王権が海を越え、武士が都を動かす|12世紀後半の欧州と日本で起きた政治の転換

鎌倉で武士に文書を渡す主君の想像図 大学受験歴史

問題1:12世紀後半の欧州王権と十字軍(プランタジネット朝・フリードリヒ1世)

12世紀後半、ヨーロッパでは各国の王権が強化され、聖地奪還を目的とする大規模な遠征が行われました。

(1) 1154年、フランスのアンジュー伯がヘンリ2世として即位し、イングランドに開いた王朝は何ですか。

(2) (1)の王朝の国王リチャード1世が参加し、聖地イェルサレム奪還を目指した1189年~92年の遠征を「第何回十字軍」と呼びますか。

(3) 上記(2)の遠征に参加しましたが、途中で死亡した神聖ローマ皇帝は誰ですか。

(4) (1)の王朝は、イングランド王でありながらフランス内にも広大な領土を持つという複雑な状況にありました。これに起因するイングランドとフランスの対立は、のちに14世紀から始まる何という戦争の原因となりましたか。

問題2:日本における院政の展開と武士の台頭(後白河天皇)

日本では12世紀半ばから後半にかけて、上皇が政治の実権を握る「院政」が成熟し、その過程で武士が中央政界で決定的な役割を果たすようになりました。

(1) 1156年、鳥羽法皇の死を契機に皇室・摂関家の内部対立が表面化し、後白河天皇方が勝利した戦いを何といいますか。

(2) 上記(1)の戦いにおける天皇方の実質的な采配者で、のちに平治の乱の際に自殺に追い込まれた院近臣は誰ですか。

(3) 後白河上皇の院近臣として台頭し、1167年に武士として初めて太政大臣に就任して政権を確立した平氏の棟梁は誰ですか。

(4) 白河天皇の法勝寺をはじめ、歴代の天皇や皇族が白河周辺に造営した六つの寺院は( ① )と総称されます。また、後白河院は流行歌謡である( ② )を集めて『梁塵秘抄』を編纂しました。①と②に入る語句を答えなさい。

問題3:12世紀後半の東西情勢(まとめ)

(1) 1180年、以仁王による平氏追討の呼びかけを受けて( ③ )が挙兵しました。鎌倉を本拠にした③は源範頼・源義経らを派遣して平氏を追い詰め、1185年の( ④ )の戦いで平氏は滅亡しました。③は1180年代に武家政権の組織と支配権を整え、1192年、後鳥羽天皇の時代に征夷大将軍に任命されます。③と④に入る語句を答えなさい。

(2) この12世紀後半の東西の動きについて述べた以下の文のうち、正しいものを選びなさい。

A:第3回十字軍には、フリードリヒ1世だけでなく、フランス王フィリップ2世も参加し最後までリチャード1世とともに戦った。

B:後白河上皇は、平清盛によって一時鳥羽殿に幽閉され、院政を停止された時期がある。

C:プランタジネット朝の初代ヘンリ2世は、1215年に貴族たちの団結によりマグナ=カルタ(大憲章)を認めさせられた。

答えと解説

設問 答え 押さえる要点
問題1 (1) プランタジネット朝 1154年、アンジュー伯アンリがヘンリ2世として即位
問題1 (2) 第3回十字軍 1189~1192年。リチャード1世らが参加
問題1 (3) フリードリヒ1世 神聖ローマ皇帝。遠征途中の1190年に死亡
問題1 (4) 百年戦争 英仏間の領土・封建関係は長期的背景の一つ
問題2 (1) 保元の乱 1156年、皇室・摂関家の対立に武士が動員された
問題2 (2) 信西(藤原通憲) 後白河天皇方の政治的な中心人物
問題2 (3) 平清盛 1167年、武士として初めて太政大臣に就任
問題2 (4) ①六勝寺 ②今様 六勝寺は複数の天皇・皇族が造営。今様は流行歌謡
問題3 (1) ③源頼朝 ④壇ノ浦 1180年の挙兵から1185年の平氏滅亡へ
問題3 (2) B 1179年の治承三年の政変で後白河法皇が幽閉された

問題1:プランタジネット朝は海峡をまたぐ王権だった

(1) 答えはプランタジネット朝

1154年にイングランド王となったヘンリ2世が開いた王朝は、プランタジネット朝です。ヘンリ2世は、フランス語ではアンリと呼ばれたアンジュー伯家の出身者でした。

母はイングランド王ヘンリ1世の娘マティルダ、父はアンジュー伯ジョフロワでした。王位継承をめぐる長い内乱を経て、ヘンリ2世がイングランド王位を継承します。

当時の有力貴族は、イングランドとフランスにまたがって領地や称号を保有していました。ヘンリ2世の王位継承も、母から受け継いだ王位請求権と、アンジュー伯家の地位を背景にしています。

婚姻と相続により「アンジュー帝国」が形成された

ヘンリ2世はイングランドだけでなく、ノルマンディーやアンジューなどを支配しました。さらにアリエノール・ダキテーヌとの結婚を通じて、フランス南西部の広大なアキテーヌ公領にも影響力を及ぼします。

このように、プランタジネット家の勢力はイングランド海峡を挟んで広がりました。後世の歴史家は、この領域を便宜的にアンジュー帝国と呼ぶことがあります。

それぞれの領地は異なる法や慣習を持ち、国王・公・伯といった別々の資格によって統治されていました。「アンジュー帝国」は、こうした複数の領地と権利のまとまりを指す呼称です。

大陸の領地にはフランス王への臣従が伴った

ヘンリ2世はイングランドでは国王でした。しかしフランス領内の公領や伯領については、フランス王に臣従する封臣という立場に置かれます。

つまり、一人の人物が一方では独立した国王であり、他方では別の国王に臣従する領主でもありました。この重なり合う主従関係が、英仏両王家の対立を繰り返す一因となります。

イングランドとフランスの領地の結び付きを表す概念図
領地の結び付きを示す概念図。境界・面積を復元した地図としては使えません。

(2) 答えは第3回十字軍

1189年から1192年に行われた遠征は、第3回十字軍です。発端となったのは、アイユーブ朝のサラディンが1187年のヒッティーンの戦いで十字軍国家の軍を破り、イェルサレムを占領したことでした。

この報せを受け、ヨーロッパの有力君主が遠征に参加します。中心となったのは、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世です。

国王や皇帝がそろって参加したため、第3回十字軍は「王たちの十字軍」と表現されることもあります。

戦果と休戦により沿岸の支配と巡礼を確保した

リチャード1世は、アッコンの攻略やアルスフの戦いなどで軍事的能力を示しました。「獅子心王」という呼び名でも知られています。

しかし、十字軍は最終目標だったイェルサレムの奪還には至りませんでした。リチャード1世とサラディンの間で休戦が成立し、キリスト教徒の巡礼者がイェルサレムを訪れることなどが認められました。

遠征は沿岸部の一部を確保し、巡礼の条件を整える成果を上げました。イェルサレムはイスラーム勢力の支配下に残り、軍事的な戦果と、当初掲げた奪還目標との間には隔たりがありました。

(3) 途中で死亡した皇帝はフリードリヒ1世

遠征途中で死亡した神聖ローマ皇帝は、フリードリヒ1世です。赤みを帯びたひげに由来する「バルバロッサ」の呼び名でも知られています。

フリードリヒ1世は大軍を率いて陸路を進みましたが、1190年、小アジア南部のサレフ川で溺死しました。その死によってドイツ軍の多くが離脱し、遠征全体の戦力にも大きな影響が出ました。

川に入った経緯や最期の細部は、史料によって記述が異なります。川での溺死と、それが遠征軍に与えた影響を区別して押さえましょう。

(4) 百年戦争へつながった領土と王位の対立

設問が求める戦争名は、1337年から1453年まで断続的に続いた百年戦争です。

プランタジネット家がフランス国内に領土を持ったことにより、イングランド王とフランス王は封建的主従関係と領土支配をめぐって対立しました。フィリップ2世はジョン王の時代に、ノルマンディーなどプランタジネット家の大陸領の多くを奪います。

その後もイングランド王はフランス南西部に領地を保持し、両王家の争いは続きました。

百年戦争の開戦には、フランス王家の男系が1328年に途絶えた後、イングランド王エドワード3世が母方の血統を根拠にフランス王位を要求したことや、フランス南西部の支配権をめぐる対立などが重なって開戦しました。

問題2:保元の乱を境に武士が中央政治を左右する

(1) 答えは保元の乱

1156年、鳥羽法皇の死後に起きた戦いは、保元の乱です。皇位をめぐる崇徳上皇と後白河天皇の対立に、摂関家内部の藤原忠通と藤原頼長の争いが重なりました。

後白河天皇方には平清盛や源義朝、崇徳上皇方には平忠正や源為義らが加わります。同じ武士の一族が敵味方に分かれた点も、この戦いの特徴です。

戦いは後白河天皇方の勝利に終わりました。皇族や摂関家の争いを決着させるために武士の実力が用いられたことで、武士は中央政治に欠かせない存在となっていきます。

皇室・摂関家の各陣営が武士を動員したため、源氏も平氏も一族内で敵味方に分かれました。対立の中心にある後継者争いと、争いを決着させた軍事力の働きが重なるところに、保元の乱の政治的な意味があります。

(2) 後白河天皇方を動かしたのは信西

後白河天皇方の実質的な政治指導者は、信西です。本名を藤原通憲といいます。

信西は学識と実務能力を備えた院近臣で、保元の乱では後白河天皇方の勝利に大きく関与しました。戦後には荘園整理や朝廷儀礼の整備などを進め、政治の中心に立ちます。

しかし急速に権力を強めたため、ほかの院近臣や貴族との対立を深めました。1159年の平治の乱で藤原信頼や源義朝らに襲撃され、逃亡後に自害します。

(3) 武士として初めて太政大臣となったのは平清盛

1167年に武士として初めて太政大臣に就任した人物は、平清盛です。

清盛は保元の乱と平治の乱で勝者となり、朝廷内での立場を高めました。後白河院との協力関係を利用しながら官位を上げ、娘の徳子を高倉天皇の中宮とし、その子である安徳天皇の外祖父となります。

また、瀬戸内海航路を整え、宋との貿易を進めました。清盛は軍事力に加え、朝廷の官職、天皇家との婚姻、荘園や知行国、海上交通と貿易を組み合わせて権力基盤を築きました。

清盛が朝廷の官職と婚姻関係の内部に入り、貴族政治の仕組みを使って築いたことが、平氏政権の特徴です。天皇家との結び付きは、官職や土地を得るための政治的な足場にもなりました。

(4) ①は六勝寺、②は今様

六勝寺は、法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺の総称です。いずれも寺名に「勝」の字を含み、鴨川東岸の白河、現在の京都市左京区岡崎一帯に建てられました。

法勝寺は白河天皇の御願寺で、1077年に落慶しました。その後、堀河天皇、鳥羽天皇、待賢門院らが寺院を造営し、寺院群が形成されます。天皇・皇族の権威を示し、国家的な仏事を行う場でもありました。

後白河院の御所として重要なのは、京都東山の法住寺殿です。六勝寺を造営した歴代の天皇・皇族と、後白河院による今様の収集を、それぞれの文化事業として整理できます。

今様は当時の新しい流行歌だった

今様とは、平安時代後期に広く流行した歌謡です。「今の様式」という名称が示すように、当時の人々にとって新しい歌でした。

貴族だけでなく、白拍子や遊女、芸能に携わる人々などによって歌われました。後白河院は身分を越えて歌い手から今様を学び、歌詞や口伝を後世に残そうとしました。

後白河院が編んだ『梁塵秘抄』は、当時の宗教観、生活感覚、庶民の願いなどを知るうえで貴重な史料です。もとは歌詞集と口伝集を合わせた大部の書物だったと考えられていますが、現存する部分は限られています。

今様は節をつけて歌われる流行歌謡で、歌詞とともに歌い方の伝承も重視されました。後白河院が歌い手から学び、口伝を残そうとした理由もそこにあります。

問題3:平氏政権の成立から源頼朝の挙兵へ

(1) ③は源頼朝、④は壇ノ浦

空欄③は源頼朝、④は壇ノ浦です。

平清盛が政治の主導権を握ると、平氏一門が高い官職や多くの知行国を占めるようになりました。これに対し、貴族、寺社、地方武士、皇族などの間で反発が強まります。

1180年、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を呼びかけました。伊豆に流されていた源頼朝も、この呼びかけを契機として挙兵します。

頼朝は石橋山の戦いで敗れましたが、房総半島へ逃れた後、東国武士を集めて鎌倉を本拠としました。鎌倉で東国武士を組織し、源範頼や源義経らを派遣して平氏を追い詰めます。

1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した

1185年、長門国の壇ノ浦の戦いで平氏は敗れました。安徳天皇は入水し、平氏の主要人物の多くが死亡または捕虜となります。皇位のしるしである三種の神器のうち宝剣が失われ、鏡と玉は朝廷へ戻りました。

同じ1185年、頼朝は朝廷から守護・地頭の設置につながる権限を認められました。これによって東国を基盤とする武家政権が、全国の土地と軍事に関与する仕組みが形づくられていきます。

1192年には後鳥羽天皇の時代に、頼朝が征夷大将軍に任命されました。鎌倉政権は1180年の鎌倉入り、1183年の東国支配権の承認、1185年の守護・地頭設置に向けた権限の獲得などを経て形成されています。幕府の成立年は、どの段階を重視するかによって複数の説があり、政権の形成過程と将軍任命の年次を分けると整理できます。

鎌倉で武士に文書を渡す主君の想像図
鎌倉の武士の組織化を表す想像図。人物・衣服・御所の厳密な復元ではありません。

後白河院は平氏と源氏の間で政治的主導権を保とうとした

後白河院と平清盛は、互いの権威と軍事力を必要とし、協力と対立を繰り返しました。

清盛は後白河院の権威を必要とし、後白河院も平氏の軍事力を利用しました。しかし平氏が官職や荘園を集めて勢力を拡大すると、両者の対立が深まります。

1179年、清盛は治承三年の政変を起こし、反平氏的な公卿を解任しました。後白河法皇も鳥羽殿に幽閉され、院政は一時停止します。

正誤問題の正解はB

Aが誤りである理由:フィリップ2世は途中で帰国した

Aの前半、第3回十字軍にフィリップ2世が参加したという部分は正しい内容です。しかし「最後までリチャード1世とともに戦った」という部分が誤っています。

フィリップ2世はアッコン攻略後の1191年に帰国しました。その後も現地に一部のフランス軍は残りましたが、フィリップ2世本人が最後までリチャード1世と行動したわけではありません。

帰国後のフィリップ2世は、リチャード1世の不在を利用してプランタジネット家の大陸領へ圧力をかけます。十字軍で共同した国王同士も、ヨーロッパでは領土を争う競争相手でした。

Bが正しい理由:後白河法皇は鳥羽殿に幽閉された

Bは正しい文です。1179年の治承三年の政変で、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉しました。

清盛は多数の公卿を解任または左遷し、平氏の主導権を強めます。その結果、後白河院による院政は一時的に停止しました。

この政変は、平氏政権への反発を強める要因となります。翌1180年には以仁王の挙兵が起こり、各地の反平氏勢力が動き始めました。

Cが誤りである理由:マグナ=カルタを認めたのはジョン王

1215年にマグナ=カルタを認めた国王は、ヘンリ2世の子のジョン王です。Cは父と子を取り違えています。

ジョン王はフランス王フィリップ2世との戦争で大陸領の多くを失い、戦費を賄うために重い負担を課しました。反発した諸侯が団結し、国王にマグナ=カルタを認めさせます。

ヘンリ2世は1189年に死去しているため、1215年の出来事に関与することはできません。人物と年代を組み合わせれば、誤りを判断できます。

1215年の国王と諸侯の交渉を表す想像図
国王と諸侯の関係を表す想像図。ジョン王の肖像や交渉場面の復元ではありません。

東西の12世紀後半に共通する三つの変化

広い領域の支配を官職と統治制度が支えた

ヘンリ2世はイングランドとフランス内の広大な領地を統治しなければなりませんでした。平清盛も、朝廷の官職や地方の知行国、瀬戸内海の交通路などを組み合わせて勢力を広げました。

広い領域を支配するには、役人、地方領主、武士、家臣、聖職者などを組織し、命令や税、裁判を地域まで届かせる仕組みが必要になります。君主の支配は、こうした人々の協力と、それぞれの権利によって支えられていました。

軍事力を提供した者が政治的発言力を強めた

ヨーロッパの王は封建諸侯や騎士の軍事力を必要としました。日本の皇族や貴族も、保元の乱や平治の乱を通じて武士の軍事力に依存します。

戦いで功績を挙げた勢力は、恩賞として土地、官職、権限を求めました。軍事動員の必要性が高まるほど、戦う者の政治的地位も上昇します。

権力の拡大が土地と官職をめぐる対立を強めた

プランタジネット家の大陸支配はフランス王との争いを深め、平氏一門への権力集中は反平氏勢力の挙兵につながりました。官職や土地を集めることが権力基盤を強める一方、それを得られない集団の反発も生んだのです。

両地域の政治構造は異なりますが、有力者の支配が軍事力を提供する人々や、官職・土地に関わる集団との関係で動いた点を比較できます。12世紀後半には、権力を集中させる動きと、それに抵抗する動きが同時に進みました。

まとめ

ヨーロッパでは、1154年にヘンリ2世が即位してプランタジネット朝が始まりました。広大な大陸領を持つ王朝はフランス王との対立を深め、その問題は百年戦争へ至る長期的背景の一つになります。

1189年から始まった第3回十字軍には、リチャード1世、フィリップ2世、フリードリヒ1世が参加しました。ただしフリードリヒ1世は遠征途中で死亡し、フィリップ2世はアッコン攻略後に帰国しています。

日本では、1156年の保元の乱で武士が朝廷内の争いを決着させました。信西の失脚後、平清盛が勢力を伸ばし、1167年には武士として初めて太政大臣になります。

その平氏政権も権力集中への反発を受け、源頼朝らの挙兵によって崩壊しました。1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、東国武士を基盤とする鎌倉政権が形成されます。

復習では、王権の拡大、軍事勢力の台頭、土地と官職をめぐる対立を、人物と年次に結び付けてみてください。百年戦争には後の王位継承問題も加わり、鎌倉政権は1180年代から段階的に形成されました。時間の幅を保つことで、それぞれの政治転換を理解しやすくなります。

参考資料