ランゴバルド王国と教皇領の成立をわかりやすく解説|ゲルマン人の大移動からカール大帝まで

大学受験歴史

問題1:ランゴバルド王国の成立と大移動の終焉

ゲルマン人の諸部族がローマ帝国内に流入した「ゲルマン人の大移動」は、ある王国の成立をもって終息したとされています。

(1) 6世紀半ばに北イタリアに建国され、約200年にわたるゲルマン人の大移動を終息させたとされる国は何ですか?

(2) この王国を含む多くのゲルマン諸国家は、当初、325年のニケーア公会議で異端とされた「何派」のキリスト教を信仰していましたか?

問題2:ローマ教皇への圧迫と東西教会の対立

西ローマ帝国の滅亡後、イタリア半島はランゴバルド王国などの支配を受け、ローマ・カトリック教会は政治的に不安定な状況に置かれました。

(1) 8世紀、ビザンツ(東ローマ)皇帝レオン3世が発した「ある法令」に対し、ゲルマン人への布教に聖像を利用していたローマ教皇は強く反発し、東西教会の対立が深まりました。この法令を何といいますか?

(2) 東ローマ皇帝を後ろ盾とするギリシア正教会が優勢となる中で、ランゴバルド王国から軍事的圧迫を受けていたローマ教皇は、新たな政治的保護者を求めてどの王国に接近しましたか?

問題3:教皇領の成立と王国の滅亡

教皇の支持を得たフランク王国のカロリング家は、ランゴバルド王国を破り、教会との結びつきを強めました。

(1) フランク王国のピピン(小ピピン)は、ランゴバルド王国から奪ったラヴェンナ地方を教皇に献上しました。教皇領の起源となったこの出来事を何と呼びますか?

(2) 774年、教皇と対立を続けていたランゴバルド王国を最終的に滅ぼし、のちに教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を授けられたフランク王はだれですか?

  1. まず答えを確認しましょう
  2. この問題で見抜きたい大きな流れ
  3. 問題1の解説:ランゴバルド王国の成立とゲルマン人の大移動
    1. 答えは「ランゴバルド王国」と「アリウス派」
    2. ゲルマン人の大移動とは何だったのか
    3. ランゴバルド王国が重要な理由
  4. 問題2の解説:聖像禁止令とローマ教皇の苦しい立場
    1. 答えは「聖像禁止令」と「フランク王国」
    2. なぜ聖像禁止令が問題になったのか
    3. ローマ教皇はなぜ東ローマ帝国から離れていったのか
  5. 問題3の解説:ピピンの寄進とカール大帝によるランゴバルド王国滅亡
    1. 答えは「ピピンの寄進」と「カール大帝」
    2. ピピンの寄進とは何か
    3. 教皇領の成立が持つ意味
    4. カール大帝はなぜランゴバルド王国を滅ぼしたのか
  6. 三つの問題を一本の流れで整理する
  7. 混同しやすいポイント
    1. ランゴバルド王国とフランク王国を混同しない
    2. ピピンの寄進とカール大帝の戴冠を混同しない
    3. 聖像禁止令を「東西教会分裂そのもの」としない
  8. 社会人が理解しやすい覚え方
  9. 現代とのつながり:教皇領はなぜ重要だったのか
  10. FAQ:よくある疑問
    1. ランゴバルド王国はなぜ「大移動の終焉」とされるのですか?
    2. アリウス派はなぜゲルマン人に広がったのですか?
    3. 聖像禁止令はなぜローマ教皇を怒らせたのですか?
    4. ピピンの寄進はなぜ教皇領の起源なのですか?
    5. カール大帝はなぜローマ皇帝になれたのですか?
  11. まとめ:教皇がフランク王国へ向かった理由を押さえる

まず答えを確認しましょう

この問題の答えは、次の通りです。

  • 問題1(1):ランゴバルド王国
  • 問題1(2):アリウス派
  • 問題2(1):聖像禁止令、または聖像破壊令
  • 問題2(2):フランク王国
  • 問題3(1):ピピンの寄進
  • 問題3(2):カール大帝、またはカール1世

この範囲は、用語だけを見るとばらばらに感じられます。ランゴバルド王国、アリウス派、聖像禁止令、フランク王国、ピピンの寄進、カール大帝。どれも世界史では頻出ですが、一つひとつを暗記しているだけでは、なぜ教皇がフランク王国へ近づいたのか、なぜそれが中世ヨーロッパの大きな転換点になったのかが見えにくくなります。

そこでこの記事では、単なる一問一答ではなく、「イタリアをめぐる支配者の変化」と「ローマ教皇が誰に保護を求めたか」という流れを中心に見ていきます。ここを押さえると、教皇領の成立やカール大帝の戴冠までが、一本の線として理解しやすくなります。

この問題で見抜きたい大きな流れ

この三つの問題は、細かい知識を問う形をとっていますが、実際には一つの大きな流れをたどっています。それは、西ローマ帝国の崩壊後、ローマ教皇が東ローマ帝国から離れ、フランク王国と結びついていく流れです。

5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパではゲルマン系の諸国家が各地に成立しました。イタリア半島も例外ではありません。はじめは東ゴート王国、その後は東ローマ帝国の支配が及びますが、6世紀後半にランゴバルド人が北イタリアへ入ってくると、イタリア半島の政治地図はさらに複雑になります。

ローマ教皇は、宗教上は西方教会の中心でありながら、政治的にはきわめて不安定な場所に置かれていました。近くにはランゴバルド王国があり、遠くには東ローマ皇帝がいます。しかし東ローマ帝国は、必ずしもローマ教皇を十分に守れるわけではありませんでした。ここに、後のフランク王国との接近が生まれます。

この範囲を学ぶときに大切なのは、「誰が強かったか」だけではありません。むしろ、教皇がどの勢力を頼り、どの勢力から距離を置いたのかを見ることです。ランゴバルド王国は教皇に圧迫を加える存在となり、東ローマ帝国は宗教政策の面で対立を深め、フランク王国は新しい保護者として登場します。この三角関係を押さえると、問題全体の意味が見えてきます。

問題1の解説:ランゴバルド王国の成立とゲルマン人の大移動

答えは「ランゴバルド王国」と「アリウス派」

問題1(1)の答えはランゴバルド王国です。ランゴバルド人はゲルマン系の一部族で、6世紀後半に北イタリアへ進出し、ポー川流域を中心に王国を築きました。このランゴバルド王国の成立をもって、一般に約200年に及ぶゲルマン人の大移動が終息したと説明されます。

問題1(2)の答えはアリウス派です。アリウス派は、イエス・キリストと父なる神の関係をめぐる教義で、325年のニケーア公会議において正統信仰から外れた異端とされました。ただし、ゲルマン系諸部族のなかには、当初このアリウス派のキリスト教を受け入れていたものが少なくありません。

ここで注意したいのは、アリウス派を単に「間違った宗派」として覚えるだけでは不十分だという点です。歴史上は、宗教の違いが政治的な距離感にも関係しました。ローマ系住民の多くはカトリック信仰に近く、ゲルマン人支配層の一部はアリウス派を信仰していました。そのため、同じキリスト教といっても、支配者と住民の間に宗教的な隔たりがあったのです。

ゲルマン人の大移動とは何だったのか

ゲルマン人の大移動は、4世紀後半から6世紀にかけて、ゲルマン系諸部族がローマ帝国の領域内へ移動し、各地に王国を築いた動きです。背景には、フン人の西進、ローマ帝国の防衛力の低下、土地や安全を求める諸部族の移動など、複数の要因がありました。

この大移動によって、西ローマ帝国の領域には西ゴート王国、ヴァンダル王国、ブルグンド王国、東ゴート王国、フランク王国などが成立します。そして最後の大きな波として、ランゴバルド人がイタリアへ入ってきました。

ランゴバルド王国は、568年ごろにアルボインに率いられて北イタリアへ入り、パヴィアを中心に勢力を築いていきます。東ローマ帝国は、ユスティニアヌス帝の時代にイタリアを一時的に奪回していましたが、ランゴバルド人の進出によって、その支配は大きく揺らぎました。

ランゴバルド王国の成立は、「古代ローマの地中海世界」から「ゲルマン諸国家が並び立つ中世ヨーロッパ」への移り変わりを示す出来事として理解するとよいでしょう。

ランゴバルド王国が重要な理由

ランゴバルド王国が重要なのは、単に「ゲルマン人の大移動の終わり」として出てくるからではありません。この王国は、その後のローマ教皇とフランク王国の関係を考えるうえで、欠かせない存在になります。

ランゴバルド王国は北イタリアを中心に支配を広げましたが、イタリア半島全体を完全に統一したわけではありません。ローマやラヴェンナなどには、東ローマ帝国の影響も残っていました。そのため、イタリア半島には、ランゴバルド王国、東ローマ帝国の勢力、ローマ教皇の宗教的権威が入り組んで存在することになります。

この入り組んだ構図が、後の教皇領成立の前提になります。教皇は宗教上の指導者でありながら、現実には軍事力を持つ王国の圧力にさらされました。ランゴバルド王国が強まれば、ローマ教皇は自分たちを守ってくれる存在を探さなければなりません。その相手として登場するのが、フランク王国です。

問題2の解説:聖像禁止令とローマ教皇の苦しい立場

答えは「聖像禁止令」と「フランク王国」

問題2(1)の答えは聖像禁止令です。これは、8世紀の東ローマ皇帝レオン3世が出した、キリストや聖母、聖人などの聖像の使用を禁じる政策として理解されます。世界史では、聖像破壊運動、またはイコノクラスムとも関連して学びます。

問題2(2)の答えはフランク王国です。ローマ教皇は、ランゴバルド王国からの軍事的圧迫と、東ローマ皇帝との宗教的対立のなかで、新たな保護者を必要としました。その相手が、ガリア地方を中心に発展していたフランク王国でした。

ここで重要なのは、ローマ教皇が単に「フランク王国と仲良くした」のではなく、東ローマ帝国だけでは頼れなくなったため、西方の強国へ接近したということです。この政治的な向きの変化が、後の西ヨーロッパ世界の形成に大きな意味を持ちます。

なぜ聖像禁止令が問題になったのか

聖像禁止令は、単なる美術品の禁止ではありません。キリスト教の信仰をどのように表すか、そして教会を誰が主導するかに関わる問題でした。

東ローマ帝国では、聖像崇拝が偶像崇拝に近いのではないかという批判があり、皇帝レオン3世は聖像の使用を禁じる方向へ動きました。一方、西方のローマ教会では、聖像は信仰を助けるものとして重視されました。文字を読めない人々にも、聖書の物語や聖人の姿を伝える手段になっていたからです。

特にゲルマン人への布教では、言葉だけで教義を伝えることが難しい場合がありました。聖像は、目に見える形で信仰を伝える手がかりになります。そのため、ローマ教皇は聖像禁止令に強く反発しました。

この対立は、後の東西教会の分裂へ直接つながる一要素として位置づけられます。もちろん、1054年の東西教会分裂には、教義、言語、典礼、教皇権をめぐる考え方など、さまざまな要因があります。けれども、8世紀の聖像禁止令をめぐる対立は、東方教会と西方教会の距離が広がる重要な場面でした。

ローマ教皇はなぜ東ローマ帝国から離れていったのか

西ローマ帝国滅亡後も、ローマ教皇は名目上、東ローマ帝国の政治的枠組みの中にありました。東ローマ皇帝はローマ世界の皇帝であり、イタリアの一部にも影響力を持っていました。ラヴェンナには東ローマ帝国の総督府が置かれ、イタリア支配の拠点となっていました。

しかし、現実の問題として、東ローマ帝国はイタリアのローマ教皇を十分に守ることが難しくなっていました。帝国は東方でイスラーム勢力と対峙し、バルカン半島や小アジアでも多くの課題を抱えていました。そのうえ、聖像禁止令をめぐって教皇と対立したため、ローマ教皇にとって東ローマ皇帝は、頼れる保護者であると同時に、宗教上の対立相手にもなってしまったのです。

一方、ローマに近い場所ではランゴバルド王国が圧力を強めていました。教皇から見れば、近くのランゴバルドは軍事的な脅威であり、遠くの東ローマは十分に頼れず、しかも宗教政策で対立している。この状況で、新たな保護者として注目されたのがフランク王国でした。

ここを「教皇が東ローマを嫌ったからフランクへ行った」と単純化しすぎると、理解が浅くなります。実際には、軍事的安全、宗教政策、イタリア支配の現実が重なった結果として、教皇はフランク王国へ接近していったのです。

問題3の解説:ピピンの寄進とカール大帝によるランゴバルド王国滅亡

答えは「ピピンの寄進」と「カール大帝」

問題3(1)の答えはピピンの寄進です。フランク王国のピピン、つまり小ピピンは、ランゴバルド王国から奪ったラヴェンナ地方などをローマ教皇へ献上しました。この出来事が、教皇領の起源とされます。

問題3(2)の答えはカール大帝です。カール大帝はフランク王国の王で、小ピピンの子にあたります。774年、ランゴバルド王国を滅ぼし、のちに800年、教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を授けられました。

ここでは、ピピンとカール大帝を別々に暗記するのではなく、父ピピンが教皇との同盟を固め、子カールがその関係をさらに拡大したと見ると整理しやすくなります。

ピピンの寄進とは何か

ピピンの寄進は、教皇領の起源として非常に重要です。ローマ教皇はもともと宗教上の指導者でしたが、ピピンの寄進によって、一定の土地を支配する世俗的な君主としての側面も持つようになりました。

ランゴバルド王国がラヴェンナ地方を支配下に置くと、ローマ教皇にとって脅威は一段と大きくなりました。教皇ステファヌス2世はフランク王国のピピンに助けを求め、ピピンはイタリアへ遠征してランゴバルド王を破ります。そして奪回したラヴェンナ地方などを教皇へ与えました。

この出来事は、単なる土地の贈与ではありません。政治的には、フランク王国がローマ教皇の保護者となることを示しました。宗教的には、教皇がフランク王の権威を支える関係が強まりました。つまり、教皇とフランク王国は、互いに必要とする関係になったのです。

ピピンにとっても、教皇との結びつきは重要でした。カロリング家は、メロヴィング朝の王を退けてフランク王国の王位を得ました。その新しい王権を正当化するうえで、ローマ教皇の支持は大きな意味を持ちました。教皇にとっては軍事的保護が必要であり、ピピンにとっては宗教的権威による承認が必要でした。ここに、両者の利害が一致したのです。

教皇領の成立が持つ意味

教皇領の成立は、中世ヨーロッパの政治構造を考えるうえで重要です。なぜなら、ローマ教皇が宗教的権威だけでなく、実際の領土を持つ政治的存在になったからです。

古代ローマの時代、皇帝は強大な政治権力を持ち、キリスト教会も帝国の中で位置づけられていました。しかし西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパには統一的な皇帝権力がなくなります。その空白の中で、ローマ教皇は精神的な中心としての地位を強めました。

そこへピピンの寄進が加わることで、教皇は「祈りの指導者」であるだけでなく、「土地を治める支配者」としての性格も持ちます。この二重性は、後の中世ヨーロッパでしばしば大きな問題になります。皇帝と教皇のどちらが上か、世俗権力と宗教権威はどう関係するのか、という対立の出発点の一つにもなるからです。

したがって、ピピンの寄進は「ラヴェンナ地方を献上した」という一文だけで済ませるには惜しい出来事です。これは、ローマ教皇が中世ヨーロッパ政治の主役の一人となるための制度的な土台を作った出来事と見るべきでしょう。

カール大帝はなぜランゴバルド王国を滅ぼしたのか

カール大帝は、父ピピンが築いた教皇との関係を引き継ぎました。ランゴバルド王国はその後も教皇と対立し、ローマに圧力をかけます。教皇ハドリアヌス1世はカールに助けを求め、カールはイタリアへ遠征しました。

774年、カールはランゴバルド王国の都パヴィアを攻略し、ランゴバルド王デシデリウスを退けます。これによりランゴバルド王国は滅亡し、カールは「ランゴバルド王」の称号も得ました。

この出来事は、フランク王国の勢力がアルプスを越えてイタリアへ及んだことを意味します。つまり、フランク王国は単なるガリア地方の王国ではなく、西ヨーロッパ全体に影響を及ぼす大国へと変わっていきました。

そして、800年のクリスマス、ローマ教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠を授けます。これがカール大帝の戴冠です。西ヨーロッパに「ローマ皇帝」の称号が復活したことは、東ローマ帝国との関係でも大きな意味を持ちました。ローマ皇帝は本来、東ローマ皇帝が継承しているはずの称号です。そのため、西方でカールが皇帝とされたことは、東西世界の政治的な緊張も含んでいました。

三つの問題を一本の流れで整理する

ここまで見てきた内容を、時代の流れとして整理しておきましょう。

  1. ゲルマン人の大移動によって、西ローマ帝国の領域にゲルマン諸国家が成立する。
  2. 6世紀後半、ランゴバルド人が北イタリアに入り、ランゴバルド王国を建てる。
  3. ランゴバルド王国の圧力により、ローマ教皇の政治的立場が不安定になる。
  4. 東ローマ皇帝レオン3世の聖像禁止令により、ローマ教皇と東ローマ帝国の対立が深まる。
  5. 教皇は新たな保護者としてフランク王国へ接近する。
  6. 小ピピンがランゴバルド王国を破り、ラヴェンナ地方などを教皇へ寄進する。
  7. カール大帝が774年にランゴバルド王国を滅ぼす。
  8. 800年、カール大帝が教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受ける。

この流れを見ると、三つの問題は決して独立していません。問題1は「イタリアにランゴバルド王国が成立したこと」、問題2は「教皇が東ローマ帝国から離れ、フランク王国へ向かったこと」、問題3は「フランク王国が教皇の保護者となり、教皇領と西ローマ皇帝復活につながったこと」を問うています。

つまり、この範囲の中心にあるのは、ローマ教皇の保護者が東ローマ帝国からフランク王国へ移っていく過程です。この視点を持つだけで、暗記の負担はかなり軽くなります。

混同しやすいポイント

ランゴバルド王国とフランク王国を混同しない

ランゴバルド王国とフランク王国は、どちらもゲルマン系の王国ですが、歴史上の役割は大きく異なります。ランゴバルド王国はイタリア半島で教皇を圧迫した側です。一方、フランク王国は教皇が保護を求めた側です。

この違いを整理するには、地理を見るのが有効です。ランゴバルド王国は北イタリア、フランク王国はガリア地方、つまり現在のフランス方面を中心に発展しました。ローマ教皇から見れば、ランゴバルド王国は近くの脅威であり、フランク王国はアルプスの向こうにいる頼れる軍事勢力でした。

ピピンの寄進とカール大帝の戴冠を混同しない

ピピンの寄進とカール大帝の戴冠も、よく混同されます。ピピンの寄進は8世紀半ば、教皇領の起源となった出来事です。一方、カール大帝の戴冠は800年、教皇レオ3世がカールにローマ皇帝の帝冠を授けた出来事です。

両者はつながっていますが、同じ出来事ではありません。父ピピンの時代に教皇領の土台ができ、子カールの時代にフランク王国とローマ教皇の結びつきがさらに大きな政治的意味を持つようになった、と理解するとよいでしょう。

聖像禁止令を「東西教会分裂そのもの」としない

聖像禁止令は、東西教会の対立を深めた重要な出来事です。しかし、これだけで東西教会が完全に分裂したわけではありません。東西教会の分裂は、長い時間をかけて進んだものです。

聖像禁止令は、その途中にある大きな対立点として押さえます。「聖像禁止令=1054年の東西教会分裂」と短絡的に結びつけないことが大切です。試験対策でも、8世紀の聖像禁止令と11世紀の東西教会分裂は、時期を分けて理解しておく必要があります。

社会人が理解しやすい覚え方

社会人が歴史を学び直す場合、細かい語句をただ暗記するよりも、組織と組織の関係として見ると理解しやすくなります。この範囲は、まさに「誰が誰を頼り、誰と対立したか」を見る単元です。

ローマ教皇を、一つの組織の代表者として考えてみましょう。近くには強い軍事勢力であるランゴバルド王国があります。遠くには本来の後ろ盾である東ローマ帝国がありますが、宗教政策で対立し、軍事的にも十分に助けてくれません。そこで教皇は、新しい協力相手としてフランク王国を選びます。

フランク王国側にも利益があります。カロリング家は王権を正当化したい。そこで、ローマ教皇の権威が役に立ちます。教皇は軍事的保護を得て、フランク王は宗教的承認を得る。これは、互いに不足しているものを補い合う関係です。

このように見ると、ピピンの寄進もカール大帝の戴冠も、単なる「いい話」ではありません。教皇とフランク王国が、それぞれの事情を抱えながら結びついていった政治的な出来事です。中世ヨーロッパでは、宗教と政治が切り離されていません。そのことを、この単元はよく示しています。

現代とのつながり:教皇領はなぜ重要だったのか

教皇領は、後のヨーロッパ史に長く影響を残しました。ローマ教皇は宗教上の最高権威であるだけでなく、イタリア中部に領土を持つ政治的支配者でもありました。この二重の性格は、中世から近世にかけて、ヨーロッパ政治の重要な要素となります。

近代に入ると、イタリア統一運動の中で教皇領は大きく縮小し、最終的にはローマもイタリア王国に組み込まれます。その後、20世紀にラテラノ条約によってバチカン市国が成立しました。現在のバチカン市国は非常に小さな領域ですが、ローマ教皇が一定の主権を持つという点では、教皇領の歴史と無関係ではありません。

もちろん、8世紀の教皇領と現代のバチカン市国をそのまま同一視することはできません。しかし、ローマ教皇が宗教的権威だけでなく、政治的・外交的な存在でもあるという見方は、ピピンの寄進から続く長い歴史の中で理解できます。

FAQ:よくある疑問

ランゴバルド王国はなぜ「大移動の終焉」とされるのですか?

ゲルマン人の大移動は、4世紀後半から多くのゲルマン系諸部族がローマ帝国領内へ移動し、王国を作った動きです。ランゴバルド人の北イタリア進出は、その大きな流れの最後の段階に位置づけられます。そのため、ランゴバルド王国の成立をもって、ゲルマン人の大移動が終息したと説明されます。

アリウス派はなぜゲルマン人に広がったのですか?

ゲルマン人の一部は、ローマ帝国の周辺でキリスト教に触れた際、アリウス派の宣教師などを通じて信仰を受け入れました。そのため、当初のゲルマン諸国家にはアリウス派を信仰する支配層が見られました。ただし、後にはカトリックへ改宗する王国も増えていきます。フランク王国が比較的早くカトリックに改宗したことは、ローマ教会との関係を考えるうえで重要です。

聖像禁止令はなぜローマ教皇を怒らせたのですか?

西方教会では、聖像は信仰を教え、広めるための大切な手段と考えられていました。とくに文字を読めない人々や新たに布教を受ける人々にとって、聖像は信仰内容を理解する助けになります。東ローマ皇帝がそれを禁じようとしたため、ローマ教皇は強く反発しました。

ピピンの寄進はなぜ教皇領の起源なのですか?

小ピピンがランゴバルド王国から奪ったラヴェンナ地方などを教皇へ与えたことで、教皇は一定の土地を支配する政治的存在になりました。これが、後に教皇領と呼ばれる領域の起源とされます。宗教的な指導者である教皇が、世俗の土地支配を持つようになった点が重要です。

カール大帝はなぜローマ皇帝になれたのですか?

カール大帝はフランク王国を大きく拡大し、ランゴバルド王国を滅ぼしてイタリアにも影響力を持ちました。また、ローマ教皇を保護する立場にありました。800年、教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠を授けます。これにより、西ヨーロッパでローマ皇帝の称号が復活したとされます。

まとめ:教皇がフランク王国へ向かった理由を押さえる

この問題群で最も大切なのは、用語をばらばらに覚えることではありません。ランゴバルド王国の成立、アリウス派、聖像禁止令、フランク王国への接近、ピピンの寄進、カール大帝によるランゴバルド王国滅亡は、すべて一つの流れの中にあります。

まず、ランゴバルド王国の成立によって、ゲルマン人の大移動は終息したとされます。しかし、ランゴバルド王国はその後、イタリアでローマ教皇を圧迫する存在となりました。一方、東ローマ皇帝レオン3世の聖像禁止令によって、ローマ教皇と東ローマ帝国の関係も悪化します。

この二重の圧力の中で、ローマ教皇はフランク王国へ接近しました。小ピピンはランゴバルド王国を破り、ラヴェンナ地方などを教皇へ寄進します。これが教皇領の起源です。そしてカール大帝は774年にランゴバルド王国を滅ぼし、800年には教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受けました。

このように見ると、答えは単なる暗記項目ではなく、古代から中世への大きな転換を示す手がかりになります。「ランゴバルド王国が教皇を圧迫し、教皇がフランク王国を頼り、フランク王国が西ヨーロッパの中心へ進んだ」。この一文を軸にしておけば、問題全体を落ち着いて整理できるでしょう。