10世紀前後の東アジア史を学ぶと、印刷術、かな文字、念仏信仰、武士、山水画といった、一見すると別々に見えるテーマが並びます。しかし、これらには共通する流れがあります。それは、限られた支配層が独占していた知識、表現、信仰、武力が、より広い社会へ動き始めたという変化です。
中国では印刷によって同じ文章を多数複製できるようになり、朝鮮半島では仏教経典の大規模な刊行と金属活字の開発が進みました。日本では、かな文字が日本語による表現の幅を広げ、念仏が都市の民衆にも伝えられます。その一方で、地方では武力を持つ者が朝廷の秩序を揺さぶり、中国と日本の美術では自然や地域固有の風景が新たな表現の対象になりました。
空欄を覚えるだけでなく、「誰が知識を持ち、誰が表現し、誰が社会を動かすようになったのか」を意識すると、四つの問題を一つの時代の流れとして理解できます。
問題1:東アジアにおける知の革命と印刷術の普及
10世紀から11世紀にかけて、東アジアでは印刷技術が飛躍的に発展し、知識の保存と普及に大きな役割を果たしました。
(1)中国の宋、特に北宋では、羅針盤や火薬と並んで「中国の四大発明」の一つに数えられる( ① )が普及し、書物が大量に出版されるようになりました。この技術は後にムスリム商人らによってヨーロッパへも伝えられました。
(2)同時期、朝鮮半島の高麗では仏教を重視し、木版印刷によって( ② )を刊行したほか、13世紀前半には世界で最初に金属で活字を作る技術を考案したとされています。
(3)日本では、これより早い8世紀に、称徳天皇が恵美押勝の乱の戦没者供養などを目的として( ③ )という小塔を制作し、その中に納められた陀羅尼は現存する世界最古級の印刷物として知られています。
問題2:日本独自の文化形成―かな文字と念仏信仰
9世紀から10世紀にかけて、日本は大陸文化を消化しつつ、独自の国風文化を形成していきました。
(1)漢字の草書体を簡略化した( ④ )や、漢字の一部を取った( ⑤ )などのかな文字が発達しました。これにより、紀貫之らが編纂した最初の勅撰和歌集である( ⑥ )や、『源氏物語』などの文学が花開きました。
(2)社会不安を背景に、10世紀半ばには「市聖」と呼ばれた( ⑦ )が、京の市中で一般民衆に「南無阿弥陀仏」と唱える( ⑧ )を広めました。
(3)10世紀後半、僧の( ⑨ )は『往生要集』を著し、極楽浄土への往生を願う浄土信仰を皇族や貴族の間にも浸透させました。
問題3:地方武士の台頭と将門の乱
10世紀前半、律令体制が変質し国司の支配が強まるなかで、地方の武装勢力による反乱が発生しました。
(1)939年、下総国を拠点とする( ⑩ )が、常陸・下野・上野の国府を攻め、( ⑪ )を自称して関東に独自の支配を築こうとしました。
(2)同時期に瀬戸内海で反乱を起こした( ⑫ )の乱と合わせ、当時の元号から( ⑬ )の乱と呼ばれます。
(3)朝廷は、同じ武士である( ⑭ )や藤原秀郷らの働きによって将門の乱を鎮圧しました。この出来事は、地方武士の実力を広く知らしめる結果となりました。
問題4:唐・宋代における山水画の確立
中国の絵画様式は、日本の障壁画や大和絵などにも大きな影響を与えました。
(1)唐の玄宗に仕えた宮廷画家の( ⑮ )は、力強い線と立体的な自然表現を用い、後世の山水画に大きな影響を与えました。
(2)宋代には山水画がさらに発展し、宮廷画家による写実的・装飾的な( ⑯ )と、士大夫らが水墨を中心に描く( ⑰ )という流れが見られました。
(3)日本では、中国の技法を学びつつ、日本の風物を題材とした( ⑱ )が発達し、巨勢金岡らがその基礎を築きました。

18個の空欄の答え
| 番号 | 答え | 覚える要点 |
|---|---|---|
| ① | 印刷術、特に木版印刷 | 北宋では出版が大きく発展 |
| ② | 高麗版大蔵経 | 仏教経典を集成した大蔵経 |
| ③ | 百万塔 | 内部に印刷された陀羅尼を収納 |
| ④ | 平仮名 | 漢字の草書体を簡略化 |
| ⑤ | 片仮名 | 漢字の一部分を利用 |
| ⑥ | 古今和歌集 | 最初の勅撰和歌集 |
| ⑦ | 空也 | 市聖と呼ばれた |
| ⑧ | 称名念仏 | 阿弥陀仏の名を声に出して唱える |
| ⑨ | 源信 | 『往生要集』を著す |
| ⑩ | 平将門 | 東国で勢力を拡大 |
| ⑪ | 新皇 | 朝廷とは別の君主を意味する称号 |
| ⑫ | 藤原純友 | 瀬戸内海の武装勢力を率いる |
| ⑬ | 承平・天慶 | 二つの元号を取った名称 |
| ⑭ | 平貞盛 | 藤原秀郷とともに将門を討つ |
| ⑮ | 呉道玄 | 呉道子とも呼ばれる唐の画家 |
| ⑯ | 院体画 | 宮廷画院の職業画家による絵画 |
| ⑰ | 文人画 | 士大夫の教養や精神を重視 |
| ⑱ | 大和絵 | 日本の風物や物語を描く |
問題1の解説|印刷術は東アジアの知識をどう変えたのか
①は印刷術、より具体的には木版印刷
①の基本答案は印刷術です。問題文が北宋における出版の発展を尋ねているため、より具体的には木版印刷と答えると意味が明確になります。
木版印刷は、文字や絵を一枚の板に左右反転させて彫り、墨を塗って紙に写す方法です。一つの版木を作るまでには手間がかかりますが、完成すれば同じ内容を何度も刷ることができます。手書きで一冊ずつ写す写本と比べると、複製の速度と正確さが大きく向上しました。
印刷そのものは宋代に突然発明されたものではありません。中国では唐代までに木版印刷が行われ、仏教経典などが印刷されていました。宋代になると、都市経済の発展、紙の供給、科挙を通じた読書層の拡大、行政文書や暦への需要などが重なり、出版の規模が大きくなります。
北宋の11世紀には畢昇が、文字を一字ずつ作って組み替える活字印刷を考案したと伝えられています。ただし、中国では使用する漢字の種類が非常に多く、同じ本を多数刷る場合には、一ページをまとめて彫る木版にも利点がありました。そのため、活字が発明された後も木版印刷は長く重要な位置を占めています。
問題文の「ムスリム商人らによってヨーロッパへ伝えられた」という部分には注意が必要です。イスラム世界を経てヨーロッパへ広まったことが明確なのは、紙や製紙技術です。東アジアの印刷技術がヨーロッパの活版印刷に影響した可能性は論じられていますが、グーテンベルクの印刷術まで一本の経路で直接伝わったと断定することはできません。
②は高麗版大蔵経
②は高麗版大蔵経です。「高麗大蔵経」または、現存する版木の数にちなむ「八万大蔵経」という呼び方もあります。大蔵経とは、仏教の経典や戒律、注釈書などを集成した大規模な仏典叢書です。
高麗では王室や国家が仏教を厚く保護しました。11世紀には契丹の侵攻を受けるなかで、仏の力によって国を守るという願いを込めて最初の大蔵経が作られました。この版木は後にモンゴル軍の侵攻で失われます。その後、13世紀に再び大蔵経の版木が作られ、現在は海印寺に保存されています。
現存する高麗大蔵経は、8万枚を超える版木に彫られています。これは単なる宗教事業ではありません。膨大な文章を校訂し、文字を反転して版木へ正確に彫り、湿気や虫害から守って保存する必要がありました。国家的な組織力、工芸技術、文字文化が結び付いた事業だったのです。
高麗では金属活字も早くから使用されました。13世紀前半には金属活字で書物が印刷されたという記録がありますが、その本自体は残っていません。現存する金属活字印刷本として有名なのは、1377年に印刷された『直指』です。

③は百万塔
③は百万塔です。764年に起きた恵美押勝の乱の後、称徳天皇が国家の安穏を願って作らせた小型の木製塔で、770年に完成したとされています。それぞれの塔の内部には、印刷した陀羅尼の小さな巻物が納められました。
「百万」という名称が示す通り、計画上は百万基という巨大な規模でした。完成した塔は奈良の主要寺院へ分けて納められ、現在は法隆寺にまとまった数が伝わっています。
百万塔陀羅尼は、制作年代が分かる現存印刷物として世界最古級に位置付けられています。ただし、「世界最古」という表現は、印刷物の定義、年代の確定方法、他地域の出土品を含めるかどうかで変わります。そのため、答案では現存する世界最古級の印刷物とするのが落ち着いた表現です。
問題2の解説|かな文字と念仏は誰の表現を広げたのか
④は平仮名、⑤は片仮名
④は平仮名、⑤は片仮名です。平仮名は、漢字の音を借りて日本語を記した万葉仮名を草書体で崩していくなかで形成されました。片仮名は、僧侶や学者が漢文を読む際、漢字の一部分を使って読み方や語順を書き添えたことから発達したと考えられています。
かな文字は、ある人物が一度に発明したものではありません。多くの人が文章を書き、文字の形を簡略化し、使いやすい形へ整えていくなかで成立したものです。
かなの発達によって、日本語の助詞、語尾、微妙な心情、会話の流れなどを、漢文とは異なる形で書き表しやすくなりました。ただし、「かなが生まれるまで日本人は内面を表現できなかった」という意味ではありません。漢字や漢文にも豊かな表現はありました。かなは、日本語を日本語の語順や響きに近い形で記す道を大きく広げたのです。
⑥は古今和歌集
⑥は古今和歌集です。10世紀初め、醍醐天皇の命によって編纂された最初の勅撰和歌集で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が撰者となりました。
問題文では紀貫之だけが挙げられていますが、実際には複数の撰者による編纂です。紀貫之は仮名で書かれた序文である仮名序を残したため、特に中心人物として知られています。
『古今和歌集』では、春夏秋冬、恋、別れ、旅などの題材が整えられ、感情を洗練された言葉にまとめる方法が示されました。その表現は、後の和歌だけでなく、『枕草子』や『源氏物語』をはじめとする平安文学にも大きな影響を与えます。
かなは女性だけが使った文字ではありません。男性貴族も私的な文章や和歌に使いました。紀貫之が女性の立場を借りて仮名で記した『土佐日記』は、かなが性別を超えた文学表現の道具だったことを示す作品です。
⑦は空也、⑧は称名念仏
⑦は空也、⑧は称名念仏です。空也は10世紀に活動した僧で、寺院の内部だけではなく、京の市中を歩きながら人々に念仏を勧めました。そのため「市聖」と呼ばれます。
称名念仏とは、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を声に出して唱える行為です。高度な経典の知識や大規模な儀式を必要とせず、文字を十分に読めない人でも実践できました。ここに、信仰が都市の一般民衆へ広がる重要な意味があります。
⑧を「踊念仏」とするのは適切ではありません。踊りながら念仏を唱える踊念仏で特に知られるのは、鎌倉時代の一遍です。空也にも踊りを伴う念仏の伝承はありますが、この問題の基本答案は称名念仏です。

⑨は源信
⑨は源信です。源信は比叡山で学んだ天台宗の僧で、985年に『往生要集』を著しました。そこでは、迷いと苦しみに満ちた世界を離れ、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願う考え方が、経典の引用を交えて体系的に説明されています。
『往生要集』は、地獄の苦しみと極楽浄土の安らぎを対照的に示しました。その具体的な描写は貴族社会に強い印象を与え、念仏や阿弥陀堂の造営、来迎図などの美術にも影響します。
問題文では10世紀の浄土信仰と末法思想が一続きに説明されています。ただし、日本で「末法の世に入った」とする意識が特に強くなるのは、一般に1052年以後です。空也や源信の時代にはすでに社会不安と浄土への願いがあり、それが11世紀の末法意識と結び付いてさらに広がったと捉えるとよいでしょう。
問題3の解説|将門の乱は武士の時代の始まりなのか
⑩は平将門、⑪は新皇
⑩は平将門、⑪は新皇です。平将門は桓武天皇につながる桓武平氏の一族で、下総国を中心に勢力を持っていました。
乱の発端は、将門が最初から朝廷の転覆を計画していたことではありません。一族間の所領や婚姻をめぐる争いが武力衝突へ発展し、対立が周辺の有力者や国司を巻き込みながら拡大しました。
939年、将門は常陸国府を攻め、さらに下野国府と上野国府へ進みます。国府は朝廷による地方支配の拠点です。そこを武力で制圧することは、単なる私闘を超えて中央政府の秩序へ挑戦する行為でした。
将門はやがて新皇を称し、東国に独自の役人を置こうとしました。「新皇」は、京都の天皇とは別の新しい君主を名乗るものです。ただし、現代の独立国家建設と同じ意味で考えるのは早計です。将門の支配は短期間であり、関東全域を安定して統治したわけでもありません。
⑫は藤原純友、⑬は承平・天慶の乱
⑫は藤原純友です。純友は瀬戸内海の海賊を取り締まる側にいた人物とされますが、やがて武装勢力を率い、国府や大宰府を攻撃するまでになります。
東国の将門と瀬戸内海の純友が連携していたことを示す確かな証拠はありません。それでも、ほぼ同じ時期に東西で大規模な反乱が起きたことは、朝廷にとって重大な危機でした。
二つの乱を合わせた名称が⑬の承平・天慶の乱です。承平と天慶は、事件が続いた時期の元号です。「将門・純友の乱」と呼ばれることもあります。
⑭は平貞盛
⑭は平貞盛です。平貞盛は将門と同じ平氏の一族で、父の平国香を将門側との戦いで失っていました。貞盛は藤原秀郷らと協力し、940年に将門を破ります。
問題文にある「幕府(朝廷)」という表記は訂正が必要です。939年当時、鎌倉幕府も室町幕府もまだ存在していません。この時代に追討を命じた中央政府は朝廷です。
また、「朝廷が無力だったため武士に丸投げした」とだけ理解するのも単純すぎます。朝廷は官位や恩賞を与える権限を使い、地方の武装者を動員しました。一方、実際の戦闘では地方の地理や人間関係を知る武士の力に頼らざるを得ませんでした。
この乱によって、朝廷に従って功績を挙げれば、地方の武士も官位や名声を得られることが示されました。武士がただ中央に反抗したのではなく、中央との結び付きを利用しながら勢力を伸ばす道も開かれたのです。
問題4の解説|山水画と大和絵は何を描こうとしたのか
⑮は呉道玄
⑮は、問題文の説明から判断すると呉道玄です。呉道子とも呼ばれ、唐の玄宗に仕えた画家として知られています。人物、仏教・道教の題材、山水などを描き、勢いのある線と立体感のある表現で後世に大きな影響を与えました。
ただし、唐代山水画を一人だけで説明することはできません。宮廷的な青緑山水と結び付く李思訓、水墨による静かな山水表現の祖とされた王維も重要です。呉道玄、李思訓、王維は、それぞれ異なる方向から唐代山水画の発達を理解する手掛かりになります。
呉道玄の真筆と確実に判断できる作品は、ほとんど現存していません。そのため、今日知られる評価の多くは、後世の記録や伝承を通じたものです。「写実的」という語も、写真のような再現ではなく、線の強弱や筆勢によって対象に生命感や立体感を与えたという意味で理解するとよいでしょう。
⑯は院体画、⑰は文人画
⑯は院体画、⑰は文人画です。院体画は、皇帝の宮廷に置かれた画院に属する職業画家が描いた絵画を指します。高度な技術、整った構図、細密な描写、豊かな色彩などが重視され、皇帝や宮廷の要望に応える役割も担いました。
文人画は、儒学や詩文、書に通じた士大夫などが描いた絵画です。外形を細密に写すことだけでなく、筆遣い、人格、教養、詩情などが重視されました。墨の濃淡を生かした山水画は、その代表的な表現です。
「院体画は北宗画、文人画は南宗画」と完全に同一視するのは注意が必要です。北宗画と南宗画という分類は、宋代の画家たちが自ら二派に分かれて名乗ったものではありません。明代後期の董其昌らが、過去の絵画史を整理するために提示した理論です。
董其昌の理論では、李思訓に始まる細密で装飾的な流れを北宗、王維に始まる水墨と文人的精神の流れを南宗としました。しかし、実際の作品には両方の要素が混じることもあり、画家の立場と画風が必ず一致するわけではありません。
⑱は大和絵
⑱は大和絵です。大和絵は、日本の四季、名所、年中行事、物語などを題材とする絵画を、中国風の題材を扱う唐絵と区別する言葉として用いられました。
大和絵は、中国絵画を拒否して生まれたものではありません。構図、人物表現、顔料、絵巻の形式など、大陸から伝わった技法を土台としながら、描く対象を日本の自然や物語へ移していきました。外来文化を受け入れたうえで、自分たちの生活や風景に合う表現へ作り替えた点が重要です。
巨勢金岡は、平安時代前期の宮廷画家として知られ、大和絵の形成に関わる人物とされています。ただし、金岡の作と確実に断定できる現存作品はありません。また、金岡の活動は主に9世紀後半であるため、「10世紀以降に大和絵が発達した」という説明とは年代を少し分けて理解する必要があります。

四つの問題を一つの流れで整理する
今回の四つの問題は、次のように整理できます。
- 印刷術は、同じ知識を多数の人へ届ける力を高めました。
- かな文字は、日本語による文学や感情表現の幅を広げました。
- 念仏信仰は、寺院や貴族だけでなく都市の民衆にも届きました。
- 地方武士は、中央の官人だけでは維持できない軍事力を担うようになりました。
- 山水画と大和絵は、自然や地域固有の風景を表現する新しい視点を育てました。
つまり、10世紀前後の東アジアでは、知識、言葉、信仰、武力、美術の担い手が広がっていました。すべてが庶民化したわけではなく、国家や貴族の力も依然として強大です。それでも、社会を動かす主体が少しずつ増えたことは、その後の歴史を考えるうえで見逃せません。
誤解しやすいポイント
印刷術の発明と普及は同じではない
木版印刷は唐代までに存在しました。宋代の重要性は、印刷が初めて生まれたことよりも、商業、教育、行政と結び付いて出版規模が拡大したことにあります。
かな文字は女性だけの文字ではない
平安文学では女性作家の活躍が目立ちますが、男性も和歌、日記、私的文章などでかなを使用しました。
空也と一遍を混同しない
空也は平安時代中期に市中で称名念仏を広めた僧です。一遍は鎌倉時代に時宗を開き、踊念仏や遊行で知られます。
将門の乱を近代的な独立運動と考えない
将門は新皇を称しましたが、近代国家や民族独立という考え方があったわけではありません。平安時代の地方支配と一族間抗争の延長上で捉える必要があります。
北宗画と南宗画は宋代の正式な二大組織ではない
二つの名称は、明代の文人が過去の画家を分類した理論です。宋代の実際の絵画を理解する際は、宮廷画院、士大夫、地域、時代、技法を個別に見ることが大切です。
よくある質問
①は「製紙法」ではないのですか
中国の四大発明には製紙法も含まれますが、問題文は「書物が大量に出版された」としているため、①の意図は印刷術です。ただし、イスラム世界を経てヨーロッパへ伝わったという説明は、製紙法について述べる場合のほうが正確です。
高麗は本当に世界最初の金属活字を作ったのですか
13世紀前半に高麗で金属活字印刷が行われたことを示す記録があります。ただし、その時の印刷物は現存していません。現存する最古の金属活字印刷本として確認されているのは、1377年の『直指』です。
百万塔と百万塔陀羅尼は同じものですか
百万塔は木製の小塔、百万塔陀羅尼はその内部に納められた印刷物を含む名称です。空欄③が塔の名称を尋ねている場合は「百万塔」と答えます。
『古今和歌集』は紀貫之が一人で作ったのですか
一人ではありません。紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人が撰者です。紀貫之が仮名序を執筆したため、代表者として名前が挙げられることが多くなっています。
将門の乱を鎮圧したのは朝廷軍ではないのですか
追討を命じ、官位や恩賞を与えたのは朝廷です。ただし、実際の戦闘で中心となったのは平貞盛や藤原秀郷など、地方に基盤を持つ武装者でした。この点に、当時の朝廷と武士の相互依存が表れています。
大和絵は中国絵画と反対のものですか
単純な反対関係ではありません。中国から伝わった絵画技法を使いながら、日本の自然、行事、物語を描いたものです。国風文化は大陸文化を排除した文化ではなく、大陸文化を日本の社会に合わせて再構成した文化と考えるのが適切です。
まとめ
18個の答えは、①印刷術、②高麗版大蔵経、③百万塔、④平仮名、⑤片仮名、⑥古今和歌集、⑦空也、⑧称名念仏、⑨源信、⑩平将門、⑪新皇、⑫藤原純友、⑬承平・天慶、⑭平貞盛、⑮呉道玄、⑯院体画、⑰文人画、⑱大和絵です。
ただし、歴史を理解するうえでは答えの名称だけでなく、問題文の表現を点検することも大切です。印刷技術のヨーロッパ伝播、末法思想の年代、当時存在しなかった幕府、後世に作られた南北宗の分類など、短い問題文では省略される事情があります。
10世紀前後の東アジアでは、知識を複製する技術、日本語を記す文字、民衆に届く信仰、地方を動かす武力、地域の自然を描く美術が成長しました。この「担い手の広がり」を軸にすれば、四つの問題は一つの歴史としてつながります。
