問1(大坂の陣と豊臣氏の滅亡)
1614年、徳川幕府は方広寺鐘銘事件をめぐって豊臣方との対立を深め、大坂城を囲む戦いに進みました。翌1615年の夏の陣で大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀殿が自害します。この1614〜1615年の一連の戦乱を何といいますか。
問2(一国一城令)
大坂夏の陣後の1615年、幕府は諸大名の領内にある城を整理し、原則として大名の居城以外の城を破却させました。この命令を何といいますか。
問3(武家諸法度と禁中並公家諸法度)
1615年、幕府は武家と朝廷・公家に関する重要な法令を相次いで定めました。
(1)「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」で始まる、諸大名を含む武家の基本法は何ですか。
(2)天皇・公家・親王・門跡などの秩序について定めた法度は何ですか。
解答
- 問1:大坂の陣(大坂冬の陣・大坂夏の陣)
- 問2:一国一城令
- 問3:(1)武家諸法度(元和令)、(2)禁中並公家諸法度
この問題は、大坂の陣、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度という四つの用語を覚えれば解答できます。ただ、四枚の単語カードに分けてしまうと、1615年という年の面白さがほとんど見えません。
1615年は、徳川政権が大きな軍事的対立に決着をつけた後、城と法を通じて秩序を組み直していった転換点です。
しかも、制度づくりは大坂城が落ちてから突然始まったわけでもありません。戦争と統治制度の準備が重なりながら進んでいたところに、この時代の本当の面白さがあります。
- 答えを先に確認|1614〜1615年は「戦う政治」から「治める政治」へ
- 大坂の陣|関ヶ原で終わらなかった徳川と豊臣の関係
- 一国一城令|城を減らすことは、戦国の軍事拠点を減らすことだった
- 武家諸法度|大名を「戦場」ではなく「ルール」の中へ置く
- 禁中並公家諸法度|朝廷をなくしたのではなく、公武関係の枠を定めた
- 1615年を一本につなぐ|「豊臣滅亡→城→法」は便利だが、単純な因果にはしない
- 同じ時代の出来事を深掘り|日本の外でも政治秩序が動いていた
- 間違えやすいポイント|年号より「何が変わったか」を区別する
- FAQ|答案ではどこまで書けばよい?
- まとめ|1615年は「天下を取る」から「天下を維持する」へ
- 関連記事
- 参考資料
答えを先に確認|1614〜1615年は「戦う政治」から「治める政治」へ
| 時期 | 出来事 | 押さえたい意味 |
|---|---|---|
| 1614年 | 方広寺鐘銘事件・大坂冬の陣 | 徳川方と豊臣方の対立が大規模な軍事衝突へ進む |
| 1615年 | 大坂夏の陣・大坂城落城 | 豊臣氏が政治勢力として滅亡する |
| 1615年 | 一国一城令 | 大名領内の城郭が大きく整理される |
| 1615年7月 | 武家諸法度 | 武家社会を継続的な法の枠組みに置く |
| 1615年7月 | 禁中並公家諸法度 | 朝廷・公家社会に関する秩序を法令で定める |
国立公文書館の年表では、慶長20年5月8日に大坂城落城、同年7月7日に武家諸法度、7月17日に禁中並公家中諸法度が置かれています。ここでの日付は当時の和暦史料に基づく表記です。
豊臣氏滅亡から法令制定までが同じ年のうちに続いていることが分かれば、歴史用語の並びが急に一本の物語になります。

大坂の陣|関ヶ原で終わらなかった徳川と豊臣の関係
答えは「大坂の陣」
問1の答えは大坂の陣です。1614年の大坂冬の陣と、1615年の大坂夏の陣を合わせてこう呼びます。
関ヶ原の戦いは1600年です。しかし、関ヶ原で徳川家康が勝ったからといって、豊臣家そのものがその日に消えたわけではありません。豊臣秀頼は大坂城におり、大きな政治的存在感を保っていました。
家康は1603年に征夷大将軍となり、1605年には将軍職を徳川秀忠へ譲ります。将軍職を徳川家で継承する形はできましたが、大坂にはなお豊臣家が存在していたのです。
「関ヶ原=全部終了」と覚えてしまうと、歴史がずいぶん早じまいになります。
方広寺鐘銘事件は「戦争のスイッチ一個」ではない
1614年、京都の方広寺では豊臣秀頼が再建した大仏殿の鐘をめぐって問題が起きました。鐘銘に記された「国家安康」「君臣豊楽」という言葉を、徳川側が問題視した方広寺鐘銘事件です。
国立公文書館は、徳川側が「国家安康」を家康の名を分断する表現、「君臣豊楽」を豊臣家の繁栄を願う表現として解釈したことを紹介しています。その後、徳川方と豊臣方の緊張は急速に高まりました。
ただし、鐘の四文字だけで巨大な戦争が突然始まった、と理解するのは単純すぎます。
鐘銘事件は重要な契機ですが、その背景には、徳川政権が全国支配を固めていく一方、大坂城に豊臣秀頼という別の政治的中心が残っていたという大きな問題がありました。
冬の陣では和睦、翌年には夏の陣へ
1614年11月、大坂冬の陣が始まりました。大坂城を中心に徳川方と豊臣方が戦い、12月には和睦が成立します。
しかし、これで両者の関係が安定したわけではありません。翌1615年に再び戦争となり、大坂夏の陣へ進みます。
国立公文書館の年表では、慶長20年5月8日に大坂城が落城し、秀頼と淀殿が自害したと記録されています。ここで豊臣家は、徳川政権に対抗し得る政治勢力として姿を消しました。

一国一城令|城を減らすことは、戦国の軍事拠点を減らすことだった
答えは「一国一城令」
問2の答えは一国一城令です。高知県立高知城歴史博物館には、慶長20年(1615)の「一国一城令」として、領内の城のうち藩主の居城以外を破却するよう将軍の意向を伝えた文書が残っています。
ここでいう城は、現代の観光名所のような「立派な建物」だけではありません。兵を置き、武器や食料を蓄え、周辺地域を押さえる軍事拠点でもありました。
城を整理することは、大名領内に残る軍事拠点を整理し、戦国時代から続く支配の形を組み替えることでもありました。
城を減らしただけ、と書くと簡単ですが、城には家臣団や町場も結びついています。石垣一つなくすだけの話では済みません。
都城では町の中心まで動いた
一国一城令の影響が地域社会へ及んだ例として、現在の宮崎県都城市があります。
都城市の資料によると、戦国時代の都城盆地には13の城があり、それぞれに町場が形成されていました。1615年の一国一城令によって城が破却され、その後、領主館の周辺へ町場の機能が集まっていきます。
つまり、城郭整理は軍事施設の数だけを変えたのではありません。人が集まる場所、政治を行う場所、商業の中心まで変化する場合がありました。
城は地図上の黒い印ではなく、その土地の人や物が集まる装置でもあったわけです。
「日本全国を一律に一城へ」とだけ覚えない
試験では「大名の居城以外の城を破却する政策」と押さえると理解しやすいでしょう。ただし、「現代の都道府県ごとに必ず一つだけ城を残した」といったイメージへ置き換えるのは避けたほうが安全です。
重要なのは、幕府が各地の城を大名任せにせず、城郭の存廃や整備へ強く関与する時代に入ったことです。

武家諸法度|大名を「戦場」ではなく「ルール」の中へ置く
答えは「武家諸法度(元和令)」
問3(1)は武家諸法度です。1615年に出された最初の武家諸法度は、後の改定と区別して元和令と呼ばれます。
国立公文書館によると、家康が以心崇伝に起草させ、慶長20年7月7日、諸大名を伏見城へ集めて、将軍徳川秀忠の名で全13か条が読み上げられました。
第一条の「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」は有名です。しかし、「武士は勉強と武芸をがんばりましょう」という生活指導だけを定めた文書ではありません。
武家諸法度は、全国の大名を含む武家を、幕府が示す継続的な規範の中へ置く基本法でした。
大名相手の文書ですから、学校の校則にしては対象地域が少々広すぎます。
「戦いに勝つ力」だけでは天下を維持できない
戦国時代には、領地や同盟、婚姻、城、軍事行動が大名同士の力関係と深く結びついていました。江戸幕府は、そうした武家社会の行動を、幕府が定める法の対象へ移していきます。
ここが大坂の陣と武家諸法度をつなぐ重要なところです。徳川政権は戦争に勝っただけでなく、勝った後の大名をどのように統制するかという問題に向き合いました。

禁中並公家諸法度|朝廷をなくしたのではなく、公武関係の枠を定めた
答えは「禁中並公家諸法度」
問3(2)の答えは禁中並公家諸法度です。「禁中並公家中諸法度」などの表記も資料に見られます。
国立公文書館では全17か条の法令として紹介され、1615年7月17日に前関白二条昭実、徳川家康、徳川秀忠が連署したことが確認できます。
法度には、天皇の学問、公家の官職や序列、昇進、服装、門跡や僧侶の扱いなど、公家社会と朝廷をめぐる幅広い規定が含まれました。
「幕府がこの法令で朝廷そのものを廃止した」「天皇からすべての権限を奪った」と理解するのは適切ではありません。
見るべきなのは、幕府が武家社会だけでなく、朝廷・公家との関係にも継続的な規則を設けたことです。
実は準備は1614年から進んでいた
ここで年代を少し巻き戻すと、さらに面白いことが分かります。
国立公文書館によれば、家康は1614年、公家や門跡がどのような記録を持っているか調べさせ、古い日記や典籍を集めていました。こうした古記録の収集は、禁中並公家諸法度などの法度制定にも利用されたと説明されています。
つまり、大坂城が落ちてから慌てて朝廷関係の制度を考え始めたわけではないのです。
戦争が進む一方で、法や先例を調べる作業も進められていました。刀を振るう人の隣で、古文書をめくっている人もいた。国家を作る仕事は、なかなか担当部署が多いものです。
1615年を一本につなぐ|「豊臣滅亡→城→法」は便利だが、単純な因果にはしない
ここまでの流れを整理すると、1615年は次のように見えます。
- 大坂夏の陣によって豊臣氏という大きな政治・軍事的対抗勢力が消える。
- 一国一城令によって、大名領内に残る城郭が大きく整理される。
- 武家諸法度によって、武家社会を幕府の法秩序へ位置づける。
- 禁中並公家諸法度によって、朝廷・公家社会との関係にも継続的な枠組みを設ける。
この並びは記憶にも便利です。ただし、「豊臣氏を滅ぼしたので、その翌日から徳川家康がすべての制度をゼロから作った」と考えてはいけません。
徳川政権による大名統制、朝廷との関係づくり、海外交易の管理、古記録の調査などは、それ以前から進んでいました。
1615年は突然すべてが始まった年というより、長く進めてきた政権形成が、大坂の陣の終結と前後して一段とはっきりした年と見るほうが理解しやすいでしょう。
同じ時代の出来事を深掘り|日本の外でも政治秩序が動いていた
1616年、ヌルハチが後金を建てる
大坂夏の陣の翌年、東アジアの北東部では別の大きな政治変化が起きていました。
1616年、女真の指導者ヌルハチが国号を「金」とする政権を建てます。12〜13世紀の金と区別するため、一般に後金と呼ばれる政権です。
故宮博物院や米国議会図書館の資料でも、1616年の後金成立が確認できます。後金はやがてホンタイジの時代に国号を清へ改め、17世紀半ばの中国史を大きく動かす勢力になります。
1615年の日本では徳川政権が国内秩序を固めていた一方、明の北東部では新たな政治勢力が成長していたことになります。
両者に直接の因果関係があったという話ではありません。同じ年代に東アジア各地で「誰が、どの仕組みで人と軍事力をまとめるのか」が大きく動いていたと眺めるための比較です。
1618年、プラハでは反乱が戦争へ広がる
さらに3年後の1618年5月23日、中欧のプラハでは、ボヘミアのプロテスタント系諸身分とハプスブルク君主側の対立から、王側の総督2人と書記1人がプラハ城の窓から投げ落とされる事件が起きました。
いわゆるプラハ窓外投擲事件です。3人は生き延びましたが、事件はボヘミア反乱を大きく進め、三十年戦争へつながる重大な引き金となりました。
1615年前後の日本では、大規模な戦争を終えた側が城と法による統治を強めます。一方の中欧では、宗教上の権利や政治権力をめぐる対立が反乱から広域戦争へ拡大していきました。
同じ17世紀初頭でも、日本では大戦争を終わらせる方向へ、中欧では大戦争が始まる方向へ政治が動いていたという対照が見えてきます。

間違えやすいポイント|年号より「何が変わったか」を区別する
関ヶ原の戦いで豊臣氏が滅亡したわけではない
関ヶ原の戦いは1600年です。その後も豊臣秀頼は大坂城におり、豊臣家は政治的な存在感を持ち続けました。豊臣氏の滅亡につながる決定的な戦いは1615年の大坂夏の陣です。
大坂の陣は冬の陣だけではない
1614年の大坂冬の陣と、1615年の大坂夏の陣を合わせて大坂の陣と呼びます。冬の陣でいったん和睦した後、翌年に再び戦った点まで押さえると流れが切れません。
一国一城令と武家諸法度は役割が違う
一国一城令は城という軍事拠点を整理する政策です。武家諸法度は武家の行動を規律する法です。
「物理的な軍事基盤」と「行動のルール」と分ければ、名前の似ていない二つの制度が、かえって同じ時代の政策としてつながります。
武家諸法度と禁中並公家諸法度は対象を逆にしない
武家諸法度は武家社会の基本法、禁中並公家諸法度は朝廷・公家社会との関係を定める法令です。どちらも1615年7月に定められたため、対象をセットで覚えると整理しやすくなります。
FAQ|答案ではどこまで書けばよい?
問1は「大坂冬の陣・大坂夏の陣」でもよいですか?
内容は合っています。名称を一つ答える問題なら「大坂の陣」と書き、必要なら「冬の陣・夏の陣」と補うと分かりやすいでしょう。
「大阪の陣」と書いてはいけませんか?
現在の地名は大阪ですが、歴史上の戦役名としては一般に「大坂の陣」と書きます。答案では使用している教科書・教材の表記に合わせるのが安全です。
武家諸法度は家康と秀忠のどちらが出したのですか?
家康が以心崇伝に起草を命じ、1615年7月7日に諸大名を伏見城へ集め、2代将軍徳川秀忠の名で発布されました。「家康が制度形成を主導し、将軍秀忠の名で発布された」と役割を分けて理解すると人物関係も整理できます。
禁中並公家諸法度は、天皇に学問だけをさせる法律ですか?
そう単純には説明できません。第一条の学問は有名ですが、法度全体では官職や序列、昇進、服装、門跡など幅広い事項を定めています。第一条だけで17か条全体を説明しないようにしましょう。
1615年を一言で覚えるなら?
「大坂の陣で大きな軍事的対立に決着し、城と法による統治がよりはっきりした年」と覚えると、四つの用語を一つにつなげられます。
まとめ|1615年は「天下を取る」から「天下を維持する」へ
問題の答えは、大坂の陣、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度です。
ただし、本当に覚えたいのは名称だけではありません。
「豊臣氏との大規模な軍事対立が終わる→各地の城を整理する→武家と朝廷を法による秩序へ位置づける」とつなげると、徳川政権が戦国の勝者から長期統治を行う政権へ変わっていく姿が見えてきます。
その一方で、制度形成の準備は大坂城落城以前から進んでいました。歴史は「戦争終了、翌日から制度開始」というほど整然とはしていません。
さらに視野を広げれば、1616年にはヌルハチが後金を建て、1618年にはプラハの政治危機が三十年戦争へつながっていきます。17世紀初頭は、日本だけでなく各地で政治秩序の組み替えが進んだ時代でした。
復習するときは、答えを隠して「1614年→1615年の大坂城落城→城郭整理→7月の二つの法度→1616年後金→1618年プラハ」と、自分の言葉で順番を説明してみてください。詰まった場所だけ本文に戻れば、丸暗記よりずっと記憶に残りやすくなります。
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参考資料
- 国立公文書館「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯― 関係年表」(2026年9月12日確認)
- 国立公文書館「方広寺鐘銘事件」(2026年9月12日確認)
- 国立公文書館「家康の内政・外交―武家諸法度」(2026年9月12日確認)
- 国立公文書館「家康の内政・外交―禁中並公家中諸法度」(2026年9月12日確認)
- 国立公文書館「古記録の所在調査・収集」(2026年9月12日確認)
- 高知県立高知城歴史博物館「収蔵資料紹介―一国一城令」(2026年9月12日確認)
- 宮崎県都城市「江戸時代の都城の町(本町)」(2026年9月12日確認)
- 故宮博物院「后金国」(2026年9月12日確認)
- Library of Congress「Exploring Rare Manchu Books at the Library of Congress」(2026年9月12日確認)
- German History in Documents and Images「The War Begins—The Defenestration of Prague (May 1618)」(2026年9月12日確認)

