海を渡った対抗宗教改革は日本をどう変えた?天正遣欧使節から秀吉の禁教まで

大学受験歴史

問1(ヴァリニャーノと天正遣欧使節)
カトリックの勢力回復をめざすイエズス会は、海外宣教に尽力しました。

(1) 1579年にイエズス会の巡察使として来日し、有馬にセミナリオ(神学校)を、豊後府内にコレジオ(宣教師養成学校)を設立したイタリア人宣教師は誰ですか。

(2) 上記(1)の宣教師の勧めにより、九州のキリシタン大名(大村純忠・有馬晴信・大友義鎮)が1582年にローマへ派遣した、伊東マンショらの少年使節団を何と呼びますか。

(3) この使節団は、1590年に日本へ帰国した際、日本の印刷・文字文化の発展に重要な影響を与えることとなる何を日本に伝えましたか。

問2(秀吉の禁教政策と動揺)

(1) 豊臣秀吉は、キリシタン大名による土地の寄進や、日本人が奴隷として海外へ売買されている問題などを背景に、1587年の九州平定後、宣教師の国外退去を命じるどのような法令を発布しましたか。

(2) 上記(1)の法令の後も南蛮貿易は継続しましたが、1596年に土佐国へ漂着したスペイン船をめぐる事件の後、秀吉は宣教師や信徒を捕らえ、翌1597年に長崎で26人を処刑しました。このスペイン船の名称を答えなさい。

答えから先に確認しておきます。問1は(1)アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、(2)天正遣欧使節、(3)金属活字を用いる活版印刷機・活版印刷技術。問2は(1)バテレン追放令、(2)サン=フェリペ号です。

この一連の出来事を「日本にキリスト教が来て、秀吉が禁止した」とだけ覚えると、いちばん面白い部分が抜け落ちます。16世紀ヨーロッパで起きていた宗教改革とカトリック側の自己改革が、宣教師、学校、少年使節、印刷機、南蛮貿易を通じて日本列島まで届いた、と捉えると流れが見えてきます。

そして、その交流が深くなるほど、日本の統治者には別の問いが生まれました。海外の宗教組織と国内の大名が強く結びついたとき、誰が土地と人々を支配するのか。ここから秀吉の政策転換へつながります。

  1. そもそも「対抗宗教改革」は何に対抗していたのか
  2. 問1(1)ヴァリニャーノは日本布教を「教育」から組み直した
  3. 問1(2)天正遣欧使節は「少年4人の観光旅行」ではなかった
  4. 問1(3)1590年、使節が持ち帰った活版印刷機が文化を動かした
  5. 問2(1)1587年、秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか
  6. 追放令を出しても南蛮貿易は止まらなかった
  7. 問2(2)サン=フェリペ号事件が秀吉の警戒を強めた
  8. 海の道で見ると、天正遣欧使節と禁教政策は同じ物語になる
  9. 教科書外① ジャン・ボーダンは「合理的な法学」と魔女裁判を両立させた
  10. 教科書外② 1589年、モスクワに総主教座が成立した
  11. 教科書外③ ボドリアン図書館は「印刷された知識を集める装置」になった
  12. 出来事を年代順に並べると流れが見える
  13. 試験で混同しやすいポイント
    1. ヴァリニャーノとザビエルを混同しない
    2. 天正遣欧使節は4人の名前と目的をセットにする
    3. バテレン追放令と二十六聖人殉教を同じ年にしない
  14. FAQ
    1. 天正遣欧使節が持ち帰ったものは「活字印刷機」と書けば正解ですか?
    2. なぜカトリックの対抗宗教改革と日本史が関係するのですか?
    3. 秀吉は南蛮貿易まで禁止したのですか?
    4. ロシア正教会は1589年に独立した、と覚えてよいですか?
  15. まとめ:日本のキリシタン史は16世紀世界史の「端」ではない
  16. 参考資料

そもそも「対抗宗教改革」は何に対抗していたのか

16世紀前半の西ヨーロッパでは、ルターらによる宗教改革を経てプロテスタント諸派が拡大しました。これに対しカトリック教会も、単に新教を押さえ込もうとしただけではありません。教義を再確認するとともに、聖職者教育や教会規律などを立て直す動きが進みます。

その象徴の一つが1545~1563年のトリエント公会議です。プロテスタント側との教義上の対立に答えると同時に、カトリック教会内部の改革も議論されました。今日では「対抗宗教改革」だけでなく「カトリック改革」という言葉で説明されることもあります。

この時代に大きな役割を果たした修道会がイエズス会でした。1540年に教皇パウルス3世の承認を受けたイエズス会は、教育と宣教を重視し、ヨーロッパだけでなくアジアへ活動範囲を広げます。フランシスコ・ザビエルが1549年に日本へ来たことも、この大きな世界史の流れの中に置くことができます。

ヨーロッパの宗派対立と、日本の戦国大名。教科書では別々のページに載りがちですが、16世紀後半には同じ海上ネットワークの中で接続していました。ページをめくったら別世界、というほど歴史は親切に区切れてくれません。

問1(1)ヴァリニャーノは日本布教を「教育」から組み直した

答えはアレッサンドロ・ヴァリニャーノです。イタリア出身のイエズス会士で、日本を含む東アジアの宣教活動を点検する巡察使として1579年に来日しました。

彼の特徴は、ヨーロッパ式の宗教をそのまま日本へ押し込めばよいとは考えなかった点にあります。日本社会の言語、礼儀、文化を理解し、日本人聖職者を育てる仕組みが必要だと考えました。そのための教育機関がセミナリオとコレジオです。

セミナリオは、日本人の聖職者候補などを教育する学校です。有馬では1580年に、有馬晴信の保護のもとでセミナリオが設置されました。一方、豊後には高等教育を担うコレジオが設けられます。学校名がいきなり二種類出てくるので、試験問題としては少々意地が悪いところですが、「人を育てる布教」を始めたと理解すれば覚えやすくなります。

重要なのは学校そのものより、その背景です。宣教師だけが外国から来続ける布教では、現地社会へ根づくには限界があります。そこで日本語を理解し、日本社会の中で活動できる人材を育てる。ヴァリニャーノが目指したのは、そうした長期的な宣教体制でした。

なお「1579年に来日し、その年に有馬のセミナリオを開いた」と年代を一つにまとめないよう注意してください。ヴァリニャーノの来日は1579年ですが、有馬セミナリオの設置は1580年と確認できます。

問1(2)天正遣欧使節は「少年4人の観光旅行」ではなかった

ヴァリニャーノが次に考えた大きな計画が、1582年に出発した天正遣欧使節です。大友義鎮(宗麟)、大村純忠、有馬晴信という九州のキリシタン大名の名代として、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人を中心とする使節がヨーロッパへ向かいました。

東京国立博物館の「e国宝」も、ヴァリニャーノの目的として、教皇へ東洋の新しい信徒を紹介するとともに、少年たち自身へヨーロッパのキリスト教世界を見聞させ、日本での布教を進める意図があったと説明しています。

つまり、使節には二つの方向がありました。一方では「日本の布教はここまで進んでいる」とヨーロッパ側へ見せる。もう一方では、少年たちにヨーロッパ社会を直接見せ、その経験を帰国後の日本で生かす。さらに布教事業への資金・支援を得る目的もありました。

使節は長崎を出発し、ポルトガルやスペインを経てローマへ到着します。1585年には教皇グレゴリウス13世に謁見しました。教皇の死後には後継のシクストゥス5世とも会い、各地で大きな歓迎を受けています。

ここで世界史と日本史が実に鮮やかに重なります。戦国日本の少年たちが、宗教改革後のヨーロッパでカトリック世界の宮廷や都市を歩いていたのです。「日本史」「世界史」とノートを二冊に分けても、本人たちは一冊の歴史を生きていました。

問1(3)1590年、使節が持ち帰った活版印刷機が文化を動かした

天正遣欧使節は1590年に帰国しました。その際に日本へ持ち帰った重要なものの一つが、金属活字を用いる活版印刷機と印刷技術です。

国立国会図書館は、使節が1586年にヴァリニャーノの望んでいた活版印刷機を入手し、1590年に帰国した後、その機械を使って『ドチリーナ・キリシタン』などの「キリシタン版」が刊行されたと紹介しています。

長崎市文化財課の解説によれば、ヴァリニャーノは使節派遣に際して将来の印刷業務に携わる者を同行させ、字母作製や組版といった技術を学ばせたうえで、金属活字印刷機を持ち帰らせました。

単に大きな機械を船へ積んで帰ったのではなく、使える人材と技術を含めて移植したところが肝心です。その後、イエズス会は日本語やラテン語などを活字で印刷し、宗教書だけでなく言語・教育にかかわる出版物も残しました。これらは一般に「キリシタン版」と呼ばれます。

天正遣欧使節の意義は「ローマへ行った」ことだけでなく、ヨーロッパで得た知識と技術を日本へ持ち帰った往復運動にあります。宣教、教育、印刷が一つの仕組みとしてつながっていたのです。

問2(1)1587年、秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか

ここから物語の空気が変わります。答えはバテレン追放令です。豊臣秀吉は1587年、九州平定後に宣教師の国外退去を命じる法令を出しました。国立歴史民俗博物館の資料データベースには、天正15年6月19日付の「豊臣秀吉切支丹禁制定書」が伝えられています。

秀吉は最初から一貫してキリスト教を敵視していたわけではありません。南蛮貿易には大きな経済的価値があり、ポルトガル商船との交易は魅力的でした。その一方で、布教活動が広がり、キリシタン大名とイエズス会の結びつきが強まると、政治権力の側には別の問題が見えてきます。

長崎市の年表では、大村純忠が1580年に長崎六か町と茂木をイエズス会へ寄進し、1584年には有馬晴信が浦上村を寄進したことが確認できます。天下統一を進める秀吉から見れば、領主が土地を宗教組織へ寄進する動きは、信仰だけでは済まない統治上の問題を含んでいました。

さらに、バテレン追放令をめぐる史料では、日本人が海外へ奴隷として売買されていた問題も秀吉側の詰問事項として現れます。したがって、追放令を「秀吉がキリスト教を突然嫌いになったから」と一言で説明するのは不十分です。

ただし原因を一つに固定するのも避けたいところです。宗教統制、土地支配、海外勢力への警戒、人身売買、貿易政策など、複数の事情が重なっていました。歴史はときどき「理由を一つ答えよ」と試験では迫ってくるのですが、現実の政治はそれほど答案用紙に協力的ではありません。

追放令を出しても南蛮貿易は止まらなかった

バテレン追放令は宣教師を対象としましたが、海外貿易そのものを全面的に遮断する政策ではありませんでした。キリスト教布教への警戒と、南蛮貿易から得られる利益を切り分けようとする面があったためです。

そのため、1587年を境に宣教師も貿易も一斉に消えた、と理解すると実態から離れます。長崎ではその後もキリスト教活動が続き、1590年には天正遣欧使節も帰国しました。翌1591年、使節一行は聚楽第で秀吉に謁見しています。

つまり、1587年の追放令と1597年の二十六聖人処刑の間には、約10年の時間があります。この時間差を意識すると、秀吉の政策が一直線に「寛容→即全面弾圧」と変化したわけではないことが分かります。

「バテレン追放令=その日から日本全国でキリスト教徒を全面処刑」と覚えるのは誤りです。宣教師追放を命じた1587年と、サン=フェリペ号事件後の逮捕・1597年の処刑は分けて押さえてください。

問2(2)サン=フェリペ号事件が秀吉の警戒を強めた

1596年、スペイン船サン=フェリペ号がマニラからメキシコへ向かう途中、暴風雨に遭い、土佐国浦戸へ漂着しました。これがサン=フェリペ号事件です。

長崎市の解説では、秀吉が奉行の増田長盛を派遣し、船の積み荷を没収させたことが紹介されています。あわせて、スペインの海外進出と宣教師の役割をめぐる説明が、秀吉の強い警戒につながったとされています。

ただし、船員の発言がどのような言葉で伝えられ、秀吉がどこまで文字どおり受け取ったのかについては、史料の性格も考える必要があります。試験では「サン=フェリペ号事件」が答えになりますが、歴史を考える際には、事件を単純な一言の脅迫だけで説明しないほうがよいでしょう。

事件後、秀吉は京都・大坂で宣教師や日本人信徒らを捕らえました。彼らは長崎まで移送され、1597年2月5日、西坂で26人が処刑されます。日本二十六聖人として知られる出来事です。

この場面は、軽く読み流さずに受け止めておきたいところです。宗教政策の変化が、人の生命を奪う段階へ進んだ重大な転換として押さえる必要があります。

海の道で見ると、天正遣欧使節と禁教政策は同じ物語になる

ヴァリニャーノ、天正遣欧使節、活版印刷、バテレン追放令、サン=フェリペ号事件を別々に暗記すると、人名と年号が並ぶだけです。そこで「海の道」を一本引いてみます。

ヨーロッパでは宗教改革を受けてカトリック改革が進み、イエズス会は宣教活動を世界へ広げました。その活動はポルトガルの海上ネットワークと重なり、インドのゴア、マラッカ、マカオを経て日本へ届きます。

日本からは逆方向に、天正遣欧使節が長崎を出てアジア・インド洋を横断し、ヨーロッパへ向かいました。帰国時には印刷機や技術、書物、音楽などを日本へ持ち帰ります。宗教だけが移動したのではなく、人、情報、技術、商品が同じ航路を行き交っていました。

ところが、そのネットワークが大きくなるほど日本の権力者には、海外勢力と宗教の関係も見えてきます。秀吉にとって南蛮貿易は利益を生む一方、宣教師・大名・土地・海外権力が結びつく可能性は統治上の警戒対象にもなりました。

同じ海路が「文化を運ぶ道」であると同時に、「政治的な警戒を生む道」にもなった。ここまでつなげると、天正遣欧使節とバテレン追放令は正反対の出来事ではなく、16世紀の国際交流が持っていた二つの顔として理解できます。

教科書外① ジャン・ボーダンは「合理的な法学」と魔女裁判を両立させた

同じ1580年代のヨーロッパへ視線を戻すと、意外な人物が登場します。フランスの政治思想家・法学者ジャン・ボーダンです。国家主権論で有名ですが、1580年に『魔術師の悪魔狂い』として知られる悪魔学・魔女論の著作を刊行しました。

ここで興味深いのは、近代国家論へつながる政治思想を論じた知識人が、魔女の実在を強く信じ、裁判で厳罰を科すことを主張した点です。スタンフォード哲学百科事典も、ボーダンが魔術を重大犯罪と考え、裁判官が魔術事件を追及するための議論を展開したことを紹介しています。

ただし、「ボーダンの一冊が全ヨーロッパの魔女狩りを激化させた」と単純な因果関係にしてはいけません。魔女裁判には地域差があり、宗教対立、司法制度、地域社会の緊張など複数の要因が作用しています。その中で彼の著作が魔女訴追を正当化する影響力ある議論の一つになった、と見るほうが適切です。

合理性が広がれば迷信が一直線に消える、という物語にもなりません。国家主権を論じる鋭い法学者が、同じ法的思考を魔女処罰の正当化にも使った。このねじれこそ、近世ヨーロッパを理解する面白さです。

教科書外② 1589年、モスクワに総主教座が成立した

カトリックとプロテスタントだけを見ていると、16世紀ヨーロッパの宗教地図を西側だけで切ってしまいます。東方ではロシア正教会が独自の地位を強めていました。

1589年、コンスタンティノープル総主教エレミアス2世は、モスクワ府主教ヨブを初代モスクワ総主教として認めました。モスクワの教会が総主教座となり、正教世界の中で高い地位を得た出来事です。

ただし「1589年にロシア正教会が初めて独立した」とだけ書くと少し粗くなります。正教会側の歴史説明では、ロシアの主教たちは1448年に自ら府主教を選出し、そこから教会の自立を数えています。1589年は、そのモスクワ教会の首座が「総主教」の地位を得た重要な節目と考えると分かりやすいでしょう。

この際、「モスクワは第三のローマ」という思想も権威づけられました。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に征服された後、正教世界の中心をモスクワが継ぐという宗教的・政治的自負です。

西欧ではカトリックとプロテスタントが競合し、東欧ではモスクワが正教世界で存在感を高める。日本にヴァリニャーノが滞在していた時代、ユーラシア西部の宗教秩序も大きく組み替わっていたのです。

教科書外③ ボドリアン図書館は「印刷された知識を集める装置」になった

もう一つ、活版印刷という視点から天正遣欧使節とつながる出来事があります。オックスフォード大学のボドリアン図書館です。

外交官でもあったトーマス・ボドリーは荒廃していた大学図書館の再建に取り組み、1598年から整備を進めました。新しい図書館は1602年11月8日に研究者へ開館します。

ここで年代を分けておきましょう。ボドリアン図書館が開館したのは1602年ですが、出版物を継続的に収集する仕組みにつながる重要な協定は1610年です。ボドリーはロンドンの書籍出版業者組合Stationers’ Companyと協定を結び、王室の認可を受けて印刷された書物を図書館が受け取れる仕組みを整えました。これがイギリスの納本制度史の重要な先例となります。

16世紀の活版印刷は「本をたくさん作れる」だけでは終わりません。大量に作られるなら、今度はどう集め、分類し、保存し、研究者が探せるようにするかが問題になります。印刷技術の発達は図書館のあり方まで変えていったのです。

1590年の日本では天正遣欧使節が活版印刷機を持ち帰り、1602年のオックスフォードでは大量の書物を収集する図書館が再出発する。同じ時代に、ユーラシアの両端で「文字をどう増やし、どう残すか」という知識の仕組みが動いていました。

出来事を年代順に並べると流れが見える

出来事 意味
1540 イエズス会が教皇の承認を受ける カトリック改革と海外宣教の担い手が成長
1545~1563 トリエント公会議 教義確認と教会内部改革
1549 ザビエル来日 日本でのイエズス会宣教が本格化
1579 ヴァリニャーノ来日 日本に適応した宣教・教育体制を進める
1580 有馬セミナリオ設置/ボーダンが魔女論を刊行 日本とヨーロッパで異なる宗教・知識の動きが進む
1582 天正遣欧使節出発 日本とヨーロッパを人が往復する
1587 バテレン追放令 秀吉が宣教師の国外退去を命令
1589 モスクワ総主教座成立 ロシア正教会の地位が上昇
1590 天正遣欧使節帰国 活版印刷機・印刷技術などを持ち帰る
1596 サン=フェリペ号事件 秀吉の海外宗教勢力への警戒が強まる契機
1597 長崎で26人を処刑 禁教政策が処刑へ及ぶ重大な転換
1602 ボドリアン図書館開館 印刷時代の知識収集・保存拠点が発展
1610 Stationers’ Companyとの協定 後の納本制度につながる収集体制を確立

試験で混同しやすいポイント

ヴァリニャーノとザビエルを混同しない

ザビエルは1549年に日本へ来た初期宣教の中心人物です。ヴァリニャーノは1579年に巡察使として来日し、日本布教の教育制度を再編し、天正遣欧使節を企画した人物として区別しましょう。

天正遣欧使節は4人の名前と目的をセットにする

伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。名前だけを唱えるより、「九州のキリシタン大名の名代としてヨーロッパへ行き、カトリック世界を見聞し、帰国後にその経験を生かす計画だった」と理解すると記憶が残ります。

バテレン追放令と二十六聖人殉教を同じ年にしない

1587年がバテレン追放令、1596年がサン=フェリペ号事件、1597年が長崎での26人の処刑です。この三段階を時間順に並べると混乱しにくくなります。

FAQ

天正遣欧使節が持ち帰ったものは「活字印刷機」と書けば正解ですか?

基本的には正解です。より丁寧に書くなら「金属活字を用いる活版印刷機・活版印刷技術」とすると、機械だけでなく印刷技術も伝わったことを表せます。

なぜカトリックの対抗宗教改革と日本史が関係するのですか?

カトリック改革の中でイエズス会が教育・宣教を広げ、その活動がポルトガルなどの海上ネットワークを通じてアジアへ展開したからです。ヴァリニャーノの日本活動や天正遣欧使節は、この世界的な宣教活動の一部として見ることができます。

秀吉は南蛮貿易まで禁止したのですか?

1587年のバテレン追放令は宣教師追放を命じましたが、南蛮貿易そのものを直ちに全面禁止したわけではありません。このため、その後も貿易や一定の宣教活動が続きました。

ロシア正教会は1589年に独立した、と覚えてよいですか?

試験教材によってはそのように簡略化される場合がありますが、歴史的には1448年の府主教自主選出を自立の起点とする説明があります。1589年はヨブが初代モスクワ総主教となり、モスクワ総主教座が成立した年、と覚えるとより正確です。

まとめ:日本のキリシタン史は16世紀世界史の「端」ではない

今回の問題は、人物名と法令名を覚えるだけなら数行で終わります。しかし出来事をつなぐと、16世紀の世界そのものが見えてきます。

プロテスタントの台頭に直面したカトリック教会は自己改革を進め、イエズス会は海外宣教と教育を拡大しました。その流れの先でヴァリニャーノが日本へ来て、学校を整え、天正遣欧使節を送り出します。使節はヨーロッパを見て1590年に帰国し、活版印刷機と技術を日本へ持ち帰りました。

しかし交流の拡大は、文化だけでなく政治問題も運び込みます。土地寄進、海外宗教勢力との関係、日本人の海外奴隷売買などを背景に秀吉は1587年にバテレン追放令を発し、1596年のサン=フェリペ号事件後には弾圧がさらに厳しくなりました。

「対抗宗教改革→イエズス会→ヴァリニャーノ→天正遣欧使節→活版印刷→秀吉の警戒→バテレン追放令→サン=フェリペ号事件」と一本につないで説明できれば、この範囲は暗記科目から歴史へ変わります。

さらに同じ時代、フランスではボーダンが魔女裁判をめぐる議論を書き、モスクワでは総主教座が成立し、少し後のオックスフォードではボドリアン図書館が再建されました。宗教、国家、印刷、知識の管理が各地で組み替わっていた時代だったのです。

復習するときは年表を閉じて、「なぜ日本の少年がローマへ行き、なぜその数年後に秀吉が宣教師を追放したのか」を自分の言葉で説明してみてください。途中で詰まった場所が、そのまま次に読み直すべき場所になります。

参考資料