは十字軍を撃退した後、マムルーク軍人たちと対立し、殺害されました。エジプトではシャジャル・アッ=ドゥッルが一時君主となるなどの移行を経て、マムルークを中心とする政権が成立します。

1250年はエジプトの政権交代、地方では一族の支配が続いた

1250年は、王朝の中心であったエジプトのアイユーブ朝政権が倒され、マムルーク政権へ交代した年です。

シリアではアイユーブ家の諸政権が残り、ダマスクスなどの主要地域は、モンゴル軍の西進やマムルーク朝の勢力拡大を経て、1260年までにアイユーブ家の支配を離れます。さらに地方の小政権としては、その後も一族の支配が続いた地域がありました。

王朝の転換を説明するときは、エジプトの政権交代と、シリアや地方の動きを分けて確認しましょう。

3問を「首都・正統性・軍事基盤」で整理する

3つの答えを区別するには、単に国家名を覚えるよりも、それぞれが何を基盤としていたかを見ると分かりやすくなります。

国家 成立の契機 主な基盤 転機
ラテン帝国 第4回十字軍による1204年の首都占領 十字軍勢力とヴェネツィアの軍事・海上輸送力 1261年、ニカイア帝国に首都を奪還され滅亡
ニカイア帝国 ビザンツ帝国の皇族・官僚・聖職者の避難 小アジアの領土、正教会、ビザンツの国家制度 1261年、首都を奪還してビザンツ帝国を復興
アイユーブ朝 サラディンによるエジプト支配とスンナ派体制の再建 エジプトの経済力、シリアとの連携、軍事力 1250年、エジプトでマムルーク政権へ交代

ラテン帝国は、首都を占領した外来の十字軍勢力が築いた国家です。ニカイア帝国は、首都を失ったビザンツ側が国家と教会の継承を主張した政権でした。

アイユーブ朝は、エジプトとシリアを基盤に十字軍国家と対峙した、イスラーム世界のスンナ派王朝です。

同時代の東地中海では何が起きていたのか

教皇・諸侯・商業都市、それぞれの目的

教皇は宗教的目的から聖地奪還を掲げました。遠征を率いる諸侯には名誉や領土獲得への期待があり、ヴェネツィアには輸送契約の履行と東地中海交易に関する利害がありました。

第4回十字軍では、こうした目的の違いと資金不足、ビザンツ帝国の内紛が結びつき、遠征の進路が変わっていきました。

首都の陥落と、国家・教会の継承

1204年、コンスタンティノープルの中央政府は崩壊し、ラテン帝国が成立しました。皇帝権、官僚制度、正教会、住民社会の伝統は、ニカイア帝国などへ受け継がれます。

ビザンツ史のこの時期を説明する際は、首都の支配者が変わったことと、各地で制度が継承されたことを併せて捉えると、1261年の復興までの経過が分かります。

イスラーム世界の諸政権が協力と対立を重ねた

サラディンが登場する以前には、エジプトのファーティマ朝、シリアのザンギー朝、バグダードのアッバース朝など、複数の政治勢力が並立していました。

サラディンの重要性は、エジプトとシリアの主要地域を一つの勢力圏へまとめ、十字軍国家に対抗できる軍事・財政基盤を作った点にあります。

しかし、サラディンの死後はアイユーブ家内部で領土が分割されました。諸政権は協力と対立を繰り返し、それぞれの地域で支配を維持しようとしました。

資金・制度・地域を分けて確かめる

軍隊を動かすには船、食料、資金、港湾、契約が必要です。第4回十字軍では、その供給を担うヴェネツィアと、費用を負担する遠征軍との交渉が進路に影響しました。

ニカイア帝国は、領土、皇帝号、官僚制度、教会組織を保つことで、ビザンツ国家の継承者を名乗りました。国家の正統性を考える際は、軍事的な占領に加えて、制度と教会が果たした役割を確かめることができます。

アイユーブ朝の1250年という年は、エジプトの政権交代を指します。地域ごとの変化に注目すると、シリアの諸政権や地方に残った一族の支配も捉えられます。こうした観点を加えると、各国の興亡を背景から説明しやすくなります。

まとめ

問題1の答えはラテン帝国です。教皇インノケンティウス3世が呼びかけた第4回十字軍は、資金不足、ヴェネツィアとの契約、ビザンツ帝国の皇位争いなどが重なり、1204年にコンスタンティノープルを占領しました。

問題2の答えはニカイア帝国です。小アジアに成立したビザンツ系亡命政権で、1261年にコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国を復興させました。

問題3の答えはアイユーブ朝です。サラディンが1171年にエジプトで支配を始め、1187年にイェルサレムを奪還しました。1250年にはエジプトの政権がマムルークへ移りましたが、アイユーブ家の地方政権はその後もしばらく残っています。

復習するときは、次の順番で整理すると混同しにくくなります。

  1. 1187年、アイユーブ朝のサラディンがイェルサレムを奪還する。
  2. 1198年、インノケンティウス3世が新たな十字軍を呼びかける。
  3. 1204年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てる。
  4. ビザンツ側はニカイア帝国などの亡命政権を築く。
  5. 1250年、エジプトでアイユーブ朝からマムルーク政権へ交代する。
  6. 1261年、ニカイア帝国が首都を奪還し、ラテン帝国が滅亡する。

「ラテン帝国は占領した側」「ニカイア帝国はビザンツを継承して首都を取り戻した側」「アイユーブ朝はサラディンが築いたイスラーム側の王朝」と区別することが、3問を解く基本です。

参考資料